まだ夜も明けやらぬ時刻。
空は未だ完全に闇に包まれており、街もまだ眠りについたままなのだが、診療所の待合室に詩子達の姿があった。
休もうとして上階に向かったものの、落ち着いて眠ることもできず、また戻ってきてしまったのだ。
一人が階下へ向かえば他の者達もそれに倣い、結局は元通り。
それからは、会話もなくただじっと待つだけの時間が流れている。
俯いたまま微動だにしない彼女達は、完全に闇に溶け込んでしまっていた。
微かに聞こえる呼吸音がなければ、存在に気付くことができないと思えるほどに。
時計の針が刻む音さえ耳に痛い静寂。
ふと、遠くから微かな音が聞こえてくる。
少しずつ近づいてくるそれは、誰もが聞き慣れた音だ。
彫像のように動かなかった彼女達が僅かに身動ぎする。
どうやらこの診療所前の道路を、車が通過しようとしているらしい。
軽快なエンジン音だけを残して、車はあっという間に走り去る。
再び、静けさが戻った。
「……長いね」
ゆっくりと顔を上げ、腕時計に目をやる詩子。
ぼんやりと発光するその針が示す時刻を見て、知らず眉根を寄せる。
普段は快活なその声音も、今はこの周囲の闇のように暗い。
もっともそれは、浅からぬ傷を負った彼女の現状とも無関係ではないだろうが。
それが証拠に、彼女の目は腫れぼったくなっており、意思はどうあれ彼女の体が睡眠を欲していることは誰の目にも明らかだ。
そんな状態でも彼女が眠れずにいるのは、まだ全てが終わっていないからに他ならない。
廊下の向こう、この待合室からは見えないが、まだ手術中のランプが灯ったままだ。
既に祐一の治療が始まってから半日以上が経過しているのだが、未だにそれは続いていた。
それはまだ彼が生きている証でもあるが、同時にそれだけ重傷だということの証でもある。
心配は尽きず、だが待つことしかできない……それが負担にならないわけがなかった。
「詩子さん。体に障りますし、少しお休みになっては……」
労わるように、諭すように、美汐が詩子に言う。
全身のあちこちに包帯を巻いている今の彼女の姿は、立派な入院患者のそれだ。
命に関わるものではないとはいえ、無理のできる体ではない。
眠れないと言うのならば、佐祐理のように、睡眠薬を飲んででも休むべきだろう。
「ん……わかってるけどね。でもほら、やっぱり治療が終わってからがいいかな」
そんな正論に返ってきたのは、小さな苦笑。
詩子も、もちろん今の自分の体のことは理解しているし、美汐の言う通り休んだ方がいいと思ってもいる。
ここで無理をして治りが遅くなれば、他のメンバーに迷惑をかけることにもなるのだから。
だが、心配と不安を抱えたまま休む気にはどうしてもなれないのだ。
眠るのならば、結果を知ってからにしたかった。
「ホント、言い出したら聞かないんだから」
そんな詩子の心を理解して、雪見は呆れたように小さく肩を竦める。
とは言え、その表情には非難の色は微塵も窺えない。
彼女もまた、大事な仲間の容態がわからないような状況で、眠る気になれないことはよくわかっている。
同じ状況なら、きっと彼女もそうするだろう、理性では休むべきだと理解していても。
それがわかるからこそ、無理やり寝床に放り込むこともできず、ただ苦笑を浮かべる他なかった。
『……』
そっと詩子の腕に触れる澪。
如何に長時間闇の中にいて多少慣れてきていても、とても字の読み書きができる環境ではなく、結果彼女は誰かに何かを伝える言葉を持たない状況にある。
けれど、微かに窺える表情と、触れられた部位に伝わってくる感覚が、詩子に彼女の思いをしっかりと伝えていた。
「うん、無理はしないよ。本当にだめだと思ったら休むから。だから大丈夫」
詩子は、そっと澪の手に自分のそれを重ねた。
暗闇の中でも、互いに微かな笑みを浮かべていることがわかる。
そんなやり取りは、部屋の空気を僅かでも和らげてくれる効果があったらしい。
それからもしばらく沈黙は続いたが、先程までの重苦しさはなくなっていた。
緩慢な時の中、ただ静かに待ち続ける五人。
それでも時間は等しく流れており、ゆっくりと夜明けが近づいてくる。
鳥の声が微かに響く。
まるで潮が引くように、ゆっくりと空から闇が薄れてゆく。
待合室の窓から見える光景に、朝が近づいていることを実感できる。
人によっては、もう目覚めて活動を始めていることもあるだろう。
暗かった室内も、次第に色を取り戻しつつあった。
黒から青へと変わってゆく色彩。
窓の向こうでは、もう空が白み始めている。
「……そういえば、保護機関の人、何か言ってなかった?」
色と音が戻ってきたことが切っ掛けになったのか、みさきが美汐に向かって口を開いた。
突然、何の脈絡もなく思い出したことを口にしたといった風な言葉だったが、それは本来彼女達にとって大きな意味を持つ疑問でもある。
だからこそ、美汐も一瞬だけ目を見開くも、すぐに居住まいを正して彼女に向き直った。
「今回の件に関しては特に何も。本拠地へ向かっていた方々も無事のようでしたし、概ね成功に終わったということなのでしょう」
「そっか、よかった」
「じゃあ、約束の方も守ってもらえると考えていいのかしら」
口を挟む雪見。
彼女の脳裏に過ぎるのは、この戦いに参戦する際に自分達が提示した条件だ。
その問いに対して、美汐は頷くことで答えた。
保護機関の重鎮でもあるマリアの言である以上、余程の事がない限りこれが不履行となることはないと考えていいだろう。
雪見のみならず他のメンバーも、一つ肩の荷が下りたといった感じに安堵の息をつく。
「あとは祐一だけだね……」
アルテマは崩壊し、彼らが所有していた神器は手に入れた。
保護機関との協力の約束も果たされると考えていい。
メンバーのうち、九人まではひとまず治療が終わっている。
詩子が口にしたように、残る懸念はたった一つだ。
その言葉につられて、全員が揃って視線を扉へと向ける。
すると、まるでそれを待っていたかのように、ゆっくりとそれが開けられた。
全員の表情に緊張が走る。
開いてゆく扉の向こう、まだ薄暗い廊下から現れたのは、ルーヴルの疲れ切った表情。
「終わったぞ」
ぶっきらぼうにそれだけを口にすると、彼は倒れこむようにソファに腰を下ろした。
頑健な彼ではあるが、さすがにこれだけの時間の手術ともなれば、限界が来ても仕方はないだろう。
固唾を飲んで次の言葉を待つ五人。
「休むようにって言ったのに……仕方のない子達ね」
僅かばかり呆れを滲ませたミレナリーの声が、続いて室内に入ってきた。
疲労はあるだろうに、それを感じさせない所作はさすがの一言である。
苦笑交じりに五人の顔を見回し、小さく肩を竦める彼女だが、そのどこか余裕すら窺える様子に、五人は色めき立つ。
「祐一は大丈夫なんですか?」
半ば確信しつつも、それが事実であるとはっきり伝えてほしい、と言外に滲ませたような雪見の問いかけ。
それに対して、ミレナリーは力強く頷いて返す。
「えぇ。まだ油断はできないけど、とりあえず危険な状態からは脱したわ」
「しかし、よくもまぁここまで痛めつけられたもんだよ。どんな化け物とやりあったんだ? まったく」
体中の筋肉が弛緩したかのように自分の体をソファに沈めたまま、ルーヴルが深く重く息を吐き出す。
愚痴を零すような口調とは裏腹に、その口元には隠しきれない笑みの気配がある。
達成感を伴う疲労は、どこか心地よいものだ。
満足げな彼の表情も、そのためなのだろう。
そこでようやく、五人も表情を崩し、安堵の色を露にした。
「治るまでにはどれくらいかかるんですか?」
緩みかけた空気を、しかしみさきが再び引き締めるように、はっきりとした声で問いかけた。
危険な状態を脱したとは言うものの、重体である事実は動かない。
詳細を聞いておく必要はあるのだ。
「あいつの生命力なら、まぁ完治まで三ヶ月ってところだろうな」
聞かれずとも言う気でいたらしく、ルーヴルは考える間さえ置かず、すぐに答えを返した。
むしろその返答を聞いた五人の方が声を詰まらせている。
まさに絶句状態の面々。
通常、能力者は常人に比べ生命力が遥かに強く、自然と負傷や疾病の快癒も早い。
自らの生命エネルギーを増強し有効に活用する術に長けているからこその特徴だ。
当然、その効果は使い手がハイレベルになればなるほど大きなものとなる。
祐一達のそれも、もちろん常人とは比較にもならない。
そこにきての、全治三ヶ月という診断だ。
もう少しでも彼の能力者としてのレベルが低ければ、それこそとっくに葬式の手配も済んでしまっているところだろう。
想像するだに背筋が凍るような話だ。
「傷自体も相当だがな、それ以上に生命エネルギーが極端に減ってるのが痛い。明らかに体の耐久限界を超えてやがる。相当な無茶をやらかしたんだろう」
言葉を失ってしまっている五人へ、ルーヴルがさらに説明を続ける。
すなわち、祐一の今の状況は、全て彼自身が招いたことだと。
負傷の度合いもさることながら、限界以上に体を酷使しエネルギーを浪費したことが大きい。
本来ならば自身の治癒に回すべきエネルギーすらないのだ。
正しく生命維持に手一杯な状態なのだと言えよう。
当然のことだが、普通はそこまでしないものだし、そもそもやろうと思ってできることでもない。
説明するルーヴルの声には、どこかそんなことをやった祐一への呆れの色が滲んでいた。
「とにかくそんなわけだから、まだ安心できる状態とは言えないの。感染症の心配もあるし、当分は面会謝絶ということになるわね」
「わかりました。どうか祐一さんをよろしくお願いします」
柔らかい表情で丁寧に頭を下げる美汐。
とにかく、現状はこれ以上望むべくもない結果になったのだ。
まだ油断はできなくとも、とにかく全ての懸念事項にひとまずの決着はついている。
安堵の笑みを浮かべるのも至極当然だろう。
「心配すんな、あいつはしっかり治してやるさ」
「えぇ、私達を信じて。それより、貴方達も休みなさい。もう安心して眠れるでしょう?」
どこか軽い調子の言葉が飛び出すのも、また問題解決の証だろう。
ミレナリーに言われて初めて気付いたかのように、詩子が欠伸をしてみせた。
「そうだね、安心したら何だか眠くなってきちゃったよ」
半ばポーズではなく本当に疲労が顕在化したように、彼女の瞼が下がる。
他の四人も似たり寄ったりの状態だ。
詩子の言葉通り、安堵と同時に緊張の糸が切れ、疲労が一気に押し寄せてきているのだろう。
少しばかり頼りない足取りで上階に向かう五人。
それを見送る二人。
数時間前の後ろ髪を引かれるような足取りではない。
今度こそ、ゆっくりと眠りにつくことができるだろう。
外はもう朝を迎えている。
窓の向こうから射し込み始めた眩い光に、ルーヴルは目を細めた。
今日もまた、暑い一日になるだろうことを思いながら。
神へと至る道
第69話 明日への扉
所変わって水瀬寮では、この日も激しい修行の光景が展開されていた。
広い庭先の中心に立つ真琴を、浩平達が囲む形になっている。
現在真琴の指南を受けているのは四人。
残りの者はそれを遠巻きに見ている様子。
かなり長時間トレーニングが続いていることが、四人の姿から容易に見て取れる。
肩でしている呼吸は乱れていて、疲労が脚にきているのか立つ姿勢すら安定しない。
体の各部は小刻みに震えており、そのことが重ねてきた鍛錬の厳しさを物語っていた。
長く艶やかな黒髪を背中でまとめている真琴が涼しい表情でいるのに比べると、その差は更に際立って見える。
双方動かない時間がしばらく続く。
だが膠着状態に意味はなく、それを続ける意思は誰にもなかった。
攻めに転じる切っ掛けを与えようとしてか、真琴がその場を一歩踏み出す。
瞬間、弾かれるように、彼女の右方にいた香里が飛び出した。
体のあちこちから上げる悲鳴は気力で封じ込め、拳にエネルギーを集約させる。
反応速度、エネルギーの集約度とも、数ヶ月前とは比べ物にならないものだ……が、相手が悪い。
矢のように空気を切り裂くその拳を、真琴は最小限の体捌きで回避。
ただ彼女の前髪を舞わせるに止まった。
攻撃直後で隙だらけの香里。
しかしそんな彼女には一瞥もくれないまま、真琴は後方へ飛び退いた。
そこに訪れる第二撃は、僅かの時間差で左方から飛び込んできていた浩平の拳。
咄嗟の連携攻撃でさえ、掠ることすら叶わない。
そのことに二人の表情が変わるより早く、真琴の後方に位置していた北川が、自分に向かってくる背中に対して拳を突き出す。
それでも、全て予測済みだと言わんばかりに、横っ飛びに回避される。
一連の動き全てが一切淀みなく滑らかで、付け入る隙など微塵も窺えない。
背後から、しかも彼女が飛び退いた直後を狙ったにも関わらず、攻撃が空を切るのみだった北川の表情に焦りの色が浮かぶ。
小さく舌打ちをする北川。
真琴はやはり北川の方に背を向けたまま、破れかぶれに突っ込んできた住井の攻撃をいなしていた。
そこに突っ込んでいっても、また同じことの繰り返しになるだろう。
誰もがそれを理解している。
それでも浩平や香里は、追撃に入ろうと構えをとっていた。
二人には、他に選択肢がないからだ。
だが、北川は違う。
無意識の動作だった。
彼の手が、自身の腰に手を伸ばす。
黒光りする銃身……それに彼の手が触れるか触れないかというところで。
「何度言ったらわかるのっ!」
厳しい怒声が耳に、怒りの表情が目に入ったのは、ほとんど同時だった。
何が起こったかもわからず広報に吹っ飛ばされる北川。
三人に相対していたはずの真琴が、瞬時に移動し、彼の体に一撃見舞っていたのだ。
彼の脳がそれを知覚したのは、叩きつけられるように地面に転がってからのこと。
一瞬だけ呆けた表情を浮かべるも、すぐにそれは苦悶へと変わる。
表情が変わったのは、しかし彼だけではない。
拳を握り締めていた浩平達もまた、その場で立ち尽くしたまま、闘志を前面に出した表情から苦渋のそれに変わっていた。
「っつー……」
数秒後、北川が打撃を受けた箇所を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
相当堪えたらしく、脚ががくがくと震えている。
そんな彼の姿を見ている真琴はというと、腕を組んだまま厳しい表情。
顔を上げてその目にぶつかった北川は、一瞬で固まった。
体の震えさえも硬直させるほどのプレッシャー。
そんな彼に追い討ちをかけるように、真琴が口を開く。
「能力の使用は禁止ってあれほど言ったでしょ!」
「ご、ごめんなさい、つい……」
雷が落ちたかのような叱責に小さくなる北川。
鋭い視線と厳しい声に、ただただ平謝りだ。
それでも彼女は追撃を緩めない。
「まったく、何のためにこんなトレーニングやってると思ってるのよ。いい加減学習しなさい」
謝り続ける北川と、容赦なく言葉で追い討ちをかける真琴。
そんな二人から少し離れた場所に立つ浩平達はというと、天を仰ぐようにして目を閉じている。
まるで自分が失敗して、それを嘆いているかのようにも見えるが、当たらずとも遠からず。
何しろ、この北川のミスに対するペナルティーは、連帯責任で二人のも課せられるのだから。
真琴が水瀬寮に来て浩平達に指導することが決まってから、まず彼女が命じたことは、能力を封印することだった。
と言っても、永続的にではない。
あくまでも真琴がいいと判断するまでの期間である。
秋子にも指摘されていたように、浩平達には、何かあればすぐに能力でどうにかしようという癖がついていた。
これは学園の教育方針にも原因があるわけだが、どうあれ好ましいものではない。
自分の手の内を簡単に見せてしまうなど、本来忌避すべきことなのだ。
これから先、彼らが能力者として生きていこうとするならば、この癖は矯正しなければならない。
その為には、差し当たり二つの事柄の達成が要求される。
一つは意識改革で、もう一つは基礎体力の向上だ。
染み付いてしまった悪癖を押さえ込もうと思えば、当然強い意志の力が必要になる。
また、能力を行使せずとも状況を打破できるようになるには、当然のことながら身体能力の向上が不可欠。
だからこそ、真琴はこの二点のみに絞ってスケジュールを立てたのだ。
トレーニングが始まってからの二ヶ月間、彼女はここを徹底的に基礎修行の期間とした。
筋力や持久力、生命エネルギーの総量を増やすトレーニングと、それをコントロールするためのトレーニングだけを、来る日も来る日も続けさせたのである。
言葉にすれば簡単だが、その内容は熾烈を極め、およそ情けや容赦と呼べるものなど微塵も窺えない徹底されたものだった。
当然、最初は満足に日々のノルマを達成することもできなかった。
途中で倒れることも少なくなかったし、毎日が限界との戦いだったのだ。
朝起きては、悲鳴を上げる体に鞭を打って課題に取り組み、夜には泥のようにベッドに沈む。
こんな毎日が続き、何度も挫けかけ、それでも一日一日を乗り越えていくうちに、気力に体力が追いつくようになっていった。
そして今、修行は次の段階に入っている。
もちろん基本のトレーニングは毎日こなしているが、それに加えて一歩進んだ内容のものも行っているのだ。
それは、身体能力だけで真琴に一撃を入れるというもの。
あくまでも真琴は回避にのみ徹し、一切手を出すことはないという条件。
加えて一対一ではなく、浩平達は数人がかりで攻めるという形になっているのだが、今日に至るまでこの課題が達成されたことはなかった。
そもそも、身体能力やエネルギーの質、量、その全てにおいて遥かに及ばない現状を思えば、それも当然とは言えるだろうが。
浩平達は必死に真琴を追うのだが、本当に攻撃が掠りもしないのだ。
もちろんこのトレーニングを繰り返すことで、浩平達は大きく成長しているのは間違いない。
最初はがむしゃらに突っ込むことしかできなかったのだが、今ではコンビネーションを交えた連携攻撃も自然に繰り出せるようになったし、突発的な状況の変化への対応もスムーズになってきた。
状況を的確に判断し、正確に分析し、そしてどう動くかを決断することが、自然に、そして素早く行えるようになってきている。
それでも、幾ら素養があろうと、僅か数ヶ月で世界有数の能力者に比肩できるだけの力を手に入れられるわけもなく、現状は厳しいままだった。
攻撃の全ては空を切り、行動を予測すれば悉く裏切られ、真琴の表情一つ変えることができない。
北川が焦って能力を行使したくなるのも無理はないだろう。
彼の場合、特に能力が優れていて、また遠距離からの攻撃が可能ということもあり、その誘惑を断ち切るのは容易ではない。
だからこそ矯正の必要があるとも言えるのだが。
そしてその結果。
「それじゃペナルティーね。腕立て腹筋各五百回。もちろん連帯責任よ」
「はぁ……」
「くそ、恨むぞ北川」
「わりぃ」
涼しい顔の真琴に対し、言われた三人の表情は目に見えて強張る。
それでも素直に庭の隅の方へ移動し、すぐに腕立てを開始した。
慣れを感じさせる一連の動きに、前途はまだまだ多難だと考えずにはおれない。
小さく肩を竦めてから、真琴は三人から視線を外し、それを別の方向へと向ける。
「それじゃ、少し早いけど、今度は真希ちゃんと名雪ちゃんと住井くんね」
「え、も、もうですか?」
「さっき終わったばかりなんですけど」
「体中が痛い……」
突然向けられた言葉に、表情を引きつらせる三人。
こちらもまた、先程ペナルティーを課せられたところだったのだ。
まだ呼吸も整っておらず、見るからに満身創痍といった風情。
それでも真琴はにべもない。
「だめ。言ったでしょ? そんな状態でやるからこそ意味があるの。余裕の状態じゃなくて限界に近い状態でやるからこそ、ね」
容赦も何もない言葉だが、その内容は正しい。
ハンター達が生きる場において、常に万全の状態で戦いに臨めるわけがないからだ。
というよりも、戦闘に際し万全の状態であることの方が少ないと言っていい。
それこそ、疲労のピークで敵に遭遇することだって珍しくはないのだ。
負傷して満足に動けない状況で、それでも戦いに臨まなければならない時もあるだろう。
だからこそ、そうした状況でも動けるようにならなければならない。
最悪の状態でも切り抜けられる術を身につけなければならないのだ。
状況は、決して人を待ってはくれない。
後になってから、やっておけばよかったと悔やんでも遅いのだから。
「ほら、立って立って」
「く……か、体が動かない」
「うー……」
「いたたた……」
渋々立ち上がる三人だが、その動きは油の切れたぜんまい仕掛けの人形のようにぎこちない。
立ち上がるだけの動作でも体に響くのか、その顔には早くも苦悶の色が浮かんでいる。
その有様を見ても眉一つ動かさず、三人を急かす真琴。
「さ、やるわよ。かかってきなさい」
「こ、こうなったらもう開き直りよっ!」
「うん、がんばらないと」
「くそっ、やってやる、やってやるさ!」
半ば自棄になったかのように吼える三人。
気力を振り絞るようにして、構えを取り、真琴に相対した。
きつい課題ではあっても、それを望んだのは他でもない彼ら彼女らなのだ。
逃げるつもりも投げるつもりも毛頭ない。
そんな強い想いがあればこそ、ここまで耐えてこられたし、目を見張るような成長も遂げている。
その様子を目にして、ふと満足げな表情を見せる真琴。
日々成長してゆく姿を確認できるというのは、教える者にとって最高の喜びである。
ましてやその速度が目を見張るほどのものであれば尚更だ。
けれど、足りない。
決定的に足りないのだ。
ハンターとして生きていこうというのならば、このままでいいだろう。
時間はかかるだろうが、彼らには、真琴の目から見ても確かな資質があると断言できる。
磨けば輝きを放つだろう原石だ。
何も焦ることはない。
だが、浩平達は祐一達との再会を望んでいるのだ。
S級賞金首である彼らに会おうと言うのならば、相応の力が求められる。
何より、祐一達自身が浩平達の力を認めない限り、決して対等の立場で会うことなど叶わないだろう。
また、半端な強さで近づいては、危険にさらされるだけだ。
そのためにこそ、今こうして真琴の指導の下、厳しい修行を続けているわけだが、まだまだ遠い。
それは、単純に強さが足りないというだけではない。
単純に身体能力やエネルギーの総量だけで言えば、浩平達がそこまで祐一達に後れを取っているわけではないのだ。
では、何が足りないのか。
そして、それを解決するためには、どうすればいいのか。
厳しい指導者としての表情の裏で、真琴はずっとそのことを考え続けていた。
もっとも、彼女の中では既に結論は出ている。
悩んでいるのは、それを実行するか否か。
浩平達には未来がある。
焦らずに、少しずつ成長を続けていけば、いずれは高みに到達することだろう。
その可能性の芽を、あるいは潰してしまうかもしれない……そんな選択が、今の真琴の中にある。
――さて、どうしたものかしら……?――
揺れる心中。
どうしても躊躇せずにはいられなかった。
浩平達が祐一達に接触しようと思えば、機は限られている。
そして遠からぬ未来に、その機会があるのだ。
掴めるかどうかはわからないが、それでもその機を逃せば、次がいつになるかもわからない。
だからこそ、悩まずにはおれない。
その時は、確実に近づいている。
それはつまり、悩む猶予も零に近づいているということだ。
――……決断、するしかないか――
どれほど葛藤しようとも、どのみち答えは一つしかない。
浩平達はどうあっても祐一達を追うだろうし、それならば、たとえ荒療治であろうと施さないわけにはいかない。
彼らとて、危険は覚悟しているだろう。
そもそも、安全な道など存在しないのだ。
――準備だけはしておかないと、ね――
真琴は、祐一達が、神器の回収の為にアルテマとの激戦に身を投じたことを知っている。
無傷で済むはずもないし、準備もあるだろうから、その機会はまだもう少し先になることは間違いない。
情報さえ絶やさないようにしておけば、逆算してスケジュールを立てることも可能だ。
決断の時は近い。
運命の時も、また。
それからも、激しい戦闘を繰り広げている音が、断続的に庭先から響き続けていた。
彼らが物語の壇上に上がる日までは、まだもう少し……
続く
後書き
さて、長く続いた第二章も、ここで終了ということになります。
ここまでお付き合い下さったことに感謝致します。
物語の今後については、一緒に投稿した第七十話の後書きにて。
では。