愛と哀しみのボレロ 1
いかにも頭が良さそうに見える額、嫌味なくスッと通った鼻筋、酷薄そうなイメージを与えている唇も今は穏やかに閉
じられている。
怖いくらいに整った顔をクラウスはそっと見下ろしていた。
『シュウがうたた寝しているなんて』
本当に珍しいことだった。いつものシュウなら決して誰にも自分の無防備な姿など見せたりはしない。
『やっぱり睡眠不足だったのかな』
休憩時間はとっくに過ぎている。レコーディングスタジオにはみんな集まっているのにシュウだけが来ない。控え室に
入っていくのを見たというスタッフがいたのでクラウスが迎えに来たのだが、うたた寝というよりは本格的に寝ているよう
に見えた。
シュウは曲も作るしアレンジもするkらスタジオに入る前から徹夜が続いていたらしい。アルバム製作中はかなりハー
ドスケジュールをこなしているんじゃないかと思っていたのだが、さすがに疲れが出たのだろう。
クラウスは長身を長椅子に横たえて眠っているシュウに屈み込んだ。
『わ、まつげ長いんだ』
その長いまつげが影を作っているせいか、顔色が少し青白く見える。艶やかな長い髪が額にかかるのを指先でそっと
かき上げて、本当に綺麗だと思った。いつもシニカルな表情をしているけれど、それでもシュウの美貌を損なうことはな
い。まして今は穏やかな寝顔なのだから、その何倍も綺麗に見えた。
クラウスがこんなに間近でシュウの顔を見ることはない。最初の頃は単純に怖かった。何でも見通していそうなシュウ
の視線に、隠していることなんて何もないのに怖くて目を合わせることが出来なかった。それが誤解で本当は怖い人じ
ゃないと分かったのに、今度は何故か恥ずかしくて目が合わせられないのだ。たまに視線が合うと心臓が跳ね上がる
ようにドキドキする。クラウスが安心してシュウの姿を見ていられるのはシュウがこちらを見ていないと分かるときだけ
だ。
だから滅多にない機会に、つい顔を寄せてじーっと観察してしまって、そして一瞬自分が何をしたのか分からなかっ
た。
『…えっと…今…』
だが唇には柔らかな感触がしっかりと残っている。
『え?え?えぇ?いま、今、なに?……キス?』
カアッと全身が燃え上がるように熱くなって、心臓が体中に響くように鳴っている。
今、自分はシュウにキスをしたのだ。しかも唇に。
自分で自分のやったことが信じられない。どうしてそんなことになったのかも分からない。気が付いたら吸い寄せられ
るようにキスをしていた。
混乱したまま呆然と動くことも出来ずにシュウの寝顔を見つめていた。
『どうしよう、どうしよう』
バカみたいにそればかり考えて、だが頭で考えるより体の方が先に動いていた。
『起きちゃうかもしれない』
そう思ったがダメだった。もう一度、震えながら顔を寄せて、少し躊躇ってから静かに唇を合わせた。
「クラウス、シュウを呼んでくるのに…」
ギクリとして反射的に体を起こすと、唖然としたようなカミューがドアの所に立っていた。
『見られた』
そう思ったら居たたまれなくてカミューを突き飛ばすようにして走り出した。「クラウスッ!」とカミューが叫ぶ声が聞こえ
たけれど、立ち止まれるはずがない。
夢中で走って階段を駆け上って気が付いたらビルの屋上に出ていた。心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしているの
は階段を駆け上ったからだけではない。柵にもたれて座り込むと両手で顔を覆った。
いきなり気付いた自分の気持ち。自分でも思いがけなかった行動。
それだけでも頭の中がグチャグチャになりそうなのに、あんなところをカミューに見られてしまった。
カミューはどう思っただろう。シュウに知られてしまうのだろうか。変な噂になったらどうしよう。ううん、私はいいけれ
ど、もしシュウに迷惑を掛けたりしたら。シュウに嫌われちゃったらどうしよう。
どうしよう、どうしよう。シュウが好きなのに。
ポンッと肩を叩かれてハッとして顔を上げるとカミューが穏やかな微笑を浮かべて立っていた。アッと思って逃げようと
したが、簡単に阻まれてしまった。
「こら、何で逃げようとするの。やっと追いついたのに。結構足が速いんだね」
隣に座り込んで「あー疲れた」と言ってカミューは笑った。
「シュウが好きなんだね」
なにかうまい言い訳が出来たら、そうは思ったけれどシュウとは別の意味で鋭いカミューを誤魔化せるはずがない。
コックリと頷いて、その後慌てて付け加えた。
「お願いだからシュウには言わないで」
「もちろん、言うわけないでしょう。そういうことは自分で告白しなきゃね」
クラウスはちょっと首を傾げた。カミューの反応が予想していたものと少し違う。
「クラウスから告白されたらシュウも喜ぶと思うよ」
「どうして?だって男同士なのに、変だって思わない?気持ち悪いって思われたら…」
「そんなことを言ったら、私も変で気持ち悪いことになっちゃうな」
「…」
「私もマイクロトフが好きだから。そう言ったら、クラウスは私のことを気持ち悪いって思う?」
「ううん」
思いっきり首を振った。驚く気持ちはあったけれどそれは突然の告白に対してであって、カミューの言葉に対してでは
ない。気持ち悪いなんて思いもしなかったし、それどころかずっと前から知っていたような気さえしていた。いつもカミュ
ーがとても優しい目でマイクロトフのことを見ているのを思い出したから。
「ありがとう」
カミューはニッコリと笑った。
「でも、気持ち悪いって思う人も確かにいるんだよね。だけどシュウはそういうヤツじゃないから。だからクラウスは素直
な気持ちでシュウにぶつかってごらん」
「そんなことをして、シュウに迷惑を掛けない?」
「ほら、クラウスの悪い癖が出た。周りを気遣えるのはとてもいいことだけど、それに縛られて行動を起こせないのは悲
しいだろう。たまには強引に出ないと相手に伝わらないことだってあるんだよ」
「でも、どうすれば」
「クラウスはシュウとこういう風にしたいな、って思う事はないの?」
少し考えてクラウスが口を開いた。
「あの、私から一緒に帰りたいって言ってもおかしくない?」
カミューはクスクス笑ってクラウスを抱き寄せた。
「もう、本当に可愛いんだから。頑張ってクラウスから誘ってごらん。応援してあげるよ」
「本当?ありがとう、カミュー大好きっ」
「シュウ、遅れてる」
「分かってる。すまん」
「調子、悪ィみたいだな」
「…」
ブースの向こうからカミューに手招きをされてシュウが憮然とした面もちでスタジオから出てきた。
「今日はこれで上がろうか」
カミューの声にマイクロトフが頷いた。
「その方がいいかもしれないな。シュウの顔色も良くないし。疲れてるんだろう」
「いや、そんなことはない」
「でも、シュウ、あの」
クラウスの言葉にシュウはうるさそうに眉を顰めた。クラウスが怯んだように口を閉じたのを見て、カミューがやれや
れというように少し口元を綻ばせた。
「いーや、疲れてるんだよ、シュウ。疲れてるからそんな顔をするんだろう。よしっ、みんな今日はおしまい。それぞれゆ
っくり休養を取ること」
カミューが宣言してスタッフが機材を片付け始めた。
「気をつかわせたな。すまん」
珍しく殊勝なシュウにカミューが苦笑した。
「たまにはこんな事も良いんじゃないかな。でも、明日は頼んだからね」
「ああ」
「あの」
二人の話が終わるのをウロウロと待っていたクラウスが声をかけた。
「シュウ。一緒に帰ってもいい?」
「…すまないが、今日は送っていくのは」
「あの、あの、疲れてるんだったら私が運転するから」
その様子を見ていたシードが「へえ、今日は逆だね」とマイクロトフに囁いてた。確かに珍しい光景だ。
だが、シュウは機嫌が悪いのか、あっさりと断った。
「悪いが、今日はカミューに送ってもらえ」
「え?」
声を上げたのはマイクロトフでクラウスはガッカリしたように沈黙している。
「じゃあ、お先に」
幾つもの問いたげな視線を置き去りにしたまま、シュウは出ていってしまった。
マイクロトフはふとガラスに映った自分の姿に目を留めた。
『なんてつまらなそうな顔をしているんだろう』
一人でポツンと座っている自分の向かいの席ではカミューとクラウスが随分と仲良さげに寄り添っている。
とても居心地の悪い思いに溜息をつきそうになって慌ててコーヒーを口に流し込んだ。溜息をつくのはカミューが嫌が
るのだ。「溜息をつくと物事は悪い方に転がっていく」というのがカミューの持論だったから我慢したけれど、それはもう
面白くなかった。
スタジオを出てからカミューはクラウスに付きっきりだ。今も三人でカフェにいるのに、カミューは落ち込んでいるらしい
クラウスをしきりに慰めている。クラウスがそんなにシュウと帰りたかったのだとは知らなかったが、それにしたって俺の
カミューを独占しなくたって良いじゃないか、とかなりムッとしていた。
レコーディングが中止と決まってシードは嬉しそうにクルガンに電話を掛けていた。スタッフは「細かいスケジュールの
変更もちゃんとクルガンさんに連絡するんですね」と感心していたが、あれは単に「時間があいたから会おうぜ」という意
味なのだ。
本当だったら、不意に訪れたオフに自分とカミューだってゆっくり一緒に過ごすことが出来たはずなのだ。一緒に見た
かった映画だってあるし、ようやく手に入れた輸入盤のCDを聞くのでも良かった。いや、特に何をしなくてもカミューと二
人で過ごせる時間が何よりも大切なのだ。
『それなのに全く』
クラウスのことは可愛いと思うし自分も好きだ。けれど、青少年の悩み事相談なら別の日にやって欲しかった。
溜息こそつかなかったが、珍しくマイナス思考になっていたマイクロトフを現実に引き戻したのは携帯電話の呼び出し
音だった。
鳴っているのはカミューの携帯だったが、カミューは自分で取ろうとせず目線で「出て」と言っていた。
まったくもう、とマイクロトフはいささか乱暴に携帯をとりだした。そんなにクラウスを最優先にしたいのなら、最初から
携帯の電源を切っておけばいいのだ。
「もしもし」
自然、声もやや不機嫌な物になっていた。だが電話の向こうの相手はそんなことに頓着していなかった。
「カミューッ!じゃなくて、マイク?もうどっちでもいいやっ。何でもいいからすぐ病院に来てっ」
「シードか?どうしたんだ、病院って」
上辺はお調子者っぽく見えるが、肝が据わって度胸満点のシードがこんな風に緊迫した声を出すなんて滅多にないこ
とだ。「病院」という単語がいやが上にも不安を煽ってマイクロトフの声も険しくなる。
さすがにカミューとクラウスも怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「落ち着いてる場合じゃないって。シュウが事故った」
マイクロトフは携帯電話を取り落としそうになっていた。


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