入院中の心の動き ダイジェスト
このページでは、女性の看護師さんを看護婦さん。男性の看護師さんを看護師さんと表現します
できる限りまとめたつもりですが、詳細については、入院中の心の動きの方をご覧下さい。
入院まで
手術しか治す方法がない以上、手術をするかしないかではなく、いつするかが焦点だった。
どうせ、しなければならないのなら、都南病院でY先生にと言う気持ちだった。
15年2月の閉院は、前から知っていたので、都南で最後にと言う気持ちもあった。
Y先生から説明を受けても不安なし、先生・病院を信頼するということはそういうことか。
病気・手術の心配はほとんどしていなかったように記憶している。
とは思いながらも、入院の数日前にはインターネットで頚椎椎間板ヘルニア・前方固定法を検索
入院して(15.01.10〜01.14)
入院患者も減っていて病棟もちょっと寂しい。
看護婦のTさんが『明日は、勉強のために手術室に入ります』と、言ってくれる。
3回目の全身麻酔の手術だが今回は今までと違う。知っている顔が二人もいる・・・・・はず
一人は昨日の病棟の看護婦さん、もう一人は仕事でご縁のあった手術室の看護婦のHさん。
二人ともすぐに『がんばって!』と、やさしい笑顔で、声をかけてくれる。
単純なもので、知ってる顔が『がんばって!』と言ってくれるだけでものすごく心が休まる。
手術後(15.01.14〜01.16)
胸からあご・背中から後頭部は装具で固定されている。頭の両側は砂袋が積まれて頭を動かさないようにされていた。
15日午後、私の1週間前に頚椎の手術をしたTさん(女性)が『2日間だから頑張って』と声をかけに来てくれた。ありがとう!
16日の回診で喉のドレンを抜いてもらい。歩行器を使い歩行許可。
起きて食事をする。料理を見ながら食事をすると言うことは、本当に食欲がわく。
新聞報道を聞いて(15.01.17〜01.22)
大変なことがおきたなぁ〜・・・・これがまず最初に感じたこと。
しかしこの話は4月以降のこと、2月までの予定は変化なしと思っていた。
先生も看護婦さんも大変だなぁ〜と他人事!
2月の終わりまでには、Y先生の勤務先も決まるだろうから、
その病院に通院するしかないと覚悟を決める。(通院しやすい近くでありますようにと祈る)
が、なんで、予定していた通院先がなくなるのか腑に落ちない。
赤羽に通院予定だった患者同士の話は、通院先の話題が多くなる。
病棟閉鎖(転院)の話を聞いた日(15.01.23)
『病棟を1月末で閉鎖することになったので、転院をお願いします。』回診時のY先生の言葉を要約するとこんな感じだったと思う。
実は、余りに突然のことで、ボーとしてしまいよく覚えていない。
「で、どこに?」と言う質問にY先生は『紹介できるのは、D病院かY病院かな』だったと思う。
何とか近所と考え、かかりつけの先生や 院長先生とも話をし、大森や高輪の病院・近所のT病院等の名前が候補として出る。
家族やいろいろな方と話をするうちにだんだん頭の中が整理できてきた。
@Y先生に手術をお願いした(Y先生を信じてすべて任せた)以上、最後(完治)までY先生と縁を切りたくない。
A家族への負担(時間・肉体・金銭的)増を最小限とする。
B退院後の通院が楽なこと。
この3点を最優先で検討した結果。Y先生の診察が月2回あること。電車の乗換えが同一ホームで1回ですみ、駅から近い。
という理由で、D病院に転院することを決め婦長さんにお願いした。
転院が決まってから(15.01.24〜01.30)
自分の病気を理解し、自分を任せられる先生・病院を選んで、手術を受けた患者が、
なんで入院中にもう一度、自分を任せられる病院探しをしなければいけないのか、どうしても理解できない。
転院が決まってから看護婦さん方は、転院先の看護体制を考えてくれていて、
転院先で、困らないように、
都南で出きることを今のうちに、頑張ってくれた。
坂口力厚生労働大臣宛に手紙(質問状)を書く(28日投函)
30日
夕方から病棟にいる患者は、私一人になった。
昭和42年12月に始めて入院してから35年余、今回が7回目の入院、
女房の言葉を借りれば『お父さんの大好きな都南病院』の最後の入院患者になちゃたんだなぁ〜
転院の日(15.01.31)
すがすがしい朝と言いたいけれど、寂しい朝!看護婦さんは、いつもと同じように接してくれるが、患者は、私一人。
転院予定の10時が近づく。看護婦さんにお願いをして写真を撮影。10分前に玄関へ
担当のKさんがいっしょに降りてくれる。車が来るまで話をするが、やはり転院後のことを心配してくれる。
タクシーで転院先D病院へ!
受付をして外来へ、Y先生が言っていたようにT先生はやさしそう。
2階の病室へ。4人部屋で、ベッドは窓際、反対側のベッドは、若いO君・・・・よかった!
担当看護婦のEさんとオリエンテーション。まっ、なんとかなりそう!
午後、リハビリも始まる。緊張のうちに、転院初日が終わる。
転院して(15.02.01〜02.14)
看護婦さん方は、介助するとき、都南でどうやっていたか必ず聞いてくれる。ありがたい
見舞いに来てくれる方に転院の説明をしなくてはならない。そのたびに思い出し怒り!
14日 いよいよ退院。転院前から心配していた入院費も安くすみ一安心。
お世話になったT先生、看護婦さんとリハビリの先生にご挨拶をして、D病院をあとに!
退院して(15.02.14〜02.24)
14日 退院は、歩きたく電車とし、帰り道に都南病院を訪ねることにした。
院長先生と会い退院の報告。顔見知りの看護婦さん助手さんから『退院したの?おめでとう』の言葉をいただく。
転院前に、退院後に会ったら退院おめでとうの言葉を下さいと、お願いしておいたのだ。
家に戻り、すぐにNETでこの問題を検索するが、ほとんどない。なぜなんだ!
15日から少しづつ外を歩く。会う人の、どこで手術したの?の質問に、都南と答えると、
閉鎖の話になるのでその説明。驚いたのは、、移転中止=都南病院存続と思っている人が意外と多いこと。
報道をもっときちんとしてくれよ!都南病院関係者が騒がないのもいけないんだよ。
HPを開く日(15.02.25)
25日 転院のときに撮った写真を持って都南病院へ!あと4日しかない外来は、閑散としている。
いっしょに写真を撮った看護婦さんを探すが、休みの人が多い。
助手さんを見つけ写真を渡す。K婦長さん発見!K婦長さんに写真を託す。
東京北社会保険病院の看板の立った写真を見る。一般の会社だったら、建てないように手配するだろう。
いくら契約をしていてもみっともなくて・・・・・この移転中止を決めた人は、慌てて、あとの手配を考えられなかったのだろうか。
それとも、よほどの、アホか。または、自分たちのやったことの間違いに気付いて、時期は、ずれても、予定の形に戻すのか?
この事実を見ただけでも、いかに無計画かわかるだろう。計画中止を水面下で考えていたように新聞等で、報道されてはいるが・・・・
このような、誰が考えてもつじつまの合わないことが、国の名の元に行われる、日本とは、どんな国なんだろう!
国と言うなのもとなら、世の中の常識は無視という、政治家や公務員がいることすら、日本の恥である。
大人なんだから、失敗は失敗として認めようよ!関係したみんなで、善後策を考えてよ!
新聞等で見られる、職員の目・北区住民の目だけでなく、都南の患者の目を広く伝えたいと考えるようになった。
午後から、急いでこのホームページを作り始めた。
HPを開いて(15.02.25.26.27)
25日 まず、思いつくことを書き始める。気持ちを文字にするのは、本当に大変だ。
また、このHPを作ることが、都南病院関係者に迷惑をかけては?と、心配する。
26日 どうやって表現したら、一番理解していただけるかを考える。
心の動きを思い出しながら書いていると、苦しかったこと、楽しかったこと、うれしかったことなど良い思いでと
疑問に思うこと、腹の立つことなど嫌な思い出とが交錯する。
冷静に考えて書く方がむずかしい。なにせ、考えたり思い出したりすると、腹が立つんだから・・・・・
都南病院外来最後の日(15.02.28)
11時前に都南病院を訪ねる。子供がお世話になったI婦長や7年前にお世話になったT主任にご挨拶できた。
患者が出入りできる最後の日を名残惜しんでいるのは、私たち親子だけでなく、ご夫婦で見えてる方など、何人か見える。
今から日テレのニュースに都南が出ると教えてもらい、待合室で見る。もっと早く取り上げてほしかったな!
今夕は、テレビ朝日のほかに日テレにも出ることになったそうだ。時間を詳しく聞く。
とうとう11時30分。外来の受付が終わる時間だ。待合室から玄関を出る。さびしい!
振りかえって見る!もう、この玄関を入ることもない!
夕方、拠所ない用事がありON TIMEではテレビを見ることが出来なかったが、ビデオで見る。
社会保険庁の説明はなんだ!自分たちに非があるかわかっているから、ちゃんとした説明が出来ない。
長官にいたっては、『決まったことですから!』ふざけるんじゃないよ。
決まっていたから、移転計画が進んでいたのでしょう。
本当に正しいことをやっているのなら、ちゃんと目の前で説明しろ!
大のおとなが、説明のつかないことをやるんじゃない。自信がないから、足早に逃げるんだろ!
そのあと、衆議院厚生労働委員会をNET上のビデオライブラリーで見る。
質問をはぐらかす坂口厚生労働大臣。質問とは論点とは違う答えしか出来ない
一国の大臣が、あんな答えで逃げるしかないとなると、腹立つと同時に哀れになってきた。
長いものに巻かれろだったり、お上のやることには逆らうなと言う事は、昔の話!
それは、常識のある人が上に立っている時代の話で、今のように上に立ちたいだけ人(名誉欲の大きい人)が、
多い時代では、ちゃんと声をあげないと大変なことになってしまうと思う。
学歴の時代で、世間や一般常識を知らないまま社会に出て、高い地位につく。
その地位を守るためなら、犠牲者が出ても気にならない。そのような人が多すぎると思いませんか?
私は、これからも声を出しつづけます。
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