雪見とみさきは、急ぎ足で階段を下りていたが、丁度上ってきていた佐祐理が視界に入るなり、思わず立ち止まった。
二人とも、一目でわかるほどに痛めつけられている彼女の姿を目の当たりにし、その表情を翳らせる。
対して、佐祐理の方も、上階から二人だけが降りてきたことに表情を変え、二人に詰め寄ってきた。

「どうなってるんですか? 舞は? 祐一さんは? それに、上にいるのは一体……?」
「落ち着いて、後で順を追って説明するから。その前に、少しでも舞の傷を癒してあげて」

矢継ぎ早に質問を重ねる佐祐理を遮り、両手にエネルギーを集中させる雪見。
その間の空間に、不意に揺らぎが生じたかと思うと、そこから闇が溢れ、漆黒の穴がぽっかりと出来上がった。
そこに手を突っ込むと、雪見はゆっくりと舞の体を外へ導く。

全身の至る所から出血し、意識も朦朧としている舞の姿を見て、さっと佐祐理の顔色が変わった。
だが、固まったのは一瞬のこと。
即座に能力を発動し、舞の傷の治療を始める。

佐祐理の左手は使えない状態だったため、その動きも精度も、普段より格段に落ちてはいたが、効能が発揮されていないわけではない。
時間はかかったものの、舞の全身に刻まれていた傷は、それで全て消え去っていた。
だがこれは、あくまでも表面上のもの。
止血と応急処置程度に過ぎないものだ。
彼女の負傷は、この程度で安心できる領域を超えている。
それでも、これでしばらくは堪えられるはずだ。
正規の治療までの時間稼ぎができれば、とりあえずそれで良しとするべきだろう。

佐祐理が治療を終えたことを確認し、再び雪見が、創り出した空間内に舞の体を移動させる。
歩くにも耐えられない状態なのだから、至極自然な判断だ。
それが終わると、雪見は階下へ向かって歩き出した。

無言でそれに続くみさきと、何か言いたげではあるが、大人しくそれに倣う佐祐理。
そんな彼女の表情に気付いているのかいないのか、雪見は階下へと視線をやったまま、ゆっくりと口を開く。

「端的に言うわね。上で祐一と戦ってるのは、シャディード。その言から察するに、彼は祐一と戦うために、ここにいたみたい」
「そんな! 無茶です! いくらなんでも、祐一さん一人でなんて……」
「そうね、無謀だとは思うわ」

蒼白になる佐祐理。
硬い表情で淡々と話す雪見。
対照的な両者の表情だったが、考えていることは同じ。

今もなお断続的に、上階からは凄まじいエネルギーの激突が感知できる。
溢れ出す余波だけでも圧倒されるほどの莫大なエネルギー。
こんな力の持ち主と、祐一が対峙しているという事実は、驚愕以上に恐怖を喚起させる。

同じS級でも、ここまで違うのか……知らず震えが全身を走る。
力の差は歴然。
とてもではないが、祐一が一人で勝てる相手とは思えない。
身を翻し、上へと駆け出そうとした佐祐理だったが、それを雪見が鋭い声で止める。

「佐祐理、だめ!」
「どうしてですか? 助けに行かないと、祐一さんが……」
「隙が生まれるだけよ」

その言葉に、ぴたりと動きを止める佐祐理。
冷静に考えれば、助けに行くことの無意味は、すぐに気付くことだった。
ほとんど無傷のみさきと雪見には、戦闘手段はない。
もちろん皆無というわけではないが、これほどの強者を相手にして戦えるほどの力はなかった。
加えて、舞は重傷の身。
また佐祐理にしても、左腕はもはや使い物にならず、疲労も著しく、エネルギーも残り少ない状態だ。
助けに行ったところで、何もできまい。

思考がそこまで至り、下唇を噛む佐祐理。
そんな彼女に対し、雪見は静かに話を続ける。

「それに、あの男の狙いは、祐一だけみたいだったわ」
「そうだよ。多分、佐祐理ちゃんが行っても、邪魔者扱いされるだけ」

雪見とみさきの言葉に、顔を上げる佐祐理。
その表情には、疑問の色がありありと浮かんでいる。

「どういうことですか?」
「あの男は、わたし達のことを、まるで見ていなかった。アルテマのリーダーならば、見逃したりはしないはずよ。それでもあの男は、わたし達は邪魔だから出て行けと言い放った」
「だからきっと、彼は組織の長としてじゃなく、一個人としてここにいるんだと思う」
「え……そ、それじゃまさか、祐一さんと戦うためだけに、アルテマという組織を全てこの戦いにつぎ込んだんですか?!」

一瞬目を見開く佐祐理。
だがすぐに、そこから一つの結論に至り、驚愕の表情に染まる。
組織を束ねる者が、自分の目的のために、その組織をあっさりと使い捨てにする。
普通に考えれば、あり得ないことだ。

だが、それがアルテマという組織の真実なのだろう。
死ぬことさえも、使い捨てになることさえも、構成員の仕事。
そういう存在故に、脅威となる。

と、佐祐理の表情に、浅からぬ悲痛の色が表れた。
そしてそれは、みさきや雪見にしても同様。
そんな存在と、今まさに、仲間である祐一が真っ向から対峙しているのだ。

「……信じようよ」
「……そうね」
「はい……」

何の目的があって、祐一に狙いをつけたのかまではわからないが、どの道、もはや佐祐理達にできることはない。
状況は限りなく不利だろうが、能力者同士の戦闘に、絶対は存在しない。
となれば、勝利の可能性もまた、ないわけではないのだ。
だから、信じる。
何もできないけれど、祐一が勝利することを、信じる。



「……行こう。他の皆も、大分傷ついてるみたいだから」
「えぇ」
「わかりました」

左右の棟に行った仲間達が勝利したことはわかっている。
けれど同時に、重傷を負っていることもまた、わかっているのだ。
となれば、佐祐理の能力が必要になってくる。

三人は、再び階下へと歩き出した。
上階では、さらに戦いは激化しているらしく、しきりに激しいエネルギーの衝突があることがわかる。
それでも、足を止めることなく、振り返ることもなく、真っ直ぐに出口へと向かう。



棟を出ると、そこではもう戦闘は終わっていた。
保護機関の人間達も、それぞれに負傷しているし、犠牲も出たようだったが、どうにか勝利を収めたらしい。

一言だけ声をかけてから、三人は、別の場所にいた仲間達のところに向かう。
出迎える彼女らの姿は、まさに精根尽き果てたといった風情だった。
茜は意識を失っていたし、留美もまた、身動き一つ取れない状態。
詩子は、出血を止めるだけで幾分回復したが、それでももう戦闘には耐えられまい。
澪だけは、ほとんど治療の必要もなかったが。

応急処置だけを終えれば、八人は静かにそこに座し、最後の戦闘が終わるのを待つことになる。
誰の表情にも、不安の色が濃い。

自身が戦闘しているのならば、これほど不安になったりすることもないだろう。
だが、大事な仲間が戦闘している時に、こうして待つしかないという状況は、殊更に不安が募る。
ましてや、相手はS級の中でも確実に上位に位置する能力者。
単純に強さのみを比較すれば、祐一が勝てる相手ではない。

そんな状況をひっくり返そうと思えば、相手の思考を超越した何かを繰り出すことが要求される。
当然それは容易いことではない。
だが、それができなければ、祐一に待っているものは、死のみだ。

八人は、祈るような気持ちで、天を仰ぐ。
外部から見る限りには、中央の棟は静けさを保っている。
だが、その内部では、激しい戦闘が繰り広げられているのだ。

静寂に包まれる場。
そこでは、時の流れさえも、緩慢なものに変わっていた。















神へと至る道



第66話  絶望にあって、なおその目は曇らず















「あああああ……ッ!」
「ははははは! 気分はどうだ? 磔になった気分は!」

全身を震わせながら発せられる祐一の絶叫が、室内に木霊する。
そんな耳障りなBGMに酔っているかのように、シャディードが、高笑いしながら祐一に問いかける。

もちろん、今の祐一にはそれに答える余裕などないし、シャディードの方もそれは承知していた。
その問いは、答えを期待してのものではない。
ただ楽しんでいるのだ。
苦痛に震える祐一の姿を見て、愉悦を味わっているだけ。

黒い釘は、根元まで祐一の掌に飲み込まれており、突き刺さった部位からは、少しずつ血が漏れ出てきている。
壁を伝い、床に達するそれは、じわじわとそこを朱に染め上げてゆく。
大きく目を見開きながら絶叫を上げる祐一の姿は、見ているだけでも痛々しいが、シャディードは、それをただ笑うだけ。

「あああ……」

苦悶の絶叫も、しかしやがて終わりの時を迎える。
喉を嗄らすほどの叫びなのだ……上げ続けるのも無理があるというもの。
咳き込みながら、激痛に身を震わせる祐一。
そんな僅かな動きだけでも、さらなる激痛を促し、彼の心と体をきつく苛む。





「くくく……どうした? これで終わりなのか? もう打つ手もないの……か?!」
「ぐっ!」

身を震わしながら苦痛に耐えている祐一の腹部に、シャディードが膝を叩き込んだ。
壁との間で挟まれ、押し潰したような呻き声が上がる。
だが、追撃はまだ終わらない。

一撃では足りないのか、何度も何度も膝を叩き込むシャディード。
その度に、苦悶の声を漏らし、体を震わせ、苦悶を滲ませる祐一。
すぐに、込み上げてくる嘔吐感を抑えられなくなる。

「おっと」
「げほっ、ぐぇっ……ぁ……っ」

それを見て取ったシャディードは、後方へ飛び退き、距離をとる。
祐一は、胃液を搾り出すように吐き出し、それが終わると、首をがくんと項垂れさせた。
時折痙攣のように体が小刻みに震え、その度に小さな苦悶の声が漏れる。
表情は窺えないが、蒼白となっていることは、まず間違いないだろう。



「やれやれ。本当に終わりなのか? お前が何かやらかしてくれるかと思っていたんだがな」
「ぅ……っ」

氷点下を思わせるほどに冷徹な視線を向けて、シャディードが言い放つ。
それを聞いて、祐一は反応を示そうとするものの、体中を走る激痛に、顔を上げることさえもままならないのか、ただ小さく体を震わせるのみだった。

呆れたように小さくため息をつくと、改めて祐一に正対するシャディード。
そして、反応のない彼を見下ろしたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
貫くような視線が、彼が止めを刺す気でいることを、雄弁に物語っていた。

「……ここまで、か」

微かな失望を滲ませながら、シャディードが呟く。
自身の苦境を期待していた彼からすれば、これで終わるのは本意ではなかった。
だが、無い物ねだりをしても意味はない。

少しずつ縮められてゆく両者の距離。
反応のない祐一。
無表情に歩くシャディード。
縮まるその距離が、まさにそのまま祐一の寿命にも等しく思える瞬間。

だが、シャディードの足があるところまで到達した時に。
祐一が、その口を微かに動かした。
僅かに震える空気は、何らかの意思表示の証。

「……」
「ん?」

だが、あったはずの彼の声は、余りにも小さすぎて、シャディードには聞き取れなかった。
僅かばかり眉を寄せる彼に向けて、今度はもう少し大きな声が、祐一の口から発せられる。
そしてそれは、今度こそ彼の耳に届いた。





「……感謝するぜ」





突然響いた声は、弱弱しいものでありながら、確かな力があった。
戦いの終焉を思っていたシャディードに、警戒を促すほどに。
だが、彼の反応よりも早く、それは起こった。



響いたのは、鈍い破砕音。
飛び散るのは、血飛沫とコンクリート片。
それと同時に、シャディードの首へ向かって一直線に襲いかかったのは、黒い輝き。

それは、祐一の両手に突き刺さっていた二本の釘だ。
彼の手を壁へと縫い止めていたはずのそれが、まるで意思を持ったかのように、今シャディードに牙を剥いた。
破壊に十分な強度を持ったそれは、また破壊に十分過ぎるほどの速度で、頚動脈を貫かんと、厚い空気の壁を突き破る。
血に濡れたそれは、最短距離を疾駆し、一瞬のうちに彼の首へと肉薄した。
……が。



「ふん!」



……その直前でしかし、左右の腕にて阻まれる。
力強く握り締められ、それは完全に動きを止めた。
一瞬の出来事だったのだが、シャディードの反応速度は、それ以上に速かったということなのだろう。
血に濡れたそれを、涼しい顔で受け止めている彼には、ダメージを受けている様子は微塵も窺えない。

もしそれが止められていなければ、シャディードを殺すことも可能だったかもしれない。
それだけの強度を持っていたし、速度も持っていた。
だが、それでもそれは叶わなかった……僅かに、届かなかった。
あと数センチの差。
僅かの、けれど絶対の差。
それを超えることは、できなかった。



「先の能力から考えて、そう来るかもしれないとは思っていたが……案の定だったな」

手に持っていた二本の釘を捨てながら、シャディードが笑う。
付着していた血を僅かに散らしながら、音を立てて床を跳ねる釘。
それはころころと床を転がり、遠くへと離れてゆく。
シャディードに届かなかったそれが、さらに遠いところまで。

「生命を支配するというのは、意外に万能なようだな。まぁそれも、くるとわかっていれば、対処は容易いが」

くつくつと、低い笑みが漏れる。
血に濡れた掌を意識してか、手の甲を額にやりながら、彼は表情を変えることなく、視線を祐一へと向ける。
その先には、力なく項垂れた彼の姿があった。
そんな様を見ては、笑みが深くなるのを止められようはずがない。





「で、何だって? お前が一体何に感謝するんだ?」

からかうような声音。
祐一を見下すようにしている彼には、焦りの色はなかった。
あるいは、彼が能力を行使することまで見越して、わざわざ釘で刺したのかもしれない。
思惑通りに事が運んだという表情が、そこにあった。

未だに項垂れている祐一の顔を覗き込もうとしてか、ゆっくりと顔を近づけるシャディード。
絶望がそこにある、と半ば確信しているのだろう。
だが。





「あぁ、感謝するさ……ありがとう、止めてくれて。避けられたらヤバかった。避けずに受け止めてくれたこと(・・・・・・・・・・・・・・) を、感謝するよ、心の底からな」





シャディードの意に反して、覗き込んだ祐一の目は、輝きを失ってはいなかった。
苦悶の色は濃く、蒼白となった顔色を見ても、彼に余裕がないことは明白。
それでもなお、彼は薄っすらと笑みさえ浮かべてみせる。
それはすなわち、まだ彼には希望があるということ。

「俺の能力は、命のないものにしか使えない。けれどそれは同時に、命のないものならば何にでも行使できるということでもある。たとえそれが俺の体から流れ出た血液(・・・・・・・・・・・) であっても、能力の行使に、何ら影響はないんだよ」
「まさか?!」

初めて、シャディードの表情に狼狽が走った。
弾かれるように両手を広げ、睨みつけるように視線を落とす。
真っ赤な血が、まるで手を全て覆い尽くすかのように、べっとりと塗られている。
先と変わらぬはずのそれに、得体の知れない脅威を感じ取る暇もあらばこそ。
その血は効力を発揮した。

唐突に彼を襲ったのは、十本の指が強く手の内側に引っ張られる感覚。
抗うこともできずに、シャディードの両手が強く握りこまれ、そのままの形で固定される。
それは一瞬の出来事だった。
両手を濡らす血が、一瞬蠢いたかと思うと、まるでゴムが縮むかのように、シャディードの両手を引っ張りながら収縮したのだ。
まるで接着剤か何かを使われたかのように、両手が固まってしまっている。

完全に固定された状態の両拳。
シャディードは、思い切り力をこめて、それを開こうとするが、それでもなお全く動かない。
まるで、彼自身の能力が行使されたかのように、それは強く強く接合されてしまっている。

祐一の狙い……それは、シャディードの命を狙っていたわけではなかったのだ。
彼の狙いは、あくまでも両手の封印。
ひいては、彼の能力の封印。

シャディードがそれに気付いた時には、能力が発動してから若干の時間が経過してしまっていた。
それは、思考のために祐一に向けていた注意を散漫なものにしてしまってから、とも言える。
そしてそれだけでも、祐一が動き出すには十分で、またシャディードに隙が生まれるにも十分だった。





「っ……らぁっ!」

搾り出すような声は、己を奮い立たせる気迫の表れ。
同時に響くのは、コンクリートの割れるくぐもった音。
その瞬間に、祐一の両腕は、束縛から解き放たれていた。

壁に接合させられていたはずの右拳が、シャディードへと放たれる。
通常ならば、彼も回避できていただろう攻撃。
けれど、不意の両手の封印に、彼の意識は完全に逸れてしまっており、反応が遅れてしまう。
一瞬後、ほとんど無防備の顎に吸い込まれるように、祐一の右拳が叩き込まれた。

「がっ!」

さながらばね仕掛けのように、鋭く跳ね上がる頭部。
傾ぐ体。
今この瞬間、シャディードは完全に無防備となっていた。

右手に沸き起こる激痛を無視せんとばかりに奥歯を噛み締めると、祐一が左手にエネルギーを集中させる。
ようやく訪れたチャンスなのだ。
たとえ全身が悲鳴を上げていようとも、構ってなどいられない。

一瞬の溜めの後、祐一は左腕を全力で持って振り抜く。
視認できるほどに高められたエネルギーは、彼の強い意志そのもの。
一直線に向かう先は、シャディードの腹部。

凄まじい速度で、祐一の左腕はそこに突き刺さった。
鈍い衝撃音を残し、シャディードの体は後方へと吹っ飛んだ。
防御どころか、何の反応もとれないまま、床へと転がる。

祐一はというと、左手を突き出した状態のまま、痛みを堪えるように立ち尽くしていた。
追撃のチャンスではあるが、これ以上連続で攻撃を行うには、彼の体は痛みすぎている。










「……ぐぅっ」

床に倒れ伏すシャディードへと、射殺さんばかりの視線を向けている祐一。
掌打を放った状態の左手からは、彼の脳に今もなお断続的に痺れるような感触を伝えていた。
それは、確かな手応えの証。
この戦闘が始まってから、初めてと言っていい会心の一打。
それでもなお、祐一の表情には安堵の色は微塵も窺えない。

「……なるほど、生命を与えたのは、流れ出た血の方だったわけだな。そして、俺の両手を封じた、と」

祐一の表情の理由を示すかのように、はっきりとした声が部屋に響く。
言葉には確かな意志があり、力があった。
次いで、ゆっくりと身を起こすシャディード。
そのゆったりとした動きも、ダメージによる緩慢さよりむしろ、余裕の表れではないかと思えるほどに。
何よりも、その表情。
苦痛もあるはずなのに、むしろ先程よりも楽しげな笑みを浮かべていたのだ。

「おまけに……」

厳しい表情を崩さない祐一へと、その視線を向けるシャディード。
完全に接合されていた壁から、今や解き放たれてしまっている両腕。
その手の甲にはしかし、コンクリート片が、幾つか着いたままだった。

「その釘を飛び出させる勢いを利用して、壁をも破砕し、両手を自由にしたということか。なかなかやるじゃないか」

言葉を進めるに連れて、どんどん深くなってゆく笑み。
どこか狂気すら孕んでいると思わせるそれは、見る者に恐怖を抱かせるに足るものだ。

痛みとは違う衝撃に、祐一の表情が厳しさを増す。
完全にしてやられた形なのだが、シャディードはそれを純粋に喜んでいる。
それは、彼からすればあり得ない反応だった。
自身に測れない存在……それに対する恐怖が、祐一の心の中で少しずつ肥大化してゆく。



「あぁ、これだ……こうでなくては、俺がここにいる意味がないんだ」

歓喜に溺れるような表情のまま、シャディードは天を仰ぐ。
哄笑が、静寂の部屋に満たされ、木霊する。
やがて下ろした視線を、自身の自由にならない両の拳へと向け、軽く身を震わせる。
それもまた、感に堪えないといった風情で。



「これで俺は能力を使えない。両手とも満足に動かせない。ダメージのせいで体の動きも鈍い」

血走った目。
剥き出しの犬歯。
闘争本能に支配された獰猛な肉食獣のような殺意。

「だが、まだだ。まだ足りない。この程度じゃ足りないんだよ」

それでいて、同時に瞳の奥には、正視するだけで身も凍るような輝きが宿っている。
野獣のような殺意は、しかし冷静な思考により完全に支配されていた。
相反するはずのそれらが、シャディードの中で、反発せずに共存しているのだ。

「もっと俺を追い詰めてみせろ! 俺を窮地に追い込んでみせろ! お前の全てを見せてみろ!」

強靭という言葉すら温いほどの、激烈なる意志。
狂人にすら思えるほどの、苛烈なる意思。
浅からぬダメージをその身に受け、両手の自由を奪われ、能力を封じられ、それでもなお、この男は揺るがない。



それを真っ向から浴びせられ、気圧されたように表情を引きつらせる祐一。
既にわかっていたこととは言え、圧倒的なまでの力の差に加え、理解を超える思考の持ち主。
それこそ、心が折られてもおかしくはない。

だが、後退しそうな足を、強い意志の力で止め、ぐっとその場を踏みしめる。
それは、決して退かないという彼の意思表示。

祐一の両手は、間断なく激痛を訴え続けている。
溢れ出す血も、止まる気配すら見せていない。
両手に穴が開いているのだ。
このまま放置すれば、失血死は免れない。

だが、今この場において、彼に治療の手段などないのだ。
ここでシャディードを倒し、脱出するまでは、何もできない。

時間はない。
手段もない。
それでも。





「……当然だ。諦めてたまるかよ。俺は、まだ死ぬわけにはいかないんでな」
「そうだ、その目だ。いいぞ……お前は、まだ死んではいないようだな」

まだ、祐一の目には、闘志が備わっている。
勝利への確かな意志が、そこにはある。
心は今なお折れていない。

それを察し、シャディードが満足そうに一つ頷く。
高まるエネルギーをそのままに、彼はゆっくりと足を一歩踏み出す。










と。

「……何の真似だ?」

祐一が、右手を上げて、シャディードに見せつけるようにかざす。
広げた掌の真ん中のどす黒い穴からは、止め処なく血が溢れており、見ていて気持ちのいいものではない。
だが何よりも、その意図が読めない。
問うその言葉に、祐一は凛とした声で答える。

「五分だ」
「何?」

五分という時間……その意味が掴めず、不審げな表情のシャディード。
対する祐一は、鋭い表情のまま、言葉を続ける。

「俺の能力の効果は、五分で切れる」
「……」

訝しげな目を向けるシャディード。
なぜわざわざ自身の能力について、説明を始めるのか……その意図を掴みかねているのだろう。
対する祐一は、やはり表情を変えないまま、あくまでも静かに言葉を口にしてゆく。

「俺は、この能力を、二十四時間以内に五回しか使えない。そして今日、既に四回使用している」
「残りは一回ということか……だが、なぜ今更そんなことを話す?」

自身の能力についての説明を続ける祐一。
それに対して、不快げに問うシャディード。
表情や、その効力、今の祐一のエネルギーの状態などを見るに、それは信じるに足る言葉だ。
それ故に、わからない。
今、この情報を開示することが、彼にどんなメリットをもたらすと言うのか。
そんな疑問に、祐一は簡潔な言葉で返す。





「覚悟さ」
「……ほう」

揺らがない祐一の表情。
それを確認し、シャディードの表情にも納得の色が広がる。
さらに続けられる言葉。

「そう、覚悟だよ。宣言する。俺は、この残された五分と、残り一回の能力で、お前を殺す」
「なるほど、背水の陣か」

自身を追い詰め、奮い立たせ、限界を超える……その覚悟。
祐一の表情が、それを雄弁に物語っている。
ゆっくりと構えを取る両者。
一瞬の静寂。



「教えてやるよ。お前に、死を」
「面白い。その宣言、違えさせてやろう」

最後のやり取りは、互いの意志の確認。
祐一は、五分でシャディードを追い詰めると。
シャディードは、それを挫くと。

宣言と同時に、二人はそれぞれエネルギーを展開し、床を蹴る。
互いに、全身を走る苦痛を無視し、全力でぶつかってゆく。

覚悟は口にした。
あとは、行動で示すだけだ。

拳がぶつかり合い、影が交差する。
戦闘はここにきてなお、激化の様相を呈していた。









 続く












後書き



長らくお待たせしました。

本当に久しぶりの最新話投稿でございます。

色々ありまして(風邪が長引いたり私生活が忙しかったり“ひぐらし”やってたり)、結局三ヶ月近く空いてしまいましたが、とりあえず更新可能な状況になりました。

第二章の完結も間近ですし、何とかペース上げていきたいところなんですが、年末は何かと忙しいですし、そう上手くいかないかも(汗)

新しく書きたい話のネタもあるだけに、何とか書く時間を捻出したいところなんですが。

とりあえず今回はこの辺で。