愛と青春の日々 1


「ねえ、マイク」
 楽屋に入ってきてしばらくきょろきょろしたクラウスはマイクロトフに話しかけた。
 カミューはクルガンと何やら打ち合わせをしていたし、シードはメイクさんと冗談を言って盛り上がっている。シュウはと
てつもなく分厚い本を読んでいたから他に話しかける相手がいなかったのだろう。
「何だ?」
「夜のおもちゃってなあに?」
 それはもしかして「大人の」と同じ意味だろうかとギョッとしてマイクロトフは硬直した。もっともそれはマイクだけではな
い。他のメンバーもクルガンもメイクさんも衣装さんにADも、とにかく楽屋の中にいた全員が一斉にクラウスを注視し
た。
「ク、ク、クラウス」
 真っ赤になってしまったマイクロトフにクラウスはキョトンとしている。
「な〜んだ、クラウス。ちょっとは大人になったのかな〜」
 シードが面白そうに寄ってきた。それを合図にしたかのように固まっていたスタッフが動き出した。だが、耳がダンボ
になっているのは間違いない。ちょっと伝言に来ただけのADもぐずぐずしている。
『なんだってこんな所で』
 クルガンが頭を抱えたくなったのは言うまでもない。
 よりにもよってテレビ局という人の口に戸を立てられない場所で、何て事を言いだしたのだろう。
「大人?」
「そ。だーれーにそんな事、教えてもらったんだ?」
 ちゃかしているが、シードは内心ムッとしているらしい。
 何だかんだと言いながらシードはクラウスのことを気に入っている。ちょっとしたお兄さん気分だったから、他の奴がち
ょっかいを出したとなると面白くない。
 それに甚だ心許なくはあるがクラウスにだって年相応の知識はあるだろうし、あーんな事やこーんな事は恋人と追求
していけばいいことだ。余所の誰かがお節介を焼いてわざわざ下卑た知識を与えることもないだろうとシードは怒って
いるのだ。(つまりシードも結構過保護なのだ)
「誰って…少しだけかっこいい人」
「知らないヤツなのか」
 コックリとクラウスは頷いたが、これはあまり当てにならない。元々そんなにテレビを見ない生活をしていたらしく、こう
いう業界にいる割には芸能人やタレントといった人間に妙に疎いのだ。だからクラウスはテレビ局に来ると、失礼があ
ったらいけないと言ってそこら中の人間に「おはようございます」と頭を下げている。
「その人がいきなり話しかけてきて、毎晩ゴピーは辛いよねって。ゴピーも分からないんだけど、シード知ってる?」
「ゴピー?何だ、それ」
「それでね、あんた、あの4人の夜のおもちゃなんだろうって」
 楽屋中が凍り付いた。
「誰だっ、そいつはっっ!ぶん殴ってやるっっっ!!!」
 いきなり激高したシードにクラウスはビクンッと首を竦めた。
「もう向こうに行っちゃったから」
 オロオロと答えるクラウスにカミューも近づいてきた。
「クラウスはそれで何か言い返したの?」
 いつになく厳しい顔をしたカミューにクラウスは叱られた子供のような表情をした。
「あの、何か嫌な感じだったから、違いますって言ったんだけど…」
 周りからホッとしたような溜息が出た。
「それでいいからね、クラウス」
 カミューに優しく言われて、だがいつもならホッと口元を綻ばせるだろうにクラウスはまだ浮かない表情をしていた。
「他にも何か言われたの?」
 それと察したカミューが促したが、クラウスは慌てて「ううん」と否定した。
「嘘はダメだぞ、クラウス」
 マイクロトフにも言われたが、クラウスは躊躇っているように視線を落とした。
「今度遊ぼうとか言われたんじゃないだろうな」
 シードの言葉にクラウスは目を見開いて答えた。
「凄い、どうして分かったの」
「何だとーっ、本当にそんなこと言われたのか」
「う、うん。…僕もおもちゃの開発は得意だから今度遊ぼうねって」
 シードは一瞬にして頭が沸騰した。それは他のメンバーも同じだった。
「クラウスッ!そいつの人相を言えっ!とっつかまえてフクロにしてやるっっっ」
「あの、ちゃんとお断りしたから…」
「そーゆーレベルの問題じゃないっっ!!!なに暢気な顔してんだよ、お前はっ」
「シードッ、クラウスに当たってもしょうがないだろう。落ち着けっ!」
 滅多に大きな声を出さないマイクロトフまでが怒っているようでクラウスは慌てて周りを見渡した。カミューは顔を強ば
らせて恐い目をしていたしクルガンも難しい顔をしている。
『どうしよう、またみんなに迷惑かけてる』
 そう思ったらシュウの方を見ることが出来なかった。きっと怒っているに決まっている。シュウが怒っているところは見
たくなかった。
「ご、ごめんなさい」
 怒りが沸点に達していたメンバーだったが、クラウスが謝るのを聞いて慌ててフォローに回った。
「クラウスが悪いんじゃない」
「でも」
「マイクの言うとおり。クラウスは何も悪くないんだ。その男が、とても卑劣で最低のヤツなんだから」
「お前、セクハラの被害者だぞっ」
「セクハラ?」
 クラウスは初めてみんなが何を怒っているのか理解したようだった。
「そうだよ、くっそー。ふざけやがって」
 憤懣やるかたないといった面もちでシードが唸っている。
「いいか、クラウス。今度そいつに、そいつじゃなくて他のヤツでもそんなこと言われたらガツンと殴ってやるんだぞっ。
男なら戦えッ」
「いや、殴るのはまずい」
 シードの言葉をカミューが否定した。クルガンも同じ注意をしようとしていたから、さすがにリーダーだけあって冷静だ
と思っていたら、カミューはとんでもないことを続けて言った。
「そんなことをして突き指でもしたら大変だから、回し蹴りにするんだよ」
「回し蹴りより膝蹴りの方が効くだろう」
「おい、マイクロトフ、お前まで…」
 だが静かに怒っているメンバーにクルガンの声は届かない。
「そうか、そうだな。じゃあ、クラウス、そういうヤツには股間に膝蹴り。分かった?あと、ついでにマイクから護身術も教
わって。いいね」
「は、はい」
 早速クラウスに指導を始めたマイクロトフにクルガンももう口を挟まなかった。
 殴り合いの暴力事件は避けたいところだが、護身用ということなら、まあいいだろう。それに何より、クルガンもその馬
鹿野郎にむかむかしていたのだ。



 リハーサルが終わってプロデューサーの「いやあ、今日はいつにもまして迫力あるねぇ」と言う言葉を苦笑してやり過
ごして楽屋に戻ってきたが、誰の気持ちの中にも憤りが残っていた。
「しっかし、ちょっと売れてるからって、いけ好かない野郎だぜ。大体5Pって何なんだよ」
 シードが怒っているのは例のクラウスに暴言を吐いた男のことだった。
 結局あれから問題の男を探り出すべく、ADに局内にいそうなタレントをリストアップさせ(クラウスはテレビ局のスタッ
フにも可愛がられていたからみんな手伝ってくれた)クラウスからは根ほり葉ほりその男の人相風体を聞いて、クラウス
がまた特別に記憶力がいいときているから、あの男で間違いないだろうと思われる人気俳優が浮かび上がっていた。
「ったくあのヤロー、目が見えない妹のためとかいって売り出した割には小狡そうな顔してると思ってたら案の定だぜ」
「だが他にもそんな風に考えるヤツはいるんだろうな」
 マイクロトフの声は憂鬱そうだった。
「うん、だから逆にテレビ局で騒ぎになったのは良かったかもしれないよ」
「何でさ」
 シードがカミューに突っかかった。
「少なくともあの場にいた人間は私たちにそんな事実はないってはっきり分かっただろうし、幸か不幸か口の軽い人も
多いから」
「それはそうかもしれないけど」
 クラウス本人は事情がよく分かっていないからか、もう何ともない顔をしている。それよりも今は大学のテストのことで
頭がいっぱいらしく、心理学だか哲学だかの本を出してシュウに教えてもらいながら勉強をしていた。
 その様子を見ながらシードがぼやく。
「シュウも何考えてるんだか」
 結局あの騒ぎの時、シュウは一言も口を利かなかった。
「何も言わないから怖いんでしょう。内心、腑が煮えくりかえってるんじゃないですか」
 カミューの言葉にマイクロトフが深く頷いていた。



 クラウスは車窓から流れる光を眺めながらホッとしていた。
 昼間、妙なことから騒ぎになってしまった。クラウスはどうしてみんながあんなに恐い顔をしていたのか今ひとつよく分
かっていない。だが、きっと怒っているだろうと思っていたシュウは何も言わなくて、むしろどうして良いか分からなくなっ
ていたクラウスを騒ぎの渦中から引っ張り出してくれた。クラウスがテレビ局に入る前にチラッと漏らした「明日テストが
あるから」という言葉を覚えていてくれたのだ。

 シュウは物凄く頭が良い。クラウスも決して成績は悪くないが(むしろ良い方なのだが)シュウにはとてもかなわないと
思う。問題に対する着眼点が鋭いのだ。そしてシュウは教え方も上手かった。
 たまたま頭を抱えていたレポートのことを何気なく話したら、とても的確なアドバイスをしてくれて、以来面倒臭そうにし
ながらも時々教えてくれるようになった。そうしているうちに家が車で十分と離れていないところだと分かって、3回に2
回はシュウの運転で送ってくれるようになったのだ。
 最初は緊張して車に乗っていたクラウスだったが、今ではどうしてあんなにシュウを怖いと思っていたのか分からな
い。決して会話が弾むわけではなかったが、車中の空気はいつも穏やかで居心地のいいものだった。今では送っても
らうのを楽しみにしているくらい二人でいることにも慣れていた。

 今日もテスト勉強を手伝ってくれて、いつも通り帰るのも誘ってくれたのが凄く嬉しかった。
 シュウは怒っていないのだ。
 そう思ったからクラウスは信号待ちで車が止まったとき、思い切って切り出してみた。
 ずっと気になっていて、でも誰にも聞けなかったことがある。
「セクハラって」
 シュウがほんの僅か緊張したのだがクラウスは気付かなかった。
「あの、セクハラって仕事上の不利益を盾に性的嫌がらせを受けることですよね。今日のことで、何かみんなに迷惑を
掛けてしまったんでしょうか。テレビの仕事がなくなるとか…」
「そんなことはない」
 シュウはクラウスをチラッと見るとしょうがないな、というように苦笑した。
「本来の意味はそうなんだが、一般的には単純に『性的嫌がらせ』という意味で使われるから、シードもそのつもりでセ
クハラと言ったんだろう」
 その答えにクラウスはホッとした。何よりもシュウが微笑んでくれたことで安心した。
「良かった。もし迷惑を掛けちゃうんだったら黙ってればよかったって…」
 クラウスが驚いて言葉を切ったのはシュウが腕をきつく掴んだからだった。
「そういう事は言わなければダメだ。いいな」
「……」
 後続の車がクラクションを鳴らしていた。いつの間にか信号が変わっている。シュウは車を発進させながら厳しい声で
話を続けた。
「ああいうヤツに会ったら相手にしないですぐに逃げろ。もし手を出してきたら、マイクロトフに教わった護身術を使え。
まずいと思ったときでは遅いんだ。遠慮はするな。絶対だぞ」
「はい」
 シュウの真剣な声に押されて思わず返事をしていたが、クラウスは今ひとつ実感を伴っていなかった。
『結局教えてもらえなかったけど、夜のおもちゃってそんなに大変なことなのかな』
 シュウが聞いたら間違いなく頭を抱えたことだろう。