愛と哀しみのボレロ 4


 フッと目を覚ましてクラウスは自分がどこにいるのかよく解らなかった。いや、確かに自分の部屋の自分のベッドなの
だが、窓からの日射しがとても明るいので混乱したのだ。
 何で昼間なのに寝ていたのだろう。病気でもないのにこんな時間にベッドに入っていることは滅多にない。
 一体どうしたんだっけ、とぼんやりと考えてからハッと事故のことを思い出した。
『そうだ、シュウが事故を起こして』
 ガバッと起き上がって慌ててベッドから滑り降りたが足がもつれて床に倒れ込んでしまった。まだ半分寝ているような
状態でいきなり動いたから体が付いていかなかったのだ。幸い厚いカーペットの上だったから怪我はしないですんだ
が、そのまま座り込んで順々に昨日からのことを思い出していた。
 シュウが事故を起こして大騒ぎになったのだ。もしシュウがいなくなったらどうしようと思ってもの凄く怖かったけれど、
幸いにも命に別状はないと解って心の底からホッとした。
『シュウが好き』
 そう気付いたばかりだったから無理を言って病院に付き添わせてもらって、それで戻ってきたのが10時過ぎだった。
だからこんな時間に寝ていたのだ。
 一通り思い出してホッと唇に笑みを上らせた。大変な事件だったし、慣れない付き添いで体もギクシャクと強ばってし
まったけれど、それでもシュウと二人っきりでとても幸せな時間だったのを思い出したのだ。
 暗い病室で目覚めたシュウの笑顔を見たときは思わず泣いてしまった。
 そんなクラウスをシュウは気遣ってくれた。あんな酷い怪我をして、シュウは何も言わなかったけど傷だって相当痛む
はずなのにクラウスの体のことをいとってくれて、それがとても嬉しかった。
 家に戻ってきてからも神経が高ぶっていたのか、疲れているはずなのにゆっくりお風呂に入ってもベッドに入ってから
も少しも眠くはなかった。それでもシュウを心配させたくなくて一生懸命目を瞑っていたのだ。
『目が覚めたらまたお見舞いに行こう。それで居てもいいって言われたら、また付き添って…』
 そう思ってるうちに寝てしまったらしい。時計を見ると浅い眠りではあったけれど三時間ほどは寝られたようだった。
 シャワーを浴びて着替えると少し気分がしゃっきりした。タキさんが作ってくれた焼きたてのパンでおやつに近い昼食
を済ませると、さてどうしようか、と考えた。
『これからのスケジュールについては決まり次第連絡する』
 昨夜、クルガンはそう言っていたけれど、まだ何も連絡がないところを見ると今日がオフになるのは間違いないだろ
う。だとしたら、やっぱりシュウの所に行きたかった。今から出ればちょうど面会時間になるはずだ。
「タキさん、これから出かけるから」
 タキは万事心得たというように頷いた。
「でもクラウス様、旦那様がお体を心配していましたから無理はしちゃいけませんよ」
「うん、大丈夫。そんなことになったらシュウからも怒られちゃうし」
 クラウスがニッコリ笑うとタキも「そうですねぇ」ち柔らかい笑みを見せた。



 お見舞い、といえば花束は必需品である。
 クラウスは病院に行く前に行きつけの花屋さんに立ち寄っていた。
『お花っていいな』
 色とりどりの花に囲まれているだけで心が和んでくる。その中でもチューリップに目がいった。
『いろんな種類があるみたい』
 花びらの先が尖っているのや八重になっているのもあってとても綺麗だ。
『これにしようかな』
 ピンクの八重になっているのが気に入った。華やかだけれど可愛いらしくて病室においたらきっとシュウの目を楽しま
せてくれるだろう。
「やあ、いらっしゃい」
 声を掛けてきたのはアレックスだ。奥さんのヒルダさんと一緒にこのフローリストを経営している。顔に似合わず、と言
っては失礼だがセンス良く綺麗な花束を作ってくれるのでクラウスはよくアレックスに頼んでいた。
「このチューリップで花束をお願いします」
「お見舞いかい。大変だね」
 クラウスはこの店が開店したときから来ている。だからデュナンのメンバーになって回りが特別扱いするようになって
も、アレックスとヒルダは芸能界の話は一切しないでそれまで同じように接してくれていた。だが今回の事故はさすがに
気になったらしい。アレックスが口にするくらいだから、それだけ世間の関心を集めたということになるのだろう。
「色々お騒がせしてすみません」
 クラウスが頭を下げると慌てて「ああ、余計なことを言ってごめんよ」と言った。しまったと顔に書いてあるのが気の毒
で何でもないように話を続けた。
「でもそんなに酷い怪我じゃないみたいなんです。だから心配しないでくださいね」
「そう、良かったね」
 そうやって話している間にもチューリップをまとめて見せてくれた。
「ほら、なかなか綺麗だろ」
「本当、すごく綺麗ですね」
「じゃあ、こんな感じでいいかな」
「はい、お願いします」
 アレックスが花束の仕上げに掛かっているとヒルダが出てきた。
「クラウスさん。いらっしゃい」
 いつ見ても綺麗な人だなと思いながら挨拶をするとヒルダが花束を見て「あら」と言った。
「まあ、綺麗ね。彼女が出来たの?」
「は?」
 思わずアレックスと顔を見合わせてしまった。
「いいえ、シュウのお見舞いにと思って」
「あ、そうなのね。ごめんなさい。勘違いしちゃったわ」
「あの、どうして?」
「大したことじゃないの。ただ、とても可愛い花束だったから女の子にあげるのかなって思って」
 風に震える薄い花びらが幾重にも重なったピンクのチューリップは華やかで綺麗ではあるけれど、どこか可憐な感じ
がする。言われてみれば確かに女の子向きのようだった。
「……シュウのイメージじゃないかも……」
 花束に目を落としてガッカリしたように呟いたクラウスにアレックスが慌てて取りなした。
「いや、ちょっとミスマッチでいいと思うよ。受けるかもしれないし」
「受けてどうするのよ、あなた」
 その会話を聞いていたら余計に悲しくなった。
『チューリップはやめよう』
 もっと大人っぽい、シュウに似合うような花にしよう。
「あの、ごめんなさい。それやめます。えっと…薔薇の花がいいかな。白…じゃなくて真紅の薔薇」
「真紅の薔薇だと背伸びしましたって感じがするよ」
 クッと唇を噛んだクラウスを見てヒルダがアレックスを咎めるように見た。
「まあ、うちは構わないけどね。薔薇の方が値段高いし」
「そういう問題じゃないでしょう」
 ヒルダがグイッと前に出た。
「ごめんなさいね、元はといえば私が変なことを言ったからいけないんだけど、無理に変えることはないのよ。クラウスさ
んがいいと思って選んだ花なんだもの、きっとシュウさんも喜んでくれると思うわ」
「でも」
「それに薔薇は綺麗だけどみんなが選ぶだろうからチューリップの方が絶対目立つわ。今頃病室は薔薇だらけよ」
 それは確かにそうかもしれないけれど…。
 クラウスの迷いを鋭く察知したのだろう。ヒルダはガンガン押してきた。
「私はお見舞いに来てくれた人の個性が分かる花の方がいいと思うの。チューリップの花束って明るくて可愛いし、これ
を見たらきっとシュウさんもクラウスさんのことを思い出すわ」
「…本当?」
「そうだな。確かに可愛いところなんかクラウスさんっぽいよね」
「可愛いって…」
 んもう、とヒルダが肘でどんとアレックスを突っついている。
 自分が可愛いと言われているようで少し引っ掛かるが、もしこの花束でシュウがクラウスのことを思い出してくれるの
ならこんなに嬉しいことはない。
「ありがとうございました〜」
 結局クラウスはチューリップの花束を抱えてタクシーに乗り込んだ。



 クラウスだって免許を持っているし車も持っている。免許を取ったときに父がお祝いと称してローバーミニを買ってくれ
たのだ。もっとも、わざわざ生産中止になった中古車を買ったのは、クラウスのためというよりは自分の思い出のため
だったらしい。生前の母が可愛い車だと言って随分気に入っていたらしいのだ。
 本当は久しぶりに運転したかったし、クラウスの運転を見た人は「意外に上手いね」と言ってくれるから(意外に、とい
うところが不満ではあるが)運転には自信がある。だが、時期が時期である。こんな時にクラウスまで何か問題を起こし
ては大変だと思って運転は自重したのだ。
 タクシーに指示をして病院の特別駐車場に入れてもらう。カミューから「ここはVIP専用でマスコミも容易に入り込めな
いからこっちを使うんだよ」と教えてもらっていたのだ。もっとも入るには事前に許可が必要らしいのだが、シュウが入
院していることを警備員も聞いているのだろう。クラウスの顔を見るとあっさりと通してくれた。
『すっごい。顔パスって言うのかな。テレビ局でもダメなのに』
 テレビ局ではどんな人気ミュージシャンだろうと大物俳優だろうと身分証明書無しには入れないのだ。初めての顔パ
スに少し気分が弾んでいた。それに家を出る前にカミューから連絡が入っていて脳波の検査も異常がなかったというこ
とを聞いていたのだ。
 だから足取りも軽く病室の前に立つとノックもそこそこにドアを開けようとした。
「はい?」
 だが、中から若い女性の声が聞こえた。
 予想外の出来事にドアを開けようとした手が止まっていた。クラウスは病室にはシュウの他、誰もいないと思っていた
のだ。いるとしてもクルガンかカミューのどちらかだろうと思っていた。
『看護婦さん?それとも別の…』
 事務所から誰か手伝いに来ているのだろうか。そう言えばヨシノさんは元看護婦だった。けれどヨシノの声ではない。
 その時初めて気が付いた。シュウの事を心配しているのはクラウス達だけではない。シュウにだって当然家族はい
る。クラウスはお兄さんのホウアンに一度会ったことがあるだけでシュウの口から家族の話を聞いたことはないが、家
族の人ならクラウス以上にシュウの容態を心配しているはずなのだ。
『もしかしたらシュウのお母様かな』
 それにしては若いような気がしたが、クラウスははっきり言って女性のことはよく解らない。まして声だけで判断するな
んてお手上げである。
 どちらにしてもシュウの身内の人には違いない。
 いささか緊張しながらドアを開けると、出迎えてくれたのはクラウスより年下に見える眼鏡の少女だった。
 一瞬病室を間違えたのかと思ったが少女はニッコリ微笑むと「クラウスさんですよね」と言った。
「こんにちは、初めまして。私、アップルっていいます。シュウ兄さんの付き添いに来ました」
「初めまして。シュウに妹さんがいるなんて全然知りませんでした」
 するとアップルはふふっと意味ありげに笑った。
「違うんです。兄さんっていうのは子供の頃からそう呼んでいただけで、私たち幼なじみなんです」
「そうなんですか」
 そう言いつつも何か釈然としない。幼なじみというだけで家族を差し置いて付き添いに来るものだろうか。
「あの、シュウのご両親は?」
「おじさまはとてもお忙しくて。だから私が代わりに」
「でも、学校は?」
 何故か詰問するような口調になってしまったがアップルは気にする様子もなく朗らかに答えた。
「父が休んで構わないって。シュウ兄さんが大変なときなんだから付いていてあげなさいって言って、色々手配してくれ
たんです」
 一応の疑問は解けたのだが、それでもやっぱりクラウスは腑に落ちない思いでいっぱいだった。
「あ、お花ありがとうございます。とっても可愛いわ。きっとシュウ兄さんも喜びます」
 やっぱり薔薇にすればよかった、と猛烈に後悔していた。アップルは花を可愛いと言ったのだろうが、何だか自分の
子供っぽさを指摘されたような気がしたのだ。
 それに、花束を渡して手元が軽くなったら急に不安が膨れあがってきた。
 一体この子はシュウの何なのだろう。

「シュウの様子はどうですか」
「今お薬で寝ているんですけど、どうぞこちらにいらしてくださいな。さっきまで刑事さんがいらしてたから疲れたみたい
で」
「刑事?」
「ええ、事故の様子を色々と聞きにきたんです。すごいんですよ、シュウ兄さん。事故の原因になった車のナンバーをし
っかり覚えてて、あんな状況だったのにって刑事さんもびっくりして。でもお陰で加害車両が特定できるって喜んでまし
た」
 シュウがすごい事くらい知っている。素敵な曲を次から次へと書いて演奏も完璧で、何でも知っていて判断も的確で、
そんなことなら幾らでも知っているのに今のアップルの話の前では何の意味もないような気がした。
 なんだか妙な感じだった。朝までこの部屋はシュウとクラウスの空間だった。カミューが訪れたときに出迎えたのはク
ラウスで、ちゃんと付き添いが出来たこととシュウとクラウスの部屋にお客様を迎えたようなシチュエーションが嬉しくて
駆け寄ったりもした。
 それなのに今ここはアップルの部屋でクラウスが客なのだ。アップルにどうぞ、と言われないとシュウの枕元に近づく
ことも出来なかった。
 朝まで枕元にいたのはクラウスなのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。あれは夢だったのだろうか。この
疎外感は何だろう。
『そうだ。シーナがシュウとドライブをしたって言った時と同じ感じだ』
 シュウの寝顔は穏やかで、それにはホッとしたが、嫌な気持ちが渦を巻いていた。
「今日から私が付き添いますから、クラウスさん達は安心してお仕事をしてくださいね」
「……よろしくお願いしますね…」
「着替えとか必要な物は一通り持ってきたんですよ。任せてください。シュウ兄さんのためだったら、私…」
 頬を染めているアップルに居たたまれなくなる。
 しかも今言われて初めて気が付いた。入院の付き添いをするのだったら必要な物があったのだ。着替えの用意だな
んて考え付きもしなかった。花束一つ持ってきて、それで付き添いをしようだなんて、そんなの何の役にも立たないじゃ
ないか。
「せっかくいらしたんですから座ってください。果物むきましょうか。シュウ兄さん、リンゴが好きだからいっぱい買ってき
ちゃって、そんなに食べきれないってさっき怒られたばかりなの」
 その言葉でようやく腑に落ちた。
 ああ、わかった。結婚した従兄弟のお姉さんに似ていたのだ。父と一緒に新婚家庭にお祝いを持っていったら、こん
な風に嬉しそうにもてなしてくれた。
 アップルに感じていた違和感の正体が分かって、そうしたらとてもこの部屋にはいられなかった。
「いいえ、もうこれで失礼します」
「そうなんですか。じゃあ兄さんにはクラウスさんがお見舞いに来てくださったってちゃんと伝えておきますね」
 クラウスはぎこちなく笑顔を浮かべて会釈すると病室を後にした。



 ぼんやりと廊下を歩いて目に入った喫煙スペースのソファに腰を下ろした。
 アップルはシュウの事が好きなのだ。親も認めているようなことを言っていた。シュウはどう思っているんだろう。シュ
ウが看病してくれと頼んだのだろうか。
 その時ポンと肩を叩かれて顔を上げると思いがけない人がいた。
「ホウアン先生」
「シュウのお見舞いに来てくれたんですか。貴方も疲れてるでしょうに、ありがとうございますね」
「いいえ、私なんか…あの、先生も?」
「先生なんて言わなくていいですよ。まあ、私は様子を見てこいと親に仰せつかりましてね。今、主治医の先生から詳し
いことを伺ってきたんですが、外傷と打撲が治れば大丈夫のようですよ」
「そうなんですね、良かった」
「まあ、少しは痛みが続くかと思いますが、あの子には良い薬ですから」
 ホウアンの言葉は初めて会ったときのように暖かみのある物だったがクラウスは強ばったような笑みを浮かべること
しかできなかった。当然ホウアンにも分かったのだろう。気遣わしげにクラウスを見ていた。
「元気がありませんね」
「そんなことないです」
 そこへカミューが現れた。
「ホウアン、こんな所にいたんだ。あれ、クラウスも来てたんだね」
 力無く頷くクラウスを見てホウアンが提案した。
「これから三人でお茶をしませんか」



 病院の喫茶室にしては洒落た店内でクラウスもカミューも黙りこくっていた。そんな二人をホウアンは黙って見つめて
いたが、やがて口を開いた。
「二人とも、アップルに驚いたんでしょう?」
「ええ、まあ」
 カミューの声が控えめなのはクラウスを気遣っているからだろう。だからクラウスは努めて明るい声で答えた。
「幼なじみだってアップルさんが仰ってました」
「ええ、確かに。でもそれにしては少し馴れ馴れしかったでしょう?」
 そう言ってからホウアンは小さく溜息を落とした。
「アップルはシュウの婚約者なんですよ」
 クラウスは手を伸ばしていた紅茶のカップを掴みそこねてカチャンと派手な音を立てさせていた。