愛と哀しみのボレロ 3 
          
           
          
           
          
          
          『病院、か』 
          
           シュウは見慣れぬ天井よりも消毒液と薬品が混じり合ったような独特の空気にそう見当を付けた。子供の頃はこの空
           
          気が苦手だった。だから父親が院長を務めている病院にも滅多に行くことはなかったのだ。兄のホウアンは平気な顔
           
          で出入りしていたが、今にして思えば同じように優秀な頭脳を持った兄弟なのに結局シュウが医療の道を歩まなかった
           
          のは根っからこの空気が嫌いだったからかもしれない。 
          
          『よもや患者で入ることになるとはな』 
          
           しかもその理由が交通事故だとは、全く不覚としか言いようがなかった。 
          
          『あのワーゲンは上手くかわせたと思ったのに』 
          
           本当に突然だった。いきなり前を走っていた車がコントロールを失ったようにふらつきだしたのだ。落ち着け、と自分
           
          に言い聞かせながらハンドルを操作して、それで切り抜けられるはずだったのに衝撃は意外なところから来た。慌てた
           
          らしい隣の車線の車が無茶苦茶に突っ込んできたのだ。まずいと思った次の瞬間別の衝撃があったから、他にも巻き
           
          込まれた車があったのかもしれない。事故の全貌がどうなっているのかはシュウには分からなかった。物凄い衝撃にす
           
          ぐエアバックが作動して意識を失ってしまったから。ただ、ぶつけられたのが助手席側だったことは解ったから、途切れ
           
          る意識の中でクラウスを乗せていなくて良かったと思ったのだ。 
          
           軽く溜息をついてから、シュウは恐る恐る指を動かしてみた。右も左も問題なく動く。意識はしっかりしているし、手足
           
          の感覚も正常だ。ベースを弾くには問題ないだろう。 
          
           音楽を捨てずにすんだ。それが確認できてホッとした。 
          
           そろそろと腕を上げてみようとしたが、それは痛みに諦めた。 
          
          『当分は入院ということになるのか』 
          
           陰鬱な気分で上げかけた手を戻したとき、指先に何かが触れた。 
          
           柔らかく艶やかな感触が気持ちよくて、しばらく指先でもてあそんでからそれが髪の毛だと気が付いた。 
          
           ギョッとして目線を落とすと誰かがベッドに突っ伏して寝ているのが見える。 
          
          『クラウスか?』 
          
           まさか、と思う。 
          
           クラウスがこんな所にいるはずがない。いる理由がない。 
          
           それでも病室の薄明かりに浮かんで見える華奢な線は紛れもなくクラウスの物だと解った。 
          
          『どうしてクラウスがいるんだ?』 
          
           確かに同じバンドのメンバーだが、怪我をしたからと言って看病してもらえるほどの仲ではない。そう言い切れてしまう
           
          のは哀しいが、自分の気持ちは一方通行の物だということは良く理解しているつもりだった。 
          
           だが、クラウスにいてもらえて嬉しくないはずがない。先ほどまでの憂鬱な気分がどこかへ吹き飛ぶくらい一気に幸福
           
          な思いに浸っている自分に気が付いて、自嘲の笑みが漏れた。 
          
           
          
           馬鹿な期待をするんじゃない。クラウスが好きなのはカミューなのだから。 
          
           
          
           何であんなシーンを見てしまったのだろう。 
          
           あの時、誰かがクラウスの名前を呼んだ気がして目が覚めたのだ。スタジオの控え室でつい寝てしまって、だから夢
           
          でも見たのかと最初は思った。だが、どこかでガチャンとドアの閉まった音がして、それが屋上の扉の音だと気づいて
           
          少し不審に思ったのだ。それに自分が部屋に入った時、確かに閉めておいたはずのドアも開いている。誰かここにい
           
          たのだろうか。そういえば慌ただしく階段を駆け上るような音も聞こえていた。 
          
          『クラウスなのか?』 
          
           どういうことなのか、一体何なのか分からないまま、気になって屋上に出てみたのだ。それでまさかあんな光景を見る
           
          事になるとは思ってもいなかった。 
          
           クラウスが「大好き」と言ってカミューの胸に飛び込み、カミューが聖母のような微笑みでクラウスを抱きしめているの
           
          を馬鹿みたいに突っ立って見ていたのだ。 
          
           あり得ない話ではなかった。クラウスは元々カミューに憧れていたらしく慕うようにいつも後を付いて歩いていたし、お
           
          手本にしているような所もあった。カミューは話術も巧みだし、男でも振り返るあの美貌である。クラウスが惹かれるの
           
          も無理はない。 
          
           もっともカミューにはマイクロトフがいる。だからカミューがどういうつもりなのかは分からなかったが、少なくともクラウ
           
          スの気持ちはカミューに向いているのだ。それがショックだった。 
          
           そう、ショックだったのだ。怖がられてばかりいると思っていたクラウスとの距離が最近縮まった気がしていたのは、独
           
          りよがりな願望が生みだした錯覚だったらしい。 
          
          『失恋ってやつか』 
          
           そのイライラが原因で高速で車を飛ばしていたなどとは、例え事故を起こさなくても言えはしない。それでこの体たらく
           
          とは滑稽以外の何物でもないじゃないか。 
          
           シュウは再びクラウスに視線を落とした。 
          
           一体何を考えてクラウスがここに残ったのか分からない。クラウスの気持ちがこちらにないなら諦めた方がいいのだ
           
          ろうかと一瞬でも考えていたのに、どうして期待させるようなことをするのだろう。 
          
          『まったく、天使なのか悪魔なのかはっきりしてくれ』 
          
           その心の声が聞こえたわけでもないのだろうが、クラウスが身じろぎして体を起こした。小さくブルッと震えているから
           
          寒かったのだろう。そういえば夜明け特有のシンと冷えた空気が漂っている。風邪をひかなければいいがとこちらは思
           
          っているのに、クラウスは上着を取るわけでもなくボーッと壁を見つめていた。それから思いついたように目をグリグリと
           
          擦りはじめて、その余りにも子供っぽい仕草にシュウは思わず笑ってしまった。 
          
          「シュウ」 
          
           パッと振り向いたクラウスは笑われてしまって恥ずかしそうな顔をしていたが、すぐに顔を綻ばせた。 
          
          「良かった。気が付いたんですね」 
          
          「だいぶ前にな」 
          
          「…起こしてくれればいいのに」 
          
           赤くなって拗ねたような口振りで軽く抗議してきたが、ふと真面目な顔をした。 
          
          「あ、そうだ。看護婦さん呼んだ方がいいんですよね」 
          
          「今何時だ?」 
          
          「5時過ぎです」 
          
          「それなら放っておけ。どうせ見回りだの何だのでそのうち黙っていても向こうから来る」 
          
          「詳しいんですね」 
          
          「これでも医者の家に生まれたんでね」 
          
          「あ、お兄様もお医者様ですもんね」 
          
          「お兄様なんてガラじゃないぞ、あいつは」 
          
           クスクスと笑いながらクラウスがしきりに目を擦っている。 
          
          「馬鹿、泣くヤツがあるか」 
          
          「だって、ホントにびっくりしたんだから」 
          
           手を伸ばしてクラウスの手をギュッと握った。 
          
          「心配させてすまなかった」 
          
          「ううん」 
          
           クラウスはやっと晴れやかな笑みを見せた。 
          
           
          
           それからの病室は慌ただしかった。医者と看護婦がひっきりなしに出入りする中、クラウスの姿が見えなくてシュウは
           
          気になって仕方がなかった。かといって真剣な表情の彼らにそんなことを聞くわけにもいかなかったから、何かの拍子
           
          で部屋の隅に立っているクラウスが見えたときはホッとした。だが、ポツンと立って看護婦の動きを不安そうに見守って
           
          いる姿を見ると、どこか別の部屋で座っていればいいのにと今度は別の心配が頭をもたげてくる。 
          
          「少しどこかで休んでくるといい」 
          
           検査の準備のためみんなが出ていった後そう言うと、ただでさえ心細そうだったクラウスが泣きそうな顔をした。 
          
          「邪魔にならないようにしていますから」 
          
          「だが、疲れてるんじゃないのか?」 
          
          「大丈夫です。だからシュウが嫌じゃなかったらここにいさせて下さい」 
          
           全くこいつは、とさすがのシュウも天を仰ぎたくなった。 
          
           本当に無意識でやっているから困るのだ。さっきも看護婦に「ここは特別病棟だから外に出ても平気ですよ」と言われ
           
          ていたのにクラウスは頑なに病室に留まっている。まるで好きな人のそばを一時でも離れたくないと言わんばかりで、こ
           
          れでは期待するなという方が無理だろう。 
          
          『俺はとんでもないヤツに惚れてしまったのかもしれん』 
          
           今更のようにそう思う。 
          
          「だが、食事もしていないんだろう」 
          
          「平気です。お腹空いてないし」 
          
          「それが疲れてるって事なんだ」 
          
           すると慌てて言い直した。 
          
          「もうすぐ売店が開くから、そうしたら何か買って来ようと思ってたんです」 
          
          「クラウス」 
          
           シュウに叱られてシュンとクラウスが俯いたとき、軽いノックの音と共にドアが開いた。 
          
          「カミュー」 
          
           振り向いたクラウスは嬉しそうにパッと顔を輝かせると、カミューに駆け寄っていった。 
          
          『カミューに頼まれたのか』 
          
           デュナンのメンバーは忌々しいことに全員シュウの気持ちを知っている。だから、そうすればシュウが喜ぶと思ってク
           
          ラウスを残したのかもしれない。 
          
          『そしてカミューの思惑、いや配慮通り、俺は喜んだという訳か』 
          
           苦い思いが込み上げる。 
          
          「大丈夫かい、シュウ」 
          
           カミューの顔は心配そうに曇っている。余計なことをするな、とは言えなかった。 
          
          「ああ、なんとかな。それより迷惑を掛けた。すまない」 
          
          「なに殊勝なこと言ってるの。ここのところ忙しかったからね。休養を兼ねてゆっくりしたらいい」 
          
          「だが、騒ぎになっているんだろう」 
          
          「そりゃあ、こんなおいしいネタ、マスコミが放っておくはずないだろ。でもシュウに非がないっていうのは、ちゃんと警察
           
          の調べや目撃証言で証明されたし、報道は概ね好意的だよ。シュウのドライビングテクニックを絶賛しているレポータ
           
          ーもいたしね」 
          
          「アルバムは」 
          
          「それが遅れるのはしょうがないだろう。でも朝のニュースをチェックしてきたんだけど報道される度に今までの曲がガ
           
          ンガンかかってるから、前に出したアルバムがまた売れるかもね」 
          
           やはりカミューはさすがだと思う。スタジオのスケジュール一つとっても実際にはかなり大変なことになっているはずな
           
          のにカミューの口振りからは一切そんなことを窺わせない。 
          
           妙な敗北感を感じて、だがそれを気取られないようにシュウは口を開いた。 
          
          「これからまた検査になるらしい。クラウスをつれて帰ってくれないか」 
          
          「待ってます。検査くらい」 
          
           追い出されたら大変だとばかりにクラウスが口を挟んだが、シュウは首を振った。 
          
          「いや、ちゃんと寝てないから疲れてるだろうし、食事もとってないんだ。外にはマスコミがいるんだろう。カミュー、送っ
           
          てやってくれ」 
          
          「分かった。その方がシュウも安心できるんだよね?じゃあ、クラウスは一旦家に帰して休ませるよ」 
          
          「頼む」 
          
           じゃあクラウス行こうね、とカミューに促されてクラウスは出ていった。 
          
           シュウは黙ってそれを見送るしかなかった。 
          
           
          
           
          
           
           
          
             
          
           
           
          
           
          
                
          
           
          
           
          
            
          
          
           
           
          
           
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