昭和六十二年に発行された【戦国人名事典】では、収攬した人名録の年代の上限を「応仁の乱(1467年)」とし、下限を「豊臣家の滅亡(1615年)」の約150年間としている。
この間、元号は応仁に始まり、文明、長亨、延徳、明応、文亀、永正、大永、享禄、天文、弘治、
永禄、元亀、天正、文禄、慶長と移り、最後に豊臣家を滅亡させた後、元和となって戦国時代は終わりを告げる。
尤も、一般に膾炙する戦国時代というイメージは、「桶狭間の戦い(1560年)〜豊臣家の滅亡(1615年)」の約50年だろうと筆者は考えるが、どうだろうか?
 
さておき…
享禄3年は1531年八月二十日、天皇家から宣下が下されて以降、新しく「天文」の元号を頂くこととになる。物語が始まるのは、それからちょうど二ヶ月後のことだ。
 

伊賀イガ之介ノスケ


天文元年十一月八日。
 
何者かが、雑木林の中を駆けていた。
村落から遠く、加えて、一面に墨をたらしたような夜のことで、伊賀鈴鹿山麗のうっそうと茂る木立の隙間を、飛ぶように、すり抜けるようにくぐり駆けていく様子は、遠目にはまったく分からない。
この頃の”夜”といえば、完全な暗闇でしかない。
今日の夜は、街や家庭が発する光と音の刃で切り拓かれ、昼間と変わらず人が動くことが出来るものだが、それはここ百年の話だ。それ以前、夜の世界は「常人の介入するを許さぬ」絶対的な時間で、わずか1m先の樹にも「触るまで分からない」ような闇が人目を妨げ、夜の道中を歩まざる得ない災難な旅人は、心細げに微かな月明かり星明かりを見上げたものだ。
だから、「そこに誰かいて、駆けている”かも知れない”」というふうに書いたのは、敷き詰められた落ち葉が、時折シュッシュッと音をさせてはいて、それがいかにも「駆けている」というふうに聞き取れたからである。
しかもこの日は、半月が群雲に押し包まれて霞み、山中はもとより、伊賀盆地全体が闇と静寂とで埋め尽くされ、時折にミミズクや鈴虫の閑寂とした鳴き声が響く以外、他に”生き物”の(ましてや人間の)気配を感じ取るのは不可能に思えた。
 
駆けぬける影は−水無瀬之介(  ミナセ  ノスケ)−は、ひときわ大きなブナの樹のたもとを通り過ぎたあたりで、心なしストライドを大きく取ると、右足から滑るように音もなく立ち止まった。
「滑るように止まる」というのも不思議な表現だが、サッカーでいう「スライディング」の要領と考えれば、分かり易かろう。
もっとも、一番不思議なことは、どのような初動で、どのような体勢で、どのような着地の仕方をしたのか知らないが、彼の足元に無数に広がる枯葉が、ついに一枚たりと乱れなかったことである。
之介の格好と言えば、藍色の頭巾ですっぽり顔を被い、擦れ枯れた濃紺の野良着のようなものを纏い、脚半に足袋草鞋という姿で、風呂敷の小さな包みを背負い、腰に一振りの脇差ほどの長さの刀をたばさんでおり、そのいずれもがまるで、宵闇と同化するために作られたかのような暗色で染め上げられ、今しがたの尋常ならざる足さばきを合わせ見るに、どうも考えても常人とは思えなかった。
頭巾が邪魔で表情は定かでないが、そもそも挙動はいかにも沈着であり、暗闇の中を樹に体をぶつけることもなく、しかも疾走を続けていたというのに息も乱れていない。
…乱れてはいないが、之介は一度息を吸い込むと、口をすぼめて三度に分けて、すっ、すっ、すっ、と静かに吐き出した。
これは、上伊賀(伊賀北方)の豪族・百地丹波守(モモチ タンバノカミ)の郷士達が、体内に溜まった熱を放出し、自らの気配を消す時に使うとされる、特殊な整息の方法である。
 
水無瀬之介は、その百地丹波旗下の郷士の一人だ。
天文元年と言えば…かの武田晴信(信玄)はまだ十才の少年で、終生の好敵手になる長尾景虎(上杉謙信)に至っては一才、その後の織豊政権の成立はここから更に四十年以上先の話である。
この頃から徳川家康が江戸に開幕するまでのおよそ九十年間、伊賀地方は、いわゆる「守護もたぬ国」の体裁を守り抜くこととなる。
時の公権力が派遣する国守−守護−や守護代を頂くのを嫌い、力ある地づきの豪族が郎党を従え、それぞれ勝手に屋敷や砦を築き、豪族たちの自治領土として独自の発展を遂げた。
その独自性の最たるものが、優れた秘伝の技をもって大小名の間に立ち、間諜、情報操作などの日陰仕事を請け負う、「忍び者」としての働きであろう。
だから、伊賀北域を治める豪族領主としての顔を百地丹波守の「表」とすると、当然、それら忍び者を束ねる棟梁−上忍−としての「裏」の顔があるのも、成る程うなずける。
このような特異な社会構造を持つ伊賀の忍びの間には、組織の維持と職務遂行上の必要性から、常日頃から厳格な上下関係があり、上忍・丹波守が「中ツ忍」とも呼ばれる家の者に”仕事”を割り振り、中ツ忍はそれぞれ配下の「下忍び」を使ってその”仕事”をこなす。
水無瀬之介の家は、代々上伊賀で働く下忍びの系譜だったが…
彼の父・茂介は、かつて甲賀鉤(コウガマガリ)に出陣して大手柄を立てたことで名を知られていた上、之介自身「もはや、あの父御をも越えたわいの」と並居る年配の忍び達を唸らせるほど抜群の技量を備えていたせいあって、丹波守からの信頼は決して薄くなかった。
父の代から小さいながら屋敷を構えることを許されていたし、之介の代となって「水無瀬」の姓を許され、中ツ忍を通さずとも、上忍たる丹波守から直々に”仕事”請け負う立場でもあった。
まず、下忍びとしては破格の待遇と言わざるを得ない。

話を元に戻そう。
整息法によってひっそり息を吐き出した水無瀬之介は、傍らに樹立する大きなブナをチラリと見上げると、見上げたまま、声も出さずにやおら二間半(一間=約1.8m)ほど飛びあがり、太い枝と幹の間に静かに腰を据え、そこでゆっくりと目を閉じた。
之介がそうすると、まるで”之介はここにはいない”ように気配が消える。
彼の周りの空気が、「そこには誰もいない」ように流れ始め、水無瀬之介の存在を主張する一切を感知できなくなる。忍び者が最初に覚える気消しの術、いわゆる人遁である。
 
忍び仕事は、例えば何年も敵国に住みついてひたすら情報を送り続けることもあれば、敵国の要人を暗殺することや、あるいは合戦に参加して敵陣を撹乱するなど、多岐に渡る。
しかしまだ、忍び者たちの戦国時代に果たす役割が模索され始めた時代は、一人の忍び者が幾つかの役割を兼ねることが多く、それだけの能力と技術が必要とされた。
少なくとも、上伊賀の忍びにとっての「仕事」は、敵国に潜入して情報を集め、そこで戦をこなし、次第によっては要人を暗殺し、そして帰還するまでを一人に依存することが大半だった。
そしてそれが故の決して少なくはない”失敗”を経て、能力に応じた分担制が確立し、それによりリスクを分散し、組織性を高めたのは、もうしばらく先の話である。
実際、之介の父・茂介の戦忍としての技量は白眉だったが、敵領に滞在して「なにごともなかったように」仕事を続けることは不得手で、そのための美濃の片田舎で命を落とすことになったのだ。
が、之介には戦忍びとて類い稀な体術を持っていたばかりでなく、畿内から東にある十数カ国の方言を操り、ちょっとした商才もあったから商人として自然に振る舞うことも出来た。
「あれは、十年…五十年に一人の傑物よ。まず、天賦の才覚と言える」
かつて丹波守が評した言葉に謙遜が必要ないとすれば、水無瀬之介は全てにおいて高い技量と才能を有した、まさに稀有の”天才”であった。
 
之介の耳に、頭巾越しに、どこからか静かな足音が伝わってきた。
「3、4人…か」
ぼそりと呟き、聞こえてくる足音を耳で噛み締めるように、首をうなだれた格好になった。
やがて、足音は常人にも聞こえるほどに大きくなり、それからほどなく、之介が居座るブナの根元のあたりに、3人の忍び者が現れた。
「之介の気配が消えた…もしや、この辺りに隠れておるやも知れぬ」
「…いや、なにをおいても急いで山を下りよう。こんなところで、ぐずぐずする理由がない」
樹下の3人が自分の所在を取り沙汰するのを、之介は微動だにせず聞いていた。
勿論、彼が”その気”になって樹から飛び降り、腰刀を抜いて襲いかかれば、たとえ相手が3人であっても充分やり合える。
(生き残る自信はある…が)
之介は、出かかった言葉を喉元で止めた。
(…それも馬鹿な話だ。死骸が見つかれば、俺の足取りが掴まれる。迂闊に呼子でも吹かれれば、よっぽど難儀だ…気付かぬようなら、互いに面倒なく済む)
無論、丹波守に”天才よ”と評された男が気配を消してしまえば、これはもう、常人ならずとも、並程度の忍び者に存在を感知されるはずもない。
「うむ…この先の地蔵堂に番小屋がある。つなぎをつけて、早目に網をめぐらせたほうが良かろう」
「もっともじゃ」
之介の期待に違わず、3人の忍び者は再び歩みを速め、先の山道へと去っていった。
彼らの匂いが消えたのを見計らい、之介は身を翻して一回りして宙を舞うと、鍛えられた全身のバネを使って、軽やかに片膝立ちで着地した。
「地蔵堂に手を回すとして、網がめぐるまでに一刻(一刻=約2時間)…まず、急がねば」
言い終えて立ちあがった之介の背丈は、五尺半(一尺=約30cm)ほどであろう。
うっとおしそうに顔を覆った頭巾を下にはぐと、之介の白い顔が暗闇の中にボッと浮かび上がった。
思ったよりは華奢な体つきで、皺一つのない色白な顔に奥二重瞼の目元と小ぶりな薄い唇は、見た目にはまだ十代半ばの少年に思えたが、実際には二十歳となって幾月か過ぎている。
「忍び者には、顔色や齢などあってないのじゃ。時便と相手に応じて、どうにも変わるわえ」
…とは、之介に”女”を教えた年上の女忍びの言葉だが、確かに、その女忍びは三十路に近い年増であったにも関わらず、之介を”抱いた”夜にはどう見ても十九か二十にしか見えなかった。
棟梁・百地丹波守にしても、実際の年齢など皆目見当つかぬ。
この三年の間に五回ほど、之介は丹波守の顔を見る機会があったが、ある時は二十代の青年に見え、また別な時に会うと四十代の壮年のようでもあり、外見に応じて仕草や立ち居振舞いも一変する。
忍び者ならず常人であっても、表情や仕草はある程度、意図的に作り変えられるものだが、年齢定まらぬ外見については、これはもう優れた”忍び者の遺伝子”に刻み込まれたもの、としか言いようがなかった。
「…京から西国へ抜けるか、どうするか…どちらにせよ、夜明けには伊勢へ着いたほうが良さそうだ」
幼い頃から育った鈴鹿山地である。修行のため、ほとんど毎日走り回った土地である。
例え十人か二十人かの追っ手があり、傍目に隙間なく関所が封鎖されていようとも、之介が上伊賀を抜け出す手だては、五指で足らぬ程度には思いつく。
「まったく…認めたくないものだな。我ながら、若さゆえの過ちというものを」
そう言った彼に、逡巡や後悔の色は、ない。
ただ、困ったふうな苦笑いを浮かべて頭をかいた仕草は、幼い外見ともあいまって、とても「五十年に一人の忍び者」には見えず、むしろどことなく愛嬌すら感じさせてくれた。
「…行くか、な」
再び頭巾で顔を隠すや、彼の姿は「目にも止まらぬ」速さで…いや、「目の前から煙のように」消えてしまっていた。
 

つづく