【5】故郷への帰還 第1話 「ほんとに、大きいねぇ………」 甲板の手すりにつかまりながら、キラが感嘆したとも呆然としたともどちらともつかない溜息をついた。 「ん?キラは海を見るのは初めてか?」 「ううん。少し前はずっと、アスランと、海の近く…旅してたから」 そうじゃなくてこの船がね…─────とキラは隣に立つディアッカを見上げる。 自分よりもずっとずっと背の高い彼の顔を見る為にぐいっと頭を反らせたら、勢い余って後ろへとよろけてしまった。 「……っと、大丈夫か?只でさえ地上と違って下が安定してないんだから、気をつけろよ」 「う、うん。ごめんなさい……」 「俺が傍に付いてるのにお前に怪我なんてさせた日にゃ、アイツに何言われるか分かんないぜ」 申し訳なさそうにしゅんとしてしまったキラの頭にぽんと手を乗せると、ディアッカは戯けるように肩をすくめた。 「ほら、心配性な保護者サンがこっち見てるぞ?」 「…あ……」 苦笑しているディアッカの視線の先を辿れば、船内へと続く扉の前に立つアスランとイザークの姿が目に入った。 その瞬間キラの瞳に一瞬影が過るが、それはすぐに散ってしまう。 イザークは手に持っている地図と思しき紙面にずっと視線を落としていたが、アスランの方は甲板をぱたぱたと忙しなく動き回るキラを気にしていたようだ。 視線が合ったのが嬉しくて、キラは小さく手を振る。 すると、彼も口元に小さく笑みを浮かべた後、右手をゆるりと挙げてそれに応えた。 けれどすぐにイザークの声に引き戻されて真剣な顔で話し合いを始める。 そして暫くするとふたりして船内へと入って行った。 「……まだ、難しいお話…してるのかな」 キラはそんなふたりの様子を眺めて、ぽつりと呟いた。 長らく世話になったカーライル男爵の治める街ベルトランを出立して今日で三日目。 暫くは馬車に揺られるだけの道中だったが、途中で港から船へと乗り込み、再び一路王都を目指した。 王都へは船で三日程海路を北西へ行った後、更にそこから馬車で丸一日行かなければならない。 合間の休憩を殆ど取らないその強行軍に当初アスランは難色を示した。 それが体力のないキラにとっては辛い旅路になるだろうことは明白だった故に。 けれども、他ならぬキラ自身がそれでもいいとアスラン達の背を押した。 その心の中には、自分が周囲の重荷になってしまうことへの大きな恐れと、そして少しだけアスランの生まれ育ったという場所を早く見て見たいという興味とがあった 当然といえば当然だけれど、キラは王都へ行ったことがない。 流石に自分達が暮らすこのクライン王国の中心地だという事や、国王陛下が居る所だという事だけは知ってはいたけれど、そこがいったいどんな場所なのか考えもつかない。 キラ達のような奴隷にとって、王様はそれこそまさに雲の上の人だ。 奴隷の中には、王様は神様とおんなじなんだよと尊敬と畏怖の念を込めてそう言う人達もいた。 彼らの生まれた地方では、王族は神の眷属なのだと信じられていたから。 そして、穢れた身分のお前達には顔を拝見するどころか名を呼ぶことすらも罪にあたるのだと、かつての主人達の誰かがいつか吐き捨てるように言っていたこともキラは覚えている。 そんな人が住むお城がある街というのは、いったいどんな場所なのだろう……? 自分なんかが行っても怒られない……? 少しずつ目的地へと近付いて行くごとに、キラの中には見知らぬ場所への大きな不安と、そして控え目に芽生えた仄かな期待が降り積もっていった。 「今日は天候も問題無いし良い風も吹いている。この調子で行けば予定通りに明後日にはリマイラ海域に入り、その明朝までには港に着くだろうとのことだ」 背後からかけられた声に、アスランは座ったまま肩ごしに振り返る。 そこには先程まで海図を広げて船長と話し合っていたイザークが立っていた。 海のことには然程詳しい知識があるわけでもないアスランは、その場にただ居ても無駄だと判断して部屋を辞し、航海についての話をイザークに任せひとり小さな窓の外を見遣っていた。 ガタッと椅子を引く音の後、イザークが少々乱暴にそこに腰掛ける音が響く。 少し疲れたのか、天井を見上げ大きな溜息をついていた 「これだから外側は嫌になる。出航前に引き合わされた責任者の口数の多さにも閉口したが、先程の船長も変に媚び諂ってちっとも話が進まん。大体たかだか三日四日程度の……しかもお決まりの航路を行く航海に何をそう話し合う事があるというんだ」 「……仕方ないだろう。相手が自分よりも位の高い者だと見れば、纏わり付いてくる人間は山ほどいるさ……それに、そういった事は王都でも同じ事だ。ここが特別なわけじゃない」 "外側"というのは所謂ところの田舎や辺境の地を指す言葉だ。 王都と、その周囲をぐるりと囲むようにして在る五大諸侯の領地に住まう者達が、それ以外の地方を指す言葉として度々使っていた。 元は気位の高い王都の貴族達が使う蔑称のようなものだったが、今では市民階級でも広がり他意無く使われている。 ただ、それでもアスラン自身はその言葉があまり好きではなかったが。 「ふん………そういう所は相変わらずだな」 「………イザーク?」 「いや、なんでもない。ところで、船室は本当に同じで良かったのか?どうせ貸し切りと変わりない状態だ、部屋ならいくらでも余っているんだぞ」 「ああ、良いんだ。キラも慣れない船にだいぶ戸惑っていたから、きっとひとりで居たがらないだろう」 小窓の先に見える甲板に微かに確認できるキラの姿を視界に入れながら、アスランはそう答えた。 それに今までだって何か特別理由がない限りは、態々ふたり別の部屋など取ったことはない。 キラも出会ったばかりの頃とは違い、もう夜にひとりで眠ることが出来るようになったとはいえ、アスランにとってキラと同じ部屋で共に過ごし、時に同じ寝台で眠りにつく事は既に習慣のようなものになっていた。 キラにとってもきっとそうだろう。 「…………あの娘、か。旅の途中で知り合ったと言っていたな」 「ああ」 「最近か?」 「……そういえばもう一年半くらいになるかな。キラと出会ってから」 アスランはゆるりと懐かしむように瞳を細めた。 共に過ごした一年半の歳月。 もう、とも思うし……まだ、とも思う心もあった、 キラと出会う前に三年の時をかけて各地をひとりで流れたけれど、その三年間よりもキラと過ごした一年半の方が長い年月のように感じることがある。 奴隷制度の廃止された今の時代に、それでも奴隷として生かされ生きてきた哀れな子供。 旅の途中に初めて訪れた街での最初の夜、それこそ二度と忘れないような出会い方をして、そして共に行くことになって─────。 気が付けばいつの間にか、自分の隣に居るのが当たり前になった少女だ。 「何ニヤけてんだお前。気味悪いぞ」 その時、突然入り込んで来た第三者の声にアスランが視線だけで振り向けば、そこには……。 「ディアッカ」 イザークの声に片眉を上げて応えると、彼は丁度アスランとテーブルを挟んだ向かいの椅子にどかりと腰かけた。 ギシリと木が軋む音にアスランはやれやれとやや呆れた顔をした。 こういう所作が妙に乱暴なのはイザークもディアッカも昔から変わらないらしい。 「キラはどうした?傍に付いていて欲しいと頼んだ筈だが」 少女の姿がどこにも見えないことに、アスランの眉が我知らず寄る。 どういうことだと言外に告げて来るその険しい双眸に、ディアッカはひょいと肩をすくめた。 「少し気分が悪いって言ってたから医者ンとこ連れてった。今頃船医室で寝てるよ」 「気分が……?大丈夫なのか?」 「ああ、ただの船酔い。少し横になってりゃ治るってさ」 心配そうに一瞬翳った表情が、その言葉を聞いて安堵に変わる。 「………そうか。それなら良いが」 そんな元上司兼悪友の感情の分かりやすさに、ディアッカは思わず感嘆と共に口笛でも吹きそうになった。 昔のあの鉄仮面ぶりはどこへふっ飛ばしたんだか。 睨まれるどころか本気ではり倒されそうだから実際に吹きはしなかったが。 何か珍獣でも見るような顔つきでアスランを見ているイザークを横目でちらりと見てディアッカはくくくと含み笑いを零した。 あれが多分正直な反応だよな、と。 ちなみにディアッカ本人はというと、驚くということよりも楽しさの方が勝つらしい。 「本当に心配性だなお前。そんなに気になる?」 ニヤニヤと面白がるような意地悪い笑みを隠そうともしないディアッカに、アスランは冷たい一瞥を向ける。 でも、それきり何も言わなかった。 ─────つまりは、それは彼にとっての『肯定』、だった。 「……それにしても、よく探し当てたられたな。今までの様子からすると、単なる偶然ではないんだろう?」 ふとアスランが零した言葉。 脈絡のないそれに一瞬「何をだ?」と返しそうになったが、すぐに言葉の指し示す意味に気付いて、イザークは少し神妙な顔になる。 「………お前によく似た人物をこの街で見かけたと、母上お抱えの商人が証言したからな。あいつは昔からうちに仕えているから、お前の顔もよく知っている。だからきっと間違いないと踏んで俺達が直々に捜索に来たんだ」 正直、この情報が外れならもう見つからないかもしれないと、アスランの捜索を任されたイザーク達は少なからず思っていた。 クライン王国の全国各地には治安維持や地方の情報収集の為に騎士団員が散っている。 彼等は常に知り得た信頼性の高い情報を即座に王都へと送ってくれており、王国最高の情報網を誇るとも評されていた。 そんな彼等の力を持ってしても、アスランは自分の残す影すらも悟らせなかったのだ。 自ら騎士団の中枢に居るイザークにはそれがどれ程難しいことなのかよく分かっている。 「驚いたのはこっちだっての。まさか子供連れとは思わなかった。それもあんな女の子をなぁ」 本当に意外だったとディアッカは大げさに両手を広げてアピールする。 それには確かにイザークも同意見だった。 「だいたい、陛下に連れ戻せと言われたのはアスランだけだ。関係のない子供を連れ戻っても良いのか?」 「ならばどこかに置いて行けとでも言うのか?ひとりきりの子供を?」 「それは………」 アスランの鋭い切り返しに、イザークがぐっと詰まる。 任務に忠実なイザークにはキラの存在は引っかかるところだが、だからといって幼気な少女をその辺に放り出せる程冷血漢ではない。 「最初に言っただろう。キラを伴うことを拒否するならば、俺は戻らないと」 確かにアスランは、ベルトランを出立する前にそう告げていた。 その時もイザークは何を馬鹿なことをと却下しようとしたが、それをディアッカが押しとどめたのだ。 アスランの目が、それがまごうかたなき本心であるのだと何よりも雄弁に語っているのを見たから。 もしも拒否していたなら、恐らくアスランはキラを連れ即座に身を翻していたことだろう。 そしてその後を追おうとしたなら………本気になった彼と対峙することになっていたかもしれない。 「良いんじゃないのか?命令にはアスランに連れがいた場合の対処なんて一言もなかったんだ。例え後々文句言われたとしても、そんなの俺達のせいじゃないって」 「何をそんな脳天気なことを………っ!」 「だってそうだろう。それに、詳しいことは知らないが、キラには他に行く場所がないんだろ?なら連れて行く以外にどうしろって言うんだよ」 なぁ?と話をふられて、アスランは少しだけ瞑目した後にそうだなと頷いた。 端正なその横顔に、少しだけ痛みが滲んで見えた、 「………あの娘、キラとかいったな。あいつはいったい何なんだ?……親はどうした?」 イザークは、ずっと気にかかっていたことを口にした。 今まで口に出さなかったのは、アスランの傍にキラがいたからだ。 気遣いや配慮という言葉とは最も縁遠いと周囲から評されるイザークだが、恐らく今回のことでは彼自身なんらかの予感があったのだろう。 このことを彼女自身に尋ねてはならない……と。 アスランは、イザークの問いに小さく嘆息した。 いつかは聞かれるとは思っていた。 当然だろう。 自分の傍にいる、自分が傍に置いている少女だ………個人の感情としても気にならないはずがない。 それに何より─────彼等は、国王陛下の勅命を受けている身だ。 例え旧友であり信頼できるアスランの連れとはいえ、このまま素性も何も分からない人物を国の中枢に近付けるわけにはいかない。 それは、分かっている……分かってはいるのだけど─────。 「……俺もキラについて決して多くを知っているわけじゃない。それに……だからといってこのまま知っている事情を全て話す気もない」 少し目を伏せながら、アスランは淡々とした口調で告げた。 静かな声の中に込められた揺るがぬ強さ。 それが分かるから、イザークもディアッカも口を挟まずに………いや、挟めずにいた。 「だが、この先キラを共に連れて行く以上、あの子の事情を理解してくれている人物が必要だ。それも、貴族社会での地位の高い人物が。俺は………今の俺では、あの場所であの子を守り通せるだけの力は恐らくないから……」 呟く彼がどこか悔しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。 これから彼等が向かおうとしているのは王都であり、王城だ。 出来ればあまり長居はしたくはないが……とアスランは内心ひとりごちる。 イザークらが受けた命令の内容は『連れ戻す』というだけで、その後の処理については全く触れられていないらしい。 実際に勅命を下されたイザークもディアッカも知らないと言う。 そういった現状がある以上、着いてからのことやその後に取るべき行動は実際に着いてみないと分からない。 ただ、多かれ少なかれ暫く王都に滞在することになるだろうという確信はある。 いくら国王を含めた王族とも親交が深かったとはいえ、一言二言世間話をする為に態々姿を消して久しい自分を探させたわけではないだろう。 特に国王陛下も王女殿下も自分が何故王都を去ったかを知っていたはずだ。 それなのに何故今更……と思う心がある。 だが、現状としてそれが分からない以上、アスランにはどうすることも出来ない。 このままキラを連れ、王城へと行くしかないのだ。 当然だが、そこには今までキラが居た世界とは何もかもが違う完全なる上流社会が在る。 何の後ろ楯も持たない─────しかも『元奴隷』の少女には辛い場所になる可能性が高い。 いくら制度の廃止で表面的にはその身分は消えたとはいえ、今尚奴隷は社会の裏側に存在しているし、奴隷差別も一部の貴族の間では消えてはいないのだ。 もしもそういった者達になんらかのきっかけてキラの事情を知られれば…………。 その危惧を少しでも軽減させる為に、イザークとディアッカの存在は必要不可欠だった。 彼等は国王直属の王宮騎士であり、しかもその中でも上位の騎士。 そしてそれに加え、貴族社会に於いての絶対的とも言える地位を有している。 王宮騎士はその性質上王族の信頼も厚く、その為に王城内での地位も高く一般の王国騎士達とは一線を画する存在だが、そんな彼等を含めた武官全てを『戦場でしか使えない只の野蛮人』だと軽んじる文官や貴族も少なからず居るのだ。 しかし、イザーク達にはそんな貴族達を黙らせるだけの身分がある。 彼等の傍ならば、キラに下手な手出しをされる危険がかなり減るだろう。 全ての地位を捨てたアスランには無理でも、彼等ならばそれができる。 だから……─────。 アスランは、伏せていた双眸をゆっくりと開いた。 その翡翠色の瞳に、決意の色を滲ませて。 「話せることを話そう。だが……これはあの子の過去の傷だ。今も、それは完全に塞がってはいない。だから出来ることなら、その傷が開くようなことにはなって欲しくないんだ。事情を知っても、どうかキラを見る目を歪めないでやってくれ………」 あの子はとても聡いから……自分を追う負の感情にはきっと気付いてしまう。 だからどうか………と。 そう乞うようにして語るアスランは、付き合いの長いイザークもディアッカも見た事がない程に優しく─────そして、哀しく見えた。 |