「さて、お前はどうなんだ? お前もまた、下らない能力者に過ぎないのかな?」





シャディードの言葉が、微かな余韻を残して部屋の空気に消えた直後に。
祐一がかっと目を見開き、全力を両足にこめて、一気に駆け出した。
負傷を感じさせない鋭い加速。
若干でも、今の空白の時間で体力を回復させたのか、そこには確かな力強さがあった。

両手は封じられているのだが、動くことにはさほど支障がないらしい。
シャディードに迫るその速度は十分に速く、二人の距離はあっという間に零へと迫る。

だが、両手が使えないという事実は動かない。
手械をはめられたに等しい人間が、捨て身で特攻したところで、果たしてどれ程の力を発揮できるだろうか。

対するシャディードは、飛び出してきた祐一の目から、彼が冷静さを欠いていないことを悟り、無言で構えをとる。
完全に迎え撃つ体勢。
その鋭い眼差しには、相手の全てを見極めようという強い意志の表れだ。

あと一足で攻防が展開される距離、というところで、祐一が固定された両腕を、胸の前にまで上げる。
固定されている鉄の棒で攻撃してくるつもりだろうか、とシャディードが考える暇もあらばこそ。
唐突に変化は訪れた。





「なに?!」

掲げられた鉄の棒に、一瞬で無数の亀裂が走ったかと思うと、突然それが爆発し、無数の破片となって飛び散り、シャディードへと降り注いだのだ。
驚きの声をかき消すように、鉄の破片が、彼に向かって弾丸のように押し寄せる。
視界一杯に広がる黒く鈍い輝き……当たればただでは済むまい。

瞬時に判断を下し、エネルギーを両手にこめると、シャディードが防御の体勢に入った。
速度は強烈だが、ほとんど横一列になって襲いかかってきているのだから、防御はさして難しくはない。

左手を外に払い、間を置かずに右手も外に払う。
その二振りで、鉄の破片は全て目の前から消えていた。
両手に小さな傷はついたが、ほとんどダメージにもならないものだ。
つまり、ほぼ無傷。



だが、祐一の狙いは、鉄の破片でダメージを与えることではなかったらしい。
襲い来る鉄の破片を全て叩き落した後、その破片だけでなく、祐一の姿までが、シャディードの視界から消えていたからだ。



それに思考を巡らせるより速く、耳に届いた小さな破砕音。
自身の足元付近から聞こえてきたその音に気付いた刹那、シャディードは視線を下に向ける。
そこにいたのは、低い姿勢ですぐ傍まで接近していた祐一。

見れば、彼の右手は、深く床を抉っている。
先の破砕音は、手を床に叩きつけた時のものらしい。
小指をシャディードの方に向けた、横向きの状態で、祐一の右手が床に固定されていた。
見上げる祐一の目と見下ろすシャディードの目が、一瞬だけ合う。

と、完全に食い込んだ右手を支点にして、祐一が体を反転させた。
体ごと回転させる勢いで、祐一の右足がシャディードへ向かう。
水面蹴りかと察し、けれど退くことはせずに、シャディードはその足に照準を定める。
このタイミングでは、祐一に勝ち目はないはず。

だが、蹴りが足に叩き込まれるというその直前に、もう一度床を叩きつけるような音が聞こえた。
それと同時に、足の軌道も急激に変化する。
床を這うようにして水平に迫っていた右足が、瞬間その膝を折り曲げてから、その攻撃の軌道を上方へのものに変えてしまう。

右手だけでなく、左手までも床に食い込ませ、体の動きを強制的に静止させ、そこを支点にして、蹴りの軌道を変更したのだ。
まるで突き出すように、祐一の右足が、シャディードの顎に迫る。
それは、まともにくらえば意識をも刈り取るだろう蹴り。
逆立ちのような体勢から、体を伸ばす勢いを利用しての、足による突きだ。
垣間見えた祐一の目には、強烈な殺気が宿っていた。

一瞬の軌道変化。
下手な行動はとれない。
だからか、シャディードは、体を仰け反らせるようにして、その一撃を回避する。

風を切るというよりも、風を貫くような音とともに、シャディードの顔面すれすれを、祐一の右足が通過した。
響く爆音。
それこそが、この攻撃の威力の高さを、何よりもはっきりと示している。

だが、通過しきってしまえば、それは格好の的に過ぎない。
一瞬後に動きを止めた祐一の右足を、自身の右手で掴むシャディード。
握り潰さんとばかりに、踝あたりを強く握り締める。



と、それを待っていたかのように、祐一の左足が動いた。
右足を突き出すと同時に、左足を曲げて、次の攻撃へと備えていたらしい。
つまりは、右足が捕らえられることは、彼の計算の内だったということだ。

両手を床に深く喰らいつかせて、今さらに右足がシャディードの右手によって固定された状態。
しならせた木の枝のように振り上げられた左足には、エネルギーが集中している。
祐一は、体が固定された状態を利して、思いっきりそれを振り下ろした。

頭に向かって襲いかかる左足は、さながら鎌の如く。
水面蹴りに見せかけた蹴りも、突き出してきた右足も、この左足の蹴り落としのための布石か。
咄嗟にエネルギーを左手に集中させ、構えるシャディード。

右手は使えない。
そしてもちろん、回避も不可能。
となれば、ダメージ覚悟で受け止めるしかない。
ほとんど反射的な行動。
戦闘経験が、思考よりも早くシャディードの左腕を動かす。



まるでハンマーを叩きつけたかのような鈍く重い音が響くのと同時に、祐一の左足がシャディードの左手へと叩き込まれた。
両者の高められたエネルギーの衝突によりもたらされた衝撃は、さながら爆弾が炸裂したが如く。
互いに、多大な反動のために、一瞬動きを止めざるを得ない。

両手を床に、両足をシャディードに固定された状態の祐一。
両足を床に着け、両手で祐一の両足を掴んでいるシャディード。

体勢は全く変わっていない。
強烈な一撃だったのだが、それでもシャディードの両手は離されていなかった。
ダメージが皆無というわけではないだろう。
しかし、そんなものなど意にも介さない様子で、シャディードの両手は、祐一の両足を捕らえたまま離さない。
フェイントを織り交ぜた攻撃だったが、その全てを防ぎきった。
もう、祐一に打つ手はない。

シャディードがそう判断した時に、祐一が両手を床から引き剥がし、掴んでいた床の破片を、顔面に向けて投げつけた。
固定された状態からの、最後の足掻きだろうか。
だが、足掻きと言うには、その破片の速度は強烈だ。
無視することはできない。
とはいえ、反応できないほどの速度でもなかった。
両手は塞がっているが、胸から上を後方に反らせるだけでも、十分に回避可能だ。

その判断に従い、上半身を反らすシャディード。
動かした顔のすぐ傍を、凄まじい速度で通過してゆく破片。
一発とて彼に掠ることさえなく、上方へと消えていった。
破片も目の前から消え、彼は薄く笑う。





シャディードが、祐一の両足を掴んだ両腕に力をこめようとした、まさにその瞬間に。
床が破裂したような乾いた音が、場の空気を震わせたかと思うと、シャディードの腹部に、何かが叩き込まれた。

「ッ……!」

大きく目を見開くシャディード。
全ての攻撃を回避した、と判断した直後の一瞬の隙に襲ってきたそれは、容赦なくその腹部を抉っている。
衝撃による苦痛よりも、何が起こったのかに関する疑問と驚愕の方が、彼の表情に色濃く浮かんでいた。



シャディードには見えていないが、彼の腹部を襲ったのは、床から一直線に隆起したコンクリートの一部。
それが、まるで槍のように、彼の腹部に命中したのである。
祐一が、掴んだコンクリート片に能力を行使し、命令に忠実に従ったそれが、シャディードに対して牙を剥いたわけだ。

これこそが、祐一の狙い。
両足による時間差攻撃は、あくまでも能力発動までの時間を稼ぐための行動。
両手に持っていた破片を投げつけたのは、意識と視線を床から逸らすための行動。
そして、万策尽きたとシャディードに思わせることで、彼の隙を引き出した。

まともに喰らいついたその攻撃を確認し、してやったりと考える祐一。
全てが思惑通りにいった。
さすがにこれだけの攻撃を喰らえば、いかにシャディードが強かろうとも、無傷では済まない。





けれど。





「……はぁッ!」

動きを止めていたシャディードが、そう叫ぶなり、祐一の両足を掴んだまま、自身の両手を振り回すようにして、彼の体を持ち上げる。
浮遊感を覚える祐一。
だが、何ら反応できずに、ただ為すがまま。
突然の展開に、頭も体もついていかなかったのだ。



「ぬんッ!」

そして、腰を捻るようにしてエネルギーを溜めると、それを一気に解き放ち、祐一の体を真横へと放り投げた。
振り回されたことにより、一瞬遠くなる意識をけれど手放さず、どうにか着地すべく体を捻る祐一。
両手で床を弾くようにしてブレーキをかけ、空中で回転して、足から床に降り立つ。
無理やりブレーキをかけた影響で、体に痛みが走るが、それを押さえ込んで、低い姿勢で構えを取る。





「くくく……そうだ、そうでなくてはな」
「くそッ、これでもダメなのかよ……」

見上げる祐一の視界に飛び込んできたのは、腹部を手で軽く払いながら、両の足でしっかりと床に立つシャディード。
その立ち姿からは、ダメージを受けた様子はまるで窺えない。

隙をついてコンクリート片を腹部に叩き込んだにも関わらず、彼の表情には、苦悶の色など全く見受けられない。
いや、むしろ楽しそうに笑ってすらいる。
自身の連携攻撃でさえも、さしたるダメージを与えられなかった現実に、歯を噛み締めている祐一とは、あまりに対照的だ。

「面白い能力だ。なるほど、そういう攻撃もできるということか。生命のドミネーターというのは、中々便利なのだな。いや、実に面白い」

感心したような表情のシャディードに対し、苦虫を噛み潰したような表情の祐一。
だが、それも無理からぬところ。

これでシャディードには、祐一の能力について一定の知識が与えられてしまったのだから。
こうなっては、奇襲攻撃は難しい。
と言って、真っ向から戦ったところで、勝算は薄い。
相対したことにより、心底からそれを見せつけられた祐一。
それが故に、彼の表情は、今どこまでも厳しい。

それに対して、シャディードは、満足気に笑っている。
命懸けの戦闘を、心から楽しんでいるかのように。



「いい、やはりいいぞ、お前は。その調子だ。もっともっと、俺を苦しませてみろ。俺を追い詰めてみせろ。俺に、新しい世界を見せてみろッ!」

少しずつ広がる笑み。
昂ってゆく心。
意識の高揚と共に、彼のエネルギーがさらに力強さを増してゆく。
抑えきれないとばかりに、その場を飛び立つシャディード。
一直線に、祐一へと迫るその脅威。
それを目の当たりにした祐一の表情に浮かんだのは、微かな、けれど確かな恐怖。

全身を走り抜ける悪寒。
否定しきれない予感。
脳裏に囁かれる言葉。



『……俺は、この男に、勝てるのか……?』















神へと至る道



第65話  縛られ、されど翼は折れず















所変わって、アルテマの本拠地にて。

その場は、既に戦場と呼べるものですらなくなっていた。
人数の差など、何の助けにもならない。
それほどまでに、圧倒的な戦力差。
本拠内に残っていたアルテマの戦闘員を、十二使徒が一方的に狩っていく景色のみが、そこに展開されている。

襲撃当初こそ、それなりに善戦していたアルテマ側だったが、時間が経つに連れて、戦況は悪化の一途を辿った。
決してアルテマの構成員が弱いわけではない。
ただ、十二使徒が強過ぎた。
たった六人の人間に、なす術もなく削られてゆく戦力。
壊滅は、もう時間の問題だ。



「追い詰めましたよ、アルテマのナンバー2、ザール。悪あがきもここまでですね」
「……どうやらそのようだな」

そんな情勢の中、本拠の最奥にて、マリアとザールが対峙していた。
本拠内で行われていた戦闘も、ほとんど終焉を迎えようとしており、実質ここに残された戦力は、ザール唯一人と言ってもよかった。

そんな状況にあっても、マリアの表情は明るいものにならない。
そんな状況にあっても、ザールの表情は暗いものにならない。

マリアの脳裏に浮かぶのは、アルテマの最大戦力、シャディードの存在。
目の前のザールを殺すことは絶対だ。
だがそれだけでは、作戦の成功には、決定的に足りない。
シャディードを殺さないことには、断じて安心はできない。
彼の命がある限り、アルテマは何度でも復活するだろう。

なすべきは、アルテマの抹消。
その為には、シャディードとザールの二人の抹殺は絶対条件。
それを完遂することが、今のマリアにとって、何よりも優先される事項なのだ。



「聞きたいことがあります。わかっているかとは思いますが」
「シャディード様のことだろう? 無意味な問いだ。俺が口を割るとでも思っているのか?」

二人の間で、ぶつかり合う殺気に満ちた視線。
火花が散るほどに熱い敵意と闘志。
高まるエネルギーは、周囲の空気を焦がさんとばかりに渦を巻く。
存在するだけで体力も精神力も削られるほどに、その空間は異質なものとなっていた。
そこにあってなお、両者とも表情を揺らがせることすらない。

「……そうですか。もっとも、あなたが逃げずにここにいるということは、彼が『九龍』の方に行っている、ということなのでしょう」
「どうかな?」

マリアの考察にも眉一つ動かさず、ザールはエネルギーを解放し、戦闘態勢に入る。
迸るそれは、確かな圧力となってマリアを襲う。
普通の能力者では、これを前にして正気を保つことすら難しいだろう。
それほどに強大で凶悪な力の高まりだった。
アルテマのナンバー2の肩書きは、決して伊達ではない。
マリアもまた、浮かべていた穏やかな微笑を消し、鋭い視線を彼に向ける。
彼女もまた、完全に臨戦態勢だ。



「俺を、簡単に殺せると思うなよ?」
「えぇ、確かに素晴らしいエネルギーです。惜しいですね、ここで殺すのは」

そう言うなり、突然マリアの左手に、分厚い本のようなものが出現した。
普通の意匠とは異なる複雑な紋様の描かれた表紙から考えても、それはおそらく彼女の能力と深い関係のあるものだ、と容易に判断できる。
となれば、ここで指を咥えて見ているなど、殺してくれと言っているのと同義。

先手必勝とばかりに、勢いよく飛び出すと、マリアとの距離を一瞬で詰める。
存分に高められたエネルギーを拳に宿し、ザールは真っ直ぐにそれを突き出した。
尋常ならざる速度で振るわれるそれは、相手に防御も回避も許さない。
立ち塞がるもの全てを砕いてきた一撃……その破壊力は絶大だ。

だが、それが彼女の顔面に突き刺さるかと思われた瞬間に、突如としてその軌道が変わる。
受けるでもなく、避けるでもなく。
その場に立ったまま、マリアが右手で、ザールの一撃を受け流したのだ。
怖ろしいほどの反応速度にして、また芸術の域にまで達していると思うほどに洗練された動き。

真っ直ぐ向かってくる対象に対して、真横から力を加えることでその軌道を変える。
言葉にすれば簡単だが、実践でそれを実現することは、限りなく困難。
類まれなセンスと積み重ねてきた並ならぬ経験があってこその技。
この動き一つとってみても、彼女の強さが桁違いであることは明らかだ。

流れるような動きで危険を回避したマリアは、その勢いのままに、思わずたたらを踏むザールのわき腹に蹴りを叩き込んだ。
鈍い音が響き、ザールの表情に一瞬だけ苦悶の色が走る。
と同時に、横へ飛ぶ体。
けれど、さしたるダメージはないのか、彼はすぐに体勢を立て直し、力強く床に着地した。
その後、軽く手で脇腹を叩くその表情には、苦悶の色は完全に消えていた。



「ふん……十二使徒のリーダーっていうのは、名前だけじゃなさそうだな」
「なるほど、タイプPですか。これは、真っ向からでは勝てそうにありませんね」

今の攻防から、マリアの攻撃力ではザールの防御力を破れないらしいことを、互いに察したらしい。
余裕の表情のザールに対し、マリアは困ったような表情で眉根を寄せていた。
隙をついてもろくにダメージを与えられなかった以上、普通に攻防を繰り返していては、彼女の勝ち目は薄い。

けれど、彼女の表情に焦りの色は微塵も窺えない。
言葉ほど、彼女は困難に思っていないのだろう。
それがわからないほど、もちろん相対する彼は愚かではない。
距離をとった状態のまま、鋭い眼差しを彼女に向けている。





「そうですね……では、こんなものはどうでしょう?」

不意に呟かれた言葉。
何の前触れもなく、マリアの右手にペンが現れ、同時に左手に持っている本が勝手に開き、淡い輝きを放ち始める。
そのまま、何の迷いもなく、彼女は開かれたページに何事かを書いてゆく。
その一連の動きは、正しく一瞬の出来事。
両手が塞がっている状況にも関わらず、彼女には微塵の隙も見えない。
故に、ザールは動くこともできなかった。

何かを書き終えたらしく、ペンが本を離れ、宙に走る。
と、その瞬間に現れた時と同じく、それは虚空に消える。
それと入れ替わるように、マリアの右手に、突然何かの物体が現れた。
掌に乗る程度の大きさの、それは真っ黒な箱。

そこに得体の知れない恐怖を感じたザール。
それを見て取ったのか、マリアがその物体を持ったまま、彼に向かって走り出す。

一瞬でゼロへと変わる間合い。
ほとんど反射的に拳を繰り出すザール。
だが、それは先程と同じように、マリアの左手によって受け流される。
と同時に、右手に持った黒い箱を投げつけた。
彼女はそのまま、すぐに場を離脱し、彼から距離をとる。

攻撃直後の為、一瞬硬直してしまったザール。
その一瞬の間に、黒い箱は彼に接近し、いきなり爆発した。



「ぐぁっ!」

振動で部屋の壁が揺らぐほどの爆発。
至近距離で爆風をまともに浴びたザールは、苦痛の声を上げる。
彼の強大なエネルギーでもってしても、その威力は殺しきれなかったらしく、破片が突き刺さった部位からは、溢れるように血が流れていた。

溜まらず膝から崩れ、膝立ちになるザール。
吐く息も荒く、負った負傷は決して軽いものではないようだ。



「くっ……なんだ、その能力は……?」

憎憎しげに睨み付けるザール。
その視界の先にあるのは、マリアの左手に収まったままの本。

何事かを書き込んだ一瞬。
突如現れた爆弾。
そこから彼女の能力を導き出すには、まだ情報が足りない。

ザールが考察する暇もあらばこそ。
マリアの右手に、またしても虚空から黒い爆弾が現れる。

「それこそ無意味な問いですね」

余裕の表情を崩さず、けれど決して隙を見せず、雄々しく立つマリア。
彼女の視線は、真っ直ぐにザールに向けられている。
それは冷静な狩人の目。

「さて、もう一つの拠点にも行かなければならないようですから、これ以上時間はかけられません。これで終わりにしましょう」

すっと掲げられる右手。
宣言するように言い放つと、先と同じように、マリアがザールに向かって飛び出す。
爆音が再度響き渡るのは、その直後だった。















再度所変わって。

「げほっ……!」

呻き声が場に響くと同時に、祐一の体が床に転がる。
腹部に手を当てた彼は、こみ上げてくる嘔吐感を押さえきれず、床に胃液を吐き出す。
強烈な蹴りを、もう何度も腹部にくらったためか、その顔色も悪い。
もう何度目かわからない痛打。
身体状態は、悪化の一途を辿っている。

「どうした? もうお終いなのか? まさかこの程度で死んでしまうつもりか?」

対するシャディードはというと、こちらもダメージはあるようだが、それも祐一に比べれば雲泥の差だ。
あちらこちらから血を流し、傷ついている状態だが、エネルギーにはまだ余裕がある上、負傷にしても動きを妨げるほどではない。
その立ち姿には、聊かの揺らぎも窺えない。
正しく圧倒的な差が、そこにはあった。





結局のところ、祐一が能力を行使してからは、ほとんど一方的な展開だった。
攻撃力も、防御力も、瞬発力も、持久力も。
身体能力では、あらゆる点で自分よりも数段上にいるシャディードと真正面から攻防を繰り返せば、どうしたって祐一に勝ち目は生まれない。
繰り出した攻撃のほとんどは、大した効果も生み出せず、逆に生じた隙を突かれ、少しずつ痛めつけられる。
延々と繰り返されるそれにより、ダメージは確実に彼の体に蓄積していた。

となれば、後は能力を行使することによる特殊攻撃以外には、祐一に勝機は生まれ得ないのだが、その隙を見つけられないのだ。
確かに、祐一が能力を使用すれば、局面を変えることは不可能ではないだろう。
だが、彼の能力は、発動までに一定の時間を要する。
それを理解しているが故に、シャディードはその隙を与えようとはしなかった。
祐一が能力を使用したくても、その余裕がない以上、どうにもならない。

さらに拙い事には、祐一の能力には使用回数の制限――二十四時間以内に五回まで――が存在するのだ。
今日は既に三回、彼は能力を使用してしまっている。
つまり、あと二回しか使用できないのだ。
使う隙もなければ使える残数もない。
状況は、どこまでも芳しくなかった。

もちろん、シャディードも能力は行使できない。
こちらの場合は、使用の際には時間が必要になるだけでなく、両手を使わなければならないため、祐一以上にその行使は難しい。
だがそうなると、結局取り得る戦法は、お互い真っ向からのぶつかり合いしかなくなる。
その結果が、今のこの一方的な状況なのだ。





「こんなものじゃないだろう? お前の力は。何かあるんだろう? 奥の手なり何なりが。出し惜しみして、命を散らすつもりなのか?」

苦しむ祐一に対し、追撃を加えるでもなく、しきりに挑発を繰り返すシャディード。
両者の力の差を考えれば、彼がその気になりさえすれば、今すぐにも祐一を殺せるはずだ。

だが、シャディードはそれを選ばない。
ただの勝利に、意味はないからだ。
全ての力を引き出させて、自身を窮地に追い込み、その上で勝利する。
それこそが、シャディードの狙いであり、戦う理由なのだから。

この戦いで、自身を更なる高みに到達させる。
それが実現できなければ、ここにわざわざ残った意味がなくなってしまう。
相対している祐一には、試練になり得てもらわなければならないのだ。

そしてまた、彼の能力はまだ底を見せていない、とシャディードは考えていた。
何か、まだ奥の手のようなものがあるはずだ、と。
理屈ではなく直感にも等しいものだが、彼はそれを信じていた。

隠しているそれを引きずり出す。
このためだけに、今、シャディードは祐一を痛めつけているのだ。
痛めつけ、追い込み、死の淵に立たせる。
さすれば、必ず奥の手も何もかもを出さざるを得なくなるはずだから。

自分に死を意識させるくらいの力。
シャディードは、ただそれを望んでいた。
自分をも、死の淵に追い込みたいのだ。
新たなる領域に、足を踏み入れるためにも。
なればこそ、シャディードは決して止まらない。





「がはっ、ぐっ……」

吐き戻した胃液を垂らしながら、呻き声を漏らす祐一。
鉄の味のする吐瀉物を口から吐き出し、手で拭う。
緩慢な動きで、それでも両の足で再び立ち上がった。
頼りなくふらつきながらも、強い眼差しをシャディードに向ける。

顔と言わず、体と言わず、もはや祐一は全身傷だらけで、無事なところを探す方が難しい状態だった。
体中を血に濡らし、また内出血の青い痣を全身に作り、床を踏むその足も小刻みに震えている。
ただ立っているだけでも痛みに顔を顰めているところを見るに、あるいはどこかの骨が折れてしまっているのかもしれない。

外見だけでなく、内心でも、祐一は痛めつけられていた。
能力は使えない。
使う隙がないし、そもそもあと二回しか使えないのだから、下手に使うわけにもいかない。

そしてまた、奥の手も同じ。
シャディードの読み通り、祐一にも奥の手は存在する。
それを使えば、この状況をひっくり返すことだって、決して不可能ではないだろう。
しかし、それも使うことができれば、の話だ。
今の祐一には、その奥の手は使えない。
使わないのではなく、使えない。
相手の隙や自身の状況が問題なのではなく、ただ彼の取り得る選択肢にそれが存在しないのだ。
出し惜しみしているわけではなく、単純に使用不可能なのである。

故に、祐一が頼れるのは、自身の身体能力と、残り二回の能力使用のみ。
それだけが、彼の今の手持ちのカード。
これで勝利を得られなければ、それはすなわち祐一の死を意味する。

いくら挑発されても奥の手など出せず、また身体能力では到底及ばず、さらに特殊能力も使用できない。
実質、今の彼には打つ手などなかった。
何か一気に状況を変えられるチャンスが訪れない限り、祐一に勝ち目などない。

強く睨み返してはいるものの、内心では恐怖と絶望を押さえ込むのに必死だった。
確実に迫りくる最期の時。
忍び寄る死神の鎌。
心が折れるか、体が折れるか。
状況は限りなく暗い。





「ふむ……そうか、まだ追い込みが足りないのか。仕方ないな」

小さく息をつくと、シャディードが再び構えをとる。
ただそれだけで、場の圧迫感が強まってゆく。
エネルギーの差は決定的。
展開されるそれに、祐一の表情がさらに厳しいものに変わる。

「ならば、限界まで追い込んでやろう。力を出さざるを得なくなるようにな!」

駆け出すシャディード。
爆発的なエネルギーにより生み出される加速は、そのまま彼の破壊力へと変換される。
一瞬のうちに間合いを詰め、握り締めた右拳を振るう。
凶悪なまでの力が、そのまま祐一へと牙を剥いた。

「くっ……!」

咄嗟に両手を上げて、攻撃に備える祐一。
動くことも辛い状況だったが、防がなければ命はないのだ。
エネルギーをこめ、衝撃に備える。
それを待っていたかの如く、次の瞬間にそれは訪れた。

「ぐぅっ……!」

重い炸裂音を残して、シャディードの右拳が、祐一の両手に叩き込まれた。
防いだとは言え、その余りにも重い衝撃に、彼の表情が大きく歪む。
揺らぐその体を見るに、もう限界はすぐ傍まで迫っていることだろう。

けれど、シャディードの攻撃は、これで終わりではなかった。
突進してきた勢いをそのままに、左手で祐一の左腕を掴むと、その体ごと一気に後方へと押しやっていく。
床を捉えていた足は簡単にそこから離れ、背後の壁に向かって加速してゆく。

突然の行動に、なす術もなく後方へと追いやられる祐一。
そして一瞬後に、祐一の背中が壁に叩きつけられる。
押し潰した様な苦悶の声を漏らす祐一。
衝撃に、体が一瞬硬直してしまう。

が、次の瞬間には、自身の左手が掴まれたままだという状態に気付く。
さっと顔色が変わる祐一。
シャディードの左手は祐一の左手首を掴んでおり、彼の右手はいつの間にか壁に当てられている。
そこから思い浮かぶのは、鉄の棒に接合させられた経験。
紛れもなく、能力を行使する態勢だ。
数秒もすれば、それは完了されてしまう。

とにかく妨害しようと、祐一が足を振り上げようとする。
だが、目聡くそれを察知したシャディードが、右膝を祐一の腹部に叩き込んだ。
壁との間に挟まれているため、衝撃は彼の体を通り抜けることなく留まり、結果ダメージを増大させることになってしまう。

あまりの圧迫感に、祐一は体を折り曲げながら、沸き起こる嘔吐感を自覚する。
だが、彼がそれを吐き出すよりも早く、シャディードが再度右膝を叩き込む。
容赦なく襲う追撃に耐え切れず、顔を前に倒した状態のまま、血混じりの吐瀉物を吐き出す祐一。
それを横に飛び退くことで避けるシャディード。
それでもその両手は、決して離さない。

完全に動きを止められてしまった祐一。
虚ろな目。
意識も失いかけているのだろう。

それを見て取ったシャディードは、笑みを浮かべたまま、次は祐一の右腕を手にとる。
左手の甲は、既に壁に接合されている状態だ。
それと対称的になるように、右手も壁へと当てる。
そしてきっかり三秒後、祐一の右手の甲もまた、そこに接合されてしまった。





その様は、さながら磔にされた罪人のようだ。
項垂れた顔。
僅かに折り曲がった形の両足は、体を支える役目をまるで果たしていない。
今にも崩れ落ちそうな体勢。
だが、右手の甲と左手の甲を完全に壁に接合されているため、その場に倒れることもできない。
この状態では、まともに動くことも叶うまい。





「おい、目を覚ませ」

項垂れている祐一の頬を、シャディードが軽く殴りつけた。
軽くとはいっても、それは決して優しいものではない。
鈍い音を残し、祐一の顔が横に大きく弾かれる。

「ぅ……」

それで意識を取り戻したのか、小さな呻き声が上がる。
ゆっくりと目を開ける祐一。
乏しい反応。
まだ自身の状態を認識しきれていないのだろう。
ぼんやりとした目が、シャディードに向けられる。

「気分はどうだ?」

楽しげな笑い声が起こる。
それを耳にして、ようやく祐一の瞳が、シャディードへとその焦点を絞る。
と同時に、微かに動く両手と両足。

一瞬だけ顰められた顔。
そこでようやく、自身の現状に思い至ったのだろう。
べっと血混じりの唾を吐き捨てて、改めてシャディードを睨みつける。

「最悪、だな……ぅっ」

そこで大きく咳き込む祐一。
先の攻撃によるダメージは、かなり大きかったようだ。
あるいは、内臓にもダメージがあるのかもしれない。
苦しげに咳き込みながら、途切れそうになる意識を、必死で繋ぎとめ、何とか顔を上げる。

だが、状況は極めて劣悪だ。
両手を拘束され、身動きがとれなくなっているのだから。
手の甲が壁と一体化しているため、倒れることさえも不可能。
足は固定されていないものの、この状態では蹴り一つ満足に放つことはできない。

まさに絶体絶命。
それでもなお、祐一は下を向かずに、シャディードを睨みつける。
最後の最後まで、諦めるわけにはいかない。
折れそうな心で、けれど崩れそうな体を支える。





「ほう、まだ余裕だな」

祐一の虚勢を目にし、まだ追い込みが足りないと判断したのだろうか。
シャディードが目を細め、微かに口の端を持ち上げた。
酷薄な笑み。

それを見た瞬間に、背筋が凍るような寒気を覚えた祐一。
事態は、まださらに悪化する……その確信が、彼に恐怖を喚起させる。



「せっかく磔になったんだ。こういうものも付けてみるか?」

懐から何かを取り出すシャディード。
それを、まるで見せ付けるように祐一の眼前へと運ぶ。
目に映るそれは、鉄製の釘。
直径は一、二センチメートルはあろうか。
あるいは、杭と言ってもいいかもしれない。

黒光りするそれを目にした瞬間に、祐一の表情に、驚愕と恐怖が走り抜ける。
それが取り出された理由。
その用途。
それに気付かないほど、祐一は愚鈍ではない。

祐一の顔色が変わるのを見て、シャディードは笑みを深くしながら、ゆっくりと彼に歩み寄る。
両手に持った釘を、祐一の手へと向けながら。
そこに、確かなエネルギーを注ぎ込みながら。
だが、それを理解していても、祐一にはなす術などない。



「そら……よっ!」

そして、祐一の両手に、二本の釘が勢いよく突き刺さった。
エネルギーによる防御など、何の役にも立たない。
瞬間噴き出す鮮血。
大きく歪む祐一の顔。
一瞬後、口を大きく開け、体を駆け抜ける激痛を、そのまま声へと変える。


うああああああああああ!


空気を切り裂くような甲高い苦痛の声が、部屋の空気を大きく震わせる。
もはや絶叫と言ってもいい声量だ。

目は飛び出さんばかりに大きく見開かれ、喉の奥まで見えるほどに口を大きく開き、声よ嗄れよとばかりに絶叫を上げる。
両手から押し寄せる激痛は、とても耐えられるものではない。
肉を、骨を、それは完全に貫いている。

釘が刺さっている箇所から、ゆっくりと血が溢れ出す。
栓をされているような状態だからか、流れ出てくる血の量は、決して多くはなかった。
それでも、手を伝い、壁を流れ、床に達するその赤は、余りにも痛々しい。
震える体。
止まない声。



祐一の絶叫を聞き。
苦しむ姿を目にして。
シャディードの顔に、次第に笑みが広がってゆく。
激痛に喘ぐ祐一の姿は、今の彼には愉悦を感じさせるのみ。
激戦に高揚した状態では、苦悶の叫びさえも耳に心地よい。



ああああああああああっ!
「ふふ……ははは……はーっはっはっはっは!



祐一の絶叫に合わせて、場に広がってゆくシャディードの笑い声。
生じる不協和音。
水と油のように、双方とも溶け合うことなく場の空気を互いに振動させる。

耳をつく絶叫。
高らかに響く笑い声。
少しずつ床に染み入る赤。

それらに彩られるこの激戦は、まだ終わりの気配を見せない。









 続く












後書き



主人公というものは、ある意味いじめられてなんぼですよね? こと戦闘ものとなると。

徹底的に叩きのめされて、それでもなお立ち上がれる強さってのは、主人公に必須だと思うのです。

もっとも、一方的にやられておきながら、それを如何にしてひっくり返して勝利へと繋ぐか、というのが問題となってくるわけですが。

そこを表現できればかっこいいんですけども……うむ、頑張ろう。

ってことで、次回以降の展開にはご注目頂ければ、と願います。

さらに、それをどう感じたかなど教えて頂ければ、なお有難く。

それではこれにて。