バレンタイン狂詩曲 6


シュウ編

 機材の電源を落とし、フゥッと息を吐くと空気が白く広がった。そういえば暖房を入れるのを忘れていた。
寒さが気にならないくらい集中していたのかと、知らずシュウの口元に笑みが零れた。
 今日のクラウスの演奏は素晴らしかった。未完成ではあったが、これからずっと良くなる可能性を充分に
感じさせる出来だった。
 本当に、ここまでの成長を誰が予想できただろう。スカウトをしてきたクルガンでさえ、思いも寄らなかった
のではないだろうか。
 クラウス言うところのオーディション中、天啓を得たかのようにメロディが閃いた。早く集中したくてオーディ
ションが終わった後は皆を置き去りにして帰ってきてしまった。シードが文句を言っていることだろうが、構う
ことはない。今まで作ってきた曲の中でも最高の部類に入る曲になったのだから。
 一気に完成させてしまおうと思っていたが、ふと、クラウスの好きなようにアレンジさせてみようかと思い直
した。クラウスにインスピレーションを得て出来た曲なのだから、それが相応しい。
 この曲をプレゼントすると言ったらクラウスはどんな顔をするだろう。
『やはりホワイトデーということになるのか』
 再オーディションは一ヶ月後だから、当然そうなる。
 どうも女の子の発想のようで気恥ずかしいことこの上ないが、それで一気に告白も有りではないかと今日
一日のことを考えると思えてくる。
 なにしろクラウスから告白付きとも思えるチョコレートを貰ったのだ。これは、さすがに自惚れても良いだ
ろう。自分が貰ったチョコレートは明らかに他のメンバーの物とは違っていた。特別視されていると考えて
悪いはずがない。
『それに、まさかあんな癖があったとはな』
 オーディションの結果を伝えると、「まだまだだな」と言ったにも関わらず、何故かクラウスが「ありがとう」
と抱きついてきたのだ。
 シードが意味ありげににやついていたが、あれは単なるハグだ。以前、テディベアをプレゼントしたときも
そうだった。おそらく子供の頃からキバにそうしていたように、シュウにもハグの感覚で抱きついているのだ
ろう。だから、あれはクラウスの「癖」だ。
 もちろん、ちゃんと意味があって抱きつかれたのならそれは嬉しいに決まっているが、シュウにとってクラ
ウスの癖かどうかは大事なことだった。
 何故なら、癖だとしたら「カミューとの一件」が否定できるからだ。
 クラウスがスタジオの屋上でカミューに抱きついていたのは、ハグ以上のものではない。それにカミューに
チョコレートを渡すときは「いつも相談に乗ってくれて」と言っていた。あの時の「大好き」は特別の感情があ
ってのことではなかった。その確信が持てたのだ。
 それなら誰にも何の遠慮もいらないはずだ。二人の仲を進展させて何が悪い? 奥手のクラウスが戸惑
わないように、ゆっくりタイミングを計って進めていけばいい。
 気をよくしてヘッドフォンをはずすと、どこかで電話のベルが鳴っているのが聞こえた。
 携帯ではなく家の電話にかかっていることでハッとした。大事な電話がかかってくるはずだったのに、曲
作りに夢中になって忘れていた。集中を妨げたくないから仕事部屋に子機は置いてない。
 シュウはスタジオ替わりに使っている地下室を飛び出して階段を駆け上った。

 ダイニングで辛抱強く鳴り続けていた電話を取ると、聞き慣れたのんびりとした声が聞こえてきた。
「お仕事中でしたかねぇ」
「待たせて済まない」
「別に良いんですけどね。良い曲が書けましたか」
「ああ、まあ……で、その……」
 受話器の向こうで面白そうにクスクス笑う声が聞こえてくる。
「珍しいですね、あなたがそんな風に歯切れが悪いのは」
「ホウアン、解ってるだろう」
 怒る筋合いではないのだが、つい声を荒げてしまった。
「はいはい、ホントに手の焼ける弟君ですこと。でもまあ、いいでしょう。心配ご無用。ちゃんと片が付きまし
たよ」
「そうか」
「父さんも大概苦労したみたいですけど、元はと言えば自分が撒いた種ですしね」
「アップルは?」
「心配する気持ちは分かりますけど、もう関わるのはおやめなさい。きちんと自分で言ったのでしょう。変に
フォローなんかしたら元の木阿弥ですよ」
「そうだな」
 シュウが帰省していたのはアップルとの婚約を正式に解消するためだった。
 親同士が冗談でしたような話が一人歩きして、いつの間にか許嫁と言われるようになっていた。初めてそ
れを聞かされた時、自分は子供だったし、アップルは幼稚園にも行っていなかったはずだ。だから実感も
薄く、ほとんど忘れかけてさえいたのに、音楽に没頭している間に気が付けばアップルも十分恋愛対象とな
る年齢になっていた。しかもシュウに対して些かの恋心を抱いているらしい。
 シュウにとってアップルは妹のようなものだから、その気持ちを受け入れるわけにはいかなかった。しか
もレオン伯父はデュナンの人気を選挙に利用しようとしているから尚更だ。
 何よりも一番の問題は、クラウスがアップルの存在を知ってしまったことだ。
 親同士が決めた婚約者なんて、他の人間が聞いたら笑い飛ばして終わりだろうが、クラウスではそうは
いかない。クラウスの生真面目さと純粋さの前では、婚約者の存在はとてつもない障害になるだろう。
 だからクラウスに気持ちを伝える前にアップルのことはクリアしておかなければならないと思っていた。
 バレンタインにはアップルが(またはアップルを利用したレオンが)某かの行動を起こすことは目に見えて
いた。それを阻止するためにも、急な帰省となったのだ。

 婚約解消の席にはシュウもそれなりの覚悟で臨んだのだが、予想以上に紛糾した。
 アップル自身はそうなることを感じていたのかシュウの言葉を黙って聞きコクリと頷いたのだが、黙ってい
なかったのが父親の方だった。
 レオン伯父の言いがかりにも近いような非難を謝罪し、脅し文句を一つずつはね除けたりすることに時間
も気力も大分費やすことになってしまった。そしてテレビ出演の時間が迫っていることもあって、結局父のマ
ッシュに出てきてもらわざるを得ない状況になってしまったのだ。
『この歳になって親に解決してもらわなければならないとは』
 自分で言うのも何だが、頭はかなり切れる方だと思う。海千山千の芸能界を生き抜いてきているし、それ
なりに駆け引きは上手いはずだと思っていたのだが、レオンの狡猾さには到底及ばなかったようだ。もっと
も、その伯父を封じ込めてしまったのだから、父親はどれだけ凄いのか。
 ホウアンは何も言わないが、レオン伯父が何らかの交換条件を持ち出したであろう事は想像に難くない。
実家に大きな借りを作った気がする。

「ま、寄付金くらい安いものですよ」
 シュウの懸念を察したのか、お気楽な口調でホウアンが話しだした。
「貴方が気にすることはないんですよ。これからもっとビッグになれば三倍返しもできるでしょうし。いずれ病
院経営をする身としては、その方がありがたいですかねぇ」
 そう言ってコロコロと笑うホウアンはレオンやマッシュとは別の意味で強かで、やはり頭が上がらないと思
い知らされる。
 芸能界では天才だの切れ者だのと賞賛されているが、家に帰るとシュウはただの末っ子になってしまう。
それにレオンまで加われば己の未熟さを嫌と言うほど認識させられてしまうのだ。
『だから帰るのはイヤなんだ』
 もっとも今まで抱えていた最大の難事を解決できて(マッシュのお陰で、というところが悔しいが)当面家に
帰る必要もなくなるから、ホッとしているのも事実だった。
「親同士の馬鹿な口約束で、貴方はいわば被害者なんですから、気にしないでこれからも顔を見せに帰っ
ていらっしゃい」
 ホウアンはそう言って電話を切った。
 思いっきり気持ちを見透かされているようなホウアンの言葉に軽く溜息をついてシュウも受話器を置い
た。

 静けさを取り戻した部屋で、さすがに疲れを感じてソファに座り込んだ。
『とにかく、終わったんだ』
 この数日の緊張と、長年の重荷が取れたことでジワジワと安堵感が沸いてきた。
 子供の頃からレオン伯父は大きなプレッシャーだった。アップルとの婚約も、アップルがどうこうという以
前にレオン伯父に取り込まれることが何よりも嫌だった。そこからようやく解放されたのだ。
 ホッとすると途端に空腹を感じた。そういえば、簡単に朝食を取っただけでそれから何も口にしていないこ
とを思い出した。
 キッチンに入り冷蔵庫を開けてみたが、ビール以外ろくな物が入っていない。掃除は週に1度家政婦を雇
っているが、料理は頼んでいないし、基本的に外食が多いから食材もないのだ。
『だからクラウスと買い物をしたんだったな』
 ふと思い出して思わず笑みが浮かんだ。これからそういうことが続くのであれば言うことはない。
 それにしても空腹だった。思い出して実家から帰ってくるときにホウアンに持たされた紙袋を開けてみる
と、どうでも良いような雑貨と一緒にリンゴが入っていた。布巾でキュッキュッと強めに拭いてから皮ごとシャ
クリと囓る。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がって、ようやく胃が落ち着く感じがした。
『りんご、か』
 クラウスと食事をした思い出が残るリビングで、クラウスの笑顔と俯いたまま顔を上げなかったアップル
が重なって胸が痛んだ。可哀想なことをしたが、それでもこれ以上引き延ばして期待させてしまうよりは良
かったはずだ。
 アップルの未来のためにもそうであって欲しいと心から願う。
『それにしても』
 テーブルの上に広げられた袋の中味を見てウンザリとした。ホウアンがどうしても持って帰れと言うから
持ってきたが、くだらない物ばかりだ。りんご、缶詰、柿の種に歯ブラシ、洗剤エトセトラ。
『こんな物も自分で買えないと思っているのだろうか』
 本当に、どうしてホウアンはいつまでも母親気取りでこういう余計なことをするのだろう。
 母親はシュウの物心が付く前に亡くなっていて、だからホウアンがシュウの母親替わりになってくれたとい
う事実は確かにある。自分だって母親が恋しい年頃だっただろうに歳の離れた弟の面倒を見るというのは
大変だっただろうし感謝もしている。
 しかし、ホウアンは決して「弟思いの優しいお兄さん」だけではないのだ。
『大体なんなんだ、これは』
 袋から最後に出てきたのはアンダーウェアだった。しかも、古式ゆかしい股引というヤツだ。もう聞かなく
ても分かる。どうせ「冷えが体に一番良くないんですよ」とかなんとか言うに決まっているのだ。
『誰が履くか、こんなもの』
 ホウアンは口癖のように「私には母性本能があるみたいなんですよ」などと言うが、シュウに言わせれ
ば、ただのおせっかいで嫌がらせだ。
 だが、不思議は不思議だった。ホウアンはシュウのために先回りしたかのように色んな物を用意してい
る。音楽に目覚めたのもホウアンの影響だったし、デュナンもシュウが参加した途端に自分は引退してしま
った。
 この家にしてもそうだ。シュウはホウアンがトーキョーの大学病院にいた頃、一緒に住んでいた一戸建て
に今も住んでいる。一人暮らしで一戸建ては贅沢だと思うが、地下にホームシアタールームがあり、そこを
スタジオ替わりに使っているのだ。さすが、中古ながらバブル期に建てられた物件だけある。お陰で集中し
て仕事ができるので、かなり気に入っていた。
 もっとも貸し主の老夫婦は人気ミュージシャンが住んでいるなどとは夢にも思っていない。今でも外科の
お医者様に貸していると思っているのだ。
 弟の将来を考えて、わざわざそういう物件を探したのだとすれば、それはそれで凄いことだと思うし、感謝
しなければならないのだが……。

 そんな事をつらつらと考えていたら突然携帯が鳴り響いた。夜中にかかってくる電話など緊急以外あり得
ない。仕事か、それとも実家の方で何かあったかと慌てて携帯を取り上げたが、発信者を見て苦笑した。
「何時だと思ってる」
「あら、ご挨拶ね。ずっと電源切ってたくせに」
「ちょっと忙しかったんでな。なにか用か?」
「仕事だった?」
「ああ」
「じゃあ、お詫びにその曲ちょうだい。そうしたら許してあげる」
「断る。大体、何を言ってるんだ?」
「あなた、バレンタインデートをすっぽかしたじゃない。お店に予約いれといたのに」
「あの話、真面目だったのか」
「当たり前でしょ。場所を教えようと思って電話してるのに繋がらないんだから。今回ばかりはメールアドレ
ス聞いておけば良かったって思ったわよ」
 お互い証拠になるメールはしないことにしている。
「それは悪かったな」
「そうよ、紹介したい人がいたのに」
「紹介したい人?」
「なるほど、チョコも開けてないんだ」
「チョコ?」
「そう。手作りって強調したの、解らなかった? 連絡取れないから中にメッセージ入れたのに」
 シュウのために作ったんだから、というクラウスの声が蘇ってきた。
「まあ、見ないかもしれないなとは思っていたからいいんだけど。私と貴方はそういう仲じゃないし」
 それでも若干がっかりしたのか、声にふてくされたような響きがある。そういうアニタは珍しいので、無造
作にコートのポケットに突っ込んであった箱を、片手で開く作業に専念した。
 アニタとは同郷の仲だ。小さな地方都市では二人とも目立つ存在だったのか、会ったこともないのに付き
合ってるという噂がたったこともある。だからアニタの名前は歌劇団のトップスターになる前から知ってい
た。実際に会ったのはメジャーデビューしてからだ。芸能界で生きていくスタンスが似ていて、アニタが歌劇
団を退団してからは、競争意識はあるが気分が乗ればセックスもするという、極めてドライな関係が続いて
いた。
「これ、映画監督だろう?」
 チョコに添えられたカードには、店の名前と一緒に著名な監督の名前が書いてあった。
 上を目指すからこそ、二人ともスキャンダルには細心の注意を払っていた。それがバレンタインデートな
どと言うから、おかしいとは思っていたのだ。特に最近はシュウよりもアニタの方が慎重な感じだったから、
何か大きな仕事が入るのだろうと薄々感じていたのだが、こういうことだったのか。
「そうなの、初主演映画。これ、極秘ニュースよ」
 さすがに嬉しさを隠しきれないようだ。しかも監督は海外にも名の知られたヒットメーカーだ。
「で? 何で俺が関係ある?」
 用件は聞かなくても解る気がした。シュウとしても食指の動く仕事だ。
「監督と私の名前だけで十分だとは思うんだけど、主題歌をデュナンにしたら更にヒットすると思わない?」
「いいね」
 映画の仕事は、いつかやりたいと思っていた。
「でしょ。だから偶然を装って監督に紹介したかったんだけど、残念だったわね」
 アニタはそれほど残念でもなさそうにクスクスと笑った。今日、監督と会った感触が良くて、デュナンという
保険なしでもヒットさせる自信が出たのだろう。
「こっちはこっちでアプローチしてみるか」
 同じ事務所の俳優がその監督の映画の常連だったはずだ。
「ふふ、私のために頑張ってね」
「誰が」
「まあ、今日はチョコでも食べて、一人で悶々としてちょうだい」
 じゃあね、と言って切りそうになったアニタを思わず引き留めた。
「ちょっと待て。一人で悶々って、どういう意味だ?」
「特に意味なんてないわよ」
 ピンと来る物があった。楽屋でアニタを見たとき、妙だと思ったのだ。
「バレンタインだからと言って手作りチョコを作るようなタマじゃないだろう」
「あたしだって映画のこともあるし、少しでも印象に残しておきたいと思っただけよ。宣伝でテレビに出ること
も増えるだろうし」
 映画にかける意気込みは見事と言いたいところだが……。
「残し方が問題だな」
「何よ」
「チョコに何を入れた?」
 最初は「ひっどーい」とか「何それ」と散々ブツブツ言っていたアニタだったが、とうとうシュウの前に折れ
た。
「だから、ちゃんとメッセージ見て来てくれたら、ご褒美に二人で良い事しようかなぁと思っただけよ。来なか
ったときは、まあ、お仕置きって言うか……」
「なにがお仕置きだ。変な薬を使ったんじゃないだろうな」
「失礼ね。薬なんか使う訳ないじゃない。超高級スッポンエキスよ」
「すっぽん……って……」
「最高級品よ。明日はお肌つるつるになるんだから」
 お肌以前にすっぽんと言えば精力剤だろうがっ!
「どうせ、お前のことを考えながら悶々とすると良いな、とか思ってたんだろう」
「悪い?」
 どうやらアニタは開き直ったらしい。
「少し軽率じゃないか。何か問題でも起きたらどうする」
「そんな大した量じゃないって。それに、たくさん作ったうちの2個くらい、食べたってどうって事ないわよ。ち
ょっとハイになるくらいじゃない? 多分」
「……」
「心配なら食べてみたら? 大丈夫よ。明日になればお肌しっとりすべすべで、きっと私に感謝するわ」
 面白そうに笑ってアニタは電話を切った。

 シュウは箱の中のコロンと丸い二つの物体をまじまじと見た。
「食べる? これを……?」
 到底口に入れる気にはなれなかった。
 アニタが言ったとおり、大したことはないのかも知れない。が、すっぽんの効果を試す必要性に迫られた
ことがないから、影響力については全くの未知数だ。しかも「超のつく最高級品」というのが気に掛かる。
『まったく、俺より怖い奴がいると解っているのか』
 一番の問題はカミューだ。そもそも楽屋にアニタが訪れた時点で怪しんでいた節がある。カミュー自身は
人から物を貰ったら、まず毒が入っているのではないかと疑うタイプだから間違っても食べはしないだろう。
だが、マイクロトフに妙な物を食べさせたなどと解った日にはどんなことになるか。報復必至だから映画の
主題歌どころの話ではない。
 もっとも多少夜の方が激しくなったとしても、それがチョコレートのせいだとは思わないだろうし、なったら
なったで特に問題があるとも思えなかった。
『それこそ感謝されるかもしれないし』
 …………。
 一瞬でもそんな風に考えた自分が嫌になった。
 取り敢えず、人の分まで食べるような意地汚いヤツもいないだろう。このまま静観していても大丈夫かも
知れない。それぞれパートナーが決まっていて、本当に良かっ……。
 そこまで考えてギクリとした。
『クラウスは?』
 クラウスは食べるんじゃないだろうか?
 さすがにネクロードの事件以来慎重にはなっているようだが、基本的に人を疑うことを知らない。というよ
り、疑うという行為を好まない傾向がある。見ず知らずの人間ならともかく、有名女優の手作りなら安心して
口にするだろう。そもそも甘い物好きだから、まず間違いなく喜んでチョコを食べるに違いない。
 ハッとした。
 クラウスはあのオーディションの後、どうしたのだろう。シーナやミクミク嬢と合流したのだろうか。
 シュウは再び目の前のチョコを見た。
 このチョコを食べて女の子を前にしたとき、クラウスはどうなるのだろう。クラウスに限ってまさかとは思う
が、一応あれでも男だし、見境なしに……という可能性がないとは言い切れない。
『まずい、これは非常にマズイ』
 もし万が一、そういう事態になったとき、素面(しらふ)に戻ったクラウスは必ずや「責任を取ります」と言い
出すだろう。いや、むしろミクミクとしてはそれを狙っているだろう。
 そんな事になったら告白だの何だのと言ってる場合ではないではないかっ。

 シュウは電話と時計を交互に見つめていた。人生でこれ以上迷うことはない、と言うくらい迷っていたの
だ。
 既に深夜を回っている。こんな時間に「チョコを食べるな」という馬鹿げた電話をしても良いのだろうか。
 それにアニタのチョコが怪しいなどと言ったらクラウスは「どうしてそんな酷いことを言うんですか」と憤慨し
かねない。シュウとしてはクラウスにはあまりアニタのことを印象づけたくないのに、逆効果になりそうだ。そ
うでなくてもアニタが楽屋に尋ねてきたときに向けられた視線に、アニタとの関係を咎められているような気
がして、ギクリとしたのだ。色事にはビックリするくらい鈍いくせに、人間関係には妙に鋭いから困る。
 もっともクラウスを言いくるめようと思えば、仕事にかこつけて何とでもする自信はあった。問題はキバで
ある。こんな非常識な時間に電話をするシュウの事をキバはどう思うか。これからクラウスと付き合うとす
れば、クラウスを溺愛しているキバの心証を害するのは得策ではない。
 いや、本質的な問題は、時間でもアニタでもキバでもなかった。
 クラウスが家にいることが確認できれば、それで済む話なのだ。クラウスやキバへの言い訳の理由を考
えていられるのは良い状況だった場合のことだ。
 最悪なのは、クラウスが電話に出なかったときである。それはミクミク嬢とのあれやこれやの最中、という
可能性が大だからだ。
 好きな相手の、そんな確認を喜んでする人間などいないだろう。
 しかし、いつまでも考えている場合ではない。時間はどんどん経っている。迷えば迷うだけ、非常識度が
上がるのだ。
『ええい、ままよっ』
 こうなれば出たとこ勝負だ。キバの渋面が見えるようだが、致し方ない。
 緊張の面もちで待つシュウの耳に呼び出し音が2回鳴り、ガチャリと受話器の上がる音がした。
「夜分に申し訳……」
【ただ今、留守にしております。御用の方は携帯電話へお掛け直しください】
『…………』
 決死の覚悟で架けたのに、留守番電話にもならなかった。いや、なったとしてもメッセージを吹き込むわ
けにはいかないのだが、見事に玉砕してしまった。
『くそっ、なんでクラウスは携帯の番号を教えないんだ』
 致命的なことに未だに知らないのだ。キバの番号は知っているのに……。
 そもそも携帯を知っていればこんなに迷ったりはしなかった。
『ったく、あいつも俺に気があるのなら(と、ようやく自信を持って言える)言われなくても教えればいいのに、
おどおどと遠慮がちにしているから、こっちも聞きづらいんじゃないか』
 若干クラウスに八つ当たりをしてから、メンバーの誰かに聞くことも考えたが、それも良い考えとは言えな
かった。「え、知らないの?」と驚かれるのがオチだ。
 さすがに深い溜息が漏れる。
『これは覚悟を決めろと言うことか』
 クラウスがキバの留守に外泊をするというのは、それなりの理由があるからだろう。今の状況ではミクミク
嬢と一緒と考えるのが普通だ。今更ジタバタしても遅いのだ。
 そう思いつつも、往生際悪く携帯のアドレス帳を見ていると、キバの携帯だけでなくマルロの弟の隠れ家
とやらの電話番号まで入っている。それなのに、なんで肝心な物がないのだろう。
「ん?」
 シーナの名前を見つけた驚いた。
 マルロの弟は解る。ネクロード事件の時、クラウスが隠れ家から携帯に掛けてきたから、念のために登
録したのだ。しかし、シーナとアドレスの交換をした記憶はない。
『あの時か』
 やはりネクロード事件の時、二人で張り込みをしていて携帯を車に置いたまま外に出た。その時に勝手
にやったのだろう。
 あの状況で、手持ちぶさただからと言ってアドレスの登録をするシーナは一体、大物なのか何なのか。
 大体、携帯を見たのならクラウスの名前がないことくらい気付くだろう。どうせなら、気を利かせて一緒に
登録してくれればいい物を……。
『いや、見てないのかも知れないな』
 クラウスの名前がないと気付いたら、からかいの言葉の一つくらいかけてくるだろうし、人の携帯を盗み
見るようなせこさは感じられない。多分、赤外線で飛ばすか何かしたくらいだろう。
「シーナか……」
 彼に聞くという手もある。が、それも気が進まなかった。もし、シーナがミクミクの片割れと一緒だったら、
それは最悪の事態を意味するし、一緒でなくても詮索されるのは目に見えている。
 確かに頼りになるヤツではあるが、クラウスとの関係にこれ以上シーナを介在させない方がいいという気
がする。
 結局、問題は何も解決していない。
 アップルといいアニタといい、どうしてこう面倒なことになるのだろう。
 とにかく、女性関係は整理しよう。そんなにあるわけではないが、関係の深いのも浅いのも全部整理して
しまおう。
 今、出来るのはそれだけだ。

 アニタの意図とは別の意味で、悶々と夜を過ごす羽目になったシュウなのであった。



続く