愛と哀しみのボレロ 5 
          
           
          
           
          
          
          「ごめんなさい」 
          
           ティーカップは割れなかったがクラウスがたてたカチャンという音は意外と響いたらしい。元々クラウスとカミューに気
           
          付いていたらしいウェイトレスが様子を見に来たので思わず謝っていた。何でもないと分かったウェイトレスはニッコリし
           
          て立ち去ったが名残惜しそうにチラチラとこちらを見ている。きっとデュナンのファンなのだろう。 
           
          
           そんなつまらないことを冷静に観察している自分がとても不思議だった。 
          
          『アップルさんがシュウの婚約者…』 
          
           そうか、シュウにはちゃんと決まった人がいたんだ。 
          
           そんな話は信じたくなかった。嘘か冗談だったらいいのに、と心のどこかで考えている未練がましい自分がいる。でも
           
          ホウアン先生がそんな嘘を言うはずがない。 
          
           アップルは自分のことを控えめに幼馴染みだと言っていた。きっと良い子なのだろうと思う。それにシュウの側にいら
           
          れるだけで幸せそうな顔をしていた。 
          
          『お似合い、かな』 
          
           男の自分といるよりずっと似合っているはずだ。そして、もしシュウが起きていたらクラウスは見たこともないような眼
           
          差しでアップルのことを見つめていたのかもしれない。今まで二人がそうしてきたように。 
          
          『馬鹿だな、私は。一体何を期待していたんだろう』 
          
           シュウが寝ていて良かった。二人が仲良くしている姿なんて見たくなかったから。ホウアン先生に教えてもらって良か
           
          った。ちゃんと心積もりをしていれば今度二人に会ってもいつも通りに笑えるだろう。 
          
           不意に目の前が曇って慌てて目をパチパチと瞬かせた。 
          
          「すみませんでしたね」 
          
           声を掛けられてハッと顔を上げると心配そうにこちらを見ているホウアンの目とぶつかった。どうやら随分長い間俯い
           
          たままだったらしい。 
          
          「驚かせてしまいましたね。でも、あなたがシュウの事をそんな風に思っていてくださって嬉しいですよ」 
          
          「えっ」 
          
           思わずカミューを見ると、自分は何も言ってないというようにカミューが慌てて首を振っている。 
          
           まさかホウアンはこんな僅かな時間でクラウスの気持ちに気付いたとでもいうのだろうか。 
          
           シュウへの気持ちをストレートに言い当てられて真っ赤になったクラウスの頭をいいこいいこ、と撫でるとホウアンはも
           
          う一度謝った。 
          
          「少しあなたを驚かせようとして勿体ぶった話し方をしてしまいました。最初からそうと分かっていたらこんな言い方はし
           
          なかったのですが。すみませんでした」 
          
           そしてホウアンはクラウスの顔を覗き込むと「大丈夫ですか」と優しく尋ねた。 
          
          「ホウアン、それはどういう意味?さっきの話は質の悪い冗談だとでも言うわけ?」 
          
          「いえ、それは本当ですよ」 
          
           あっさりと否定されて、さしものカミューも言葉が続かない。 
          
          「婚約は本当ですがシュウが望んでそうなった話ではないのですよ。だから安心してくださいね」 
          
           そう言われてもクラウスは何を安心すればいいのか解らない。 
          
          「もう少し解るように話してくれないかな」 
          
           クラウスの気持ちを代弁するようなカミューの言葉にホウアンは苦笑した。カミューも少し焦れているのを感じたから
           
          だろう。 
          
          「ですから、婚約といっても親同士が決めたものなのですよ」 
          
          「そういうことか」 
          
          「ええ。親が勝手に決めたことでシュウが承諾したわけではないですから正式に婚約しているとは言い難いのですが、
           
          地元では結構知られていましてね。まあ、言いふらしてる人間がいるからなんですが」 
          
           ホウアンには珍しく苦い顔をしている。 
          
          「じゃあ、お父上はあの子、アップルだっけ?の事を気に入ってるってこと?」 
          
           カミューの言葉にクラウスはピクリと反応した。実はクラウスもそう思っていたのだ。 
          
           シュウのお父様はシュウに相応しいと思ってアップルを婚約者に選んだのだろう。シュウがそれを断らなかったのは
           
          シュウもアップルのことが好きだからではないだろうか。 
          
          「そうですね。はっきり言ってアップルのことはとても可愛がってます。アップルも父のことを尊敬して慕ってくれています
           
          しね。でも、それと結婚は別でしょう。父が内心どう思っているか聞いたことはありませんが、シュウの気持ちを無視して
           
          押しつけるほど愚かな人じゃありません。そもそもシュウが大人しく言うことを聞くとは思えませんしね」 
          
          「じゃあ、何でシュウは断らないんだろう」 
          
          「一応、態度で示していますけどね。ただ、アップルがいじらしいほど健気なので、さすがに面と向かって婚約解消だと
           
          は言えないみたいですね。ああ見えて案外優しいところがありますから」 
          
          「でも」 
          
          「そんなにあの子を責めないでやってくださいな」 
          
           まだ納得しかねるという様子のカミューにホウアンが苦笑した。 
          
          「あそこの家とは親戚なんですよ。親族でゴタゴタするのが面倒だと思っているうちにズルズルとここまで来てしまったと
           
          いうのもあるとは思うんです。ですが、アップルが成人する前にははっきりさせるつもりだったみたいですし」 
          
          「親戚?」 
          
          「ええ。アップルの父親が私たちの父の叔父に当たるのです。遅くに出来た子供で可愛くて仕方がないから滅多な相手
           
          には嫁にやれないとか、そんなことを言ってましてね」 
          
          「なるほどね。今時、親が決めた許嫁なんてあるのかと思ってたけど、そういう事情か」 
          
          「ねえ、信じられないでしょう。そんな、時代錯誤も甚だしい。大体どこまで本心か解りませんし」 
          
           どことなく棘のある言葉が引っ掛かったが、クラウスは頭の中と気持ちを整理することが精一杯で聞き返すことも出来
           
          ない。多分カミューが色々聞いてくれているのは何も言えないでいるクラウスの代わりにやってくれているのだ。 
          
          「でも、やっぱり私には分からないな。そういうのって名家の宿命なの?」 
          
           既に最初の衝撃から立ち直っているカミューは、まだ呆然と話の聞き役になっているクラウスを振り返ると説明をして
           
          くれた。 
          
          「クラウスは知らないと思うけどホウアンとシュウの家ってかなり凄いんだよ。旧家っていうのかな。大地主の上に総合
           
          病院も経営してるし」 
          
          「そんなにいいもんじゃありませんよ。地方で医者をやっていれば色々と頼りにされることが多いっていうだけなんで。し
           
          かも、こんな面倒臭いことまで起きますしね」 
          
           溜息をつきかけたホウアンにカミューが首を傾げた。 
          
          「あれ?だけど許嫁を決めるんだったら跡取りのホウアンの方が先だろう?」 
          
          「さすがカミュー。いいところに気が付きましたね」 
          
           ホウアンは何だか楽しそうだ。 
          
          「実はアップルは最初、私の婚約者でしてね」 
          
          「はぁ?」 
          
           さすがにカミューが呆れた声を出した。 
          
          「どういう事?」 
          
          「ですから本当にお酒の席で出た冗談のようなものだったのですよ、最初はね。それが、どこから聞いてきたのかアッ
           
          プルが幼稚園に入った頃かな。私よりもシュウがいいって言い出して。確かに私は十六も年上で成人していましたし、
           
          五歳の女の子の目から見たらシュウの方が歳が近いしかっこいいしで気持ちは分かるんです。ただ、十六も離れてい
           
          たからこそ冗談ですんだんですけれど」 
          
          「相手がシュウとなると話が現実味を帯びてくると」 
          
          「そうなんです。そもそもアップルの父親っていうのは非常に遣り手の代議士なのですが切れ者過ぎるというのか、あま
           
          り評判がよろしくなくてね。それで地元での地盤が弱いのと敵が多いのをカバーしようとしてか、うちとより強い関わりを
           
          持ちたがっていたんですよ」 
          
          「ただの後援者じゃなくて?」 
          
          「ええ。父の好むと好まざるとに関わらず、地元で政治的な発言力があるのは事実ですしね」 
          
          「じゃあ、アップルさんのお父さんは政治家として地盤を固めるために、シュウやホウアン先生のお家と繋がりたいとい
           
          うことなんですか」 
          
           ようやく頭の整理が付いてきたクラウスの問いにホウアンが頷いた。 
          
          「そう。私が言うのも何なのですが、父は社会的地位だけでなく人間的にも非常に優れた人で父を慕っている人は多い
           
          のです。だからそのバックアップを受けたいのでしょう。アップルは悪い子じゃないんです。むしろすごく良い子で。けれ
           
          ど父親の方はね。私との婚約というのも案外本気だったかもしれないなんて、最近は思うくらいで」 
          
          「縁戚を結べればホウアンでもシュウでもどっちでも良かったって事か」 
          
          「ええ。でも今はシュウ一本に絞っているでしょうけれど」 
          
          「どうしてですか」 
          
          「デュナンがありますから」 
          
           ホウアンの答えにカミューは忌々しそうに呟いた。 
          
          「そういう風に利用されるのはごめんだな」 
          
           今ひとつ意味が掴みかねているクラウスにホウアンが説明してくれる。 
          
          「シュウが娘婿となれば選挙の時に有利でしょう。応援演説なんてあの子がするとは思えませんけど、それでもデュナン
           
          のシュウという名前を出せば選挙に興味がないような若者層の支持を期待できますからね」 
          
          「そんな…」 
          
          「もしかして、シュウとアップルが婚約してるって言いふらしてるのはその父親本人か?」 
          
          「その通り。相変わらずいいカンしてますね、カミュー」 
          
           だが、カミューは難しい顔をして黙り込んでいた。 
          
          「親戚とのいざこざなんてみっともない物をお聞かせしちゃいましたね。あなたも呆れているでしょう」 
          
           だが、クラウスは首を振った。 
          
          「そういう事はどこの家にもあるって父が言ってます」 
          
           実際クラウスも面倒な親族の顔なら即座に幾つでも思い浮かべることが出来る。 
          
           ウィンダミアは母方の姓だ。母方の親戚には名門のプライドに寄りかかって生きている人が多い。その一人娘である
           
          母と結婚するために家柄も地位も名誉も財産も何も持っていなかった父がどれほど苦労したか。父は何も言わない
           
          が、今でも父の出自を聞こえよがしに言う親族の態度を見ればクラウスも大抵のことは察しが付いた。 
          
           そしてクラウスが両親を尊敬しているのはそんな障害を物ともせずお互いの気持ちを貫いたことだ。しかも父は母の
           
          家柄に相応しい男になるべくゼロからのスタートで世界でも有数の企業の重役となり、内情は借金だらけだったウィン
           
          ダミアの家をしっかりと建て直したのだ。そうやって父の財力の恩恵に与りながら、それでも成り上がりと陰口をたたく
           
          人たちもいる。 
          
           だからホウアンとシュウが抱える親戚との事情というのも少しは解るつもりだった。 
          
          「そう言ってもらえると嬉しいのですが」 
          
           クラウスの口振りに何かを感じ取ったのだろうが、ホウアンはそれ以上その件については言わなかった。 
          
          「まあ、レオン大叔父が何を企もうがシュウだってそんなことは百も承知しています。それにアップルには恋愛感情はあ
           
          りませんから」 
          
           ホウアンはクラウスを見てニッコリ笑うともう一度繰り返した。 
          
          「シュウはアップルのことを妹のようには思っていますけど、恋人にランクアップさせる気はないんですよ。それは分かっ
           
          てあげてくださいね」 
          
           クラウスの心臓が一気に跳ね上がった。 
          
          『それって私にも可能性があるっていうこと?』 
          
           そんなことを言われたら思いっきり期待してしまうではないか。しかもカミューが「そんなこと分かってるよ」と事も無げ
           
          に答えたから更に鼓動が激しくなった。 
          
          「だから不思議なんです。いつものシュウならアップルとは一定の距離を置いて決して期待させるようなことはしなかっ
           
          たのに、今回に限って何故側にいることを許したのか」 
          
          「事故にあって気が弱くなった、ってことはないよね」 
          
          「あの子に限って、まさかね。大体、だとしたら側に置きたい人は別にいるでしょうし」 
          
          「えっ、そんな人がいるんですか」 
          
           心底驚いた声を出したクラウスにホウアンとカミューが吹き出した。 
          
          「まあ、それはいいんですけど」 
          
           クラウスとしては全然良くなかったが、二人とも相手にしてくれない。 
          
          「うちは母がもう亡くなっていますし、他に看病に来るような人間もいないので、アップルに負けないでシュウに会いに来
           
          てあげてくださいね」 
          
           ホウアンに念を押されてクラウスはしっかりと頷いていた。 
          
           
          
           
          
           
          
           目が覚めて最初に目に飛び込んできたのは花瓶に生けてあるチューリップだった。 
          
          『クラウスか?』 
          
           瞬間的にそう思った。愛らしい花がとてもクラウスらしい。多分見舞いに来てくれたのだ。 
          
           じっとチューリップを見つめているシュウに気が付いたのかアップルが声を掛けてきた。 
          
          「そのお花、クラウスさんが持ってらしたんですよ」 
          
           ああ、やっぱりと思うと同時に、シュウは酷く後悔していた。 
          
           アップルが甲斐甲斐しく側に付き添っているのを見たときに感じた後悔など、これに比べれば小さい物だ。 
          
          『どうしてあの時あんな見栄を張ったのか』 
          
           タイミングが悪かった。ちょうどカミューがいるときにアップルが入ってきたのだ。 
          
           いつもなら可哀想だけれど、そのまま追い返していただろう。だがカミューにクラウスがいなくても大丈夫だと、面倒を
           
          見てくれる人間はいるのだからもう余計な気を遣うなと言いたくて「頼む」と言ってしまった。 
          
           馬鹿なことをしたものだと今なら思う。 
          
           クラウスに一言「頼まれたからといって無理に来なくていい」と言えばすむことだったのだ。 
          
           それなのに余計なことを言ったせいでアップルには無用な期待をさせてしまったし、関係者の中には二人の仲を勘ぐ
           
          る者も出てくるだろう。アップルがいたからといってクラウスは別に何とも思わないだろうが、シュウとしてはそういう誤解
           
          (もしくは曲解)をされるのは避けたかった。 
          
           それにアップルが出入りしていることがマスコミに分かったら、これは好意的な報道にはならないだろう。このスキャン
           
          ダルは明らかにマイナスイメージになる。これ以上の迷惑をデュナンに掛けたくはない。 
          
          『考え方がクラウスに似てきたか』 
          
           思わず苦笑が浮かんだが、本当に迂闊なことをした。こういうときこそマスコミが一番人の出入りをチェックしているに
           
          違いない。しかもアップルの父親は自らリークしかねない狡猾な人物なのだ。 
          
           とにかくアップルに帰るように言わなくては、そう思ったところにホウアンが入ってきた。 
          
          「さあ、アップル。一緒に帰りましょうか」 
          
          「え?私ずっと付き添うつもりで」 
          
          「家族でもないあなたにそんなことは頼めませんよ」 
          
           相変わらず穏やかな口調ではあったけれど、容赦のないホウアンの言葉にアップルは項垂れた。 
          
          「好意は嬉しいですが、過ぎると迷惑になることもあります。今日はホテルに泊まって明日帰りましょう。いいですね」 
          
           アップルはシュウを見た。 
          
          「今日、来てくれたのは嬉しかった。だが、すまないがもう…」 
          
          「わかりました。今、支度します」 
          
           全部を聞きたくないというようにアップルが洗面所にパタパタと駆け込んでいった。気まずい思いでいるシュウにホウ
           
          アンはニコニコして寄ってきた。 
          
          「全く出来の悪い弟を持つと苦労すること」 
          
          「ああ、感謝している」 
          
           ぶっきらぼうに答えるとホウアンは楽しそうに言った。 
          
          「本当に感謝してるんだったらお礼に、今度クラウスとデートさせてくださいな。あの子は可愛くて大好きですよ」 
          
          「何を言ってるんだ。それは俺が許可するような事じゃないだろう」 
          
          「おや、まだ物にしてないんですか。随分と弱気だこと」 
          
           完全にからかわれている。だからこいつに弱みを握られるのはいやなんだとホウアンのおしゃべりに辟易していると
           
          やっとアップルが戻ってきた。 
          
           二人が帰っていってからも、寂しそうなアップルの後ろ姿が目の前にちらついていた。 
          
           何をやっているんだ、俺は。クラウスが俺を見ていないからと言って逃げて他の人間を傷つけて良いことにはならない
           
          だろうに。全く情けない。 
          
           せめてクラウスには毅然としている姿を見せたかった。 
          
           
          
           
          
           
          
           翌日、クラウスは旅行鞄をパンパンに膨らませて、何やらすごい意気込みで現れた。 
          
           まさか毎日来ることはないだろうと思っていたのだが、スケジュールが空いたから旅行にでも行くことになって挨拶に
           
          来たのかもしれない。本当なら次に見舞いに来たときには「カミューに頼まれたからといって無理に来ることはない。そ
           
          れよりもっと好きな人との時間を大切にしろ」くらいのことを言ってやろうかと思っていたのだが、どうやら考えすぎだっ
           
          たらしい。 
           
          
          『これはこれで未練がましいな』 
          
           内心苦笑しながら少しホッとして何気なく言ったのだ。 
          
          「もう来なくていいぞ」 
          
           すると見る見るうちにクラウスの目に涙がたまっていった。ギョッとしたシュウにクラウスが涙声で訴える。 
          
          「私では役に立たないですか」 
          
          「そんなことは言ってない。そうじゃなくて頻繁に見舞いに来るのは大変だろうと思って」 
          
          「全然大変じゃないです」 
          
           クラウスはクスンと鼻を鳴らして目を瞬かせてる。どうも苦手な雰囲気になってきてシュウは慌てていた。 
          
           大体何でいきなりクラウスの涙を見ることになってしまったんだろう。 
          
          「一ヶ月くらい全然平気です」 
          
          「医者はそんなことを言ってるらしいが、それほど大事に至る怪我ではなかったんだ。俺もそんなに長くここにいる気は
           
          ないし」 
          
          「じゃあ、もっと平気です。毎日来ます」 
          
          「だからその必要はないと」 
          
          「毎日来たら、迷惑ですか」 
          
          「…いや、そんなことはないが、そんなに暇じゃないだろう。仕事以外に大学だって」 
          
          「だから、大丈夫ですっ」 
          
           どうも調子が狂う。シュウは何だか押され気味だった。 
          
          「クラウス、カミューに頼まれたのかもしれないが、そんなに一生懸命やらなくても…」 
          
          「誰にも頼まれてません。どうしてそんなことを言うんですか」 
          
           また目をウルウルさせているクラウスにシュウは沈黙せざるを得ない。 
          
          「アップルさんの邪魔はしませんから」 
          
          「…アップルは関係ない」 
          
          「あの、アップルさんはどこにいるんですか?」 
          
           どうしてそんなことを気にするのか、とはクラウスのどこか気迫に満ちた目を見ると言えなかった。 
          
          「帰った」 
          
           すると一瞬クラウスが嬉しそうな顔をした。 
          
          「じゃあ、付き添いは誰が?」 
          
          「元々完全看護の病院なんだ。付き添いは必要ない。事務所からヨシノさんも様子を見に来てくれることになっている」 
          
          「それだったら私が付き添います」 
          
           シュウは呆然としていた。 
          
           一体クラウスは今まで俺が話したことを聞いていたんだろうか。 
          
          「だから無理にそんなことをしなくても」 
          
          「私がいたら邪魔ですか」 
          
          「そんなことはないが」 
          
           クラウスはてこでも動かないという顔をしている。 
          
           一体カミューはクラウスに何と言って付き添いまで引き受けさせたんだろう。 
          
          「今日はちゃんと泊まり込みの準備だってしてきたんです」 
          
           そういってパンパンの旅行鞄をドンとサイドテーブルの上に置いた。 
          
          「その大荷物…」 
          
          「シュウの着替えと私の着替えと、あとシュウが退屈しないように本でしょ。あっ、五線紙も持ってきたんですよ。それか
           
          らCDもたくさん持ってきたから好きなのを選んで…」 
          
          「クラウスッ、そこに広げなくていいから」 
          
           振り向いたクラウスの目は楽しそうだった声とは裏腹に不安そうに揺れていた。 
          
          「迷惑ですか…?」 
          
          「いや」 
          
          「あの、他に誰か付いていて欲しい人がいるんですか」 
          
          「そんな人間はいない」 
          
          「本当に?」 
          
          「うそを言っても仕方ないだろう」 
          
          「だったら、私がここにいてもいいですか」 
          
          「…うむ」 
          
           クラウスの熱心な言葉につい頷くと本当に嬉しそうにニッコリと笑った。 
          
           クソッ、こんなに綺麗な笑顔を見せられたら都合がいいように解釈したくなるじゃないか。 
          
           それでもクラウスがパタパタと動き出したのを目で追いながら、少しくらいこの雰囲気に甘えても良いだろうかとシュウ
           
          は思い始めていた。 
          
           
          
           
           
          
           
          
             fin.    
          
           
           
          
            
          
           
          
           
          
           
          
          
          何となくうまくいきそうな気配を残してシリーズの終了です。 
          
          ここまでお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。 
          
          この数ヶ月、自分でも書いていてとても楽しかったです。 
          
           
          
          と、言いながら本格的にさよならする気はありません。(おい) 
          
          いや、ここまで書いてると結構愛着湧いちゃって。(笑) 
          
          まだ少しネタもあるので単発で少しずつ書いていきたいなと思っています。 
          
          で、いきなりですが『愛と哀しみのボレロ』の後日談を 
          
          来週アップできたらしたいと思ってます(笑) 
          
          よろしかったら覗いてやってくださいませ〜。 
          
          海棠倫 拝 
          
           
           
          
           
          
               
          
           
          
            
          
          
           
           
          
           
         |