「さらばだっ!」
渾身の力を込めた攻撃が、祐一に向かって放たれた。
先のそれとは攻守が反転。
シャディードの拳が空気を切り裂いて、一直線に祐一の体へと向かう。
溢れ出すエネルギーは、奔流となって部屋の空気をも焦がす。
それは最早、苛烈と呼ぶことすら生温い。
対象たる祐一はというと、先程の攻撃でほぼ全てのエネルギーを使い果たし、その姿はまるで嵐の中の枯葉のように頼りなく揺れていた。
シャディードから見えはしないものの、既にその目は虚ろで、ほとんど意識を失いつつある状況だ。
失神ではなく、まさに死の一歩手前。
もう棺桶に片足を突っ込んでしまっているような状態。
それ故に、祐一には、もはや攻撃手段はない。
防御も回避も、当然のことながら不可能だ。
もはや、彼にできることは何もない。
シャディードはそう確信した。
自身の拳が祐一を打ち砕くシーン以外に、もうシャディードの頭には何も描けない。
不確定な未来ではなく、確定している結末。
その瞬間は、もう目前だ。
そう、そのはずだった。
だが突如、何の前触れもなく、閃きがまるで稲妻のように彼の脳裏に走った。
何ら思考を経ることなく、一つの不安が顕現する。
祐一の宣言……それが、わずかな棘となって引っかかったのだ。
残り五分の時間。
ここには、何ら不安を感じる要素はない。
その意味も、発言の真意も、既に理解できていた。
五分という時間を意識させ、それが解けた時に生じたシャディードの僅かな心の隙から、先の激突が生まれたのだから。
彼の狙いはもう達成されている。
だが、もう一つの宣言については、そうはいかない。
祐一は、“残り一回の能力”でシャディードを殺すと口にした。
決意の光を、確かにその瞳に宿しながら。
激突の直前の血の放出。
それを見た瞬間に、シャディードの脳裏には、数分前の光景がフラッシュバックした。
両手を封じられたという事実を思えば、それは当然のことだし、その警戒も正しいだろう。
だが、その後は?
祐一の手から放たれた朱色の帯を目にした瞬間に、彼はほとんど反射的に、そこに能力の効果が付与されていると考えてしまった。
決まればまたしてもどこかの自由を奪えるし、決まらなくともエネルギーを集約させる時間を稼ぐことが可能となる、どちらに転んでも問題のない発想。
だからこそ、その結論に到達し、その結末を迎えたがために、彼はそこで思考を止めてしまった。
だが、過去の経緯を利用して、
彼の思考をそこへ誘導すること
こそが、祐一の本当の狙いだったとすれば。
あの血に使用していた、と考えていたその能力が、実は
使用されていなかった
とすれば。
もし、
別の何かに能力を使用している
とすれば。
祐一はまだ、最後のカードを切ってはいないことになる。
だが、警戒の必要なしと判断し、全力で攻撃に移ってしまったシャディードは、もう止まることはできない。
場に出してしまったカードは、回収することなどできない。
もし祐一に隠している手札があるとすれば、立場はまたしても完全に入れ替わってしまうのだ。
確かに、祐一は彼の現在の攻撃に対し、防御や回避の行動を行うことはできないだろう。
それは間違いない。
だが、防御も回避もできないのは、
シャディードも同じなのだ。
シャディードが一方的に有利なのではない。
何しろお互いが無防備な状態なのだ。
どちらの攻撃も、無条件に相手に命中する。
あとは、どちらの攻撃が先に相手に突き刺さるか、だ。
スローモーションのように流れる時間の中。
シャディードの視界に、祐一の左手がゆっくりと入ってくる。
握り締めることもできずに、半分開いたような状態の左手が。
そこには、何も見えてはいけないはずだった。
血に濡れた手の平以外に、見えていいはずがないのだ。
だが、彼の目は捉えた……肌の色とも血の赤とも異なる、黒い輝きを。
闇夜のような漆黒に、彼の目は死の兆候を感じ取ってしまった。
凄まじい衝撃を、シャディードの体が知覚するのとほとんど同時に、何かが潰れるような鈍い音と風を切るような鋭い音が、彼の耳を走り抜けていった。
一気に加速する時間。
胸を何かが貫いていったことを、体を走る激痛よりも早く、彼は理解してしまう。
その理解に偽りがないことは、遅れて空間に迸った鮮血が、雄弁に物語っていた。
数倍にも数十倍にも感じられた一瞬を過ぎて、ようやくシャディードの攻撃が祐一を貫く。
だが、怖ろしいほどの衝撃が胸を貫通したことで衝撃を少なからず殺され、また祐一がそれを生み出した左手に訪れた反動により後方への加速度を得たことにより、さらに衝撃を吸収されてしまったが為に、その威力はかなり落ちてしまっている。
命中した攻撃は、その場で踏ん張ることすら不可能な祐一の体を吹っ飛ばし、さらにそのダメージを軽減させる。
完全に、この一瞬が勝敗を分けた。
「がはっ……」
当のシャディードには、もはや祐一の状態を気にする余裕などなかった。
焼きごてを抉りこまれたような灼熱感と呼吸もできないほどの激痛が、胸から全身へと走り、彼は力なくその場で崩れ落ちる。
冷たい床に顔が叩きつけられたが、その衝撃も温度も、もう彼は知覚することなどできない。
逆流した血が、呼気の代わりに口から吐き出される。
胸部の穴から噴き出す血は、止まる気配など見せない。
激痛すら、しかしすぐに遠のいてゆく。
それと歩調を合わせるように引いてゆく意識の波。
自身の全てを死が包み込んでいくことが、嫌と言うほどに知覚できてしまう。
最後の力を振り絞るように、震えながら彼の顔が後方へと向けられる。
霞みつつあるその目は、しかし壁に突き刺さった黒く細い一本の棒のようなものを捉えた。
この部屋にあって、そういう色と形状をしているものと言えば、一つしかない。
「そう、か……あの、釘、か……」
祐一の両手を穿った黒い釘。
勝負を決めたのは、皮肉にもシャディードが用意したそれだった。
例の宣告も、先の攻防も、全てがこの釘による攻撃をアシストするための行動だったのだ。
祐一は、シャディードをこの釘で貫くために、すなわち彼を無防備な状態へと導く為に、五分の時間と血による陽動、その後の渾身の一撃を利用した。
もっと言えば、それらを全部まとめて捨て駒にしたのだ。
ただ釘を放ったところでシャディードには届かないことは、既に証明済み。
彼を倒すためには、その身を無防備な状態に落とす必要があるが、それも至難。
その実現のためにこそ、祐一は敢えて自分を無防備な状態に落としたのだろう。
渾身の一撃を放った直後ならば、無防備になるのも自然だし、その状況ならシャディードも防御への意識を緩めると踏んで。
五分のタイムリミットが切れる直前の、シャディードの騙しに始まる一連の攻防。
ここにもまた、布石があった。
シャディードの自由を奪った五分という時間。
この時間で祐一がしなければならなかったことは、二つ。
自身を無防備な状態へと導くための渾身の一撃を仕掛けるタイミングを、攻防の中で見出すこと。
そして、その攻撃の直後に発動する決めの一撃のために、落ちていた釘を回収すること。
祐一は、ただそのためだけに、愚直にシャディードに攻撃を繰り返していた。
釘の回収にしても、全力を集約させるにしても、相手に事前に悟られるわけにはいかないからだ。
勝利へと続く細い細い一本の糸を、彼は迫り来るタイムリミットに怯えながら、手繰り寄せようとしていた。
だからこそ、シャディードが体勢を崩した時に、チャンスだと考えたのだ。
もちろん彼のそれが罠である可能性も考えてはいた。
それでもなお特攻したのは、最悪でもその二つの条件をクリアすることができると考えていたからだ。
罠がなければ、そのまま攻撃を続ければいい。
罠があれば、それを敢えて受けることで、床に転がって釘を回収すればいい。
どちらに転んでも良かったのだ。
相応のダメージはあろうが、それでも、勝利への道はそこに存在していたのだから。
相手を罠にかけようとしている人間こそが、一番罠にかかりやすい。
自分の足元を見ていなければ、落とし穴には気付かない。
釘が祐一の両手を穿った瞬間。
シャディードにとって攻撃の終わりであるそれこそが、祐一の勝利への行動の始まりだったのだ。
シャディードのエネルギーが大きく乱れ、どんどん失われてゆく。
噴き出す血の勢いも、少しずつ弱くなってきていた。
迫り来る静寂の瞬間。
生者に等しく訪れるそれが、彼の全身を支配し始める。
抗うことなど出来はしない。
それを知覚し、けれど彼は薄く笑う。
「これ、が……本当の、死……か…………なる、ほど……悪く、ない……」
掠れた声には、しかし満足そうな響きがあった。
静寂が落ちる。
その言葉だけを残し、彼は完全に意識を手放した。
体の震えも止まり、ただ血だけが音もなく床に広がってゆく。
生を感じさせるものは、もう彼の周囲には何一つない。
「悪く、ない、だと……冗、談じゃ、ない……最悪、だ……」
倒れ伏すシャディードから離れた所で倒れていた祐一が、訪れた静寂を破る。
半ば意地のように、そんな悪態をついただけだったが。
全てはそこまで。
気力だけで動いていた彼の体は、その原動力となっていた目的の達成により、あっさりとその動きを止めた。
同時に、彼の意識もまた、そこで闇に沈んだ。
限度を超えた疲労、エネルギーの限界以上の磨耗、度を越した負傷に耐え難い激痛。
それら全てが、祐一から気力も体力も根こそぎ奪っていた。
それでもこちらは、微かに呼吸をしていたが。
激戦の騒音は途絶え、動く者もいなくなった。
恐ろしいほどの静寂が、戦闘の終了を主張する。
これが、S級組織であるアルテマを率いてきた男の、その最期だった。
神へと至る道
第68話 兵どもが夢の跡
「っ!」
小さな携帯が、その身を震わせることによって、持ち主の雪見に着信を知らせる。
一瞬それを取り落としかけるも、すぐにしっかりと両手で持ち直し、もどかしげに着信ボタンを押し、素早く耳に当てた。
未だ満足に動くこともできない舞と茜と留美以外の四人も、固唾を呑んで見守っている。
「もしもし……」
不安に揺れる瞳。
震える声。
電話をかけてきた相手は、彼女のよく知る者。
その内容がどういうものかも理解している。
だからこその不安。
見守る四人の表情も硬い。
「……よかった、勝ったのね」
と、雪見の表情が柔らかいものに変わり、安堵の吐息が零れる。
今の状況で彼らに勝利を知らせる言葉となると、その対象は祐一以外にない。
一瞬だけ、場に穏やかな空気が広がる。
「!……えぇ……えぇ……わかったわ、すぐに行くから」
けれど、雪見の表情はすぐに険しいものに変わる。
無意識に手に力が入ったのか、携帯が軋む音が小さく響いた。
だが、それに頓着する余裕もないのか、厳しい表情のまま通話を切り、ポケットに収める。
「何があったんですか? 雪見さん」
平静を装おうとしてはいるものの、それが失敗してしまっている佐祐理。
声にも表情にも、悲痛の色が滲み出ている。
雪見の表情だけで、状況を理解したのだろう。
「祐一は勝ったみたいだけど、瀕死の重傷だって」
「っ!」
知らされた事実に、思わず息を呑む四人。
だが、相手が相手なのだ。
そういう事態に陥ることは、十分に予想できたこと。
むしろ敗北する可能性の方がずっと高かったくらいなのだ。
勝利することができただけでも良しとすべきだろう。
そして、そういう覚悟があっただけに、その後の反応も早かった。
「わかりました、すぐに迎えに行きましょう。雪見さん、乗ってください」
佐祐理が、
魔女の秘術
を出現させ、雪見を促す。
一瞬だけ彼女の表情が引きつるが、すぐに何でもないように装う。
その左腕は止血だけが施された状態のままであり、今もなお激しい痛苦が蝕み続けているが、それを気力で抑えこむ。
彼女の傷は、すぐにどうこうという類のものではないが、祐一は瀕死なのだ。
死なせまいとする一念でもって、彼女は限界に近い体を叱咤し、行動へ移す。
雪見は小さく頷きながら、箒の後ろに飛び乗る。
言葉を発する間さえ惜しむように、二人を乗せた箒は急上昇を始めた。
爆発的な推進力は、酷使された佐祐理の体を軋ませるが、彼女は奥歯を噛み締めて耐える。
凄まじい勢いで下方へと流れてゆく景色。
それによりかかる圧力。
二人は無言のまま、ただ上方を目指す。
歪む表情は、苦痛によるものばかりではなかった。
「祐一さん!」
「祐一!」
すぐに辿り着いた最上階。
その窓を突き破り、決戦の舞台となった部屋に飛び込んだ二人の視界の先に、二人の男が倒れていた。
未だ熱気の残る部屋は、床といわず壁といわずあちこちがひび割れ、また赤く染まっている。
血の海と表するのがしっくりくるほどに朱に濡れた床に沈む二人からは、まるで生気が感じられない。
その惨状を目の当たりにし、二人の顔色がさっと青に染まった。
すぐに弾かれるように祐一の方へと駆け寄る。
血に濡れることなど構わずに、二人は床に膝を着き、彼の容態を調べる。
そこまで接近して初めて祐一の体から微かなエネルギーが感知できることに気付いた。
それは彼の生存を意味すると同時、死に瀕していることも意味している。
その微弱なエネルギーは、さながら風前の灯のようだ。
「まだ息はあるわ。佐祐理、お願い!」
「はい!」
どこから手をつけていいかもわからない程に全身傷だらけの祐一だが、まずは何よりも出血を止めなければならない。
というよりも、佐祐理の能力では、今の彼には止血くらいしか施せないのだが。
祐一のそれとは違い、佐祐理の治癒能力は然程高くはないのだから。
両手に穿たれた穴をどうにか塞ぎ、他にも目に見える外傷だけを処置し終えると、それ以上できることはないと判断し、二人は祐一を運ぶ準備を始める。
とはいえ、内臓の損傷や各部の骨折等を考慮すれば、今の祐一は動かすことさえも危険だ。
だが、雪見の能力を用いれば、その問題を最小限に抑えることが可能となる。
素早く能力を発動し、なるべく刺激を与えないようにその中へ移す。
「とにかく早く医者に診せないとダメね」
「あの人に連絡を取らないと……」
「大丈夫、もう連絡済みらしいわ」
来た時と同様に、佐祐理が箒を創り出し、二人はそれで下を目指す。
電話で聞いていたこととはいえ、祐一の容態は非常に深刻だ。
それこそ、今こうしているうちにも限界を迎えるかもしれない。
今、二人にできることは、彼を診ることのできる人間の下へ急ぐことのみだ。
祐一には、自身を治療する術はない。
それ故に、こうした大きな戦闘の際には、彼らは常に信頼できる医者に連絡を取ることにしていた。
祐一が重傷を負った時に、その対処が可能なように。
今回もまたその例に漏れず、既に連絡は済んでいた。
素早く下降すると、既に他のメンバーが保護機関の人間から車を借りて待っていた。
動けない四人も既に寝かせられており、すぐに出発できる状態だ。
彼女達もまた、実際に見ずとも祐一の容態が深刻であることは理解していた。
だからこそ、その行動も素早い。
乗っている者達の焦りを示すかのように、メンバー全員が乗った車が砂埃を巻き上げて走り出す。
勢いよく飛び出したそれは、荒れた路面を気にも留めずに、見送る保護機関の人間の視界から消えていった。
土煙を上げながら走る車を、高台から見下ろす六つの人影があった。
それぞれに、声もなく、ただ無感情に、走り去ってゆく車を眺めている。
不意に、先頭に立つ女性の目が、微笑むように細められた。
「……どうやら、急ぐ必要はなかったようですね」
微かに安堵が滲む声音。
表情もまた穏やかなもので、そこだけ見れば何でもない立ち姿だ。
纏う服のあちこちに滲む返り血の赤さえなければ。
「しかし、まさか彼らにあの男を殺すことができるとは……」
唸るような声が、別の人間の口から発せられる。
口元に手をやりつつ、彼はそこで考えに沈むように軽く俯く。
「リーダー、やはりこのまま放置しておくのは……」
「そうもいきません。気持ちはわかりますが」
固い声で発せられる言葉を、リーダーと呼ばれた女性――マリアが遮る。
僅かに苦笑しているところを見ると、彼女もあるいは同じことを考えていたのかもしれない。
すなわち、今のうちに亡き者にしておいた方がいいのではないか、と。
「リーブラ、あなたは何も言わないんですね」
「あん? 当たり前だろ。死にかけてるヤツと戦ったって面白くもなんともねぇ」
軽い笑みを浮かべながら車を見送るリーブラ。
だが、全身が赤く染まっているが故に、その笑顔は不釣合いに見える。
無傷ではないものの、それでも彼を彩る血のほとんどは戦った相手のものだ。
それでもなお楽しげに笑うことができるのだから、それが却って怖ろしい。
マリアは、そんなリーブラの様子に一瞬だけ目をやると、すぐに視線を元に戻した。
疾走し続ける車は、もう視界から消えようとしている。
彼女に動く気配はない。
「あるいは、いずれは葬らなければならなくなるかもしれませんが、当分は問題ないでしょう」
「……了解」
マリアの言葉に、他の面々からの反論は一切なかった。
祐一達がシャディードを殺すことが出来たことは、彼らにとって確かに驚くに値することだった。
実力ではまだ及ばない相手だったはずだが、それでもこうして生き残ったのだから、その力は認めるべきである。
その意味での危機感が皆無というわけではないが、まだ手を出すべき時ではないこともまた事実。
もっとも、生命のドミネーターを殺すという決断を、果たして保護機関の上層部が下せるかどうかはわからないが。
「まぁ、彼らのことは後で考えるとして、まずは今回の事後処理を終えないといけません。急ぎましょう」
「了解しました」
マリアが歩き出すと同時に、他の五人もその後に続く。
向かうのはもちろん、眼下にそびえるアルテマの拠点。
こちらの被害状況やアルテマの構成員の把握、シャディードを始めとする能力者達の死も確認しなければならない。
やることは山のようにあるのだ。
「……さて、どうなるでしょうね?」
「リーダー、何か仰いましたか?」
「いいえ、何でもありませんよ」
不思議そうな表情で尋ねるアリエスに返事をしながら、マリアは内心で未来の光景を思い描いていた。
あるいは将来、祐一達と衝突する時が訪れるかもしれない。
もちろん、そんな日が来ない可能性も十分にある。
だが、どちらに転ぶにせよ、保護機関の彼らとの関係は、彼らが死ぬまで続くことになるのは間違いない。
あらゆる可能性が、心の中に浮かんでは消えてゆく。
そうした未来に不安がないわけではなくとも、その光景を想像することは、そう気分が悪いものでもない。
ヴァルゴとしては、戦わずに済んだ方がいいと考える。
彼らには確かな利用価値があり、それが最も合理的であるからだ。
だが、マリアという個人としては……
能力者としての純粋な興味。
強者としての性。
彼女の中にも、それらは当然ある。
私心は捨てなければならないと理解していても、想像することは止められない。
知らず、その顔には笑みが浮かんでいた。
だが、そんな息抜きに等しい時間は僅かな間だけだった。
すぐに目的とする場所に到達し、そこで意識を切り替える。
部下の報告を聞く時には、もうその表情は保護機関の重鎮のそれに戻っていた。
アルテマの拠点から遠く離れたとある街。
地方の小都市といった風情の、どこか背伸びしたような賑わいを見せる街道の一角に小さな診療所が建っていた。
街の風景に溶け込んだその佇まいからも、多くの人々に信頼されている医療機関であることがわかるが、この日は朝から休診日の札が下がっている。
大勢の負傷者を乗せた祐一達の車が一直線に向かったのは、この診療所だった。
そして今、この診療所の一つしかない診察室は、祐一達が独占する形となっている。
また、そのためにこそ、この日は休診となっていたのだ。
この診療所こそが、彼らの懇意にしている医師のいる場所である。
決して小さくはないこの診療所を切り盛りしているのは、現在厳しい表情で祐一達の負傷を診ている二人の男女。
男の方は、年の頃は三十前後だろうか。
短く切られた黒髪は、あまり櫛が通されていないのか、少しばかり乱れているように見える。
おそらく、手入れが面倒だからこその髪型。
顎には無精ひげが目立つところからも、自分の身なりには然程頓着しな人間であることが窺える。
かなり度がきついらしい眼鏡の奥の目は、常に眼前を睨みつけているかのようだが、これは元々そういう目つきをしているだけなのだろう。
鋭く細められた目は真剣そのもの。
近寄りがたくはあっても、その眼差しは仕事のできる男のそれだ。
そんな男とは対照的に、女の方は柔和な雰囲気を纏っており、その相貌を描く曲線も優しさを感じさせる造りをしていた。
だが、その表情も現在は厳しく引き締められており、無駄のない動きで素早く治療に当たっている。
二人と祐一達は、過去に仕事の都合でやり取りをして以来の関係で、個人的な付き合いも持っており、その縁もあって、ここは祐一が負傷した時の駆け込み場所となっていた。
そうできるほどに、祐一達は二人を信頼していた。
医師としても、人間としても。
医療機器を揃えて準備万端といった体勢で待っていた二人だったが、担ぎこまれたメンバーの状態……特に祐一の姿を見た瞬間に、その表情は一変した。
すぐに祐一達重傷者は奥に運ばれ、診察が始まった。
沈黙を保ったまま、祐一達の負傷の度合いを調べている二人と、それをガラス越しに不安げに見ている軽傷だった面々。
しばらく続いたそんな時間は、説明の為にと診察室へ戻ってきた二人によって破られた。
二人が席に着く時間さえ惜しむように、雪見が縋るような目で二人に詰め寄る。
「大丈夫ですよね?」
「そうだな……まぁ今はまだ正確な回答とはいかないが、祐一以外は少なくとも命の危険はないだろう」
「……え? じゃあ祐一は?」
「かなり厳しいと言わざるを得ないな」
一瞬安堵しかけるも、すぐに聞き直した雪見に、はっきりと危険を告げる男。
まさに歯に衣着せぬ物言いだ。
呆然とする面々に目を向けたまま席に着き、彼は話を続ける。
「骨折の修復だけでもどれだけかかるかわからんし、出血によるショック症状も心配しなきゃならん。開けてみるまでは断言できんが、臓器も無傷ではなさそうだ。全身余すところなくぼろぼろ。正直よく生きてると思うね」
「そんな……」
言外に、いつ死んでもおかしくないと伝えられては、さすがの雪見も二の句を告げない。
黙ったままの他の面々の表情にも、悲痛の色が滲む。
そんな変化を見て取ったのか、男は小さく咳を一つ。
「心配するな、それを何とかするのが俺の仕事だ。それより嬢ちゃん達は自分の怪我の方を心配してろ。おい、ミレナリー」
「言われなくてもわかってるわよ、ルーヴル。さ、あなた達はこっちで私が診るわ」
立ち上がりながら女――ミレナリーが、雪見達の方へ向き直る。
そこまで重傷ではないにしろ、詩子や澪は治療の必要がある負傷者だ。
そして同時に、人手が足りないこともあり、無傷の雪見達の手を借りたいという考えもあった。
当然だが、それに異を唱える者はいない。
全員が診察室の方へ移動し、二人もそれに続く。
そして、祐一の方へと向かおうとするルーヴルの背に、ミレナリーが声をかける。
「ちゃんと治してあげなさいよね」
「お前の方こそ。傷跡が残るような間抜けなことはするなよ」
「あら、祐一君が治ったら、その心配は無用でしょ」
「あぁそういうことか。やれやれ……こりゃ責任重大だな」
がしがしと頭をかきながらぼやくも、彼の表情に気負ったところは全く感じられない。
そして一度だけ不敵に笑みを作って見せると、彼は治療へと向かう。
同時にミレナリーも部屋へと歩を進める。
そうして再び、屋内は静寂に包まれた。
「……長いね」
待合室の椅子に腰掛けて、窓の外へ視線を向けている詩子が呟く。
ささやきにも等しいその小さな声が、静まり返った室内に染み入る。
既に外の風景は闇色に染まり、たまに眼下の道路を通りかかる車以外には、人の気配を感じさせるものはない。
詩子は、それらに目を向けたまま、動く様子も見せない。
その全身には、至る所に真新しい包帯が丁寧に巻かれており、治療は一先ず終わったようだが、休息を要する状態であることは一目瞭然だ。
それでも彼女はそこから動こうとしないし、周りの者達も何も言わない。
同じくあちこちに包帯を巻いている澪は、少し離れた席に座り、スケッチブックを膝の上に置いたままじっとしている。
時折時計を見上げては小さく溜息をつき、また膝の上に視線を落とす。
その繰り返し。
みさきと雪見も、沈黙を保ったまま、少しずつ離れて椅子に座っていた。
二人は負傷こそないものの、能力の長時間使用などで疲労はかなり蓄積しているという点では他の面々と同じだ。
けれど共に、休もうという動きはない。
何かを待つように、じっと座ったままでいる。
詩子の呟きも、この重い沈黙を払うことはできない。
元より彼女自身、それを期待して口を開いたわけではないのだろう。
返事がないことを特に気にした風もなく、視線も固定したまま動かそうとしない。
激戦の疲労や全身の負傷に加えて、待つだけの時間を強いられている現状とあっては、普段の快活さが見られないのも当然かもしれないが。
時計の針が刻む規則的な音が、やけに大きく響き渡っている。
それがなければ、それこそ時が止まったかのように錯覚してしまいかねないほどに、ここは静かだった。
「……遅くなりました」
それからもしばらく続いていた静寂を破る凛とした声。
音も立てずにすっと開いたドアから、一人の少女が顔を覗かせると同時に、ひんやりとした空気が部屋に流れ込み、四人は揃って顔を上げる。
彼女達の視界の中、闇を背景に立つその少女は、別行動を取っていた美汐だった。
彼女はゆっくりとした足取りで部屋に入ると、後ろ手に扉を閉める。
常と変わらぬ落ち着いた所作。
だがその左手には、彼女の身長程もある白い布に包まれた何かが収められており、それがどこか異様な雰囲気を醸し出している。
「あ、美汐ちゃん。遅くまでご苦労様」
「いえ、神器を回収していただけですから。皆さんもご無事のようで何よりです。それで……」
みさきの労いの言葉に対して、軽く首を横に振って返しながら、一直線に雪見の元へ向かう美汐。
彼女の手の中の物――神器に目を留めた雪見は、能力を展開する。
「皆さんご無事のようで何よりです。それで……」
開かれた空間の中に神器を収めながら、視線を奥の方へと向ける美汐。
その先は言葉にするまでもなかった。
この状況で気にすることと言えば、一つしかないからだ。
神器が収められたことを確認してから、雪見もまた彼女と同じ方向に目をやる。
「舞と茜、留美は、もう治療は終わったわ。麻酔も残ってるし疲労も激しいから、まだ眠ってるはずよ。完治までかなり時間がかかるらしいけど、とりあえず問題はないみたい」
「佐祐理ちゃんはまだ手術中だよ。ただこっちは、命の危険はないけど、完治は難しいだろうって」
「潰された左腕のことですね……やはりそうでしたか」
眉を顰めながら微かに俯く美汐。
既に雪見達は、ミレナリーから祐一を除く重傷者の容態について説明を受けていた。
その中で、佐祐理の腕が現代の医学では修復不可能だということも言われていたのだ。
想像はしていたことだったが、現実として伝えられればショックを受けずにはおれない。
だが、これは祐一の能力ならば解決可能な問題だ。
顔を上げる美汐。
「では、祐一さんは?」
『まだ治療の最中なの』
沈んだ表情の澪。
彼女が示した言葉を見て、ふと時計へ目をやる美汐。
その表情に、やや厳しいものが混じる。
舞、茜、留美の三人の治療が終わるだけの時間が経ってなお、祐一の手術は終わっていない。
その事実が、彼の容態が如何に深刻であるかを、何よりも雄弁に物語っている。
美汐の変化につられてか、またしても深い沈黙と重い雰囲気に沈む四人。
待つだけの時間というのは、実際以上に長く感じられるものだ。
それが不安と心配を募らせるものであるから尚更である。
黙って空いている席に腰を下ろす美汐。
彼女の表情にも疲労の色が濃いのだが、休まずに待つつもりらしい。
再び、時計の針の刻む音が支配する時間が訪れ、夜は更けていった。
それからさらに時が進み、もう外を走る車さえ見られなくなった頃に、診療室の方の扉が開いた。
はっと顔を上げた全員の表情が、緊張に固まる。
部屋から出てきたのはミレナリー。
ずっと治療し続けているのだから疲労もあるだろうに、そんな様子を微塵も見せることなく、彼女は五人の方へ歩み寄ってくる。
「左腕も含めて、今できることは全部終わったわ。感染症の心配はしなくちゃいけないけど、とにかく後はゆっくり休ませるだけ」
「そうですか。良かった……」
「えぇ、彼女はね。ただ……」
診療所の奥へ視線を向けるミレナリー。
彼女が出てきた部屋ではなく、もう一つの部屋。
その入り口の上部にある手術中のランプは、まだ点いたままだ。
彼女が何を言いたいのかを察し、五人もまた視線を同じ方向へ向ける。
「祐ちゃんは、大丈夫なんですか?」
「……かなりひどいらしいわ。今から私も手伝いに行くけど、まだ大分かかると思う」
微かに表情を曇らせるミレナリー。
みさきの問いかけに答えながらも、その視線は手術室に固定されたままだ。
閉め切られた扉の向こうでは、今もルーヴルが治療を続けているのだろう。
急がなければならない。
と、そこで彼女が五人の方へと振り返る。
「それより、あなた達ももう休みなさい。いくら軽傷でも、疲れてるんでしょう? 無理したらあなた達も倒れるわよ」
「え……でも」
「大丈夫。彼のことなら私達に任せて。今あなた達がやるべきことは、きちんと休息をとることよ。余計な心配を増やしても仕方ないでしょう?」
不安げな表情を崩さない詩子に対し、安心させるように微笑みかけるミレナリー。
それでもなお逡巡していたが、やがて根負けしたように肩の力を抜く。
「……わかりました」
「上の階にベッドがあるから、使ってくれて構わないから。ゆっくり休みなさい」
安堵したように表情を崩すと、ミレナリーはそこで身を翻す。
小さく手を振りながら、彼女は手術室へと姿を消した。
それを見送るようにしていた五人だったが、やがて誰からともなく重い腰を上げる。
あっさりとミレナリーが出て行ったことで、何となく居辛くなったのか、全員が素直に上階への階段を、重い足取りで上り始める。
単に疲労のせいだけでそうなっているのではないことは、それでも手術室に注がれ続けている視線から明らかだ。
素直に動き始めたとはいえ、その表情は納得した者のそれではない。
まさに後ろ髪を引かれる思いなのだろう。
そうして、待合室から完全に人の気配がなくなった。
僅かな月明かりと時計の刻む音を残して、暗闇と静寂に包まれる部屋。
夜明けまでは、まだ遠い。
続く
後書き
長らくお待たせしました、久しぶりの投稿です。
引越した後に業者の放置プレイのためにネット環境が全然整わず、長いことネット断ちを強要されてたわけですが、まぁそれはおいといて(笑)
前回の投稿より約二ヶ月と、本当に長いこと間隔が空いてしまいましたが、何とか最新話をお送りできて一安心といったところです。
とりあえずこれで第二章もほとんど終了ですので、肩の荷が下りたような気分だったりします。
この章も、あとはエピローグ的な話が少しあるだけですので、もうしばらくお付き合い頂ければ幸いです。
それでは今回はこの辺で。