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Y's Science Cocktail----------Memorandum
【2019.5.5】
 「歩いて行ける三県境」には、あの事件の歴史があった 

 一歩、二歩、三歩、はい完了。ただそれだけのことなのに、ちょっとうれしい。「境界を越える」ことにはなにか大きな力を感じるが、この場所にもそんな高揚があった。
 群馬県、栃木県、埼玉県の3県の境界線が交わる三県境は、田んぼと何軒かの民家の間にある。三県境は全国に40カ所以上あるという。48カ所と唱っているウェブサイトもあって事実であれば都道府県数よりも多い。そのサイトには、三県境をもたないのは北海道、佐賀県、長崎県、沖縄県のみという記述も見られた。しかしほとんどが山間部か川の中にあって、その地点を気軽に県境を歩くことは難しい。県境が尾根や河川など地形に由来して決められていることを考えれば、それもうなずける。
 それに対してこの三県境は平地にあり民家のすぐ近くで、東武線の柳生駅から徒歩5分という気軽さである。幅30㎝ほどの用水路の三つ叉路のまん中にあり、文字通り三歩で三つの県をまわることができる。稀少でありながら手軽な三県境だ。
 5月の休日。初夏を感じる日差しの中、以前から気になっていたその場所に出かけてみた。田植えが終わり水を張った田が光る。「こんなに気軽に来られるのなら、近いんだからもっと早く来れば良かったね」などとのんきなことを言いながら。
 農地の一部が少しだけ公園のように整備された場所には、手書きの説明板とセルフタイマー用の手作りスマホ台がある。三つ叉用水路のまん中に、三県境の杭が打たれていた。訪れた人は、用水路をまたいだり、腕立て伏せをしたり、ひとりずつ他県に立ち手をつないで写真を撮ったりして「三県制覇」を楽しんでいた。用水路のまん中ではあるものの、どこから見てもふつうの平地なのに、なぜこの場所が県境となったのだろうか。そこには、そんな気軽さからはうかがえない物語があった。
 三県境の東側には渡良瀬遊水地が広がり、その一部に谷中湖と呼ばれる貯水池がある。羽田空港から飛び立つと、航路によっては上昇中の飛行機からかわいらしいハート型の谷中湖を見ることができる。湖のとなりにある「道の駅 きたかわべ」は屋上が展望台になっており、湖面や周辺の景色が見渡せる。最近リニューアルオープンしたばかりの道の駅には休日を過ごす人たちが訪れ連休らしいにぎわいだった。気持の良い風と景色を求めて屋上に昇ると、手持ちのスピーカーで地域の由来を語るボランティアさんのお話に引き込まれた。
 谷中湖と展望台の間には、県道9号線が走っている。この道にはおよそ5kmの区間に8カ所もの県境があって、湖畔の遊歩道には県境が白くペイントされている。9号線を埼玉方面から北へ走ると「お、栃木県」「もう群馬県?」「また埼玉県」「あ、群馬県」「あれ、栃木?」「群馬だ」「栃木だ」……とめまぐるしく県境表示が現れる、入り組んだ場所なのだ。県境は渡良瀬遊水地の由来に深い関わりがある。
 ここは海抜10数mほどの低地で、かつては複数の河川が流れていた。渡良瀬川もその一つで、蛇行する姿から「七曲がり」とも呼ばれていた。西からは谷田川という川が流れており、渡良瀬川に合流する。その合流地点が現在の三県の境であり、かつては川の底だった。
 明治の初め、栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾鉱毒事件では鉱毒が渡良瀬川に流れ、流域の農作物や川魚に大きな被害が出た。そこで流域の下流部分に貯水池を作り、鉱毒を沈める計画がもち上がる。当初候補地として、渡良瀬川と谷田川の合流地点である埼玉県北川辺町付近とされたが、地元が猛反対。鉱毒を沈める貯水池を作るために家屋敷、田畑を手放すなど、到底受け入れられるはずはない。当局は計画を変更し、東側の谷中村が候補地となった。当然のことながら谷中村も抵抗し反対闘争は何年にもわたったが、最後には強制的に排除され、遊水地事業が行われた。
 前計画によって貯水池ができれば、川の流れはそのままでよい。しかし谷中村に作る貯水池に渡良瀬川と谷田川を流入させるためには、流路の変更が必要となる。そのため、谷田川の流路は北側に、渡良瀬川は東側に移動させることになり、元あった流路は廃川となった。こうして川底にあった三県境が陸地となった。
 話には続きがあった。この場所は個人に払い下げられ、貯水池造成の際に出た土砂でかさ上げして耕作地となったため、正確な県境の位置がわからなくなってしまう。地元の人たちのあいだでは「この辺が三県境だ」ということは伝わっていたものの、はっきりとした根拠を示すことができず、ようやく2016年に三県が協力して調査を行って県境が確定した。
 数年前、「歩いて行ける三県境」と話題になったのはこのときのことだったのか。物語を聞いて「話題になる前に来ればよかった」などというのんきな気分が吹き飛んだ。蛇行していた川筋を突っ切るように直線的に作られた県道9号線。入り組んだ県境は旧河川の流路だった。その境の一つが三県境なのである。
 その方にお話のお礼を言うと、「ふだんはね、館林にある田中正造記念館(足尾鉱毒事件田中正造記念館)で解説をしているんですよ。でもね、今日はあまり鉱毒事件や谷中村の強制立ち退きについては、控えめに話しました。連休ですからね」と笑って話してくれた。いえいえ、その部分、力がこもっていましたよ。
 歩いて行ける、気軽な県境。手をつないだり三歩で三県制覇をしたり。遊水地造成のために廃村となった谷中村。人口はゼロとなったが、お墓だけは水に沈めないでほしいという村民の願いで、古くからの墓地は陸地に残された。その場所が、ハート型のくぼみ部分にあたる。

※「県道9号線」は、栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線


【2015.11.12 】

これからの理科教育に関する議論

中央教育審議会 教育課程部会の委員会に出席し、新しい学習指導要領作成に関して議論した。検討事項として、社会との関わりや教科横断的学びなどが存在感のある形でしっかり盛り込まれていて、前回の指導要領議論のときから少しは進んでいる印象もあった。

なんといっても今回は、アクティブラーニングがホットな話題だ。以前から環境教育や開発教育などで培われてきたノウハウやその実績が、こういう形で公教育にも組み込まれていくのかと、その現場を見ている気がする。こういう場面に遭遇すると、希望も感じることができる。

そうはいっても、こういうカタカナ語がいきなり落下傘のように降ってくる時は注意が必要。一つの言葉でくくってしまうことで、それぞれの実践や思いが薄められ、本質がずれたり、骨抜きになることがあるからだ。
最初からばっさり切るつもりはないが、「理科はアクティブラーニングと馴染みがいい」なんていう発言を聞いていると、実験をやればアクティブラーニングになるしね、という発想が底にあるような気がしてしまう。もともとアクティブラーニングは間口の広い概念だから、あれがいい、これがダメという性格のものではないが、それでもやっぱりその本質や目指す出口のイメージはある程度共有するべきで、やるなら指導者が本気で勉強して本気で取り組まないと質のいいものにはならない。授業に手間をかけるだけの環境が、教員や学校現場にあるわけではないというところが、やっぱり安易なアクティブラーニングもどきを量産しまうことにもつながる。

実践はすぐに実を結ぶと言うものではない。だから「ほんとにできんのか」って思いながらでも進めないと、こういう大きなスケールで物事を動かすことはできない。少なくとも総合的な学習のときみたいな短期間でネガティブな結論を導いて、さっさと方針転換みたいなことにならないようにしないと。

自分たちが信じて実行するプログラムには思いが投入しやすいけれど、全国の教員の糧になるように言葉をまとめて発信することにはまた別のむずかしさがある。

年度末まで8回程度の会議。その後はたぶん、指導要領執筆を担うWGが発足するのだろう。2030年の社会を想像しつつ。





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