「物語があって、音が鳴っていて、観客がいて、空間がある。
     それをぜんぶ自分たちでつくってみたいと思ったんです」


―そもそも、ワヤンをはじめられたきっかけは何なんですか。

私は音楽の勉強をずっとしていて、民族音楽にも興味があって。父の知り合いがワヤン協会の主宰なんですけれど、ワヤンをやるよっていうチラシをもらったんです。公演の。おもしろそうだなと思って見に行ったのが、さいしょです。85年です。

―20年前。

20年前にはじめて見に行ったんです。そのときジャワで人気のあったダランさんが来日したんですね。2、3人のガムラン奏者を連れて。東京でガムランをやっている団体があるんですが、その人たちといっしょに、混成チームをつくってやったんですよ。それを私、見に行って。

―で、やろう!って思った。

そうですね。ああ、いいなあ、と思って。

―そのときは、「クルタクルティ」という団体はなかった。

影も形もなかった。

―それが、どうやって、今のようなカタチになったのですか。

その公演を見に行って、日本でワヤンをやっているのは日本ワヤン協会しかないことを知り、そこに行って、トントンと戸をたたいて、いれてもらったんですね。ワヤン協会では、お話の内容、語られている内容にとても重きが置かれていて、その内容の勉強をずっとしてきたんです。

―さっき言われてたインドネシアの哲学みたいなことを?

そうですね。それらがぜんぶ含まれているいろんな演目の録音を、ジャワ語のものを日本語訳して、訳すのはおもに主宰ですが、暗記したり、読んだりして、親しんできました。それをやりながら、私も向こう(インドネシア)に出かけるようになったんです。

―ジャワ語がご堪能で?

いや、とても難しい言葉で。王様などに対する言葉と親など目上に対する言葉と、友達同士などの親しい間柄で使うときと、単語自体が違ってしまうものがある。ジャワ人でもジャワ語を自由に使いこなせる人は数少ないんです。今はインドネシア語が公用語ですから、私はインドネシア語で会話します。ジャワ語はなかなかできない。でも辞書はありますから。首っ引きで。そんな状態でも向こうではジャワ語のワヤンを見るわけですよね。そうするとガムランが鳴っていて、観客がいて、空間があるわけです、ワヤンの。話の内容だけじゃないじゃないですか。そっちにも魅力を感じて。まあ、音楽をやっていたので、楽器にも入りやすかったし。

―いろんなこと、やってたんですよねぇ。

だから、音もナマでぜひやりたい、と。それまでは録音されたテープに、日本語をアテレコで入れて、アテぶりをしてたんです、人形の。だから、そこからも一歩すすみたいなということで、クルタクルティをつくって、はじめたんです。



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「好き」というキモチを、どんどん行動に移し、カタチに変えていく加清さんの姿がカッコいいです。次は、ワヤンというスローな世界とは別の、「仕事」というファストな世界についてお聞きします。