「もうすぐ最上階だけど……」
「……人の気配がないわね」
階段を駆け上りながら祐一が呟いた言葉に、同じことを考えていたのか、雪見が補足をする。
もっと下の階では、上階にいる敵の存在がはっきり感じられたのだが、こうして接近した途端に、その気配は薄れてしまった。
階下から誘き寄せ、近づいてからは隠れる……不意打ちでも狙っているのかもしれない。
「うーん……」
走りながら、あらゆる方位へとその目を向けるみさき。
光を失ったはずの目が、今この瞬間は、薄っすらと光を放っている。
淡く穏やかで、しかし深い輝き。
真実を見通す眼
が発動している、まさにその証である。
「どう?」
「あ、ストップ!」
横を走っている舞が問いかけたのとほとんど同時に、みさきが制止の声を上げる。
瞬時に足を止める四人。
四人が立っているのは、丁度階段が終わり、廊下に繋がっている部分。
察知した何かをより深く調べようと、みさきの集中力はさらに高まる。
祐一と舞と雪見は、一言も話さずに待つのみ。
場が静寂に包まれた瞬間。
「……そこっ!」
みさきが懐から銃を取り出し、とある方向に向けて発射した。
俊敏に、かつ正確に、銃口がその延長線上に、彼女の狙う場所を捉えている。
火を吹いた弾丸は、次の瞬間には、とある部屋の扉を貫いていた。
全員の意識と視線がその方向へと向かった瞬間に聞こえてきたのは、甲高い金属音。
みさきの放った弾丸は、しかし対象を穿つことはなく、何か高硬度のものに防がれてしまったらしい。
「……出てきたらどうだ?」
油断なく構えながら、祐一が低い声で誘う。
天井は高く、また廊下と階段の境目であるため広さも申し分なく、戦闘に不自由はなさそうだ。
祐一の隣で、舞も一歩前に出て、剣を構えている。
「ひっひっひ……荒っぽいお嬢さんだねぇ」
沈黙は一瞬のこと。
不意に、くぐもった嗄れ声が廊下に響いた。
その声質に怪訝な表情を見せる祐一達。
そして、姿を見せる一人の人物。
「まったく、もうちょっと優しくできないのかい? 年寄り相手にさ」
現れたのは、漆黒のローブですっぽりと身を包んだ、一人の小柄な老婆。
ローブは、見事なまでに彼女の体を覆い隠しており、外から見えるのは顔だけだ。
微かに覗く頭髪は真っ白で、また顔中に刻まれた皺が、彼女の生きてきた年数を物語る。
確かに、彼女は本来ならば労わるべき年齢であるのだろう。
それでも、その背中は曲がっていないし、何より不意打ち気味のみさきの銃撃を、簡単にいなしたのである。
言葉とは裏腹に、彼女がまだまだ現役であることに、疑問の余地はない。
「まぁ、まずは自己紹介でもしとこうかね。あたしの名前はグルーヴ。グルーヴ・ディスピュート。あんた達を殺す人間の名前だ。しっかりと心に刻んどきなよ」
動きを止めている祐一達を挑発するように、老婆――グルーヴが話しかけてくる。
もちろん、それでカッとなるような短慮な人間は、この場にはいない。
祐一達は、ただ冷静な目を彼女に向け続けていた。
「……」
スッと目を細める舞。
迸るエネルギーは、それこそ目視できるほどに高められている。
渦を巻くように揺れる彼女の髪。
鋭い視線は、まるで相手を射抜かんとばかりに。
四肢に力を集中させ、今にも飛び出さんという体勢。
だが。
「舞、ここは任せて、先に……」
祐一が、舞の殺気にも余裕の表情を崩さないグルーヴを睨みつけながら言う。
その言葉で、高めていたエネルギーを静める舞。
視線の先では、代わってグルーヴを睨むようにしている祐一。
みさきと雪見もまた、祐一の方へその目を向けている。
「いいの?」
「多分」
「そう……わかった」
祐一と舞の間で交わされた言葉のやり取りはそれだけ。
グルーヴは、ただ声もなく笑いながら、それを見ていた。
彼女が動き出す気配は、まだない。
「みさき、雪見、行こう」
「うん、わかったよ」
「えぇ」
視線を祐一から外した舞は、みさきと雪見に呼びかけながら、踵を返して階段へと向かう。
呼ばれた二人もまた、当たり前のようにその足を階段へと向ける。
三人とも、完全にグルーヴの存在を無視しているかのように。
当然、それが気付かれないわけがない。
「逃げられるとでも思ってるのかい?」
そんな言葉と同時に、グルーヴが動き始めた。
僅かにしゃがみこみながら、同時に右手を上げるような仕草を見せる。
高まるエネルギー。
揺らぐ空気。
彼女の狙いは、一息に階段を駆け上がろうとしている舞。
だが、当の彼女の背中に警戒の色はなかった。
「?!」
と、グルーヴが突然、振り上げようとしていた右手をそのままに、左へと跳んだ。
瞬間、破砕音とともに、彼女がいた場所を通り抜けるコンクリートの破片。
それは、廊下の壁に当たって粉々になった。
「邪魔できるとでも思ってたのかい?」
グルーヴが忌々しげに視線を向けると、祐一が右足を振り上げた状態で立っていた。
彼の顔に浮かんでいたのは、不敵な笑み。
その足元の床は破砕している。
床を蹴り抜いて、その際に生じた破片で、グルーヴに攻撃を仕掛けたのだろう。
舞が背後を警戒していなかったのは、祐一がそうしてくれると信じていたからに他ならない。
グルーヴが思考を巡らせているうちに、三人の足音が遠ざかっていく。
これでは、追撃は不可能だ。
少なくとも、祐一が立っている限りは。
「ふんっ……鬱陶しいガキだね」
「かわいくない婆さんに言われたくないな」
舌打ちとともに吐き出されたグルーヴの悪態に、祐一は肩を竦めてみせる。
おどけたような大仰なポーズとは裏腹に、その目は相手を狩ろうとする肉食獣のように殺気に満ちていた。
交錯する両者の視線。
互いに言葉もなく、しばし睨み合う。
けれど、沈黙は長く続かない。
「……まぁいいさ。さっさとあんたを殺して、あの連中を追っかければいいだけの話さね」
そう言うと、グルーヴが右手にエネルギーを集中させる。
低く構え、そこを注視する祐一。
グルーヴの右手が、淡い輝きを放つ。
戦いの始まりは唐突に。
その火蓋は、突然の衝撃が祐一の身を襲うことによって、切って落とされた。
神へと至る道
第60話 魔女の秘術 -T
「ぐっ……」
くぐもった呻き声が、祐一の口から漏れる。
苦悶の表情。
僅かに折り曲がった体。
その腹には、棒のようなものがめり込んでいた。
一瞬後、祐一が傾ぐ体を立て直し、後方に飛び退く。
機を逃さんと接近するグルーヴ。
老体とは思えないほどの速度。
間を詰めた彼女は、祐一の体から落ちた棒を右手で拾い、今度はそれを横薙ぎに払う。
飛び退く祐一よりも早い追撃だったために、今の彼に避けることは不可能だ。
咄嗟に、右手を上げ、受け止める体勢を作る祐一。
次の瞬間、鈍い炸裂音を残して、祐一の体が、払われた勢いのままに吹っ飛ばされた。
その速度は、軽い衝撃で実現できるものではない。
少なくとも、老婆が出せるパワーとは思えない。
声も出せずに吹っ飛んだ祐一は、廊下を転がってゆく。
二度三度と体を跳ねさせてから、ようやく膝立ちの体勢に持っていき、どうにか静止した。
苦悶の表情のまま、祐一はグルーヴを睨むようにしている。
攻撃を受け止めた右腕は、微かに痺れているらしい。
力が入らない様子だ。
加えて荒い呼吸。
受けたダメージは、少なくないのだろう。
「どうしたのさ? 威勢がいいのは口だけかい?」
さもおかしそうに、声高く笑うグルーヴ。
全身を覆っていたローブから、右手が姿を見せている。
その手は、何かを掴んでいた。
「……箒、か」
「言っとくけど、ただの箒じゃないよ。こいつは、
魔女の秘術
。あたしのとっておきさね」
自慢げに話しながら、グルーヴが右手を掲げる。
その手に収まっているのは、確かに箒と呼ぶべき代物。
しかし、普通の箒とは、明らかにその様相を異にしている。
外観だけならば、普通の箒に見えないこともない。
彼女が口にした能力の名から察するに、魔女の箒といったところなのだろう。
だが、まず何よりも目を引くのは、その色合い。
彼女の手で輝く箒は、ただ銀一色。
元よりただの箒を戦場に持ち込んでいようはずもないが、それはあまりにも異質。
頭上に並ぶ蛍光灯の下、鈍い煌きを放っており、異様な重厚感がある。
美しくも怖ろしい銀の輝き。
みさきの銃撃を防いだのも、今祐一を攻撃したのも、間違いなくこの箒だ。
銃弾を防ぎきれる硬度といい、祐一の体を弾き飛ばせる強度といい、まさしく脅威の代物。
おそらく、グルーヴが自身のエネルギーから創り出した武器なのだろう。
これほどの威力を実現できる箒など、普通の方法で創り出せるわけがない。
未だ痺れがとれない右腕が、祐一に最大限の警戒を促し続けている。
顰められた祐一の表情は、痛みだけによるものではないだろう。
耳障りな声で笑うグルーヴの右手に、祐一の視線と意識は集中していた。
「あんた、九龍のリーダーなんだろ? それなら、もう少しくらい足掻いてみせたらどうだい?」
「言われなくてもっ!」
挑発するようなグルーヴの声に、祐一が前に飛び出すことで答える。
瞬時に加速し、彼我の距離を縮めてゆく。
明らかに、接近戦を挑む構えだ。
確かに、グルーヴが手にしている箒の長さは、彼女の身長くらいある。
懐に入り込んでしまえば、その脅威は激減するだろう。
「おぉ、怖い怖い」
突進してくる祐一を見ながら、グルーヴがその場で箒をくるりと回転させる。
何があるかわからないため、両腕をガードの体勢にしたまま、グルーヴへと突っ込んでいく祐一。
どうやら、腕は完全に防御に回し、脚で攻撃するつもりのようだ。
両者の距離は、あっという間に零へと近づく。
祐一の急接近に対し、グルーヴは動こうともしない。
箒を床と水平にして、だらんと右手を下げている。
あるいは、そこから突きを繰り出してくるかもしれないと判断し、祐一は警戒を怠らない。
そして、グルーヴを攻撃の射程圏に入れた。
「ひひひ……」
突進の勢いを利して、祐一が蹴りを繰り出した瞬間に、グルーヴが耳障りな笑い声を発したと思うと、全く体勢を変えることもなく、その姿が消えた。
だが、それはそういう風に見えただけのこと。
跳躍するのなら、しゃがむなり何なりの前動作があるはずだし、まさか体が透明になるはずもない。
何より、笑い声は、頭上へと消えていった。
「なっ!」
ほとんど反射的に祐一が見上げたその先で、グルーヴが宙に浮かんでいた。
いや、正確には、グルーヴが宙で箒に腰を下ろしていた。
つまり、宙に浮いているのは、彼女の箒。
呆気にとられたように目を見開く祐一。
「何驚いてんだい? これはただの箒じゃないって言っただろ?」
祐一の表情の変化を確認し、満足気に笑うグルーヴ。
嘲笑にも思えるその笑みを目にして、ギリッと歯を噛み締める祐一。
「くっ、性質の悪い……」
悪態をつく祐一。
グルーヴは天井すれすれの高さにいるため、祐一が攻撃を仕掛けるには、そこまで跳び上がらなければならない。
だが、相手は空を自在に飛ぶことができるのだ。
跳躍などしても、祐一に不利になるだけ。
一度飛び上がったら体勢も変えられない祐一と違って、グルーヴは自由に移動できるのだから。
同時に、いざとなれば空中へと逃げられる以上、肉弾戦に持ち込むことも至難。
苦虫を噛み潰したような彼の表情は、自身の現況に気付かされたからだろう。
「ほらほら、ぼうっとしてる場合じゃないよ!」
歯噛みしている祐一に向かって、浮遊していたグルーヴが、いきなり急降下してくる。
何の前触れもなく、爆発的な加速力で、一直線に祐一に迫るグルーヴ。
両者の距離は、瞬きする間も挟むことなく、零へと近づく。
考えるより先に体が動いたのか、横っ飛びに避ける祐一。
だが、それも予想の範囲だったのだろう。
避けられたことに驚くでもなく、祐一の真横で急制動をかけたグルーヴ。
箒はその場に止まったが、彼女の体だけは前方に飛び出す。
しかし、彼女の手は箒を握り締めたまま。
祐一は、まだ体勢が整っていない。
そして、箒を掴んでいる彼女の腕が伸びきり、箒と一直線になった瞬間に。
「ほぅ……らっ!」
「ぐぁっ!」
逃げようとしていた祐一の体に、グルーヴが静止していた箒を横凪に振り払い、叩きつけた。
突然の衝撃に、祐一の口から押し潰したような声が漏れる。
同時に、骨の軋むような嫌な音も小さく響く。
その威力は、まさに破壊的。
銃弾を楽に止められるほどの硬度の物体が、爆発的な加速力で喰らいついてきたのだ。
いくらエネルギーで強化していようとも、それは到底、生身の体で防ぎきれるものではない。
その速度は、軽量級の武器の如く。
その破壊力は、重量級の武器の如く。
とても老婆が実現できるとは思えないほどの衝撃。
威力を殺しきれずに廊下を転がる祐一の目には、疑問の色が濃い。
決して弱くはない自身のエネルギーの障壁を、かくも易々と打ち破られ、それを信じられない様子だ。
「なんだい、大したことないんだねぇ」
転がっていった祐一を見ながら、グルーヴが嘲笑する。
箒を右手に持ち、それでとんとんと肩を叩きながら。
まさに余裕綽々といった態度。
そんなグルーヴの声に反応したわけでもないだろうが、祐一がゆっくりと起き上がる。
その動きは鈍く、体の各部が微かに震えている。
今の一撃は、相当に効いたらしい。
「……なるほど。その箒が、強さの証か」
ぐいっと口元の血を拭いながら、祐一が呟く。
その目は、ただグルーヴの手の箒にのみ注がれていた。
笑みを深くするグルーヴ。
「その通りさ。あたし単体は非力な年寄り。腕力もなければ脚力もない。体力だってたかが知れてる。だけどね」
そう言うと、肩に担ぐようにしていた箒を、自身の眼前へと持ってくる。
まるでそれを見せつけるかのように。
まるでそれを自慢するかのように。
「あたしには、これがある。
魔女の秘術
がある。だからこそ、あたしはこれまでここで生きてこられたのさ」
彼女の言葉には力があった。
自身の能力の、確たる実績。
自身の能力への、揺るぎない信頼。
それ故に力強い言葉。
戦いに明け暮れる日々を、彼女はその箒一つで生き抜いてきたのだろう。
「非力なあたしにも扱えるくらいに軽く、弾丸にも負けないくらいに速く、誰にも傷つけられないくらいに硬く、何でも壊せるくらいに強い」
「おまけに空まで飛べるってか」
「そうだよ。全くもってすばらしい相棒さ。これを手にしている限り、負ける気はしないね」
笑みを深くするグルーヴと対照的に、祐一の表情は無へと近づいてゆく。
色を失い、透明になったような、そんな表情。
目はまっすぐに箒に向けられたまま。
グルーヴではなく、その手の箒に。
祐一が戦っているのは、グルーヴではない。
彼女の能力――その箒だった。
既に祐一もその身で味わっているが、箒による攻撃は、まさに苛烈と評すべきものだ。
普通、強度の高い武器というものは、どうしても重量が増してしまい、振るうその速度も落ちる。
だが、この箒は違う。
恐ろしいほどの硬度を持ちながら、非力な彼女にも振り回せるくらいに軽いのだという。
だが、軽いにも関わらず、受け止めればその瞬間に弾き飛ばされるほどに、その威力は高い。
祐一が防御にエネルギーのほとんどを回していたのに、骨が軋むほどの衝撃だったのだ。
重量が軽いのに衝撃が大きいというのは、どう考えても不自然。
何か秘密があるのかもしれないが、どうあれ、この箒による攻撃は、そう何度も耐えられるものではない。
これほどの能力となれば、攻略するのは非常に厳しい。
祐一がグルーヴを直接攻撃しようとしても、箒がそれを邪魔してくる。
防御に使われても攻略は困難だし、空を飛ばれては追撃も叶わない。
と言って、祐一が防戦に回れば、間違いなく嬲り殺しにされる。
攻撃しなければ勝ち目などないのだから。
箒を越えて、グルーヴを攻撃するのは困難。
だが、箒を破壊することも至難。
状況は極めて厳しい。
「……」
「どうしたんだい? 静かになっちまったじゃないか」
無言、無表情のままで、箒に視線を向け続けている祐一に、グルーヴが挑発の言葉をかける。
それでも、祐一は動かない。
そこで、グルーヴの顔からも笑みが消える。
状況は有利なものとなっていたが、それでも彼女が油断することはない。
一瞬の油断が死を招くことを、長い経験でよく知っているからだ。
彼女に隙ができることは、一切期待できまい。
「
魔女の秘術
……俺が攻略させてもらうぜ」
「できるものならねっ」
祐一が呟いた言葉に、グルーヴは再度の急接近で答える。
箒を振り上げたまま、その距離を縮めてゆく。
祐一は、左足だけ一歩前に踏み出し、左腕を上げた状態で彼女を待つ。
エネルギーが集中したその腕は、まるで鋼の楯を構えているかのようだ。
それは完全に防御の体勢。
けれど、グルーヴは、委細構わず突っ込んでくる。
唸りを上げて、箒が祐一に振り下ろされた。
「ぐっ!」
それを左手で受け止める祐一。
集中させたエネルギーをもってしても殺しきれない衝撃。
漏れ出た声は、苦痛の色を帯びている。
だが、それでも箒は止められた。
グルーヴが、舌打ちとともに、追撃を加えようと右手に力をこめた瞬間に、祐一の右手が前に突き出される。
狙いは、グルーヴの左腕か。
一瞬の空白をつく一撃……まともにくらえば、彼女の左腕はただでは済まない。
そう考えたグルーヴは、追撃ではなく防御に意識を集中させる。
まずこの一撃を回避し、それから追撃を行っても遅くはない。
情報によれば、祐一の戦いにおける基本スタイルは、徒手空拳による近接戦闘だった。
ならば、攻撃範囲もそこまで広くはない。
安全を考えるならば大きく距離をとるべきかもしれないし、それは不可能ではない。
だが、追撃のことも考え、彼女はその場で回避を試みる。
だが、そこで、祐一の右手が一瞬だけ光ったのが見えた。
それは、金属の反射光。
前情報を覆す行動。
彼が武器を持っていることに気付き、追撃を諦めて後退しようとするが、時既に遅し。
「ちっ!」
急な判断に体が上手く動かせなかったものの、反射的に身を捩ることだけはできた。
祐一の拳が振り抜かれた瞬間に、左上腕部に感じた小さな痛みが、グルーヴの表情を引きつらせる。
彼の手に握られていた刃物を、回避しきれなかったのだ。
幸いにも傷は浅いものだったが、突然の反撃に、グルーヴは初めて後手に回ることになる。
攻撃射程を伸ばすことだけでなく、フェイントの意を含めた、武器による攻撃。
事前に祐一の情報を知っていた相手だからこそ、成立し得たフェイント。
してやられた格好のグルーヴは、とりあえず体勢を整えようとするが、それを逃がす祐一ではない。
振り抜いた拳を横凪に払う。
払ったその手を急停止させ、肘を突き出す。
そしてさらに右手を振るう。
前進しながらの連携攻撃。
グルーヴは、それを紙一重で交わすのが精一杯の状況。
何度も何度も執拗に繰り返される攻撃に対し、ただ回避し続けるしかできない。
意識を攻撃に移行させる暇すらない。
回避するたびに、拳圧でローブが震え、また武器は少しずつ彼女の体を掠めてゆく。
縦に横に、と、薄い切り傷が、幾重にも彼女の腕に刻まれる。
傷がついているのは、全て彼女の左腕。
どれ一つとて動きを妨げるものではないが、痛み以上に防戦一方という状況が、彼女の心を攻める。
祐一が狙っているのは、自分に隙ができる瞬間であり、それを作り出すために執拗に浅い斬撃を繰り返していると考えているグルーヴからすれば、この状況はいかにもまずい。
そんな焦りが伝播したのか、彼女の体勢が僅かに崩れる。
時間にしても一秒に満たないが、確かに無防備となる瞬間。
祐一は、その瞬間を利して、左足で箒を蹴りつけた。
「あっ!」
蹴られた衝撃を受け止めきれず、グルーヴが箒から手を離してしまう。
驚きの声が、彼女の口から漏れる。
彼女の手を離れた箒は、くるくると回転しつつ、弧を描きながら祐一の後方へと飛んでゆく。
この距離では、到底拾うことは叶わない。
初めて訪れたチャンスに、祐一の目が、決意の色を帯びる。
ここを逃すわけにはいかない。
「これでどうだっ!」
祐一が、左手を強く握り締めた。
刹那後、そこにエネルギーが集中してゆく。
高められたエネルギーが最高潮に達した瞬間に、祐一は、グルーヴの顔面へと拳を振り抜いた。
「かはっ……!」
だが、上がった苦悶の声は、グルーヴのものではなかった。
確かな破壊力を秘めた拳が、グルーヴを捉えるかと思われたその瞬間に、しかし祐一の背中を強烈な衝撃が襲ったのだ。
一瞬呼吸が止まり、届くはずだった拳も静止する。
凍りつく表情。
止まる時間。
と、グルーヴへ向けていた拳から、エネルギーの高まりが霧散する。
襲った衝撃に耐えきれず、祐一の体が傾いでいく。
目を見開き、信じられないものでも見るように、グルーヴに視線を向ける祐一。
ただ笑みを浮かべているのみの彼女からは、何かをしたという様子は窺えない。
「ひひひ……」
堪えきれずに笑い声を上げるグルーヴ。
それから彼女は、すっと右手を上げる。
まるで、そこに来る何かを受け止めようとするかのように。
祐一が認識できたのはそこまで。
どさっという音を響かせて、彼は体を床に横たえさせた。
苦痛を堪えるように背を丸める祐一。
全く警戒していなかったところを攻撃されたため、そのダメージは深刻だ。
そんな祐一の苦悶の様子を、さもおかしそうに見下ろしているグルーヴ。
と、何かを受け止めたような音が、彼女の手から聞こえた。
ゆっくりと顔を上げる祐一。
グルーヴの右手には、遠くに飛んでいったはずの箒が収まっていた。
「なんで、箒が……」
廊下に転がったまま、グルーヴを見上げる祐一の目には、動揺と驚愕が浮かんでいる。
その声が掠れているのは、背中に受けた衝撃のためだろうか。
ともあれ、彼の体に刻まれた衝撃の大きさを物語っていることは間違いない。
「ふん、驚いたかい? これがこの箒の真骨頂さね」
対するグルーヴは、祐一の苦しそうな声に、さらに愉悦を深くする。
自分の目論見通りに事が展開したことを、ただ純粋に喜んでいるようだ。
それから、彼女が箒から手を離した。
だが、本来なら重力に従って地に落ちるはずのそれが、宙に浮いたままになっている。
そして、それに驚く暇もなく、箒がくるくると回転を始めた。
グルーヴは何もしていない。
何かで動かすでもなく、ただ箒が勝手に回っているのだ。
それが示す事実に、祐一はようやく気付いた。
「そう、か……遠隔操作も、できるんだな?」
「そういうことだよ。こいつは、あたしの意思で自在に動かすことができるのさ。加速も減速もお手のもの。何もあたしが手で持ってる必要はないんだよ」
そこまで聞いて、ようやく全ての疑問が解消した。
強力な硬度と、凄まじい加速力。
苛烈な攻撃力と俊敏な速度。
本来なら兼ね備えられるものではないそれを、なぜこの箒が実現できていたのか。
それもこれも、この箒自身が動いていて、グルーヴはそれに捕まっているだけだったと考えれば、理解もできる。
攻撃の際にも、防御の際にも、移動の際にも、静止の際にも。
グルーヴの意思に従って、箒自身がそれを助けるように動いていたからこそ、彼女の腕力でも扱えているのだろう。
それならば、非力な彼女でも軽々と振り回せたことも、その彼女の腕力であれほどの衝撃を生み出せたことも、全てが納得できる。
箒そのものの重量は、それなりに大きなものであるはずだ。
そうでなくては、銃弾にもびくともしない硬度は実現しない。
そして同時に、本来なら、それによって速度は殺されるはずである。
しかし、箒自身が宙を自在に舞うことができるとなれば、話は変わってくる。
自身の意思で箒を操作できるのならば、グルーヴはただそれに掴まっていればいい。
それを最大限に生かすべく、操作し続けるだけでいい。
こんなことが実現できるのも、能力で創り出した武器であるからこそ。
彼女の能力は、ただ箒を創ることにあらず。
その操作こそが、彼女の真骨頂。
極めて高硬度。
破壊力抜群の重量。
自身の意思による遠隔操作。
改めて祐一は思い知らされる。
この能力が、極めて強大であることを。
「くっ……」
「おやおや、まだやるつもりかい?」
ふらつく足を叱咤して、祐一がゆっくりと身を起こす。
それを見て、僅かに目を見開かせるグルーヴ。
ダメージは大きいはずだが、それでもなお立ち上がる祐一に、警戒心を抱いたのかもしれない。
睨み合う両者。
「まだやるかって? 当たり前だろ。まだまだ死ぬつもりはないんだよ」
構えをとりながらの祐一の言葉は、相手に向けてというよりもむしろ、自分に言い聞かせているかのようだった。
呼吸は荒いし、体は微かに震えている。
自分を奮い立たせなければならないほどに、体が傷んでいるのだろう。
だが、そんな状態でもなお、祐一の目は、輝きを失ってはいなかった。
単なる強がりで口にした言葉ではなく、強い意志がその根底にあることは間違いない。
「……そうかい。それなら、あんたは死ぬしかないってことを、思い知らせてやろうかね」
グルーヴが、すっと目を細める。
祐一のそれに負けないほどに、その眼光は鋭い。
静かに右手を上げ、箒の柄をその手に収める。
追撃の体勢。
「思い知らされるのは、そっちかもしれないぜ」
「それなら、思い知らせてごらんよっ!」
叫ぶと同時に、グルーヴがその場を飛び立った。
箒が実現する急加速に体を合わせて、一瞬で間合いを詰める。
その場を動かずに、迎え撃つ体勢をとる祐一。
数瞬後、再度交錯する二人。
戦いの幕は、未だ下ろされる気配も見せない。
続く
後書き
60話達成。
うーむ、思ったより感動がない。
やはり話の途中だってのが大きいんだろうなぁ。
でも、『神至』全体の話からすれば、まだ半分にも満たないでしょうし、喜んでばかりもいられないんですが。
改めて考えると、本当に先は長い……まぁぼちぼち頑張ることにしよう。
それではまた。