捕鯨

初期の捕鯨

浜に打ち上げられた鯨を利用することは、先史の時代から行われていました。傷ついたり死んだりして海辺や岸近くに流されてきたり浜に打ち上げられた鯨を利用していたのです。こうした「受身的」な捕鯨が主流でしたが、一方で貝塚などの遺跡から発見された手投げ銛やイルカの頭骨などから、小型鯨を原始的な方法で積極的に捕獲するようになったのは、縄文時代(紀元前1万年前頃〜300年頃)だと考えられています。こうした「受身的」な捕鯨は16世紀までも続けられ、また積極的な捕鯨が出現した後も消えていません。

積極的な捕鯨が始まったのは16世紀で、大規模な活動へ発展したのは16世紀末になってからだと考えられています。数隻の船に分かれた鯨捕りたちが突き捕りで捕獲した鯨を陸上の特設処理場へ運ぶ、という「突き捕り式」による狩猟方法が利用されました。こうした捕鯨活動は現在の和歌山県、四国、九州北部、そして山口県の日本海沿岸などの地域経済に重要な役割を果たすようになりました。1675年に太地の和田角右衛門という人が、海に網を張り大勢の漁夫がいくつかのグループに分かれて鯨(主に動きの遅いセミ鯨やザトウ鯨)を網に追い込み、鯨を銛で打つという狩猟方法を開発しました。鯨が網に絡まると、捕鯨者は銛で攻撃したのです。

「網捕り式」と呼ばれるこの方法は日本の西南各地に伝播し、19世紀末まで日本の捕鯨において中心的役割を果たしました。捕獲されたのは、コク鯨、セミ鯨、ザトウ鯨、ナガス鯨、などで、おそらく多少はミンク鯨も捕られていたことでしょう。但し、千葉のツチ鯨漁や太地のゴンドウ鯨漁では、手投げ銛だけが使われ、これは20世紀に至るまで続きました。


生月の古式捕鯨

平戸市の対岸、海峡に面した田平町のつぐめの鼻遺跡では、縄文時代のものと思われる大量の大型の石銛とともに鯨の骨が出土し、最近まで鯨の回遊路となっていた平戸瀬戸で、太古の昔に捕鯨がおこなわれた可能性を示しています。
全国的にみると、組織的な捕鯨業がおこなわれた最初の記録は、戦国末期の元亀年間(1570〜)に三河国内海の者がおこなったものです。慶長11年(1606)には、紀州(和歌山県)の太地浦で尾張の漁師を招いた突取法による捕鯨業が開始され、さらに土佐(高知県)や安房(千葉県)、そして西海各地に伝わっていきます。
近世に西海で捕鯨がおこなわれたのは、五島列島の南端から壱岐・津島を経て、山口県北部の見島に至るまでの広大な地域(海域)です。対馬海峡を挟むこの地域は、鯨が冬に南(西)下し、春先に北(東)上する回遊のルートにあたっていました。江戸時代初期に紀州の鯨漁師が出漁してきて鯨をとる一方で、地元からも捕鯨を始める者が、続々と出て、一時は西海全体で70組以上の鯨組が操業するようになったといいます。
17世紀後半に、紀州で考案された網を使った捕鯨法が西海に伝えられた後は、大村の深澤儀太夫、呼子の中尾甚六、壱岐勝本の土肥市兵衛などが経営する有力鯨組が次々に興ります。しかし19世紀に入ると、生月島に本拠を置く益冨又左衛門が、最も有力な鯨組として西海には覇をとなえるのです。
しかし、江戸時代の終わり頃になると、西洋の捕鯨船が日本近海でも盛んに捕鯨をおこない、その影響もあってか、各地の鯨組は不漁のため次々に廃業していきます。
そうして明治30年代までには、古式捕鯨の時代は終わりをつげていきます。

鯨を見つける−山見−
西海では、冬に暖かい南に向かう鯨を「下り鯨」、春に餌の豊富な北の海に向かう鯨を「上り鯨」と呼びました。生月島では、下り鯨は、@平戸〜度島間(田の浦落し)、A度島〜大島間(袴瀬戸落し)B大島北沖(大谷入り)の3つのルートを通って島の東岸にあらわれ、五島方面に泳ぎ去っていきます。そこで、鯨の通過を確認できる岬の突端・山の頂上・小島に山見(やまみ)という監視小屋を設け、鯨の潮吹きを確認すると、旗や狼煙で網代に待機する船団や納屋場に伝えられました。

鯨を捕る
(1)鯨の追い込み:山見の知らせが入ると、八挺の櫓を漕ぐ快速の勢子船がただちに鯨に向かい、鯨の背後・左右に散開ながら「狩棒」で船縁を叩きます。音に敏感な鯨を、狩棒の音で追い立てて網代に向かわせます。
(2)網を張る:双海船は網代に網を張ります。二艘の双海船が、積んでいる苧網の端をつなげておいて、弓なりに網を張っていきます。1反が18尋四方の網で38反(約1,036m)もの長さになりますが、鯨が確実に網を破るように、三組の双海船で三重に網を張り巡らします。
(3)鯨を網に掛け、銛でうつ:鯨が網を察知してたじろぐ場合には軽い「羽矢銛」をうち、鯨を驚かせて網に突っ込ませます。網を破って動きが鈍ると重い「萬銛」をうちます。萬銛に付いた網は船に繋がれており、船を曳かせて鯨の体力を消耗させます。
(4)剣をうち、鼻切りをする:鯨が相当弱った所で、持双船から鉾の形をした「剣」を投げて鯨を刺し、半死半生にします。一方、鯨が動かなくなったところで羽指が鯨に泳ぎ着き、「手形包丁」で鼻に穴を開け、網を通して沈まないようにします。
(5)持双にかける:持双柱を掛け渡した二艘の特双船が頭を前にして鯨を挟み、鯨を釣り下げて納屋場まで運びました。

納屋場の解体・加工
江戸時代後期の西海捕鯨の納屋場は、しっかりした石垣で護岸を築き、鯨の加工や道具の修理をおこなう沢山の建物が建てられていました。取れた鯨は、納屋場の前の2ヶ所の突堤の間に、頭を陸側に向けて引き寄せられ、ロクロという人力によるウインチと、大切包丁を使いながら、決められた手順で効率よく解体されていきます。
江戸時代の西海地方では、鯨はおもに油を取るために加工されました。大納屋という施設では、分厚い脂肪層を持つ皮を大釜で煎って液化(鯨油)しました。また赤身肉は塩漬けにして保存が効くようにしました。小納屋では、骨についた肉をとったり、内蔵から油を作りました。骨納屋では、油分を多く含んでいる骨を細かく刻んで煮て油をとりました。また髭や筋も利用されました。

鯨の利用
江戸時代、鯨をとる主な目的は鯨油を取ることにありました。鯨油ははじめ灯油としての需要があったようですが、享保の頃(1716〜)鯨油を田に撒いて害虫を退治する方法が筑前で発見され、以後、農薬としての鯨油の利用価値が増大していきます。文政9年(1826)には大蔵永常が『除蝗録』という書物の中で鯨油の使用を奨めています。稲の豊凶は藩の存亡に関わるものだけに、九州の各藩では一定量の鯨油を備蓄し、農村に配るところも出てきました。また鯨肉を食べる習慣は、旧捕鯨地や、大阪を中心とした西日本に特に普及しました。特に生月では益冨家が『鯨肉調味方』という鯨料理書を製作し、鯨食品の普及もおこないました。この本には、鯨肉を使った「鋤焼」が紹介されており、鋤焼料理の元祖とされています。他にも皮・内蔵などが、さまざまな方法で加工されて賞味されました。
他に髭が細工物のバネとして使用され、油を取った後の煎粕や骨粉も肥料となり、余すところなく利用されました。

江戸時代最大の鯨組「益冨組」
生月の人達によって最初に捕鯨業がおこなわれたのは、享保10年(1725)に12艘の船で始められた、舘浦の田中長太夫と畳屋(益冨)又左衛門正勝の共同経営による突取法による鯨組だと言われています。しかし当初は不漁で、翌享保11年には田中長太夫は経営を退き、益冨家だけで経営を続けます。
その後、享保14年(1729)には、根拠地を捕鯨に有利な島の北部・御崎(みさき)に移し、享保18年(1733)には網を使う方法を採用して捕獲数は増大します。寛政11年(1799)には生月島の他、壱岐島・的山大島・西彼杵平島に進出しており、文政年間(1818〜)には、西海はもとより日本随一の規模を誇る鯨組へと発展します。それは、西欧の捕鯨船の活動で捕獲量が減少する直前の時期に、日本の伝統捕鯨が到達した頂点の姿でした。益冨組が享保10年から明治6年までの間の142年間(断絶期を含む)に捕獲した鯨は21、790頭で、その収益は332万両余りにおよぶと言われています。
益冨組による捕鯨が断絶した後、いくつかの共同経営の鯨組が操業しましたがいずれも振るわず、明治時代から昭和初期にかけておこなわれた、アメリカ伝来の銃と破裂銛を用いた銃殺捕鯨で、生月での捕鯨の歴史は終わり、イワシやアジ・サバを取るまき網漁業に主役の座を譲り渡していったのです。



土佐古式捕鯨

つくも洋ともいわれる土佐湾は、古来より豊かな海、水産資源に恵まれ、「よさこい節」にも歌われるように鯨が泳ぐ海でもあります。
近世初頭、寛永元年(1624)安芸郡津呂浦(現室戸市)の庄屋多田五郎右衛門義平が、捕鯨集団「津呂組」を組織したことから土佐古式捕鯨が始まりました。今を去る三百七十年前のことです。
室戸で始められた古式捕鯨は、突取り漁法という鈷に頼る原始的な捕獲方法でした。この漁法は一時期隆盛を極めましたが、鯨の来遊が少なくなったことと、非常に危険を伴う漁法のためしだいに衰微しました。

勢子船
鯨を追いかける為速度が出やすくなるよう、ミヨシは長く、船体は細く、材は軽い上、鯨油で顔料を溶き鮮やかな模様をほどこしてありました。古式捕鯨組の構成(明治期)は、山見(遠見番所)・勢子舟・綱船・持双船・市艇など二十七・八艘で漁夫は約三百名を要し、「鯨一頭取れぱ七浦潤う」といわれたものでした。



オランダ式捕鯨

手滑ぎボートから手投げ銛を使ってクジラを仕留め、これを陸上で処理していました。
そのため、大陸の沿岸や島に近づいてくる習性のあるクジラに限定されました。
対象クジラは、死後も海面に浮くセミクジラとホッキョククジラで、日本でも同様に手銛を使う捕鯨が12世紀にはじめられ、1606年になると太地(和欧山県)で捕鯨専業組織「鯨組」が誕生しました。
また、1675年には縄をクジラに絡ませ、身動きを取れなくしてから銛でしとめる網取り式捕鯨が誕生しました。



アメリカの捕鯨

帆船で沖へ出て、乗せていた捕鯨ボートを何隻も下ろし、各船から破裂銛をクジラに打ち込む漁法です。
銛には火薬が仕込まれていて、クジラに刺さると爆発し、これによってダメージを受けたクジラを補鯨銃で打ち込む方法です。
1820年に米国及び英国の捕鯨者たちはハワイと日本の間に豊かな鯨の漁場を発見しました。まもなく米国や他の西洋国の数百隻もの捕鯨船が、日本近海で操業を始めるようになりました。
この時期、日本の捕鯨者の捕獲量が激減してしまったのは偶然ではありません。つまり、日本の小さな手漕ぎの船が操業できる沿岸地域に到着する前に鯨が外国船に捕獲されていたからです。
日本の鯨捕りたちが捕鯨を続けるためには、西洋と競い、近代化する必要がありました。そこで最初に目をつけた「米国式捕鯨」を各地で導入しようと試みましたが、多くが失敗に終わり、日本の捕鯨の発展には実質的な影響を及ぼしませんでした。



生月の新式捕鯨

明治の始めに、銃で破裂銛(ボンブランス)を撃ち込んで鯨を倒す銃殺捕鯨法がアメリカから伝わり、各地で試みられましたが、狭い海峡を鯨が通る平戸瀬戸以外では本格的には操業されませんでした。
一方、動力で動く船(キャッチャーボード)の舳先に積んだ大砲で、網付きの銛を撃ち込んで、鯨を捕獲する砲殺捕鯨法(ノルウエー式)が明治30年代に導入されると瞬く間に普及し、これまで積極的な捕鯨がおこなわれていなかった東北や北海道にも基地ができ、盛んに捕鯨がおこなわれるようになりました。西海でも、長門や対馬、呼子、五島などに基地が置かれました。
また鯨の解体・加工を捕鯨母船でおこなう方法が開発され、昭和9年(1934)以降、南氷洋に捕鯨船団が出漁し、戦後も食料不足に悩む日本人に貴重な鯨肉を供給しますが、「捕鯨オリンピック」と呼ばれる過剰な捕獲競争を繰り広げた後、1982年の国際捕鯨委員会(IWC)で、全面的商業捕鯨中止が決議され、調査捕鯨を除けば、現在南氷洋での捕鯨は一切禁止されています。



沿岸大型捕鯨

沿岸大型捕鯨は確立され、その後数十年間にわたり大きな変化を遂げました。 (1)陸上に捕鯨基地(1906年に鮎川、1915年に網走)が設立された
(2)漁場拡大により北は千島列島から南は台湾や小笠原諸島まで新しい漁場が広がった
(3)漁場が北緯25度から50度まで拡大したため冬には南の海域、また夏には北の海域で操業するというように1年を通じた操業が可能になった
(4)捕獲された鯨種の需要が時期によって変わったため、鯨肉の消費量に影響を与えた

(5)南氷洋母船式捕鯨の資金融資の目的もあって、捕鯨会社が、1930年代後半には三つの大手会社(日水、大洋、極洋)に統合された



沿岸小型捕鯨

日本の沿岸小型捕鯨は、沿岸大型捕鯨や母船式捕鯨と同様の歴史があるにもかかわらず、外見的に印象に残らないせいか、あまり知られていません。
日本人は数世紀にも渡り、網を使い小型の鯨の群れを湾内に追い込むという方法で漁をしてきました。今でも網を利用した捕獲が行われていますが、現代の沿岸小型捕鯨の起源を理解するには、手投げ銛による捕鯨の発展は欠かせません。最近までいくつかの地域ではゴンドウ鯨やツチ鯨を手投げ銛で捕獲していました。ゴンドウ鯨では太地、ツチ鯨では勝山が、現代の沿岸小型捕鯨の起源を模索するのによい例です。
沿岸大型捕鯨の近代化が進むようになると、沿岸小型捕鯨者たちが、蒸気船や捕鯨砲を取り入れることは不可欠なことでした。1910年代初期までに、捕鯨砲を採用した二種類の沿岸小型捕鯨が、太地と房総半島に出現しました。
ミンク鯨漁のための捕鯨船は、鮎川の捕鯨者達が太地から持ってきた船を使って1930年初頭になってはじめて開発しました。これは大変効果的だったため、捕鯨砲を利用した15〜20トン級の小型の船舶に広く採用され、ミンク鯨やツチ鯨の捕獲に使われました。



母船式捕鯨

欧州国における母船式捕鯨の歴史は中世までさかのぼり、数世紀をかけて世界の海へと漁場を拡大していきました。
今世紀初頭に近代的な捕鯨船で南氷洋へ最初に進出した国はノルウェーでした。日本は大規模な沿岸大型捕鯨を操業していたにもかかわらず、鯨油市場の急落、1930年〜1931年の史上最高の鯨油生産、世界規模の不況、捕鯨の新しい規制が導入されるなどの理由で、南氷洋に進出したのは30年後の1934年になってからでした。
出足は遅れたものの、西洋諸国にはすぐに追いつきました。日本は1939年には四隻の捕鯨船と一隻の母船による北太平洋への進出も果たし、翌年も同様に船団を送りました。太平洋戦争の始まった1941年迄には、日本は主な南氷洋捕鯨国と肩を並べるまでになっていました。
母船式捕鯨がわずか数年間で大きな成功をおさめ、生産高においてもその他の捕鯨活動全てを合わせたものを上回るようになりました。母船式捕鯨の開始は、仕事を失っていた西南地方の捕鯨者たちにも新しい雇用機会を提供し、日本の多くの捕鯨地域の捕鯨文化継承に重要な役割を果たすようになったのです。母船式捕鯨の乗組員の大半が九州や和歌山県の出身で、また鮎川や宮城県の十八成から来た者も多くいましたが、彼らもその祖先は西南地方の出身でした。



ノルウェー式捕鯨

汽船に大砲を設置し、弾丸の替わりにロープのついた銛を装填し、これをクジラに打ち込む漁法で、ノルウェ一で誕生しました。
汽船の使用によって泳ぎの速いクジラも、銛に付いたローブの末端を船に固定することによって、死後沈んでしまうクジラも、すべての鯨種についての捕獲が可能になりました。
日本では明治30年代頃に導入され、現在も調査捕鯨で使われています。
日本が「ノルウェー式捕鯨」を知ったのは、ロシアの捕鯨を通じてでした。極東のロシアの捕鯨会社はノルウェー式捕鯨を採用しており、19世紀の初期には鯨肉を大量に日本へ輸送していました。これに刺激された日本人の捕鯨者たちは、日本にノルウェー式捕鯨を導入しようと試みました。1890年末の先駆者である彼らの努力、および日露戦争後の日本政府の措置が、日本の近代の沿岸大型捕鯨を確立したと言われています。
このノルウェー式捕鯨の採用によって、その後、沿岸大型捕鯨、沿岸小型捕鯨、母船式捕鯨という三つの異なる捕鯨形態が出現し、これらは太平洋戦争が勃発する前には既に確立されていました。



南氷洋捕鯨〜調査捕鯨

南氷洋捕鯨は、ノルウェー式捕鯨とも呼ばれ、 その昔、捕鯨母船1隻、タンカー1〜2隻、冷凍冷蔵運搬船1〜2隻、キャッチャーボート10〜20隻、探鯨船(キャッチャーボート)1〜3隻、を1つの船団として、日本から1〜3船団が活躍していた。
戦前には、これらの船舶は、その特性により、補給艦や、駆潜艇 としての転用も念頭に置かれ、海軍に大切にされていた。
戦後は、厳しい食糧事情を補う為に、鯨は貴重な存在となっていた。
その後、西欧諸国の偏見・エゴとも言える発想により、商業捕鯨が禁止となり、通称「調査捕鯨」として、細々と活動されている。
余談だが「鯨を殺すのは野蛮だ」と叫ぶ彼らは、ブタやウシを平気で食べているし、第一、太平の江戸時代、産業革命で「鯨油が必要」となったとたん鯨を追っかけて日本まで来て「補給させろ」と開国までさせて、挙句の果てに、自分たちの用途が終わったとたん、あたかも、今まで鯨など撫で撫でした事しかないような口振りの議論は、ついて行けない。
別の見方をすれば、日本人はご飯のときに「いただきます」と言い、これは、ご馳走になるものの命を頂くことに感謝を込めて言っているが、欧米人は、神の恵みに感謝する。すなわち、神(と言っても人間が決めたものだが)を中心とした都合であり、食べられるための生き物とそうでない物と言う、勝手な選別主張に基づいている。このことは、かつては人種差別にも繋がっていた。


戦後における日本の捕鯨

第二次大戦が始まり、日本は深刻な食糧難に見舞われたため、沿岸捕鯨は食糧供給源として特別の配慮を受けました。この時期、母船式捕鯨は一時中断されましたが、新しい制度の下で沿岸大型捕鯨の生産高はピーク時で34,800トンに上り、内28,600トンは食糧に利用されていました。そして緊急措置として、沿岸小型捕鯨の捕鯨船による大型鯨の捕獲が認められたため、このような捕鯨形態は戦時中に広がりました。
戦争が終結する頃には、日本は捕鯨船舶総トン数の94.6%を失った上に、戦前の漁場の半分以上をも失ってしまいました。一方では、食糧危機のため、国民は今まで以上に食糧源として鯨肉に依存するようになっていました。
食糧危機を軽減するために、マッカーサー米国陸軍元帥は日本の国際捕鯨の再開を認可し、その結果、捕鯨産業は著しく速やかに回復しました。沿岸小型捕鯨は敗戦の痛手をあまり受けずに捕鯨船の数が増え続け、1947年には船の数も83隻に増えました。沿岸大型捕鯨の方は、小型捕鯨ほど順調ではなかったものの、数年後には回復し1970年代初期までには一定のレベルを維持できるようになりました。
沿岸大型捕鯨にとってもう一つの節目となったのは、1946年の国際捕鯨取締条約によって、捕鯨操業期間が4月から9月の6ヶ月間に制限されたことです。この半年間には、ほとんどの鯨が北方の海域で回遊していますので、この規制は、日本の西南各地の捕鯨操業の廃止を意味するものでした。この結果、1950年代に操業していた20の陸上基地のうち、ほとんどは日本の北東部に位置していました。
母船式捕鯨が1930年代後期に非常に生産性が高かったことや、日本の食糧危機などが理由で、1946年に進駐軍は日本が南氷洋捕鯨を再開することを認めました。1960/61年の漁期までに、日本は南氷洋に七つの捕鯨船団を送り込み翌年の漁期には、鯨油と鯨肉を合わせて309,440トンという史上最高の生産高を記録しました。
北太平洋母船式捕鯨は、1945/46年の漁期という早い時期から小笠原諸島の周辺での捕鯨の再開が認められていたにもかかわらず、回復に時間がかかりました。ところが、1952年にIWCはこれを沿岸捕鯨と定義し、沿岸大型捕鯨の規制をそのまま適用させました。それは、ちょうど島の沿岸にイワシ鯨がいる期間である11月1日から4月末までの捕鯨活動を禁じるものでした。
しかし、戦後初めて母船式捕鯨船団が北太平洋に送られたのも1952年のことです。1967年には、ピークに達し、生産高は90,000トンを超えました。
1947年には、日本の動物性タンパク質消費全体の約47%が鯨肉によってまかなわれており、この割合は1964年に至っても23%と高い水準を保っていました。
日本は1951年にIWCに加盟し、1960年迄には世界の主要な捕鯨国となっていました。
IWCが設立されたそもそもの意図を知る人はそう多くありませんが−あるいは知らないふりをしているのかも知れませんが−IWCの当初の目的は鯨類の保全ではなく、鯨油価格の保護でした。日本政府は、既に1909年から自ら国内の沿岸大型捕鯨を規制しており、操業するためには政府の許可が必要でした。その許可の数が限定されていたことから取得は決して容易ではありませんでした。
1960年代、鯨類資源の状態に対する国際的懸念を反映し、IWCの規制は実際に、より厳しくなりました。日本の南氷洋における捕獲枠は33%に固定されました(それでも日本は、他の捕鯨国から船団や捕獲枠を買いとっていたので実質的にはこの枠を上回っていました)。1960年代及び1970年代にかけては、鯨類の南氷洋における捕獲枠は、減らされたか廃止されたかのどちらかでした。1978/79年の漁期の段階では、南氷洋での捕獲はマッコウ鯨とミンク鯨のみとなっていました。
北太平洋では、IWCはナガス鯨、イワシ鯨、そしてマッコウ鯨の捕獲枠を導入しましたが、1976年以降は、ナガス鯨及びイワシ鯨の捕獲を禁止しました。北太平洋ミンク鯨捕獲枠が設定されたのは1977年からでした。
少ない捕獲枠は、ある一定の鯨種を保護するには効果的だったかも知れません。しかし、当時鯨は環境保護や動物権を主張しようという人たちの象徴となっていました。そうした動きの中で、1972年のストックホルムにおける国連人間環境会議では、商業捕鯨の10年間のモラトリアムを呼び掛けた決議案が可決されました。そして1982年、IWCは1985/86年の漁期から包括的モラトリアムを宣言したのです。
アメリカの国内法の脅威にさらされた日本政府は、1986/87年の漁期に最後の南氷洋捕鯨船団を送りました。沿岸大型捕鯨の陸上基地は1988年に閉鎖され、日本の沿岸大型捕鯨は廃止されました。1988年から、沿岸小型捕鯨船によるミンク鯨漁が禁じられました。現在日本は、国際捕鯨取締条約第8条に規定された研究目的の南氷洋ミンク鯨の捕獲調査のみを行なっています。日本政府は、IWCの管轄下にないツチ鯨やゴンドウ鯨を数十頭捕獲するための許可を小型の船舶に与えています。
IWCの過剰に厳しく、非科学的な規制と立場の結果、日本の捕鯨活動全体はかなりの収縮を強いられてきました。日本の捕鯨地域及び日本にとっての社会的、経済的、文化的な損失は非常に大きいのです。
IWCが自ら1993年の決議で認めた日本の捕鯨地域の社会経済的及び文化的必要性や、ミンク鯨漁の禁止によって捕鯨地域が強いられてきた困窮に、今責任感を持って応える時期が来ているのではないでしょうか。



現在の沿岸捕鯨

[網走]北海道

[鮎川]宮城県牡鹿町
第75幸栄丸、第28大勝丸

[和田浦]千葉県(外房)
第31純友丸
千葉県南部の房総の地で捕鯨が行われたのは、江戸時代の慶長17年からと言われています。現在、和田町の外房捕鯨株式会社が行っています。

[太地]和歌山県
第7勝丸、正和丸



鯨類捕獲調査船団

通称「調査捕鯨」として、毎年実施されている、鯨類捕獲調査船団

写真は、最近の構成船舶の一例で、撮影時点当時の姿であり、現状と異なっている場合もあります。

・調査母船 1隻
  日新丸
back
日新丸 (95.5.3 田浦) 元大型トロ―ル漁船

通称「捕鯨母船」。本船は、元遠洋トロール漁船で、先代の捕鯨母船 第三日新丸 の老朽化に伴い、改造就役しているが、トロ―ル漁船時代と比べて、外観はさほどの変化はなく、船内に、調査研究設備・鯨加工設備、増設がされているものと思われる。

・目視採集船 2隻前後
  勇新丸
back
勇新丸 (共同船舶 新造紹介パンフレット より)

「勇新丸」は、新造船である。

back
第一京丸、第十八利丸、第二十五利丸 (95.5.3 田浦)

通称「キャッチャーボート」「捕鯨船」。昔の捕鯨船団では、この型の船が10〜20隻、船団になって活躍していた。

・目視専門船
  第2共新丸 1隻前後
back
漁業取締船(傭船) 第二共新丸 (94.10.10 田浦)

この任務の船については、詳しくないが、通称「探鯨船」に相当するものと思われる。要は「鯨を捕るのではなく、双眼鏡で数量を観測する」と思われる。
本船は、元来、捕鯨任務の船舶ではなく、一般の漁船とも構造が異なる。

・餌生物調査船 1隻
この任務の船については、詳しくないが、鯨の餌について採取観測調査するものと思われる。


・調査方法
目視調査:調査コース上を航行探索し、発見した頭数により、調査海域全体に分布する頭数を面積による比例計算により推定する。
捕獲調査:実際に捕獲、解体し、鯨の実態(サイズ、年齢、食べ物など)を調査する。

・調査実施主体:
財団法人 日本鯨類研究所(TEL:03-3536-6521)
独立行政法人 水産総合研究センター遠洋水産研究所(TEL:0543-36-6000)
・鯨類捕獲調査の法的科学的根拠:
北西太平洋鯨類捕獲調査は、国際捕鯨委員会(IWC)を設置した国際捕鯨取締条約第8条に基づき実施されている調査であり、1994年に開始し、1999年までにミンク鯨の系統群調査を主目的とした第1期(6回)の調査を終了している。第1期北西太平洋鯨類捕獲調査は「ミンク鯨資源の管理のためにデータを提供している」などとしてIWC科学委員会において高く評価されており、北西太平洋鯨類捕獲調査は国際法上も科学的にも正当な調査である。
昨年からはニタリ鯨とマッコウ鯨を対象種に加え、調査の主目的を鯨と漁業の競合関係の解明とした第2期目の調査を開始している。なお、昨年(2000年)及び本年(2001年)の調査は第2期北西太平洋鯨類捕獲調査の予備調査と位置づけられており、本格調査の実施の内容は当該予備調査の結果に基づき決定する。

(参考)国際捕鯨取締条約第8条
1 この条約の規定にかかわらず、締約国政府は、同政府が適当と認める数の制限及び他の条件に従って自国民のいずれかが科学的研究のために鯨を捕獲し、殺し、及び処理することを認可する特別許可書をこれに与えることができる。また、この条の規定による鯨の捕獲、殺害及び処理は、この条約の適用から除外する。各締約国政府は、その与えたすべての前記の認可を直ちに委員会に報告しなければならない。各締約国政府は、その与えた前記の特別許可書をいつでも取り消すことができる。

2 前記の特別許可書に基づいて捕獲した鯨は、実行可能な限り加工し、また、取得金は、許可を与えた政府の発給した指令書に従って処分しなければならない。

捕鯨管理方式

オリンピック方式

捕獲頭数の国別割当が実施される以前は、全体の頭数制限の枠内で、各国船団が一頭でも多く獲ることを競っていた。各船団は毎週捕獲した鯨の頭数を、ノルウェーのサンディフィヨルドにある国際捕鯨統計局に報告しなければならず、統計局はこれらの情報から捕獲枠に達する日を予測し、一週間の余裕を持って各船団に通知する。この日をもってすべての船団は操業を中止しなければならない。この捕獲管理方式がオリンピック方式と呼ばれるものである。このように各船団間の競争を煽るような管理方式が、資源を枯渇へと導くことになった。

シロナガス換算(BWU)方式

鯨油を主な目的としていた捕鯨全盛時代、採油量を基準にナガス鯨2頭、ザトウ鯨2.5頭、イワシ鯨6頭をそれぞれシロナガス鯨1頭として捕獲頭数を換算していた。このように鯨種別の管理を行わなかった為、採算効率の高い大型鯨から乱獲されることになり、シロナガス鯨を筆頭に大型の鯨が激減する結果となった。

新管理方式(NMP)

1974年のIWC会議でK.アレンが提案し、1975−76年の南氷洋捕鯨から採用されるようになった鯨資源の新しい管理方式。こらは三分類方式あるいはMSY(最大持続生産量)方式と呼ばれるもので、鯨資源を初期管理資源、維持管理資源、保護資源の3つのカテゴリーに分類した上で、保護資源を捕獲禁止とし、維持管理資源と初期管理資源からその最大持続生産量の一定割合の捕獲を許可する。 MSYとは資源の繁殖率が最高に達する最適水準で年間に増える量である。この管理方式は資源保護のみに重点を置いた厳格なものであったが、多くの生物学的情報を必要とする為、不十分な情報の下ではうまく機能しなかった。

初期管理資源・・・最適水準を20%以上上回る資源
維持管理資源・・・最適水準のプラス20%からマイナス10%の資源
保護資源・・・・・・・最適水準を10%以上下回る資源

改訂管理方式(RMP)

新管理方式の失敗の後、入手可能なわずかな情報の下でも機能する資源管理方式を求めて、 IWC科学委員会で作業が進められた。いくつものテストが繰り返され、5つの候補案の中からJ.クックが提案した管理方式が採択され、1992年に改訂管理方式として完成した。この方式は生物学的な情報を一切必要とせず、推定資源量と過去の捕獲記録だけで捕獲枠を算出することができる。また、この管理方式はストック(生活集団単位)ごとに適用されるため、安全性が非常に高い。改訂管理方式の完成により、捕鯨再開の条件である改訂管理制度(RMS)の科学的作業は達成された。



主な鯨

大型鯨類
シロナガスクジラ
ナガスクジラ
ホッキョククジラ
セミクジラ
イワシクジラ
マッコウクジラ
ニタリクジラ
ザトウクジラ
コククジラ
ミンククジラ

小型鯨類
ツチクジラ
ゴンドウクジラ
イシイルカ



97/98南氷洋鯨類捕獲調査船団
1998/99年度南氷洋鯨類捕獲調査船団
2001 第2期北西太平洋鯨類捕獲調査船団

捕鯨の歴史
捕鯨

捕鯨問題


戻る TOPに戻る

新規作成日:2002年2月23日/最終更新日:2005年11月13日