オスマン艦隊の山越え

オスマン艦隊の山越え

1453年4月5日オスマン軍は、ビサンティン帝国の息の根を止めるべく、コンスタンティノーブルヘ攻撃を開始、1453年5月29日、東西文明の十字路、コンスタンティノープルを、キリスト教徒から奪回した。
この際、オスマン軍は、空前絶後の、艦隊の山越えを敢行した。

1453年当時、ビザンツ帝国は、ほぼ全ての領土を失い、コンスタンティノープルという一都市のみの国家となっていた。
だが、オスマン軍の攻撃には頑強な抵抗を示し、金角湾の入り口を太い鎖で封鎖し、オスマン艦隊の侵入を拒んだ。
そこでオスマン軍は、金角湾入り口より5km程北の海岸から、湾の遥か奥の方に向かって山を切り開き、道路を造らせた。そして延々と続く山道に丸太を敷き詰め、更にその丸太にたっぷりと油脂を塗らせ、夜闇に乗じてボスポラス海峡から船を引き上げ、山を越えて金角湾に運んだ。
翌朝、金角湾に浮かんだオスマン艦隊を目の当たりにしたビザンツ兵たちは一気に戦意を喪失し、コンスタンティノープルは1453年5月29日陥落することとなった。
コンスタンティノープルを長く首都としていたビザンツ帝国はこれによってついに滅び、名実ともに、「ローマ帝国」は歴史から姿を消す。
コンスタンティノープルは、のちにイスタンブールと名を変え、現在に至っている。

この、オスマン軍の総指揮官は、メフメト2世(在位1451〜1481) で、一時皇帝が空位だったオスマン朝を立て直したスルタン。
そのためか、現在のトルコ紙幣(1000リラ)の顔になっている。

山越えの方法には諸説ある。
・丸太を使って山を越えて運んだ。
・長い板の道を作らせ、その上に樹脂を塗らせた。
・油を塗った丸太。
・船底に動物の脂を塗った。
そして70隻の軍艦をこの丘の木道に引き上げ、丘を越えさせた。
船の数は、27、70、77など、諸説がある。
滑走距離は、1km、5kmなど、諸説がある。


経過

ビザンツ帝国側は、コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。
また、帝国の全艦隊をハリーチ湾に集結させ、城壁の守りの補いとしていた。

オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。
またハンガリー人のウルバンという技術者を雇い、当時としては新兵器であった大砲を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。ただ、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低く、さらに一回発射してから次の発射までに、3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったもののオスマン艦隊は彼らを拿捕する事に失敗した。

イスタンブールにある軍事博物館には当時の鎖が展示されている。


参考
海の歴史
古代の帆船
大航海時代
大航海時代の船
オスマン艦隊の山越え




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新規作成日:2007年7月17日/最終更新日:2007年7月17日