<海野屋敷>

 
天文二年四月十六日
 
海野棟綱は、”例の件”についての話を詳しく打ち合わせるために、二日ほど箕輪城に留まり、その間に業正と二度ほど
密談を交わした。それでだいたいの仕様が決まると、十六日の明け方に城を出発して再び信州に戻り、小県周辺の諸郡をざっと見て回ってから、夜になってようやく海野屋敷へと帰り着いた。
帰着した棟綱はいかにも難しげな顔で、「ああ…面倒なことになったわえ」と妻や倅・小太郎にこぼしはしたものの、まんざらでもない、愉快げな表情の一端が見え隠れするのは、年寄りの独特の好奇心に火がついたと言うところか。
 
「小太郎を、部屋に呼んでくれ…それから、之介も」
軽い晩飯で腹をふくらませ風呂に入った棟綱は、自室に倅と之介を呼びつけた。
この日も、やはり雨である。
信州のこの時期に雨が降り続くのは珍しいことで、にわかに夜の冷え込みが厳しくなり、高冷地独特の清涼な空気は、晩冬のそれに戻ってしまった。
そのため、とっくに締まい込んだ冬着の綿入れを引っ張り出した棟綱は、熱くした濁酒を持ってこさせ、適当な漬物と味噌を肴に、息子達の来るのを待つことにした。
「なんとも…不味い」
無理矢理に濁酒を熱燗にしたのは、棟綱本人であるから不味いのは承知のはずなのに、それくせ「不味い不味い」と
繰り言してチビチビと飲っていると、そぼ降る雨音に交じって居室に近づいてくる足音が聞こえてきた。
「小太郎と之介、参りました」
薄い襖の向こうから、都合三日ぶりに耳にする息子の声が低く響いた。
「入って、適当に楽にしておくれ」
まず小太郎が先に入り、その後ろから之介が襖を閉めて腰を落ちつけた。
「まずは無事のお帰り、何よりでござる」
「なぁに…いつものことじゃ。それより儂が留守の間、何事もなかったかえ?」
「特に変わりは」
「ほうかほうか」
そんな小太郎と棟綱のやりとりを、末座の之介は黙って眺めている。
之介がこの居室に呼ばれるのは、今まで「何か指図を受ける時」と相場が決まっていた。
いや、海野棟綱は日頃から之介の器量を頼もしく思っていたし、幾度か相伴させたこともある。
だがここには、指図を配る時以外上がることを許さなかった。
小太郎と之介の友情の深さは弁えていたし、世間の狭い息子にとって好ましいことだと喜んでもいたが、それでもこうして三人で四方山に話を咲かせたことはない。
付け加えると、之介は抜け者となる今の今まで、実は海野小太郎の私室にも上がったこともなかった。たいていは之介の部屋に小太郎が赴くか、近くの湯治場へ馬を走らせて事足りていたのだ。
「之介を私室に上げてはならぬ」
棟綱の言葉に、当初、小太郎は反駁したものだが、
「只でさえ之介は、特別視されておる。他の伊賀者の手前、この上さらに我等が特別に接しては、後々あれの為にならぬ。色々な意味でな」
という配慮があると知って、彼もまた素直にそれに従った。
元より之介当人からすれば、他では、顔も見せずに仕事をさせる雇い主もいたし、汚物でも見るように忍び者に接する雇い主もいたから、海野の棟梁とその息子が、自分たち忍び者に見せる”配慮”というのを、「例外」として奢ることなく受け止めていた。だから、そうした不文律の裏にある棟綱の心配りも薄々は気付いており、不満も疑問も持たなかった。

(こうしていると、妙な感じだ…もしやすると、棟梁様は俺に何か依頼事があるのやも知れぬ)
おかしな話ではあるが、之介としては、そう考えたほうが気は楽であった。
それならそうで、取るべき態度、見せるべき仕草や表情がおのずと定まる。
「如何なる時であれ、時便と相手に応じた処方をせよ」
忍び者として幼い時から擦り込まれた思考では、いきなり「くつろげ」と言われる方が難しい。それも、今まで格別の用事で呼ばれる時以外、入ったことのない棟綱の居間にいるのだから、当然かも知れない。
そう思い切ったところで、折よく老当主の口からまさに言葉がこぼれた。
「ところで…そなた等に、してもらいことがある」
いきなりのことで少し驚いた小太郎は、後ろに控える之介の表情を伺うように目をやった。
だが之介は、「まあ、落ちつけ」とでも言いたげに目元で軽く笑っただけで、視線を動かすこともない。
「実際に動くのは、之介でなくては無理じゃ。小太郎は、之介が過不足なく動けるように手配りを致せ」
「そう来ると思うてました。何でございましょう?」
老当主は焼き味噌を舐めていた木箆を皿に置き、ゆっくりと座り直して向き合った。
「これからする話は、箕輪の殿様と儂、それにお主ら二人しか知らぬものと思え。良いか」
そこで棟綱は、この二日間であった密議についての一部始終を、低いしわがれた声で語って聞かせた。
「…事は、先々代の管領・憲房様に隠し子がおったことにある。憲寛様、憲政様以外の男児じゃ」
それから、先年の内訌により上杉憲房が上総に追放されたこと…。
追放された憲房の家臣のうち数名は他国へ逃れたこと…。
逃れた者たちが”隠し子”を担いで上野国を狙っていること…。
”隠し子”は信濃にいること…。
つまり反憲政派…すなわち、現政権へのテロリズムの芽があることを語った。
「まったく、迷惑なことよ…憲房様の女遊びの尻拭いを、巡り巡って儂らがせねばならんのじゃ」
話を一通り終えた棟綱は、ここ数年でめっきり白くなった顎ヒゲをさすりながら、口調だけ穏やかに毒づいた。     
「…その上、拭う尻には腫れ物がある。その腫れ物を、かゆいかゆいと掻き毟る馬鹿までおる」
言うまでもなく、”腫れ物”は例の隠し子に他ならぬ。                 
元の主君・憲房を再び担ぎ出すならまだしも、見限ったのか、それとも他に何か遠謀があるのか、「いない」はずのもう一人の後継者をわざわざ探し出して管領家転覆を狙うのは、確かに事の当事者にしてみれば「正義」に基づく行動かも知れない。
だが、その「正義」を支えるのは、実は上野に住む農民や商人、豪族たちであり、また管領家に属する海野家のような上野国外の諸勢力なのだ。
その殆どが現実には「上野憲政」という「正義」を選び、まがりなりにも「合戦」という形で結論を出したではないか。にも関わらず、である。
「亨録四年の乱で、上野の管領家の騒動も収まった」と、ようやく世情も落ちついてきた頃に、なぜそう考えるのか、海野家のように倹しい豪族にとっては、理解不可解としか言い様がない。
「うすら寒い理想と意地を捨てられぬ者は、いつも己一人で生きていると勘違いするわい。困ったことに、たいていそれは力のある者と決まっておる」
棟綱はそう皮肉って、話を終えた。
小太郎も之介も、あまりに突然で突飛な話だけに、しばらく口を開けて返答出来なかった。
「とは言え、儂らに与えられたのは”その子の所在を探す”ことのみ。後の処方は、御大将してくださる」
「…では、我々は手出しする必要はないと?」
「無論。探索のみという話でなければ、おいそれと引き受けはせぬ。その程度で貸しが作れるなら、海野の家にとって損はなかろうてな。やってくれるか?」
確かに話を聞く限り、之介の手でやれなくはない。
「亡き殿様の隠し子」だの「僧籍となった次男や三男」だのに関わり、後継者争いの末の血生臭い陰謀に携わることは、伊賀者の之介にとって”慣れた”仕事である。(勿論、それらの幾多の経験が、つぶさに之介の口から海野家に伝わることもない。抜け者とは言っても、それが忍びの処方である)

「承知しました。その件、お受けしましょう」
面倒そうな話ではあったが、伊賀の追っ手から匿って貰っている手前、「そろそろ恩返しの一つでもせねば」と思ったし、それに「たまには忍びの技を使わぬと腕が鈍る」というものだ。
「おぉ、おぉ。頼まれてくれるか」
目を細めて喜んだ老当主は、倅・小太郎に「之介に必要なものあらば、そなたがぬかりなく準備せよ」と命じて、温くなった濁酒を小さな徳利に注ぎ、二人に差し出した。
「不味いが、まぁ飲め。お前たちが二人でこなす、最初の”戦”の前祝いじゃ」
「二人でこなすとは言うても…父上は、俺と之介を主従のように思うておりますな?」
「違うのか?」
「伊賀の百地殿が持て余した男を、とても俺が使えるとは思いませぬ。な、之介」
そう言って笑った小太郎を見て、之介はふと気付いた。
(迂闊だったな…確かにこのまま海野にいれば、否が応にも小太郎の家来と見られるな…)
彼ほどの忍びの頭をして、余りに当然と言えば当然のことが、今まで見事に抜け落ちていたのだ。
それから、頬を緩めて笑う棟綱に目をやった。
(まぁ…それでいいのかも知れぬ。俺みたいなのには、もったいない居場所だ)
 
自分が、小太郎に仕えて忍び仕事をし、事によっては一軍を率いて戦陣に赴く…。
或は、ここで嫁に貰って、田畑を耕し、子を作り育てていく…。
そしていつか、目の前の老当主のような、飄々と食えない老人になって心安らかに暮らす…。
(ここなら、俺は”俺”として生きられる…水無瀬之介という人間として、己の意思で生き続けることが出来る…それを与えてくれる棟梁様や小太郎の為に働くのなら、悪いことではない…それこそ、伊賀の外に求めていた世界じゃないか?)
それで之介は、悪戯っぽい笑みを浮かべて小太郎を見返した。
「使えるか使えぬかは、殿様次第さ。まぁ、お前が俺を持て余す前に、俺が小太郎殿を持て余すこともあるぞ」
折りから勢いを増した雨音に、三人がドッと笑う声が入り混じった。
 

つづく