<管領の系譜>

 
 
天文二年(1532年)は、一年を通して例年より暖かい気候に恵まれ、三月の中頃から桜の蕾がふくらみ出し、末になる頃には天晴れな桜並木が小県郡を彩った。
 
信濃小県郡の海野氏は、独立独歩の大名ではない。
大名というのは、武蔵とか、信濃とか、国全体を統括している身分を言う。
”国”の下は、”郡”になる。現代に置き換えると、国が都道府県、郡は市や政令指定区の規模と考えると分かり易い。
国主が「一国の主」とすれば、豪族は「一城の主」であろうか。
海野氏は、その豪族に当たる。
豪族は、一家単位で独立してやっていけるものではない。
海野家十三代目当主・海野棟綱も、上野国平井に城を構える関東管領・上杉憲政に属している。
それというのも、東は甲斐・上野、北に越後、西に美濃、南に遠駿二州と接する広大な信濃の国土は、力強い守護によって治められているうちは良いが、逆に守護・小笠原氏の勢力が衰え始めると、これを好機とばかりに四方の外敵が食指を延ばし、豪族たちを手なずけて己が勢力圏の拡大を目論み、「芋を洗うような」有り様を呈する。
その中で、海野氏のような豪族が生き伸び、家名を残すには、大名の庇護を受けるしかない。
 
「まず、信濃は”信濃の者”にはならんじゃろな。こうもほうぼうで小競り合いが続いていては、己が守りを第一にせざる得まい。コクド全体を治めるなど、誰もおぼつかぬ」
 
昔、棟綱が小太郎にそう語ったものだが、現実に信濃国は、武田、織田、その後は羽柴と上杉が支配者となり、土着の勢力にその座が回ることなく、江戸幕府を迎えることとなる。
(一時、海野小太郎の子・真田昌幸が信濃最大勢力となるが、それとて羽柴・徳川の庇護下にあっての話だ)
 
さてこそ、
「関東管領」は、足利室町幕府にあって「関東近隣の諸守護を”管”理し”領”す」という役務を負い、足利の重臣・上杉氏が代々が就いてきた。
しかし、磐石とも思えた上杉氏を頂点とする関東の秩序は、永正九年(1513年)、管領家に反旗を翻した越後守護代・長尾氏との一戦に敗れたことにより、心ならずも揺るぎ始めた。
こうなると、関東諸国に対する抑止力は、否が応にも弱くもなる。
勿論、今でも”それなり”の力は持ってはいるが、元の十の力が七か八に削られたのは明白で、問題なのはそこから先…つまり、削られたものを取り戻せるのか、それとも五か六に減らしてしまうのか。
 
天文二年、時の関東管領、上杉憲政は位に就いてまだ一年しか経っていない。
まだ十七か十八の少年が管領当主となるにあたって、事はすんなり運んだわけではない。
最初、憲政の父・上杉憲房が大永五年(1525年)に没した後、実子・憲政が幼かったことを理由に、憲房の養子であった上杉憲寛が管領職を継いだ。
ところが、「憲政が十八になれば位を譲り隠居する」という約定があったにも関わらず、いざその時になると、この義理の兄は「知らぬ存ぜぬ」を決め込んだ。
幾つかの文献に目を通したところ、著者の目には、上杉憲政という人物が、さして人並み優れた大名とは映らないが、少なくとも彼には「管領家こそ、関東の秩序の柱なり」を再び知らしめようという野心があり、勿論、自家の微妙な立場、変化の激しい東国事情を多少なりとも理解する力はあった。
かたや先代の上杉憲寛は、周辺の大小名を刺激せぬよう柔和策を唱え、それでいて臥薪嘗胆に領国経営に勤しむこともなく、「管領の名と、上野一国」があれば満足しているかのようにも思える。
「関東管領でいる」のが目的の憲寛と、「関東管領として覇権を唱える」のが目的の憲政とでは、迫力の差は歴然であった。
そのことから憲寛は追放されたのだが、果たして憲政がこの苦境を切り抜けるだけの器量かどうかまでは、この時点では不明である。
 
ともかく前も今も、海野氏にとって上野の管領家というのは、小さからぬ存在に変わりはなかった。

つづく