バレンタイン狂詩曲 5


カミュー・マイクロトフ編

「やっぱりウチが一番落ち着くね」
「ああ、さすがに今日は参ったな」
 二人で顔を見合わせてクスッと笑った。
 シードに貸しスタジオを追い出されてから二人でまず考えたのが食事のことだった。なにしろ、朝食を軽く
摂っただけで生番組の収録、クラウス言うところのオーディションと続いたせいで食事をする暇がなくて、さ
すがに空腹だったのだ。が、ランチには遅すぎディナーには早すぎるという時間ではろくな店がない。考え
た末、ホテルのレストランなら落ち着いて食事ができるだろうということになったのだが、これが大きな誤算
だった。
 今年のバレンタインは月曜だからカップルは土日に繰り上げて楽しんでると思っていたのに、日にちに拘
る人は多いらしい。殊にホテルの洒落たレストランとあってか、カップルばかりが目に付く中ではなかなか
落ち着いた雰囲気にはならなかった。しかも時間が経つにつれてカップル率は高くなり、おまけにバレンタ
インを端から諦めた(もしくは敢えて無視した)30代キャリアウーマン風の女性グループまで増加してきた
のだから堪らない。チラチラと投げかけられる幾つもの視線を無言で跳ね飛ばしコース料理を平らげること
に専念して、食べ終わると同時に二人で席を立ったのだ。
「こんなに落ち着かない食事をしたのは久しぶりかも」
 カミューが苦笑混じりに言って、スカイラウンジに行くことを提案した。せっかくマイクロトフと二人、外で食
事をしたのにこのままではあまりに忙しなさすぎる。
 だが、バーの状況もレストランとあまり変わらないものだった。しょうがないので一杯だけ飲んで早々に帰
ってきたのだ。
「コーヒーが入ったぞ」
「あ、ありがと」
 カミューの部屋で当たり前のようにコーヒーを淹れるマイクロトフもマイクロトフだが、それを当然と思って
ソファでくつろいでいる自分も自分だとこっそり笑ってしまう。
「美味しい」
 深い香りを楽しんだ後、一口飲んだコーヒーは本当に絶品で、その辺のコーヒー専門店など目ではない。
 どうしてマイクの淹れるコーヒーはこんなに美味しいのだろう。
「でも今日はそんなに悪い日じゃなかったな、俺は」
「そう?」
 隣に腰掛けたマイクロトフの肩にちょっともたれてみた。柄にもなくバレンタインの雰囲気に当てられたの
かもしれない。
「確かに食事は忙しなかったがカミューと一緒に食べられたし」
 そんなことで、と可笑しくなる。
「それに、クラウスのプレイが凄く良かった」
「新鮮だったよね。昔から知ってる曲なのに始めてプレイしたみたいな気分で」
「そうなんだ。同じ曲とは思えないくらい別のイメージが広がった。インスピレーションを刺激されるっていう
か」
「ホウアンは自分の世界が出来上がっていたからね」
 マイクロトフも頷いた。
「自分では気付いてなかったけど、ホウアンに引っ張られていたんだろうな、きっと。でもクラウスとはこれ
から一緒に作っていくんだって思える。物凄く高いところまでジャンプできそうな」
「空まで?」
「変かな」
「ううん、変じゃない。解る気がするよ。若さっていうのもあるかもしれないけど、クラウスの音は素直で上に
伸びて広がっていく感じなんだよね」
「ホウアンの音も広かったけど、どっちかというと海だと思わないか? 深く漂うような感じで」
「深すぎて得体の知れないところもあったしね。ああ、だから命綱で繋がれてたんだな、私たちは」
 カミューのもっともらしいこじつけにマイクロトフが笑っている。マイクの健康的な笑顔は大好きだ。
「でもそういうミステリアスな部分もとても魅力的だったんだけどね、ホウアンは」
 何だかんだ言っているが二人ともホウアンの音楽性に惹かれてデュナンに加入したのだ。
「ホウアンヴァージョンは、それはそれでいいと思うんだ。でも俺はクラウスとやった方がしっくりきたって言
うか、共感できたな」
 胸の奥がチクリと痛んだ。マイクロトフと無条件で共感しあえるクラウスが羨ましい。
「シードのノリも良かったから、音楽的な相性はホウアンよりクラウスの方がいいのかもしれないね」
 失言だ。これじゃあ暗にクラウスと合うのはマイクロトフだけじゃないと言っているようなものだ。だからフ
ォローするつもりで付け加えた。
「それにクラウスって音に品があるからどんなに崩しても乱暴にしても演奏が荒れないんだ。あれは得難い
資質だよね」
 カミューの分析に感心したようなマイクロトフの視線が返ってきて少し苦しい。
「意外と芯も強いし」
「うむ、シュウのしごきに耐えたんだからな」
「しごきだなんて」
 思わず笑うと意外やマイクロトフは大真面目な顔をしていた。
「いや、正直俺はクラウスは保たないんじゃないかと思ってたんだ。シュウは誤解されやすくて、見込みのあ
るヤツほど当たりがきつくなるから」
 確かにデュナンに入ったばかりの頃はカミューもマイクロトフもシュウとは随分ぶつかった。あの頃はまだ
ホウアンがいたから今よりは幾分押さえていたはずなのだが、それでもやりにくいと思ったことが何度もあ
る。リーダーに選ばれたときも音楽的な主導権を握るのがシュウになることは分かっていたから「冗談だ
ろ」と即座に断るつもりだった。
 それでもリーダーになることを承知し、今では同じグループのメンバーとして上手くやっていけているのは
シュウがあらゆる意味でフェアだったからだ。
 リーダーにカミューを推したのは、自分がその器でないと認めてのことだった。音楽面でもダメな物には
容赦がないが優れた物を認めるのは早い。マイクのアレンジの方が良いと思えば潔く自分のアレンジを没
にするし、だからこそみんながシュウの目を信じるのだ。
 シードなど未だにシュウに突っかかっていっては玉砕しているが、その結果最初の物とは比べ物にならな
いくらい素晴らしい曲に仕上げたりすると、積極的にライブに採用したりする。
 もっともそれが「シードを発憤させよう」とか「もっと良い物ができるはずだ」と考えての苦言ではなく、単に
「ったく、このバカは」的にあしらっているらしいのが、シュウも大人なんだか子供なんだか解らないところで
はあるのだが。
「案外クラウスは私たちが考えている以上に強いかもしれないね」
「若竹のようなっていうのはクラウスみたいのを言うんだな。成長も早いし、しなやかで強い」
「そうだね」
 相槌を打ちながら無性にイライラしていた。
『久しぶりにマイクとゆっくり過ごせると思ってたのに、なんでクラウスの話ばかりしているんだろう』



『なんでクラウスの話ばかりしているんだ、俺は』
 マイクロトフは頭を抱えたい思いでいっぱいだった。
 せっかくのバレンタインで、それらしい準備は何もしていなかったけど、それでもクラウスのチョコのお陰で
自分たちにも特別な日という気がしていた。家に帰ってからもなんとなく良いムードだったから、自分がクラ
ウスの話など持ち出さなければ今頃甘い夜が過ごせていたかもしれないのに己のバカさ加減を呪いたい。
 しかもカミューは次第に機嫌が悪くなっているようだ。カミューの方がずっとクラウスと仲が良いから、自分
が分かったようなことを言うのが気に障ったのかもしれない
『なにか、何か別の話題はないのか』
 頭の中を総ざらえしてみるが焦っているせいか思いつく物は何もなく、再び頭を抱えたくなったときカミュ
ーが口を開いた。
「クラウスが若竹なら、私は何かな」
「カミューは桜だ」
 即答するとカミューは驚いたように目を見開いた。
「そんなこと、初めて言われた」
 大抵の人はカミューを薔薇に例える。シードなど「綺麗な花には棘がある」などと失礼なことを平気で言
う。けれどマイクロトフは常々カミューは桜なのだと思っていた。
「どこら辺が桜?」
 真っ正面から覗き込まれて、見慣れているはずの綺麗な顔にドキドキする。もしかしたら意外に真剣な瞳
の色のせいかもしれない。
「その……綺麗なところだ。みんなを魅了する……」
「1年に一回だけ? パーッと咲いてパッと散る、そんな儚い存在だって?」
 カミューがからかうように笑う。
「でも、毎年毎年、何百年も咲き続ける」
 ポツリと付け加えると、カミューは納得したのかどうか「ふ〜ん」と頷いてから「ありがとう」と言った。
 カミューを桜に例えたのは、何も綺麗だからだけじゃない。以前植木屋の爺さんから聞いたのだ。桜は弱
くて無闇に枝を切るとそこから枯れていってしまうのだと。爺さんは菌の繁殖がどうのこうのと続けていた
が、マイクロトフは説明など聞いてはいなかった。
 人や時代や他の何が変わっても桜の美しさは変わらない。何百年もの時をますます美しく誇り高く咲き続
けて見る者を惹きつけずにはいられないのに、そんなにも小さな傷に弱いなんて。
『まるでカミューみたいだ』
 いつも強気で華やかで自信に満ちたカミューの中にある、ほんの僅かな弱さに気付いていたマイクロトフ
は即座にそう思った。
 その弱さが何に起因するのか、マイクロトフには未だによく解らない。ただ、自分の中にある脆さをカミュ
ーが隠そうとしていることは解ったから、それなら俺がカミューを守ろうと思ったのだ。
『カミューが桜なら俺は花守になればいい』
 傷つきやすいから、誰かが不用意に折ったりしないよう全力で守る。でも桜はそんな事は知らなくていい。
美しく咲き続ければそれでいいのだ。
 ずっとそう思ってきた。
 けれど、もう少し自分の気持ちを上手く説明できればいいのに、とは思った。
 自分がどんなに桜を大事に思っているか、多分カミューにはちゃんと伝わっていない。しかも言われてみ
れば確かに桜が注目されるのは年に一度の事で、花の見頃もたったの1週間かそこらしかない。思う方は
勝手だが、例えられたカミューとしてはかなり微妙なところだろう。
『どうしよう、気まずい……』
 話の接ぎ穂も見つからないまま沈黙が続いて心は焦るばかりだ。
「これ、下げてもいい?」
 空のコーヒーカップをカミューが取り上げたので仕方なく頷いた。キッチンでパシャパシャと洗う音が聞こ
えて、ガックリと気持ちが落ち込んだ。
『これはもう、帰れってことなのかな……』
 それならカミューに言われる前に帰った方がいい。そうは思うものの、なかなか踏ん切りが付かなくて立
ち上がることができない。我ながら未練がましい、と思っていると「こんな所に置いてたら皺になっちゃう」と
カミューが独り言を言うのが聞こえた。
 見ると、ハンガーを手にしたカミューが置きっぱなしになっていたマイクロトフの上着を手に取るところだっ
た。
『上着を掛けてくれるんだから、まだここにいても良いんだ』
 その事にホッとした。今日はどうしても帰りたくない。
「あ」
 カミューが声を上げて床に屈み込んだ。
「ごめん、落としちゃった」
 テーブルの上に置かれたのはチョコレートだった。
「ああ、ポケットに入れたままだったから」
 並べられた二つのチョコレートは、なんだか随分対照的に見えた。
『チョコレートもラッピングで随分違うのだな』
 クラウスのはゴールドの包み紙ながらシンプルなリボンがかかっているだけだが、アニタのは紙の素材も
折り方も凝っていてリボンは花のように丸くなっている。
 そんな派手なラッピングなのに、実は今までマイクロトフの中では全然意識されていなかった。何しろ手渡
されたとき、とても色っぽい流し目で見られて『一人一人にこうやって渡さなければいけないなんて女優は
大変だなぁ』と思っていたからラッピングにまで気が回らなかったのだ。
「そんなにお気に入り?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
 どういう風に紙を折ればこんな風にラッピングできるのか、折り方に興味あったのだ。時々ファンレターに
もとんでもなく小さく変わった形に折ってある物があってとても開きづらいのだが、女性はそういう凝ったこと
が好きなのだろう。
「クラウスはセンスがいいよね、このチョコ選ぶなんて」
「チョコにセンスとかあるのか?」
「そりゃ、あるでしょう。ゴテゴテ飾り付けてないし」
 上機嫌そうなカミューの言葉に少し棘を感じたが、クラウスの話題が続くことに『もう勘弁してくれ』という気
持ちの方が強かった。クラウスを気に入っているのは分かるが、今は二人の話をしたい。
「珍しく朝からソワソワして落ち着きがないからトーク番組で緊張しているのかと思ってたんだけど、いつチョ
コレートを渡そうかってずっと考えてたんだよね、きっと」
「シュウ、メチャメチャ驚いていたな」
 適当に相槌を打ちながら他の話題を必死に探し始めていた。
「それは驚くよ。クラウスは感謝の気持ちだって言ってたけど、かなりストレートに告白してたし」
「普段は大人しいのに吹っ切れると大胆になるな、クラウスは」
 全員が呆気にとられたあの瞬間を思い出してマイクロトフも思わず顔を綻ばせた。
 それにカミューはちゃんとクラウスがシュウに告白したと分かってる。カミューはグループのメンバーとして
クラウスを大事にしているんだから、あまり束縛するようなことを考えてはいけないのだ。
「どんな顔をしてチョコレート売り場に行ったんだろうね。ちゃんと全員分買ってくれて、ホント、可愛いんだ
から」
 だめだ、そんな優しい目をしてクラウスのチョコレートを手に取ったりしないでくれ。
「でも義理チョコだぞ」
 言わずもがなの事を思わず言って、言った瞬間後悔した。これじゃ嫉妬丸出しじゃないか。
 けれどカミューは特に気にすることもなくクスクスと面白そうに笑っていた。
「あのね、義理チョコだから楽しいの。いいよね、気軽にもらえるチョコレートって」
 ああ、そうか。ついでに貰うことなんて滅多にないから、それが楽しいのか。
「カミューは本命チョコばかりだからな」
「そうなんだよね」
 カミューには昔からバレンタインに決死の覚悟で告白してくる女の子達が(ついでに男も)後を絶たなく
て、中には思いも寄らない行動で迫ってくる子もいて断るのに苦労していたのだ。そしてマイクロトフはその
度に秘かに気を揉んでいた。
「ウチのグループって、あまりプライベートな付き合いがないだろ? まあ、個々に親密な間柄っていうのは
あるけど」
 個々に親密……それには俺とカミューも入ってるんだよな?
「クラウスからチョコを貰って『こういうのも良いな』って思ったんだよね」
「確かにファンや仕事で貰う義理チョコとはちょっと違う感じがした」
「だよね。アニタの義理チョコよりクラウスの義理チョコの方が嬉しかったし」
「しかしアニタという女性はもっと派手なのかと思っていたが意外と細やかな気配りをする人なのだな」
 ずっと他の話題を探していたマイクロトフはアニタの名前に飛びついた。クラウスの話題でなければなん
でもいい気分だったのだ。
「まあ、女性タレントは誰でもバレンタインデーは気を使うと思うけどね。彼女、そつがなさそうだし」
「俺も最初はそう思ったんだが、彼女は女優だから俺たちミュージシャンに配っても何のメリットもないだろ
う? ADにもあげてたし、案外優しいんだなと思って」
「ふーん」
 否定こそしなかったがカミューの笑顔に不穏な物を感じて冷や汗がたらりと流れた。
『俺はまた何か失敗してしまったのか?』



『どうして他の女の話を嬉しそうにするんだ、マイクは!』
 せっかく桜なんてロマンティックな例えをしてくれて嬉しかったのに。
 それなのに、どうして同じ口でアニタを褒めたりするんだろう。
『私のせいか? クラウスの話題を蒸し返した私が悪いのか?』
 だってしょうがないじゃないか。
 マイクロトフが桜だと思ってくれていた。それが嬉しくてどんな顔をしていいか分からないから洗い物で時
間を稼いで誤魔化したくらいなのに、このバカはアニタのチョコレートを真剣な眼差しで見ているんだから。
ほんのちょっとムッとしてクラウスを使って突っついただけなのに、なんでアニタの話で盛り上がらなきゃい
けないんだろう。
 それに、アニタが「優しくて気配り上手」だって?
 確かに女優とミュージシャンでは接点は少ないが、どこで一緒に仕事をすることになるか分からない。デ
ュナンの人気を考えたら顔見知りになっておくには今日は絶好のチャンスだったに違いない。クラウスに最
初に手渡したのも絶対に断らない相手だと思ったからだろう。クラウスが受け取れば他のメンバーにも渡し
やすくなる。
 ADに渡していたのだって、単純に優しさだけではないだろう。フリーならともかく、テレビ局の正社員なら
ADだっていつまでもADのままでいるわけではない。数年後には人気ドラマのプロデューサーになる可能
性だってあるのだ。
『そういう意味では最大の気配りをしてるとは言えるけど』
 シュウやクルガンは元よりシードも意外と冷静な目を持っているから自分だけがこんな冷めた見方をして
いるとは思わない。それに多分、この推測は間違っていない。
 でもマイクは絶対そんな風には考えない。そして多分、クラウスも。
『本当に甘いんだから』
 そこがマイクロトフの良いところなのに、すぐに物事の裏側を考えてしまう自分の方が哀しいのに、これは
ただの八つ当たりだ。
「カミュー?」
 マイクロトフが機嫌を窺うように見ている。
『私が怒ったことに気付いたな』
 それにも苛ついて、つい毒を吐いていた。
「それにしても義理チョコを配ったくらいで『優しい女性』になるなんて、マイクの言う優しさって随分安くな
い?」
 マイクロトフが「いや」とか「そんな訳じゃ」とか、しどろもどろになっているのがまた気に障る。
「チョコで歓心が買えるなんてすっごいお手軽な男だよね」
 ああ、だめだ。絶対に言いすぎだ。
 なのに口は止まらない。
「そんな物が嬉しいんなら来年は私もあげるよ。精々喜んでみせてよね」
 どうしよう、マイクロトフが真顔になってる。
「カミュー、本気で言ってるのか?」
「本気だよ」
 謝りどころの着地点を見失ったまま、言葉だけは強気に答えた。マイクロトフの顔をまともに見られない。
「ありがとうっ! カミューッ!」
 いきなりガシッと抱きしめられた。
「な、何?」
 ジタバタと藻掻いてやっと体を離してもらうとマイクロトフの頬は紅潮し目は輝いている。
「だから、俺にチョコレートをくれるんだろう?」
「う、うん」
 勢いに押されて頷くと「やったぁ」と叫んで再びギュウッと抱きしめられた。予想外の展開に頭が付いてこ
ないカミューはされるがままだ。
「カミューからチョコレートを貰えるんだ。嬉しいに決まってるじゃないか!」
 怒っていないらしいことはよく分かった。そして物凄く喜んでいるのもよく分かった。でも、その理由が思い
あたら……。
『そうか、そう言えばマイクにチョコレートを贈った事ってなかったんだ』
 もう10年以上も前になるが、バレンタインのチョコレート攻勢にウンザリして「バカの一つ覚えみたいにチ
ョコレートばかり」とぼやいたら、マイクロトフが気まずそうな顔をしていたのだ。その時に『もしかしたら用意
してくれていたのかな』と、もしそうならマイクからの初めてのチョコレートになるはずだったからとても後悔し
たのだが、以来お互いにチョコレートを贈ったりすることは一度もなかった。
『だからって何もこんな、全力で喜ばなくても』
 苦しいよ、と言おうとした時、マイクロトフが元気に叫んだ。
「そうだっ、俺もカミューに贈るぞ。とびっきりのチョコレート!」
 心臓がドキンと高鳴り目眩がするような陶酔感を味わった。
『ただのチョコレートなのに、マイクから貰うのがこんなに嬉しいなんて』
 カミューの鼓動の高鳴りに気付いたのか、マイクロトフの腕が優しい抱擁に変わった。
 その抱擁に応えてマイクロトフの背に腕を回そうとしたとき目の端にアニタのチョコレートが飛び込んでき
た。
『お邪魔虫』
 そっと手を伸ばしてテーブルの下にあったゴミ箱に落とした。思った以上にカタンと大きな音がしたがマイ
クロトフは気付かなかったようだ。後でなくなったと大騒ぎするかもしれないが、その時は何とでも誤魔化せ
る。
『大体、私の目の前でマイクに色目を使うなんて、いい度胸をしてるじゃないか、あの女』
 当然、自分がもらった分はとっくにゴミ箱の中だ。アニタに対して、実は既に戦闘意欲満々なのである。
 誰にも渡さない、とばかりにギュッと抱き返すとマイクの優しい声が降ってきた。
「来年のバレンタインデーが楽しみだな」
「1年も先だよ?」
「それは仕方が……」
「だから、その前に二人で桜を見に行こう」
 見上げるとマイクロトフの顔が嬉しそうに微笑んだ。
 そうだ、そうしたら桜の詩を書いてみよう。そしてマイクに曲をつけてもらおう。名曲が数ある中で今更だ
けど、発表なんてしなくていい。私たちのためだけの曲なんだから。

 マイクロトフの優しい口づけに夢見心地になりながらそう思っていた。



続く