Kanon Another Story...






「水瀬。そっちに向かったぞ!」
 通信機から北川君の声が響く。深夜2時、私は普段なら決して起きていない時間に、街の中を駆けていた。
 眠気はない。そもそもこんな所で寝たらその場で人生が終わりかねない。
 そうこうしているうちに、目標がこちらに向かってきた。目標は人間形っぽいした――化物。
 それを討つのが、私たち――デモン・バスター――の仕事。
「名雪! 行ったわよ!」
 香里の声が聞こえる。だが、心は思いっきり緊張している。この「悪魔退治」も二度目だが、今回の囮役は――私たちなのだから……。
 化物の声が聞こえる。心臓の高まりが止まらない。血が血管を通り、全身にいきわたるごうごうという音さえ聞こえてくる。恐怖か? 勿論だ。だが、それでも――
 目の前に白いもやがあった。これが今回のターゲット。元は人間だったのだろうが、死して尚も生にしがみつく怨霊、故に滅ぼす。そう、説明された。
 もやが手を振り上げる。人間であった頃の名残なのか、動きが人間くさい。
 ――それが、私の決心を鈍らせた。
 これは元は人間だったかもしれない。いくら死したとはいえ、それを殺すのは正しいことなのだろうか? 何か別の手段が有るのではないだろうか? その為の私たちではないのだろうか?
「みな「跳びなさい! 名雪!!」
 心は疑問を浮かべたが、体は香里の命令のまま横へ跳んでいた。もやは元いた場所に拳を振り下ろす。いけない、今はそんなことを考えている場合ではない。敵を倒すことを考えなければ……。
 後ろを振り返る。北川君と香里が走り寄ってくる。香里はお冠といった様子だが。
「大自然の住まいし、精霊たちよ。
 我が呼びかけに集いて浄炎なり。
 我が敵を――浄え」
 北川君の詠唱とともに、北川君の周りに蒼い炎みたいなものが見える。
 これが北川君の必殺技。化物を浄化させる強力な――術。
 最後の一言を合図に、あの白いもやに青白い炎が点いた。白いもやは苦しむように足掻き、しかし、火は消えず。しばらくするともやは消えてしまった。
「ふ〜、仕事完了っと」
 北川君の声。彼にしか使えない浄化の術。私たちも支給されている拳銃と特殊弾頭を使えば、敵を滅ぼすことが出来る。だが、まだ見習いの域を出ない私たちは彼のサポートが仕事だ。
 彼の浄化の炎は、一日一回しか使えないが、その分強力だという。それ程、凄そうな炎には見えなかったが、きっと凄いのだろう……。
 そうしてみんなが一息をついた、――その時。
「Gyaaaaaaaaaaaaaaaaa--」
「え?」
「なっ!」
 もや、北川君、香里の声。だが、私は自然とそれを殺す為に行動していた。……それが当たり前のように。……不自然な、だけど自然な。心ではなく、体が反応した。

 北川君の後ろにあらわれたモヤ。北川君は反応できず、気がついたのは北川君の横に居た香里。でもとっさには反応できず、動いたのは青みががった髪の少女。
 彼女は一瞬で、男を蹴り飛ばしモヤの攻撃から男を助け、何の躊躇もなくモヤに対して発砲した。
 とても小さなオートマチック拳銃。強化プラスティックの玩具のような拳銃。彼女はそれを何の躊躇もなく、一切の表情の変化なく、三発の弾頭をモヤに対し放った。
 銃弾はすべてモヤに当たり、モヤは中心に縮み、はじけて消えた。ただ唸るような怨念のこもった音と共に……。





 ……。
 今のは誰だ。今、何の躊躇もなくあれを殺したのは誰だ? まるで漫画の殺し屋のような、もっと日常的に言うなら、道端にある雑草を何の躊躇もなく抜き取るような。
 ああ。解っている。分かっている。それをした少女の感情まで判るんだから……。
 北川君と香里の声が遠く聞こえる。頭がくらくらする。そんなことはどうでもいい。夜空が見える。頭に衝撃が走る。ゴチンと耳が音を伝え、地面に頭が当たったことを脳が伝えた。そんなことどうでもいい。
 ……ただ。あのモヤに人格があったような錯覚を覚え、それを何の躊躇もなく殺した自分がどうしようもない悪党で、汚れた存在だと悟ってしまった。
 そう、自らがどうしようもなく汚れた存在だと思い知らされた。こうして気絶するのも逃避の一つで、自分が汚い存在だということに追い討ちするように気分であったが、私は逃避し、気絶した。
 私がやったのだ。殺したのだ。そう、認めた。









デモン・バスター
―――北の町における雪の少女の退魔伝―――

序章 第参話
「少女は退魔を恐怖する」











「は? 新人ですか……?」
「そうなのだよ、潤。今日付けで新たに二人の新人が君の部下となる。これからは君を含めた5人で行動してもらうからヨロシク」
 潤はちょっと驚いたようだ。それも当然かもしれない、あんな事があった翌日、あれが起こってまだ数時間。そのことを報告しにきたら一言目にこれだ。フランス時代からの上司だが、こういう相手の事情なんてお構いなしという性格には少々困ることが多い。
「それで昨日の戦闘についてなのですが……」
 潤はともかく昨夜の戦闘、それに伴う「事件」について報告しだした。

「ふん、つまりその「水瀬名雪」のメンタルケア、または解雇の申請というわけか」
「はい、デーモンを一匹殺した程度で、精神的に参るようではデモン・バスターとしてやっていけるとは思いません」
 潤が真面目と分かって上司とよばれた男、ミランは溜息を吐いた。これがデモン・バスターという組織の教育だと分かっていても溜息の一つも吐きたいものだ。
 魔を滅ぼすのに一切の同情も罪悪感も感じさせない殲滅機関、デモン・バスター。どれだけ理屈をこねようがやっているのは代行者と変わりはしない。自らの正義を信じ、それに相反するものは全力を持って排除する。唯一つの神を妄信する「奴ら」と何処が違うというのか。ミランとして只呆れるばかりだ。
 元フリーの魔術師だったミランがこんな組織にはわけがあるのだが、それはともかく。

「水瀬名雪の解雇はできんな」
「何故ですか?」
 潤は食い下がる。ミランから見ると本当に疑問に感じているようで、別段、水瀬名雪のことを嫌っているようではないようだ。
 これなら説得するのもそれ程難しくないだろうと、ミランは判断した。
「これは上層部、直々の命令でな。私も詳しいことは訊いていない。只一つ、お前の部下4人とも辞めさせてはいけない。というものだ」
 無論、死なせることもな。と暗に込めて。
「了解しました」
 命令と出せば潤も大人しくせざるを得なかった。了解の意を示す。
「水瀬名雪の件については最適な人物を送っておこう」
「最適な人物ですか?」
「ああ、それまでは新たな新人二人と君たち全員で頑張ってくれたまえ」
「ちょっと、隊長?」
 電話先から潤の焦った言葉が出てきているが、知ったことか。ミランは古めかしい受話器を叩きつけるように切った。

「それはないでしょう……。たいちょう」
 厄介ごとを全て押し付けられた潤には、遠く西欧にいる上司の(半分の)顔が浮かんだ。





(全く隊長はさ……)
 デモン・バスター極東方面第237小隊長、北川潤は最早諦め、諦観の溜息を吐いた。
(悪い人じゃあないんだけど、重要なことをなんでもない風に言う癖、何とかして欲しいよな……)
 数ヶ月前に北川潤の上司となった男、ミラン・トラム。元はフリーの魔術師だったとか。

 魔術師。それは学問でもあり戦闘術の一つでもある。主にヨーロッパ地方に古くから伝わる技術だ。その数百年から千年にいたる膨大な月日の中で魔術は沢山の数に細分化していった。
 学問とするもの、戦闘術にしたもの、または既存の戦闘術に組み込んだもの、または生活の知恵にしたもの、商売の道具にしたもの。数を上げれば限りがない。それほどまでに歴史あるものだ。
 ミランが名乗った「魔術師」という称号。これも同じ「魔術師」でもそこから更に細分化する。ミランの場合、魔術とは戦闘術であり更に格闘術に組み込まれた「武器の一つ」に過ぎない。

 まあ今の潤にとってはそんなことは知らないし関係ない。ただ魔術師というのは性格がちょっと変な人、変人が揃っているのだなぁ、と思うぐらいだ。潤にも魔術師の知り合いは幾人かいるが、どいつもこいつも性格に一癖二癖ある人物ばかりだ。
(まあ、今は早く新人に会いに行かなくちゃ)
 そうなのだ。ミランが言うには新人は例の教室に既に呼び出しているというのだ。しかもその時間は五分前に過ぎている。潤が怒るのも当然な話である。その場所へと急ぎながら考えているのは、ただ一つだけのことだった。
(遅れたのは俺のせいじゃないぞー)
 まあ当然のことだった。





 扉を開けると教室の真ん中に二組のソファーが向かい合う様に並んでいた。先日、二人の新人と交渉した隠れ家である(家というより隠れ教室だが)。その片方に二人の人物が座っていた。
 そして金持ちの家の生まれというのが何となく判る。それぐらいに気品さが溢れているのだ。
 男の方は、身長はおよそ180、引き締まった体をしていて眼鏡を掛けている。まるで鞘から抜いた日本刀のように印象を受けた。名前は聞き覚えがある。久瀬英治、二年生にしてこの学校の生徒会長。前生徒会長から当時二年生の候補を挿し置いて指名された男。
 この学校の生徒会のシステムは変わっていて、生徒会長は全校生徒の投票ではなく生徒会長から直接指名される。つまりは世襲制度である。しかもその他の役職は全て生徒会長が指名する。つまり毎年の4月、次の生徒会長が指名されたとき全ての生徒会役員は辞職し、新たに新生徒会長が指名する新生徒会が発足するのだ。
 このようなよく言えば斬新的、悪く言えば時代錯誤な生徒会の制度は設立当初、この学校に多大な投資をしたある大富豪の思惑があった。この生徒会の制度はその放蕩息子の為だけに造られたものだったのだ。
 だが、このあまりにもくだらない理由で作られた生徒会のシステムだがまあまあうまくいっていた。選挙によりただ人気があるものが生徒会の長になったところで一流の判断を下せるわけもなく、また一年ごとに全生徒会役員を選びなおすことによって浄化作用が働くこととなった(なお、この制度はアメリカの大統領選挙制度から流用したと思われる)。
 久瀬はその歴代の生徒会長の中でも特に優秀という話らしい。一年前、入学当初に生徒会からスカウトされ、勿論ここいら一帯の有数の金持ち久瀬家を迎え入れたかったのだろうが、その当時の生徒会長の思惑を超えたほどに久瀬は優秀だった。
 彼が生徒会の会計職についた一月後には生徒会の予算が何故か三倍に増え、二月後には当初の五倍、三ヵ月後には当初の十倍という謎の現象が起こった。当初は彼が家の金を使ったのだろうという見方が大方の意見だったが、後にそれは彼が生徒会の予算をマネートレーデングで増やしたことが判った。
 毎年、各生徒から徴収する生徒会費。無論、学費の中に含まれるし生徒自身は払った記憶などないが生徒一人当たり千円徴収され、それが生徒会の一年間の予算となる。
 華音高校は新興のモデル都市だったという過去を持つため人口も多く、そして華音市に存在する唯一の高等学校である。よって生徒数もこの地域にしては多い600人ほどだ。
 1000×600=60万円。この金を久瀬はわずか三ヶ月で600万円にまで増やしたことから次期生徒会長へとなったというのが大方の意見だ。
 だが、その久瀬も隣の女性には少々適わない。
 倉田佐祐理、今年で三年生。代議士の倉田議員を父に持つ。成績優秀、類稀な美人。だが彼女の本当の凄さはこんなものではない。
 彼女はこの年にして既に一つの会社を経営している。その会社は年収30億円をあげている大成功を収めているのだ。しかもまだまだ増えそうだ。

 そんなとても自分と同じ高校生とは思えない二人を前にすると流石に気後れする。この業界に入ってからというもの色々なことを経験し、他の同年代の人間より優れているという認識を持っていたがその認識も改まる必要がありそうだ。そう潤は思った。本当に高校生かと思う。上もよりにもよって何で凄い人間を選ぶのか、選ぶのなら剣道の達人とかそういうのを選んでほしいものだ。
「さて、今日は我々国連非公開組織デモン・バスターのお招きに来ていただきましてありがとうございます。私は第237小隊長を勤めています北川潤です、どうぞ宜しく」
 微妙に言い回しが変なのはこの二人を前にしたためか。どうにも緊張する。
「ふん、ならばさっさと説明に入ってもらおうか。10分も遅刻しているのだからね」
 男、久瀬英治のもったいぶった言い回しに青筋が浮かびそうになるのを理性で抑える潤。
(隊長が直前になって教えたのが悪いんだよ!)
 と言いたいところだが、そんな理由も彼らにとっては意味のないことだ。精々だらしのない連中だなぁと思われるのが関の山だ。
「まあまあ、久瀬さん。ちょっと遅れたくらいじゃないですか」
 そう取り直すようにいったのは久瀬の隣に座っている女性、倉田佐祐理。
「佐祐理は気にしていませんから北川さん、続けてください」
 彼女の物言いに少し違和感を覚えたが潤はそれを無視し、言葉を続けた。
「それでは」
 コホンと一息ついて、
「あなた方は先日既に我々デモン・バスターに参加してもらうという意思表示をして下さったそうですが、相違ないですね?」
「ああ、その通りだ。先日、僕と倉田さんはそのデモン・バスターの関係者と名乗る男に呼ばれてね。一晩考えた後に承諾の返事をさせてもらった」
「佐祐理もそうですね。久瀬さんと一緒に勧誘されましたから過程に問題はありません」
 潤の言葉に空く暇もなく言葉を返してくる二人。流石は政治とビジネスの世界の第一線で活躍している二人である。言動にも洗練されている。
「では、最後にもう一度意思表示をしてもらいましょう。―――我ら魔を討つ退魔の所業、それの世界最高たる退魔組織デモン・バスターに加わる意志はありますか」
「ふっ、無論だとも。僕は一度決めたことは撤回しないのが今年のポリシーだ」
 因みに去年のポリシーは、「不可能といわれたことを実現する」だったらしい。そしてその言葉通り、彼は誰もが不可能と思った(というか考えもしなかった)生徒会の予算を三ヶ月で10倍にするという偉業を成し遂げて見せた。
「佐祐理も相違ありません。街中を化物が歩き回っているなんて聞いて黙っておくわけにはいきません」
 彼女の返答はまあ一般的なものだった。現場で雇うデモン・バスターの大半は先の倉田佐祐理嬢のような返答が一般的だ。勿論本心ではないだろう、確かに平和を守りたいという気持ちはあるだろうがそれ以上にこの世界、一般の世界の裏に対する興味のほうが強いのだろう。こういう生半な気持ちのものが大多数を占めるのが国連退魔機関デモン・バスターの実態である。
 だが、彼女の返事にはそれ以外の「何か」が潜んでいたような感じであったが、潤には気がつかなかった。気がついたのは家柄のせいか付き合いがそれなりに長く、かつ(一方的に)想いを寄せている久瀬英治だけであった。
「では、御二人方を本日付でデモン・バスター第237小隊に配置します。直属の上司は私になります」
 そして潤はデモン・バスターに関する説明を始めた。

「基本的に週三回、夜間の見回りを行います。夜の10時から翌日の1時まで。無論、非常事態の場合などのときはその限りではありませんが」
「デモン・バスターの基本的な仕事は大分すると二つです。巡回と退治、この二つに分かれます。まあ、退治の仕事は全体に一割程度の確率です」
「ふむ、それは低いのかね」
「ええ、まあ。あくまで敵が現れたら退治するという仕事ですから。退治専門の部隊などは遭遇率は9割を軽く超えるそうらしいですが」
「そうか。続けてくれ」

「基本的な装備はその国によって変わるんですが、この国ではこの国の警察官が装備しているリボルバー式の拳銃を使用します。弾は専用の対デーモン用専用弾、M-47bです」
「待遇は国連機関の一部門のアルバイトとなりますが、出来るだけこのことは他言無用で」
「給料のほうは月々100ドルです」
「少ないな」
「まあボランティアですし、お金のためにやっている訳でもないでしょうし、何よりお金がありません」
「成程」
 あくまで賃金は気持ち程度に過ぎないと潤は呟いた。

「それで何か質問はありますか?」
 一通りの説明が終わり(無論説明のときは書類による説明を行った。この国の民法上、口頭による説明は法的根拠を持たないためだ)、一息吐く。彼らのような「自分より格上のように感じる相手」との会話は酷くストレスの感じる行為だ。
「ええ、これは質問ではなくお願いなのですが宜しいですか」
 そう言ってきたのは先ほどの質問のとき、久瀬とは違いずっと静かに聞いていた倉田さんだった。
「ええ、構いませんが」
「潤さん、これからは同じメンバーの仲間ですから敬語はなしにしましょう」
 それは潤にとって願ってもない話だった。いい加減この堅苦しい敬語にも嫌気が差してきたのだ。
 因みにその発言の当人、倉田佐祐理は敬語を止めなかったが。北川潤が久瀬英治に訊くと、
「彼女のは敬語ではない。お嬢様言語だ」
 潤にとってはお嬢様言語とは一体何なのかさっぱり不明だが、あれが彼女にとっての標準の喋り方なのだろうと感じた。

「さてこれで説明は終わり。さて、今日の放課後にでも同じ第237小隊のメンバーの対面と行きましょうか」
「ほぇ? 他にもメンバーがいたんですか?」
 この言葉は新たなメンバーの二人にとってちょっとした衝撃だったようだ。特に初めて素の表情を出した倉田佐祐理の驚きようは潤を少々多弁させるほど魅力的だった。
「ええ。二年の美坂香里と水瀬名雪。つい二週間ほど前にあなた方と同じようにスカウトしまして。……ただ、ちょっと今は問題が発生しまして」
「問題、ですか」
「ええ、実は……」
 その後、三人が教室を出たのは二時間目の終了のチャイムが鳴る頃だった。





 彼女には理解できなかった。確かに自分は当事者ではないのだから理解できないのはしょうがないのかもしれない。だが自分の友人は今まで見たこともないほど落ち込んでいる。それほどまでに退魔という行為は心を病む行為なのか。
「ねえ、名雪。そんなに昨日のことを悔やんでいるの?」
「……そうじゃないんだ。……いや、そうかもしれないけど、私が恐怖しているのはそんなことじゃない……」
 香里にとって、この名雪の発言はますます理解しがたいものだった。恐怖? 殺したことを恐怖したのか? いや、隊長の潤も言っていたではないか。我々の仕事は「退魔」であって「殺人」ではない。そもそも奴らは「人」ではないので「殺人」にはならない。
 香里はまた溜息を吐く。この発言もどうだろうと思う。潤は気がついていないのだろうか。この微妙な論点のずれに。「人」でなければ「化物」ならば何の躊躇いもなく拳銃を打ち込んでも良いのだろうか。それこそ相容れないものはすべて排除する。そんな思想が、この組織の歪んだ正義感が透けて見えるような気がした。
 だが、いかにそのような想像を廻らした所で、自分は組織の下っ端であり、そんなマクロ的なことを考えても仕方がないことも解っていた。今私が、美坂香里が考えなければならないことはミクロ的、端的に言うならば。
 ――水瀬名雪のことだ。

「新人のデモン・バスターが一人前になるには少なくても2、3年の年月が必要だ」
 これは私たちの上司、北川潤の言葉だ。彼はこの仕事を既にあの年で十年近くこなしたベテランだと言う。そのすべてを鵜呑みにすることは出来ないが、彼が優秀なことは理解できる。
 だが昨日、あの出来事が起きた。幾度目かの退魔の仕事、いつものように私と名雪がサポートで彼がトドメ。だが、トドメを刺したと思って油断したその時。
 私はアレを見た
 あの残酷かつ美しい退魔(殺し)を。
 顔の表情は何の色もなく、ただ魔を討つことに特化されたようなその存在。
 彼女にかかれば魔など何の障害にもなりはしない。
 彼女こそ、彼女のような存在こそが本物のデモン・バスターなのだ。

 ――だが、彼女は見知らぬ人ではなかった。それこそそんなことは誰よりも似合いそうにない人物だった。私が一番知っていると自負できるほど見知った顔だった。
 理解できなかった。理解しようという思考が吹き飛んだのを理解できるほどに。

 水瀬名雪。

 彼女だった。
 理解できなかった。





 新しく合計五人となったデモン・バスター第237小隊。その初めての顔合わせを終えて潤は溜息を吐いた。顔合わせの場所となったこの教室に残っているのは潤と香里だった。ほとんど話をしなかった名雪は早々に姿を消し、それを佐祐理が追うように姿を消し、その後を英治が追っていった。
 潤はこのバラバラな小隊のことを思うと気が重くなり、ついフランスに置いてきた自分の小隊を思い出す。陽気なドナルド、皮肉屋のエリック、お嬢様なシャルロット。みんな何度も命の危機を越えてきた戦友だった。
 そして突然の転属命令。こんな東の果ての島国に一体どんな大物がいるのかと来てみれば、退屈な雑魚狩りの日々。しかもどうにも悩みがちな同僚たち。
 悪魔を駆ることに嫌悪を覚えるくらいなら辞めればいいだろうにそれを了承しない上司。
 しかし、その問題を無視することをできないのも潤の性格だった。
 潤は香里に向き直った。心の中で深呼吸をする。先ほどから何か考え事をしている香里に潤は口を開いた。

 ――まずは話を聞かないことにはね――

 北川潤。退魔士として兎も角、リーダーとしての評価は高い男である。





 名雪は屋上に居た。
 空は透き通っている。五月になりこの北の地ではまだまだ寒さが抜けきらないが、空は透き通っている。
 そんな空を見上げながら名雪は物思いに耽る。

 バケモノを殺した感触。

 感触はなかった。あの時の感覚は極めて曖昧だった。意識は遠くなり、だけど目に映ったものはハッキリしていて……、まるで性質の悪いビデオだった。
 名雪は今、自分の気持ちを明確に表現できなかった。
 怖いのか、嫌悪しているのか、それとも――興奮、歓喜しているのか。
 どれだけ考えても考えが出なかった。

 その時――
「まだ、外は寒いですよ?」
 声が聞こえた。穏やかな声。聞くものの頭にやさしく聞こえる――そんな声。
 それは選ばれたものだけが持ちうる、癒しの声。
 名雪のもっとも身近な女性、母と同じ――母性を感じる、その声。
 名雪は振り返る。その声の持つ主に。
 身体を反転した名雪の視線の先に立っていたのは――

 ――この学園の女神(ヴィーナス)が立っていた。

「倉田、先輩?」
「ええ、先ほど顔合わせしたんですが、ボーとしてらっしゃったんで心配になって追っかけにきてしまいました」
 そう言って彼女はまた笑った。





 ――その笑顔が今の名雪には酷く眩しく見えた。
 化け物を殺しても何とも思わない、思えない自分。そんな自分にとって彼女――倉田佐祐理はあまりに眩しかった。
 名雪は口を開いた。それは彼女にどうしても聞きたいこと。
「――倉田先輩、貴女はなんでこの話を受けたんですか」
「黙っているわけには行かなかったんです」
 佐祐理さんは口を開いた。そう答えた。それだけだと言うように。
「水瀬さんもそうでしょう? そのことを知った時点で背を向けるということは出来ないんですよ」
 そういう意味では彼らは上手い手を使っています、と佐祐理さんは小さく呟いた。人の正義感を上手く利用していると。

 名雪の心に彼女に対して親しみに近い気持ちが浮かんだ。
 名雪は自分の心を話し出した。親友にも話せなかった心の扉を、この自分の母親にも似た女性は優しく開いた。
「……私は怖いんです。初めは細かい理由なんて思いつかなくて、だけどそれは正義感とかそういうみんなが思う感情ではなく、化け物を殺すことに快感を感じているんじゃないかって思ったとき、自分がみんなと違う生き物なんじゃないかって感じて、どうしようもなかった……」
 名雪は泣いていた。昔から彼女が泣くときは決まって悲しいときだった。だがこの時、彼女が泣いたのは恐怖だった。自己に対する理解できない恐怖。
「この仕事を続けていくたびに、表層の自分だと思っていたものが、抜け落ちていって、だんだん自分の知らない自分が一枚ずつ剥いでいくように剥かれて、段々自分の知らない自分が、自分の本性かもしれない自分が出てきて。でもその人格は他人にも香里にも家族にも、……自分にも受け入れがたい化け物で……」
 口から言葉が溢れ出していた。ずっと胸に秘めていた苦悩と思いが名雪の口から溢れ出していた。
 静かに聴いていた佐祐理さんが名雪に話しかけた。
「佐祐理は、それでもそれには背を向けてはいけないと思います。もし背を向けてしまったならきっと水瀬さんは、一生そのことを悔むでしょう。なぜあの時こうしなかったと。あの時こうしていればこんなことにはならなかったと。」
「倉田先輩……」
 それはどこか自分に言い聞かしているようにも見えるような言葉だった。
「だから私は、佐祐理はもう背を向けわけには行かないんです」
 そして佐祐理さんは笑った。
「あはは、何だか論点がずれてしまいましたね」
「いいんです、先輩。言いたいことは分かりました。……それに決心もつきました」
 そう言って名雪は目を一度閉じて――開けた。
「私は本当の自分が知りたい。今まで生きてきて初めてのことだけど、自分と戦って自分を勝ち取りたい」
 それは宣言だった。名雪の精神が知らない秘密を自らの手で暴くという。
「あはは、なんか変なことですけど」
「いいえ、とても大事なことですよ。自らのアイデンティイを得ることは人間として崇高な目標ですよ」
 そして彼女はいつもとは違う笑みを浮かべた。
 それが彼女の本当の笑みだったのかもしれない。

「これから夜の方もよろしくお願いします、倉田先輩」
「あははーー、夜は水瀬さんのほうが先輩ですよー」
 何だか事情を知らない人が聞けば、非常に危険な発言だがこの場には彼女以上にその方向には鈍い水瀬名雪である。素知らぬ顔で話を続ける。
「たった二ヶ月ですけどね」
「よろしくお願いしますね、水瀬先輩」
「私のことは名雪でいいですよ、倉田先輩」
「佐祐理のことも佐祐理でいいですよ、名雪さん」
「はい、佐祐理さん」
 そう言って彼女たちは屋上を後にした。





「久瀬、……さん?」
「うむ。もう悩みは解決したのかね。解決しているのなら結構」
 倉田先輩と別れた名雪は廊下で久瀬英治と鉢合わせた。彼もデモン・バスターになったのは覚えている。生徒会長の顔はさすがの名雪も忘れない。
 とりあえず思い浮かんだことを聞いてみる。
「私のことを心配してくれたんですか?」
「真逆(まさか)」
 即答だった。潔いくらいの早さで。
 名雪も次の言葉が浮かばず、
「えーと」
「君が落ち込んでいると倉田さんも落ち込むのでね。早急に解決しようと思ったのだが」
「久瀬さんは佐祐理さんが好きなんですか?」
「なぜ君ごときが倉田先輩のことをファーストネームで呼んでいるーー!」
 いきなり絶叫した。
「……佐祐理さんがそう呼んでくれって……」
「……。成る程。つまりは当面は君が私のライバルなんだな!」
「あのー」
 何やらとんでもないことが彼の頭の中で進行しているようだ。しかも説得無理そうだし。
「ふっ。とりあえず今日のところは負けを認めておこう。早く立ち直ったことを親友に知らせて安心させてあげたまえ」
「あ、はい」
 ……まあ、一応心配はしてくれたみたいなので良い人なんだろう。
「では今日のところは転進する!」
 本来ならば「転進」の所に突っ込むべきなのだが、水瀬名雪に求めるのは酷というもの。本気で天然の彼女には気づきもしなかった。
「あれ? 私と香里が親友ってこと知っていたんですか?」
「無論だとも。私はこの学校に生徒会長だぞ」
「ストーカーさん?」
 名雪の悪気の無い言葉が久瀬に突き刺さる。
「違う! 人を見る目があるということだ!」
 そうして久瀬会長は立ち去っていった。
「変な人だけど、いい人なのかな?」
 これから同じチームになるんだし。今度佐祐理さんに聞いてみよう、と名雪は思った。





「それほど心配することは無いんじゃないかな」
「それは余りにも無神経じゃないの」
 先ほど5人が自己紹介をした教室には香里と潤が残っていた。潤は香里を諭そうとしていた。一見してクールだが結構感情的な所に潤はちょっとビックリしていたが。
「美坂、こればっかりは本人しだいの話だ。大丈夫さ、今まで僕の知り合いはみんな乗り越えた。力強い友人がいたから」
「だったら……」
「そういうときは、ただ友人という存在がいるということが心の支えになるんだよ」
「……そうかしら?」
「そうさ。もっと友人を信じたらどうだい?」
「……そうね」
 ここは香里よりも「この業界」ではベテランに属する潤のほうが経験豊かだった(当然だが)。リアリストで悲観主義者の香里も親友を信じてみることにした。

 ――が、そういう心配こそ空回りになるもので。
 実際、香里の心配はそれこそ空回りだった。
「香里ー、どうしたの」
 と言って、本人が何も無かったような顔でノコノコやって来るのだから。
「どうしたもこうもないわよー」
「いはは、痛いってー」
 名雪のほっぺをみよーーんと伸ばす香里。そうとうご立腹のよう。
「私がこんなに悩んでたのにあなた、いつの間にかケロリと平気そうな顔をしてー」
 それからしばらく香里のお仕置きは止まらなかった。



「で、大丈夫なの?」
「うん、私は本当の自分が知りたいから。だから退魔を続けていきたい……」
「そ。頑張りなさい」
「うん」









第三話、終了。
第四話へ続く。







後書き。

 えー、15ヶ月半ぶりの雪少女です。
 正直、ここまでくると恥ですね。小説を書く前までは一年も更新をほったらかしの奴なんて最低だと思いましたが、今では自分がそんな奴になってしまいました。
 次の第四話は一月ぐらいで公開できると思います。多分。
 一人称とか三人称がごっちゃになっている件については勘弁してください。

紅き後継者
06.1.21
雪降ってるよ。






・ちょっとした設定 No.001水瀬名雪
 
 本編の主人公の一人。現在16歳(1998年5月現在)。イチゴと猫が大好きの陸上部員。
 来月から新部長に就任することが内定している。得意な種目は主に長距離。
 先月から国連退魔機関デモン・バスターに所属。しかし、組織に対する忠誠心は実はかなり低い。
 陸上で鍛えられたためかスタミナは相当なもの。作戦上では主に囮。
 自身に眠る「もう一人の自分」のことを知るべく奮闘中。

 家族構成:母(秋子)、他不明。