【5】故郷への帰還 第2話 バン………ッ!!! 「奴隷…だなどと………っ!!」 激しくテーブルを叩く音から一拍おいて、イザークの怒鳴り声が響いた。 勢い良く立ち上がり過ぎたらしく椅子がガタンと鈍い音を立てて横倒しになったが、本人はそれを気にかける余裕すらないようだ。 叩きつけられた拳がふるふると震えている。 ディアッカが溜息ひとつ付いて面倒そうに横合いからそれを直してやっていたが、その彼の表情もまた常の飄々とした雰囲気が拭い去られ、どこか張りつめたような感情を伝えて来る。 本格的な話になる前にアスランがイザークに言って人払いをさせておいたお陰でこの騒ぎでも誰も駆け付けては来なかったが、今頃下の階で音を聞いたイザークの部下や船員達は戦々兢々としている事だろう。 「それでは何か?!マデリナ地方では奴隷売買が今尚行われていると言うのか。しかも、街中で公然と………!!」 「……厳密には公然というのとは違うかもしれないが、それに近いだろうな。闇市にまぎれて行われていた事実を知っている者は少なからず居たはずだ。マデリナ地方が全てそうだとは言えないが………少なくとも、キラが居たあの辺りでは決して珍しいことではなかったらしい」 「くそ……っ。それなのにその実態すら掴めずにいたというのか、俺達はっ!!」 ぎりりと音がしそうな程にイザークは歯を噛み締める。 違法行為を取り締まることも騎士団の仕事の内だ。 今最も当代国王が───王家が力を入れているのが制度廃止後も水面下で行われている奴隷売買の取り締まりだった。 けれど、現実問題としてあまり芳しい成果が出ていない現状がある。 どこかで分かっていたことではあるが、自分達が堂々と出し抜かれているという事実に直面し悔しさと腹立たしさが込み上げて来る。 「でもよ。一年の殆どを王都に詰めてて時々外側に出る程度の……まぁある意味外側に疎い俺達とは違って、各地方の駐屯地にはその地方に詳しい専属の監視員が居るはずだろう?そんなに大っぴらにやっててそいつらをそう簡単に欺けるものなのか?」 ディアッカの問いに、アスランは口元に小さく笑みを刻んだ。 自嘲に近かったかもしれない。 「簡単かどうかは別にしても、やろうと思えば出来るだろう。いくら王国に仕える騎士団員とはいえ、各地に散らばる彼等が持ち得る権限はそんなに大きくない。例えば………どれ程そこが怪しいと確信に近いものを持っていたとしても、そこが名のある貴族の敷地であったりしたら─────…当人の許可無く立ち入ることは出来ない。疑わしいことを理由に無理矢理押し入ったとして、そこで揺るぎない確固たる証拠を掴まない限り、逆に彼等の方が罪に問われる可能性が高い」 「………成る程、そういうことか」 納得したとばかりに頷いたディアッカの顔にも、自嘲に近い苦笑が浮かぶ。 アスランが言外に告げたこと。 それはつまり、各地で横行する奴隷売買の背後にちらつく貴族の影のことだ。 「今も昔も一番厄介なのは、下手に力を持ってる私利私欲に目が眩んだ貴族連中ってわけか」 イザークがそう吐き捨て、忌々しげに顔を歪めた。 力ある者が全て正しいことをしているわけではない。 むしろ下手に力を持っているからこそ周囲の諌める声も届かず、また聞こえても耳を貸す必要性を覚えることなく、ただひたすら己の為にという利己心に捕われる者だっている。 それに先代や先々代の時代には『力ある者が行うことこそが正義だ』という風潮すらあったほどに、貴族達の好き勝手な振る舞いが横行していたのだ。 そういう意味では今でこそかなり"まし"になった方だと言えるが、それでも古くから根付くものがそう簡単に消えようはずもない。 当代国王シーゲル・クラインはよくやっているだろう。 出来うる限り民の声に耳を傾け、そして周囲の貴族達の声も聞き、いつ如何なる時もそのどちらかに天秤が傾きすぎないようにとの配慮を常に心掛けている。 先王の時代から多くの国民や一部の貴族内からも批判され続けていたにも関わらず根強く残っていた奴隷制度を廃止できたのは、ひとえに彼の努力の賜物だと言えた。 だが、どんな周囲の圧力にも屈せずに廃止令を布いた国王を、奴隷制度の存続を望んでいた貴族達は勿論良く思わない。 シーゲル陛下は下々にばかり目を向け、我ら貴族を蔑ろにしすぎている─────そう声高に叫ぶ者が数多く出た。 その時は王家一族やその腹心である宰相らの早急なはからいにより騒ぎはすぐ沈静化したが、国の中枢を担う彼等の国王への不審は国を揺るがす大事になりかねない。 だから、なるべくならば衝突は避けなければならなかった。 それ故に、最高権力者である国家元首といえどもどこかでは貴族達の顔色を伺い彼等の協力を得ながらでないと国を円滑に統べることなど出来はしないのだ。 だからこそ中にはその事実─────自分達に対して強く出ることが出来ない事実を逆手に取り、表面上では何事もない様を装いながらも裏で汚い商売に手を染める者が出て来る。 「元を絶たなければ奴隷売買は無くならない。だが、その大元にもし王都でも名だたるような有力者が関わっていた場合…………いくら陛下であったとしてもうかつに手出しはできないだろう。余程の証拠を掴まない限りはな」 アスランの吐き出す言葉の苦々しさが、その場の三人の感情を如実にあらわしていた。 彼等は国というものを成り立たせる難しさ、そして一見華やかな上流社会の汚さとその裏表をよく知っている。 何故なら彼等もまた、その中の一部であるのだから。 最もアスランに限れば、一部であったという表現になるかもしれないが………。 「だが、それでも報告はするべきだろう。実態の掴み難い奴隷商の貴重な情報だ、今後の手の打ち方への参考にできるかもしれない。構わないだろう?」 ようやく再び椅子に身を落ち着けると、イザークは重々しく言った。 まだ様々な思いが交錯しており平常とは言い難いが、それでも騎士としての務めは決して忘れない。 それが彼の誇りであり、強さだ。 「勿論それは構わない。俺も、出来るなら一日でも早くあの子のような思いをする人間がいなくなることを望むから。だが…………」 「何か問題があるのか?」 問うディアッカに、アスランは少しだけ躊躇った後、ああと頷いた。 「証人が必要ならば当人にではなく俺が代わる。それが駄目なら証言の橋渡し役を引き受けよう。だから、キラに直接当時の状況を訊くのは待ってくれ」 「だけど、本人の口以外からの証言はそうだと認められないことが多いぞ?」 「………ああ、それは分かってる。でも、それでもキラを問い詰めるようなことはしないでやってほしいんだ。今だって見知らぬ場所に行くことに相当の不安を感じてるはずだ。その上見知らぬ人間の前で過去をありのまま証言しろなどと言われても、キラにはきっと出来ないだろう」 キラの心が大きな闇を抱えてることをアスランはよく知っている。 そしてその闇が何らかのきっかけでひと度広がり始めたならば、容易くキラ自身を呑み込んでしまうだろうことも。 ちいさな身体が千切れんばかりに上げられる悲鳴。 野に咲く可憐な花の色に似た奇麗な瞳が、輝きを失ってただ虚ろに揺れるその様。 直接目の当たりにした者でなければ、きっと想像すら出来ないだろう。 キラの─────あんなに儚げで稚い少女の全てが音を立てて壊れていく様を、その恐怖を。 「初めて会う人間───とくに大人の男をキラは酷く恐れる。理由は………話したから分かるだろう?」 イザークも、ディアッカも、その問いに沈黙という形で答えた。 今までの一連の話を聞いたのなら、誰でも容易く想像できるだろう。 奴隷だった頃に手酷く傷付けられた痛みと恐怖の記憶が、今尚身体に染み付いてしまっているのだ。 そしてその上に、アスランが言葉少なに語ったキラと出会った時の状況─────未遂とはいえ乱暴されたという記憶が更に付加されれば、キラが他人に対して恐れを抱くことはごく当たり前のことのようにも思える。 (─────ああ、だからあの時………) ふたりは、ほぼ同時に同じ言葉を脳裏に浮かべた。 キラを初めて見た時の記憶に、思い当たる光景があるのを思い出したから。 あの時ディアッカは街中で蹲るキラが気になって声をかけ、その後少し会話を交わした。 話しているうちに段々普通になっていったからとくに気にはしなかったが、声をかけた直後にはディアッカが思わず狼狽えてしまう程に怯えていた。 その後もどこかずっとおどおどしたような雰囲気を纏っていて………彼はそれが、きっと迷子になった心細さ故なのだろうと思っていたのだ。 だが、きっと真実はそんな簡単なものではなく…………。 そして、イザークの方のキラとの出会いの記憶はもっと鮮烈だった。 当然だろう…………この子供は誰だと思った直後には、突然悲鳴を上げて、まるで狂ったかのように己の部下の腕を振り払おうと暴れ始めたのだから。 あの時のことは、今思い出しても随分ばつが悪く思う。 ずっと探して居た探し人の───アスランの情報を持っているかもしれないという可能性を知った瞬間に、それ以外の事にまで頭が回らなくなっていた。 あんな上から押さえつけるかのような、まるで尋問のような真似、小さな子供にすべき態度ではなかった。 そして今、こうしてアスランの口から告げられたキラの事情を知ってしまったなら─────もう、ばつが悪いどころの問題ではない。 完全に傷つけてしまった。 しかも知らなかったこととはいえ、あの少女の心の古傷を抉るような形で。 イザークは内心でああくそっと頭を抱えた。 重苦しい沈黙が辺りを支配する。 ディアッカはちらりと自分の横手に座るイザークを覗き見た。 少し俯き加減な為その表情を伺い知る事は出来なかったが………。 これは相当にショック受けてるかもしれないなとディアッカは溜息を吐いた。 イザークに悪気がないのだという事は分かっている。 彼の場合は少し………そう、直情すぎるきらいがあるのだ。 「あー……」 どこかどんよりと影をしょっているイザークに、ディアッカは何か声をかけようと口を開いたが……。 (しまったなんも思い付かねぇ………!) 今度はディアッカが内心で頭を抱えてしまった。 |