彼は、空を見上げていた。


「………いい天気だな」


 ゆったりと真っ白な雲が、青く澄んだ空を泳いでいる。


「んー」


 彼の脳裏に浮かんだのは、白の名前と青の髪、そして雲にも似た穏やかな雰囲気を持つ少女の面影。


「………いい風だな」


 彼が目を閉じる。

 その頬に感じたのは、散り際の桜の香りを秘めた、柔らかな風。


「………いいかおり、か」


 風が運んだ連想は、とある少女に至る。

 言葉通りか、そう思うと自然と笑みが浮かんでいた。


「あっちも晴れてるかな」


 何処までも続く空、彼は北の街へと思いを馳せていた。





「そろそろ教室に行きますよ」


「はい」


 担任になるという女性教師に声をかけられた彼は、席を立った。
 

「じゃあ先生に付いて来てくださいね」


 彼女に先導され、彼は教室へと向かう。

 見知らぬ校舎、見知らぬ教師、見知らぬ生徒、そして見知らぬ土地。

 彼が行く先には、彼女たちも親友と呼ぶべき少年も、いない。


 階段を下って登って廊下を渡り、足を止めた先にあった表札は、2年D組。


「それじゃあ、合図をしたら入ってきてくださいね。相沢君」


「分かりました」


 ここは斗和学園高等部。

 数ヶ月前、北の街の学園に転校生として立っていた彼は、今ここに立っていた。

 彼の名前は、相沢祐一。


































 永遠の名を持つ街で 

              第壱話 転校生、相沢祐一


































 喧騒、やはり学生だけの教室は騒がしいものである。

 それはここ、斗和学園2年D組も例外ではない。


「新学年の初日に遅刻。大物ね、二人とも」


「どうせ、折原のせいでしょ」


 始業式後、新教室に移った新2年D組の生徒たちは、各々グループを形成していた。

 それぞれのグループ構成の要素は去年のクラスメイト、同じ中学出身、もしくは部活動の知り合いなど。

 その中に、去年のクラスメイトという共通項を持つ男子二人、女子三人のグループがあった。


「っ、ギリギリに賭けてたんだけどな。まさか豪快に遅れてくるとは………不覚だったぜ」


 男子生徒―名前は住井護―に女子二人―それぞれ稲木佐織に七瀬留美―の発言を聞くに、残りの二人は始業式から遅刻したらしい。

 確かに佐織の言うとおり、大物と言えないこともない。


「うむ。今日のトラップは傑作だったからな。まさに完璧な勝利だった」


「ねえ、瑞佳。参考までに聞いておきたいんだけど。折原君、今朝は何したの?」


 胸を張る男子生徒―折原浩平に、彼に問うのは最初から放棄している佐織。


「それが………」


 そして問われた女子―長森瑞佳が語るところによると



 毎朝の恒例イベント、瑞佳が幼馴染みの折原浩平を起こしに行くと、玄関先に待っていたのは自分の部屋にあるはずの猫のぬいぐるみだった。

 いつのまに、と瑞佳が思っていると彼女は


『お前の大事にしている、ミャー坂ミャー之助は預かった。返して欲しければ付いて来い』


 ………彼女のはずなのだが、その声は明らかに'彼'になっていた。

 ちなみにこの猫が預かったと言っているであろう『ミャー坂ミャー之助』、これも彼女である。


 そのまま『こっちだよ』と『そっちじゃないよ』の声に従って歩いているうちに―――それを話しているのは青いゼリーのような体に紐のような手足が幾本も生えたものだった―――、時間は過ぎていき………


「それで浩平の部屋に入ったら」


 ベットには人間大のふくらみを持つ布団が納まっていた。


『浩平!』


 起きろ、と意思を込めて布団を引き剥がす、片手で、軽々と。

 さしたる抵抗もなく宙に浮いた布団の下にあったのは


『それはね、赤頭巾、じゃなくてだよもん星人』


 などと話している狼ならぬ犬のぬいぐるみだった。

 ふくらみのほとんどは丸められた毛布、きっちりと縛っている辺り徹底していた。


「それで窓から外を見たら庭にテントが張ってあって………」


 当然のようにそこに向かったのだが、そのテントも『ちょうど腹が減っていたところだ』などと話し始める。

 気にせず中に入ると、もぬけの空。
 

「………で結局何処にいたの?」


「うん、ベットの下」


「古典的ね」


「ふっ、灯台下暗しという奴だ」


「しかしよくそんなところで寝れたな」


「なんせ準備に丸一日かかったからな。家中に吹き込みまくりで、かなり疲れたからぐっすりだったぞ」


 まさに準備万端、完全に予定通りだと、浩平が胸を張る。

 そんな彼に


「アホかーー!!!!」


 留美が握り締めた消しゴムを、腰掛けているとは思えない豪快なフォームで放つ。

 それは綺麗な一直線の軌跡を描き、反り返っている浩平の額に直撃した。


 ドゴッ!!


「ぐおおぉぉぉ!!!」


 消しゴムが当たったとは思えない重々しい音、机に腰掛けていた浩平が叩き落される。

 衝撃は速度と質量に比例する。

 消しゴムの限界を遥かに超えた衝撃が、浩平を襲っていた。

 ちなみにその消しゴムは額に激突後、軽やかな音とともに床で数回バウンドした。


 悶え苦しむ浩平、黙って彼を引き上げる瑞佳、大笑いする住井、肩を怒らせっぱなしの留美、そして


「目立ってるわね」


 嘆息しながら教室を見渡す佐織。


 彼らが教室で最も目立っているのは疑いようがない。

 そんな彼らに新メンバーが加わるのは、もうすぐのことだった。



































 局地的に大盛り上がりの教室、それを沈めたのは扉が開かれる音だった。

 新しい校舎であるために、それほど派手な音はしないのだが、効果は中々のものである。


「おはよ〜ございます」


 入ってきたのは、学園最年少教師、清川葉月。

 といっても生徒たちよりも年上なのは確実なのだが………その間延びした口調に違和感がないのは資質なのだろう。


「席に着いてくださ〜い」


 その言葉に教室が動き始める。

 威厳とは程遠いのだが、その分彼女の人気がカバーしているので問題なしである。

 事実、昨年度も彼女のクラスは他のクラスよりもまとまっていると評判だった。


「名前順ですからね。間違えないでくださいね」


 学期始め席は名前順が相場、このクラスの席数は四十、並びは縦8×横5である。

 さっきのメンバーは稲木に折原が窓際の同じ列、住井が一人に、長森、七瀬が前後ろに並んでいた。


「HRの前に、このクラスに転校生が来ます」


 葉月の声に喧騒がクラスに戻った。

 転校生、その前の転校生は先ほど『アホかーー!!』を雄雄しく叫びを上げていたが、転入当初はおしとやかな乙女―――かなり遠い昔の気もするが―――だったのである。

 それを考えると期待の声が上がるのも無理はない。


「でもねぇ」


 そう言うのは2年D組出席番号2番、稲木佐織である。

 窓際前から2番目に座っている彼女の前の席は、現在誰も座っていなかった。

 最後尾ならともかく最前列、クラスの先頭が空くことなどは考えづらい。

 つまり転校生は、出席番号1番、張り出されていたクラス分けの名簿で彼女の一つ上にいた人物である。

 その転校生、名前は


「ちなみに男の子です」


「なのよね」


 そう、その名前ははっきり男子のものだと分かるものだった。

 担任の通達に喧騒は半減する。

 そのお約束な反応に苦笑する佐織。

 ちなみに廊下でも、何処も変わらんな、と転校生も苦笑していた。


「入ってきてください」


 その言葉の少し後、すぐにその転校生が入ってくるというのに律儀に閉められたドアが再び開けられる。

 一番初めに見えたのは紺のブレザーの袖口、確かに男子生徒のようである。

 入ってきたのは、当然のことながら見知らぬ………


「おっ!!」


 そんな声が窓際後ろから2番目の席から上がる。

 だが聞こえなかったのか、担任は話を進めていく。


「じゃあ自己紹介してください」


 教卓の脇に立った男子生徒、黒髪黒瞳、身長は平均程度、目元に前髪がかかっているために完全に把握することは出来ないが、中性的とも評されるだろう容姿はかなり良いものだった。

 シャツの第一ボタンがきっちりと留められているのは転校初日だからであろう、それでもそこまで真面目一辺倒の印象はなかった。


「相沢祐一です。よろしくお願いします」


 シンプル極まりない挨拶とともに一礼する転校生―――相沢祐一。

 あまり緊張していないところを見ると以前にも転校の経験が、それも何回かはあるのかもしれない。


「相沢君は北の………ええと、そう、華音というところから転校してきたんです」


 葉月の補足に祐一が頷くと、席についてくださいと促す。

 2年D組総勢40人、全員が揃いHRが始まった。



































「明日は午前中だけですけど授業がありますので時間割をちゃんと確認してきてくださいね。それでは終わりです」


 礼


 起立はせずに着席のまま一様に頭が下げられる。

 HRは終わり、新年度初の放課後の来訪である。


 教室が動き始める。

 部活へと向かう者、連れ立って帰宅する者、活発に動き始める中で転校生は荷物を纏めていた。


 定番イベント、質問コーナーは既に終わっており、このクラスに知り合いがいるわけでもない。

 だからそのまま寮に戻ろうと席を立つと


「おっと、迷子の転校生」


 そう言えばひょんなことから見知った、名も知らぬ二人組がいた。


「浩平、いきなり失礼だよ」


 彼に声をかけてきたのは、浩平と呼ばれた男子生徒、見覚えのある生徒の片割れである。

 そんな彼を諌める女子生徒もまた見覚えがあった。


「瑞佳、相沢君と知り合いなの?」


 そう問うのは、稲木佐織、祐一の後ろの席である彼女は勝手分からぬ転校生に色々とご教授していた。


「うん。実は………」


 とまたしても彼女が語り始めるところによると





「遅刻だーーー!!!」


「とっくに遅刻だよ」


「気分の問題だ」


 男女二人が昇降口へと続く道を疾走していた。

 浩平ワールドにたっぷり嵌った瑞佳、遅刻は決定済みなのだが、このままだと始業式にもギリギリだった。


「もう、浩平のせいだからね」


「ふっ、負け犬、いや、負け猫が吠えるか」


「………遅刻の時点で二人とも負けてると思うが」


「なっ?」


 声の主はいつの間にか浩平の隣を併走していた男子生徒だった。

 疾走中に平然と会話する二人、陸上部の人間さえ感心させる荒業に割り込んでくる人間がいるとは………二人が驚くのも無理はない。


「ちょいとそこ行くお二人に、訊きたいことがあるんだけど」


 見覚えのない顔をしたその男子生徒は、息も切らさず話し続ける。


「職員室が何処にあるのか、教えてくれないか」


「はあ?」


 現在彼らは遅刻の真っ最中、職員室に乗り込んでも遅刻取り消しを実現するのは困難である以上、向かうべきはクラスのはずである。

 そもそもあまり近寄りたくない職員室でも、場所くらいは覚えているはずである。

 つまり


「すると新学期名物の転校生か」


「名物かは知らんが転校生だ」


 余談になるが彼の口調がぞんざいなのは、並走する女子生徒の制服に付いている学年色を見て同級生だと判断したからである。

 それにその斗和学園高等部の一学年は400人以上、そうそう会うものでもない。


「ええと、それなら昇降口に入ったら右に行って、階段を二階まで登ったら、そのまま真っ直ぐ行って隣の校舎に移ったら左側に行くとありますよ」


「右行って、登って、真っ直ぐ行って、左か。どうもありがとう」


 瑞佳の説明を指折りながら復唱する転校生、その顔はまるで地獄に仏、という表現がぴったりだった。

 それでも不安なのか、何処からか取り出した手帳にメモまでしていた。


「それにしても転校生にしても遅くないか」


 始業式前、昨年度のクラスで行われるHRに転校生が出る必要はないが、それでも職員室にいなくてはいけないはずである。

 浩平の素朴な疑問に笑みを浮かべていた彼は………


「まあ、なんというか、この学校広いし、妙に綺麗だから区別つけづらいし、案内板もないし、標識ぐらいつけてくれてもいいと思うぞ」


 案内板に標識が付いている校舎、敷地ならともかくさすがに校内にはないだろう。


「要するに迷子か」


「まあ、そう言うようなこともあるような気がしないでもないな」


 微妙に汗を掻きながら―――息は切れていない―――の抗弁、ちょうどその時、三人は昇降口に駆け込んだ。


「それじゃあ世話になった。ありがとう」


 そういい残すと彼はちゃんと昇降口、入って右側に駆けていった。


「なかなか出来る奴だったな」


「それより急がないと」


 それが名前も知らぬ転校生との一部始終だった。



































「あはっ、おもしろいね♪」


「うおっ!!お前、どっから涌いてきた?」


「あっ、ひどい。人を虫みたいに。まったく、詩子さん泣いちゃうよ。泣いちゃって茜に慰めてもらうよ!」


「嫌です」


 突如として現れた謎の女子生徒、驚愕する浩平、笑いながら泣きまねをする女子生徒、そして拒絶の意を示す新たな女子生徒が………


 大げさに纏めるとそうなるが、要するに転入生を囲む環に二人の乱入者が現れた、それだけである。

 なお、そのうちの一人はいつの間にか最前列に出没していたりもするのだが、大した問題ではない。


「柚木さんと里村さん?」


「そうだよ」


 柚木詩子と里村茜、先ほどまで浩平たちとは別のグループを形成していた二人だったが、瑞佳が顔と名前を一致させていた。

 二人とも出身クラスが遠かったために瑞佳たちと直接の面識はないが、そこそこの有名人である。


「柚木か。俺にうおっと言わせるとは、やるな」


「う〜ん、誰だっけ?」


「だが、この折原浩平、ただで引き下げるわけにはいかん」


「あっ、折原くんか。よろしくね〜」


「いつの日や必ず………」


 ゴン!!


「あんたたち、会話がかみ合ってないわよ」


「………何故、俺を、殴る?」


「そうでもしないと止まんないでしょうが」


「だからなんで俺を、殴る?」


「乙女が女の子に手を上げれるわけないでしょ」


「乙女が殴るか!!って漢女だからいいんだな!!」


 ゴスッ!!


 瑞佳たちにとってはいつもの出来事、今日の締めはハイキックである。

 美しい軌跡を描きながら留美の右足が浩平の側頭部に炸裂、衝撃を徹された浩平は吹き飛ばずに沈んでいく。


「まったく、もう」


 腰に手をやった留美、その姿は雄雄しく………どちらかと言えば浩平の言う通りかもしれない。


「さすが、七瀬さん♪」


「柚木さん、お願いだからこんなこと、誉めないで」


 倒れる浩平、喜ぶ詩子&住井、そして呆れる他の連中。

 そんな中、転校生は


「相沢くん、呆れるのも無理ないんだけど………」


 まとめた荷物を抱えて帰ろうとしていた。

 この学校、クラス、面子の先輩として佐織が祐一を引き止める。


「いや。どうやら話から外れたみたいだったし」


「……この人たちの話がずれるのはいつものことだから」


 クラスメイトとして教えておきたいことがあった。

 まあ、この転校生なら


「おっと、逃げようたってそうはいかないぜ」


「撤退ではない。転進だ」


 必要ないかもしれないが。
 

「まあ、いい。相沢祐一。今日は付き合ってもらおうか」


「浩平、いきなり失礼だよ」


「だったら、付いてきてもらおう」


「変わってないんだよ。というかむしろ悪くなってるよ」


 変わらぬ掛け合いを始める浩平と瑞佳。

 そんな彼らを眺めていた祐一だったが


「それで相沢祐一―――」


「その前に…一つだけ聞いていいか」


「なんだ?」


 充分なタメ、何故か周囲が静まりかえり、一点へと注目が集まる。

 静寂の中で祐一が唇を動かす。


「お前、誰だ?」


 瞬間、折原浩平の顔が、見事に止まった。


「あれ………って名乗って、ないか」


 思い返すに、名乗った覚えなどなかった。

 というかこの場の人間で祐一に名前を教えたのは、佐織だけだったりする。



「それで、こっちが………」


 一通り、茜と詩子も名乗り終え、最後は


「ワイアット・アープと呼んでくれ」


 軽く指を振る、折原浩平だった。


「じゃあ、私は紅の流れ星で」


「分かった。ワイアット・アープに紅の流れ星。ついでにそっちは姫萩さん?」


「嫌です」


 浩平と便乗した詩子が仕掛け、祐一が切り返し、茜が潰す。

 見事な攻防だった。


「それでワイアット・アープ。案内でもしてくれるのか?」


「そうだな。三食ガードマン付きでタダのホテルに連れてってやるよ」


 被ってもいない帽子の鍔を上げる浩平に、腕時計を見せる祐一。

 現在、HRが終わってから十分ほど、ほとんど教室に生徒の姿は無かった。


「………斗和に刑務所なんてないよ」


「お前ら好きだな、スペースカウボーイ」


 投げやりな口調の瑞佳――浩平の影響、というか余波である――と、乗り遅れ悔しそうな住井によって一応話は決着した。



「それで祐一、お前昼飯どうするんだ?」


「コンビニで何か見繕うつもりだが」


 その後、街を回るつもりだった、との答えに浩平は深く頷いた。


「七瀬、あの店ってこの人数でも大丈夫か」


「えっ、折原。あんた、あの店に行くつもりなの?」


「ふっ、転校生を初めて案内するのに、平凡なところなど行けるわけがないだろうが」


『なあ、ななぴー』


「ななぴー、言うな!!」


「おお♪ 制服が喋った♪」


「浩平、勝手に人の制服使わないでよ」


「………変な奴ら」


「貴方も十分だと思いますよ」


「里村さんか。なんか人数に入ってるみたいだけどいいの?」


「元々詩子と二人で食べるつもりでしたし。それに………」


「相方はすっかり馴染んで行く気だと」


「ですね」


 喋る制服、気にしない人々。

 異なる力も持つ者が、普通に暮らす町。

 それが斗和である。




































 昼食会参加者は、住井と佐織を除いた六人。

 途中、いきなり食器が話し始め、制服が五倍近くの重さになり畳にめり込み、テーブルが消えるなど軽いトラブルがあったが、一応問題なしに昼食会は終了した。

 そして現在、彼らは相沢祐一に商店街を案内している最中である。


「ここがCDショップだ」


「おお」


 女子四人、単独でも目立つことの彼女達を連れた男子二人。

 実に目立ちやすい集団の中央にいる祐一は、しかしそのようなことを全く気にしていなかった。

 片手にペン、もう一方に地図、腕には方位磁針付きの時計、彼は生活に必要な店を事細かにマッピングしていた。


「なんで、驚く?」


「いや。やっぱり普通、看板を表に出しとくもんだな、と思って」


 しみじみと呟く祐一、その反応になんとなくオチが見えた浩平だったが


「お前、迷っただろ」


「………裏通りにあるのは反則だと思うぞ」


 迷うこと一時間、目的も果たせなかった負け犬である。


「お前ってほんとに方向音痴なんだな」


「単に目的地に辿り着くのに、人よりも時間がかかるだけだ」


 祐一の抗弁を鼻で笑う浩平。

 確かに初対面から、迷っていた祐一のセリフに説得力など皆無だった。


「うぐぅ」


 反論材料がないため、思わず口をついたそれに詩子が食いついた。


「あはっ。面白い鳴き声だね」


 鳴き声、言い得て妙なその表現に祐一に感嘆の表情が浮かんだ。


「確かにあれは鳴き声だな」


「北には変わった生き物がいるんだね」


「主食は鯛焼き、主な活動はフリーへのランだ」


「なんなの、それは」


 思わず留美の口からため息が漏れる。

 それとは別に、別の部分への反応が一つ。


「鯛焼きか。そういや、この前、美味い屋台を見つけたな」


 その言葉に鋭い視線が浩平に向かう。

 真正面から、見射られた浩平は思わず仰け反り、


「何処ですか」


「………」


「何処、です、か」


 一言一言区切られた言葉に、更に角度をマイナス90°に近づけた。

 そのまま首だけ曲げて、横を歩く瑞佳に救いを求める。


「うん。この前、浩平が迷った時に………」


「なんだ、お前も同類か」


「相沢君、君と一緒にされるのは僕としては非常に心外だね」


「まあ、まあ。共に―――」


「長森さん」


 その絶大な力を秘めた声に、虚しい浩平と祐一の争いがストップする。


「案内して、ください」


「でも、あそこって浩平が―――」


「折原くん」


「………努力します」


 隊長、里村茜、先導折原浩平。

 我ら鯛焼き捜索隊、結成!!


「ねえ、あたしも付き合うの?」


「ななぴー、そんなこと言わない、言わない」


「ななぴー、言うな!!」


 ………隊員の結束も、固かった。



――――――――――――――――――――――――――――――――


「で、何処にあるんですか?」


「ええと………」


「こっち、かな………」


 捜索は、難航していた。

 浩平と瑞佳がそこに辿り着いたのは三ヶ月前。

 迷いながらだったために記憶も定かではなく、しかもまだあるとも限らない。

 しかし隊長の決意は固く………


「………茜、恐い」


「詩子、なにか」


「なんでもないよ〜……」


 歩き始めて30分、そろそろ新たな展開が必要な時である。


「おお、そうだ!!」


 ポン、と手を打った浩平。

 怯えの見えていた表情が、いつもの何か企んでいるものに変わる――戻る。


「祐一、お前、どっちだと思う」


 そこは住宅街の三叉路、右か、左か、戻るか………


「そうだな………じゃあ」


 僅かな思案の後に、祐一が指したのは右だった。

 自信満々とは言えないが、少なくとも己の勘にそれなりの自信を持っている祐一だったが………


「よし、こっちだ」


 こちらは自信満々。

 先導して歩いていく先は


「………なんで、そっちに行く?」


「当てにしてるぞ、方向音痴」


「………」


 一名、憮然とした隊員を抱え、捜索隊は左に向かった。

 そして………


「なんでだ」


「さすが祐一。信じて良かった、良かった」


 彼らの目の前に、鯛焼きの屋台が聳え立っていた――高さは、それほどでもないが。


「おばちゃん、鯛焼き6個」


「…十個でお願いします」


「イエッサー」


 無事目的のものを購入、そのついでにちゃんど道を訊き、近所の公園へと向かう。

 異様な早足で進んだ六人は、まだ湯気の立っている鯛焼きを持って、第二目的地へと到着した。


「「「「「「いただきます」」」」」」


 取り出したるは、餡子の入った魚型。

 それぞれ頭か尾を持ち、その身に齧り付いた。


「美味しいです」


「だね、茜」


 茜&詩子のコンビの感想には、全員否はなかった。

 あまり乗り気ではなかった留美も顔を綻ばせている。

 その中で、やたらと真剣な顔をしているのが一名。


「ふむ。餡良し、皮良し」


 餡だけを食べ、皮だけを食べ、一緒に食べる。

 やたらと通のような食べ方をしている彼は


「だが、日本じゃ二番目だな」


 何処かで聞いたようなセリフを顔を伏せながら言い放った。


 ピクッ!!!!


 肩が揺れる、背中が揺れる、おさげが揺れる。


「なに!! なら何がいち―――」


「すると、一番があるわけですね」


「ひ、人のセリフを……… イエ、ナンデモナイデス」


 一瞥であの浩平を黙らせた茜が祐一に迫る、言葉どおりに。

 思わず仰け反っても、脇に避けようとしても、その直線からは逃れられない。


「相沢君」


「ナンデショウカ」


 背筋を伸ばし、踵を揃え、右手は眉の少し上。

 何処で身に付けたのか、完璧な姿勢の敬礼を見せた祐一に上官が詰問を始める。


「貴方は今、日本で二番目と言いましたね」


「ハイ」


「すると一番がある、というわけですね」


「イエス」


「何処、ですか」


 その瞳に、死を、否、それを通り越した恐怖を感じる祐一。

 片言ながらも話し始めるに………


「………すると貴方がいた華音、という街に一番の鯛焼き屋があると」


「ソウデス」


「そしてここからだと一日はかかると」


「ハイ」


 風音市斗和という街は、地方都市には不相応なほど設備が充実しているが、逆に交通の便は良くない。

 電車、道路、どれを使っても大都市に出るのにはかなりの時間がかかる。

 もちろん斗和と華音に直通のルートなど存在しないために、一度大都市に出なければならず………


「では私は食べることが出来ない、と」


「………ソウ思ワレマス」


 所要時間は往復二日、必要経費は交通費と宿泊費、そして鯛焼き代。

 甘い物が大好きな、とても大好きな茜とは言え、それは無理である。


「………」


 彼女が浮かべた表情は、控えめに表現しても一国の破滅の如くだった。


「ええと、まあ、あっちに連絡すればなんとかなるかもしれないから………」


 普通に表現すれば、この世の終わりとでも言うべき表情を見た祐一が、思わず慰めの言葉を口にした、してしまった。

 上げられる顔、目にかかった前髪の間から見える瞳が、部下の顔を見据える。


「本当ですか、相・沢・祐・一」


「………善処します」


「期待しています、祐」


 どうやら相・沢・祐・一、その中で一番呼びやすいのが祐だったらしい。

 とりあえずかつてないほど親しげな茜に、黙って聞いていた詩子が笑みを浮かべた。


「祐一くん、私もね」


「じゃあ、俺も」


 留美と瑞佳も続いて、合計五人分。

 思わず転校生虐めを疑った祐一だったが


「………頑張ります」


 返す返事はこれしかなかった。





「さてと………」


 あれから鯛焼きを食べ終えた彼らは、しばしの歓談の後に解散した。

 解散場所は商店街、そこからは高台にある斗和学園とその寮の位置を把握するのは容易だった。


『ここからなら迷わずに帰れるだろ』


 からかい半分気遣い半分の浩平にこちらも半分の感謝を送りながら、祐一は現在の住処、寮へと向かっていた。

 煉瓦調のタイル、外国を思わせる街灯、これと言った産業がないにも関わらず、斗和の街は整っている。


「なるほど」


 周囲を観察していた祐一が、一つ頷いた。

 予備知識に合致する景色、話に聞いていた通りの街である事は確認できた。


「っと」


 左右に視線をやっていた祐一がさっと横に身をずらす。

 そこを中年男性が通り過ぎていった。


「………」


 謝罪もせずに進んでいく男性の足取りは完全に蛇行していた。

 僅かに見えた表情は暗く、そのためなのか、誰も彼に声をかけようとはしない。


「おしごと、おしごと。今晩もおしごとか」


 しばしその背を追っていた祐一は振り返り、僅かに歩調を速め、寮へと向かった。

































 榎本勇作、職業、電気店店主、家族は息子と娘が一人づつ。

 妻はいない。


 今晩も彼は、飲み歩いていた。


 妻が亡くなったのは一ヶ月前、会合で遅くなった彼が家に帰ると、彼女が倒れていた。

 慌てて救急車を呼ぶも、彼女は病院に辿り着くことなく、息を引き取った。


 それから三週間は怒涛の如く過ぎていった。

 葬儀の手配、子どもの世話、やることはいくらでもあるように思えていた。


 だが、三週間もすると、彼女がいない世界が当たり前のものになっていった。

 子どもたちも時折、落ち込みを見せるものの、笑顔を浮かべられるようになり、子どもの世話を手伝ってくれる近所の人たちも彼女の話題は出さないようになった。

 そう、誰もが彼の妻がいないことを認めていた―――彼を除いては。


 ここ一週間ほど、彼は夜毎飲み歩いていた。

 彼の妻が亡くなったことは商店街でもそれなりに知られていたために、誰もそれを咎めることなく―――日中の仕事はこなしていた―――彼は、一人で飲み続けた。

 そして


「うぅぅ」


 塀に手を付き、吐き気を堪える。

 呻き声は、いつのまにか泣き声へと変わっていた。


 彼と妻とは、恋愛結婚だった。

 大学時代、同じ学部だった彼女は、周囲の憧れを集めていた。

 その彼女が何を気に入ったのか―――結局理由を聞くことは出来なかった―――しがない電気店の次期店主である彼と付き合うようになり、そしてプロポーズを受け入れてくれた。

 彼女は彼の支えだった。


「うううぅぅぅ!!!!」


 いつしか大きくなった嗚咽。

 彼を包んでいるのは、絶望。


「うううぅぅぅぅぅ―――」


『会いたいですか………』


 最早止めようもない嗚咽に、身を屈めていた彼。

 そこに飛び込んできたのは、男のものとも女のものともつかない声だった。


「えっ………」


 止まらないと思っていた嗚咽は止まり、彼は辺りを見渡した。

 まるで耳元で囁かれたかのような声、しかし彼の周囲には誰もなく………


『会いたいですか?』


 先ほどよりもはっきりとした声。

 相変わらず姿は何処にもないものの、恐さは全くなかった。

 そう、もう一度その声が聞きたくて、彼は目を閉じた。


『会いたいですか?』


 もう一度聞けたその声に笑みを浮かべる。

 彼女が亡くなって以来、初めてとも言える心からの笑み。

 しかしそれは、決して晴れ晴れしいものではなく………


『会いたいですか?』


 四度目の声に、彼は迷いなく頷いた。


 会いたい?

 勿論。

 彼女に会えるならば………


『見えますか?』


『ああ』


 見える。

 そこは二人で行ったあの公園、そこで彼女が笑っている。


『行きたいですか?』


 頷くまでもない。

 彼は、その声の誘いに身を任せた。


 歩く、歩く、歩く。

 目を閉じたまま、彼女の元へと、彼は歩く。

 いつしかその周囲には、羽根の生えた何かが、そう、妖精が乱舞していた。

 祝福の中を彼は進む。

 彼女まで、あと、少し………


 チリン


 鈴の音が、聞こえた。


 チリン


 また聞こえた。


 チリン


 足が、止まった。


『………追憶の鈴』


 チリン


『行きましょう』


 再び、耳元で囁かれる声。


『彼女は、あそこにいます』


 耳に飛び込んでくる、誘いの声。


『さあ、行きましょう。彼女はあそこにいます』


 しかし足は動かなかった。


 チリン


「進、美沙」


 子ども達の名前が口をついた。


「そうだ」


 思い出した。

 忘れようとしていた、彼女の最後の言葉。

 それを口にする。


「子ども達を、よろしくお願いします」


 そう、頼まれた。

 確かに彼女は、彼にそう言い残した。


「そうだ」


 彼はもう一度顔を上げ、彼女と向き合った。

 彼が愛した彼女は、いつかのように微笑んでいた。

 その姿を脳裏に焼き付けた彼は、自分も微笑を浮かべると、静かに目を開けた。


「強引な勧誘はお断りだってさ」


「えっ?」


 目を開いた彼は、初めてそこにいた誰かを認識した。

 黒髪黒瞳、全身を黒一色に身を包んだ、少年がそこに立っていた。


「君、は?」


 驚愕に声が漏れる。

 原因は、少年の持ち物だった。


 左手には、紫の紐に吊るされた金の鈴が。

 右手には、黒一色の西洋剣が。

 そして背中には、純白のストールをかけていた。


 一つ一つを挙げるとちぐはぐな印象の三種。

 しかしその姿は何故か、極めて自然だった。


「君は、いったい?」


「しがない債務者ですよ」


 再度の問いに、意味不明な答えを返した少年は、静かに自分の後ろを指した。

 その仕草に思わず周囲を見渡すと、そこには光が溢れていた。

 ただ先ほどまでと違い、その光は薄気味悪く脈動している。


 彼は悲鳴混じりに慌てて少年の後ろに駆け込む。

 それを見取った少年が、漆黒の両刃剣を振り下ろした。


 振り下ろされた両刃剣、それは光へは届いていなかった。

 光を切り裂き、呑み込んだのは、その刃より放たれた漆黒の一閃。

 その背後の壁には傷一つつけなかった一閃は、光を呑み込み、そして夜の闇へと消えていった。


「おしごと、完了っと」


 少しの間、光のあった場所を見つめていた少年は、軽い呟きと共に彼の方に振り向いた。

 目を凝らし、その顔を見ようとするのだが、街灯の光を背にしているために、はっきりと見ることは出来なかった。


「いったい…なにが…」


 形に出来ない疑問が口から漏れ続ける。

 それに答えることなく少年は黙って金の鈴を掲げた。


「………忘却の鈴」


 チリン


 鈴の音と共に少年の姿が消えていく。


 チリン


「悪い夢、ですよ」


 チリン


 最後の音、少年の姿は完全に、消え去った。





 彼、榎本勇作が気が付いたとき、彼は何故か街灯の下に佇んでいた。


「あれ………」


 今晩もいつものように絶望から逃れるために飲み歩いていたはずなのだが


「私は何故こんなところに………」


 こんなところにいる理由が、彼にはさっぱり分からなかった。

 ここに来るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。

 そう、不思議な声の事も、少年のことも完全に忘れていた。

 しかし、覚えている事が一つだけ、最後にかわした、一つの約束。


「………家に帰ろう」


 彼は家路についた。

 そう、妻に託された子ども達のいる家へと。



 そして


「問題なさそうだな」


 しっかりとした足取りで、真っ直ぐ家路についた彼、それを見送った少年は満足気に呟いた。


「さてと、俺も帰るか」


 闇の中から姿を表した少年はそう言って、右手の鈴を懐にしまい込んだ。

 変わりに取り出したのは、小さなウサギのぬいぐるみ。

 青い紐に吊られたそれを軽く振ると、今度こそ完全に少年の姿は消え去った。

 後にはただ夜の静寂だけが残っていた。















 次のお話
















 後書き


 お久しぶり、希翠です。

 新連載の投稿になります。


 このSSはKANONとONEのクロスになります。

 ただKANON側からの登場人物はほとんど祐一だけになります。


 それとこのSSは設定も投稿しています。

 何分、初めて公開する設定ですので、色々と不備があると思います。

 ネタバレにならない程度、もしくは物語が進むにつれて追加していくつもりなので、何かありましたら、BBSメールにお願いします。

 それでは異伝ともどもよろしくお願いします。

 では〜







管理人の感想


 希翠さんから新しい投稿SSをいただきました。

 今回のはKanonとOne。

 Kanonからは彼です。


 祐一とOneキャラの交流が楽しみですな。

 頑張ってヒロインを仲良くなってもらいませんとね。(笑

 少年は何を持ってこの地に現れたのか?

 気になるところです。




感想は次の作品への原動力なので、送っていただけると作者の方も喜ばれると思いますよー。

感想はBBSかメール(kisui_zauberkunst@yahoo.co.jp)まで。(ウイルス対策につき、@全角)