【5】故郷への帰還 第3話 『………とりあえず、この話は王都に着いてから改めてしようぜ。今ここで何時間話し合ったって解決する問題じゃないだろう』 ディアッカの言葉で、一旦その話題は一応の終了をみる形となった。 元々この場だけで安易に解決させてしまってはならないと思っていたアスランには、頷きこそすれそれを拒否する理由などあるわけもなく。 ただイザークだけは少し迷いを見せていたが、結局渋々ながらも頷いた。 結局、これはキラの問題でもあるのだ。 たとえどれだけ周囲がああしたいこうしたいと議論してそれが決まったとしても、キラの意志がなければ叶わないこと。 そして、そうでなければ叶えてはならないことだとアスランは思っている。 奴隷売買の現状と実態の把握は極めて大切なことで、その一端の正確な情報を知ることができるかもしれない可能性はとても貴重だ。 故に騎士の権限があれば事情聴取という形で証言を取ることは法的にも可能だが、それを強制してしまうことはディアッカもイザークも決して望んでいない。 第一、そんなことをアスランが許すはずもない。 きっと何も知らない時ならば彼等はアスランの訴えを「何を甘いことを」の一言で切って捨てていただろう。 誇り高き王宮騎士は、何よりも誰よりも任務に忠実だ。 そう在らねばならない存在だ。 だからこそ、与えられた使命や何より主人である国王の為ならば時に非情にならなければならないし、事実非情にもなれる。 個人の感情に引きずられることよりも、齎されるだろう可能性に重きを置く………それは上の者として当然といえば当然のことかもしれないが。 それでも…………こうして身近な存在を通して知ってしまえば、少しでも触れてしまえば、その感覚は途端に鈍ってしまうものなのだと、ディアッカもイザークもおそらく初めて知ったことだろう。 彼等は国内でも屈指の上位騎士故に、市民と触れあう機会も語り合う機会なども滅多にありはしないのだから、それも仕方のないことなのかもしれないけれど─────。 「………ってことは、王都へはリマイラからそのまま入ることにしたんだな」 頬杖をつきながらテーブルに広げられた地図を眺めていたディアッカは、アスランの手によって線で引かれていくルートを目で追いながら呟いた。 地図に落とされた赤い印は、王都の南東に位置するリマイラ地方の南にある港から王都へと引かれている。 「ああ。チェスタまで船で行ってそこからという行程もあったが、話し合ってこっちに決めた。………馬で移動する距離は少し遠くなるけれど」 手を動かしながらアスランは答えた。 先だってイザークやその部下達と共に決めたルートの上に、予定している休憩地点や馬の乗り換え地点の場所を記して書き込んでいく。 「まぁ、妥当だろうな。リマイラと比べるとチェスタは結構高低差が激しい地形してるし」 王都の南に広がるチェスタ地方は領土の半分以上が丘陵地で構成されている。 最短距離を取ろうとすればこちらに降りた方が良いが、馬での移動にはあまり向かない。 度重なる山越えで馬が疲れやすいからだ。 リマイラ地方からのルートよりも休憩や乗り換えのポイントを増やさないとならない。 「このルートを割り出して提案したのはお前か?」 ディアッカは印を付け終わり地図を畳んでいるアスランに問う。 「ああ、そうだが………それがどうかしたのか?」 「ん?ああ、やっぱりなって思ってさ」 「………?」 訝しげに寄せられた眉に、ディアッカはくくくと噛み殺せなかった笑いを漏らす。 地理に明るい点は相変わらずらしい。 普通はこういったことは部下に任せきりにしてしまうものだが、アスランは昔から違っていた。 知識や技術を広く身に付けることへの苦労を厭わず、自分でできることは可能な限り自分でやってしまう。 やってしまえるだけの能力を十分に持っている。 そんな所が相変わらずだと思わず懐かしく思い、何故か笑いが込み上げてきたのだ。 そして、つい笑ってしまった理由はもうひとつ。 実際にはこちらの方が原因としては強い。 なんとなくだが、ディアッカには分かってしまった。 アスランが先ほど地図に記していった、なるべく高低差の少ない平坦な道が続くコースばかりをわざわざ選りすぐったかのような、ある意味において"完璧"なルートが示すその意味を。 リマイラにある標高の低い山々の山越えくらいならば、多少疲れやすくなるとはいえ馬にもそこまで強い影響はないだろう。 にも関わらずそれすらもことごとく嫌うかのように出来るかぎり避けている理由は、きっとひとつ。 きっとそれは、馬や馬車での移動に慣れていないあの少女の為。 平坦な道をなるべく選んで、少しでも馬での移動に不馴れな体にかかる負担を減らそうと考えたのだろう。 イザークにはこういう心遣いは無理だなと、ディアッカはそんなことを考えながら苦笑を零した。 あやうくぽろっと口に出しそうにもなって、条件反射的に思わず手で口をふさいだ。 本人に知られたら烈火の如く噛み付いてくるに違いない。 最も、その怒るだろう当人は先程から席を外していて部屋にはいないから、万が一口に出していても知られる恐れはないのだけれど。 するべきことが終わってしまえば、後にあるのは暇な時間だけ。 元々ディアッカには特にするべきこともなく先程から椅子に座っているだけなので、何かと退屈に思えて仕方がない。 普段なら余った時間には外で昼寝なり馬を走らせるなり剣の稽古なりをするところだが、こんな海の上ではそれも叶わない。 外で昼寝くらいなら可能かもしれないが、何を好き好んで海風が激しく肌寒い甲板で寝ようなどと思うものか。 ディアッカは込み上げてくる欠伸を噛み殺しながら視線を隣に移す。 一息付いて静かに紅茶を口にしているアスランをなんとなしにぼんやりと眺めながら、そういえばと思うことを見つけて特に意識しないままにそれを口に出した。 「なぁ、キラって何歳?」 「……何だ、突然」 「いや、なんとなく。そういや聞いてなかったなぁと思ってさ」 思いきり不思議そうで訝しそうな視線にさらされても、ディアッカとしては本当になんとなく思い付きのまま口走ったようなものだったので理由を聞かれても困る。 「十三歳だ。……恐らくな」 恐らくという語尾が少しひっかかったが、ディアッカは別段気にすることもなくそのまま流してふぅんと頷いた。 「そっか、なら大体思ってたのと同じくらいか。でも他の同じ年頃のガキどもと比べると、キラは結構ちいさい方だよなぁ」 体が小さいから実際はもう少し下かもとも思いはしたが、キラの控えめな仕草やどこかもの静かな雰囲気の為か、十三だと言われても納得できる。 最も、口調はどこかたどたどしさが残っているので、やや大人びている面が覗いたかと思えば途端に子供っぽく変わって見えてしまうこともあるのだけど。 それでもディアッカの親戚の子供や王都にいる同じ年頃の市井の子供たちは、もっとずっと賑やかでやかましいものだ。 まだそんな年なのにな───と、件の少女の姿を思い浮かべ、少しだけどこかやりきれないような思いにかられた。 「………そうか、その年に見えるのか」 暫く紅茶片手に沈黙していたアスランが、そっと呟いた。 「ん?俺、今変なこと言ったか?」 すぐ横にいてその囁きとも取れる言葉に気付いたディアッカがアスランの方を振り返る。 返しにしては妙な台詞だったから少し気になった。 そして、思わず目を見張る。 頬杖を付きながら伺ったアスランのその表情が、本当に柔らかく柔らかく綻んでいたのだから。 「いや………嬉しいなと思って」 「は?何が」 「俺と出会ったばかりの頃のキラは、本当に細くて小さくて……。だいたい一年半くらい前だからあの頃キラは十二歳だったわけだけど、とてもじゃないがその年には見えなかった。もしかしたら十歳より下かもしれないとも思った程だったから」 カチャリと音を立ててカップをソーサーに戻し、アスランはそっと瞳を伏せた。 その当時の光景を脳裏に描いているのかもしれない。 「多分、成長期にろくな食事も与えられずにいたせいだろう。身長はもちろんだけど、何より恐ろしく線が細かった。それに身体中傷や痣だらけで、肌も病的なくらい白くて……本当に酷い扱いを受けていたようだった」 ついさっきまでカップを手にしていた手のひらが、ひざの上でぎゅっと握られた。 ゆっくりと開かれた双眸に、一瞬だけ強い哀しみの色と微かな憎しみの色が宿る。 けれど次の瞬間には、鮮やかな翡翠の色に解けて散ってしまっていたけれど。 その後にあらわれたのは、ただただ穏やかで優しい、慈しみの光。 「………だから、嬉しいんだ。キラがちゃんと年相応に見られるくらいに元気になって成長できているんだと思うと」 そう語る彼の横顔は、言葉通りどこか嬉しそうで幸せそうで………。 この男は暫く会わないうちに本当に変わったものだなと、ディアッカは改めてそう感じた。 この数日の間に、昔とちっとも変わらないと思う面をいくつか見てきた。 けれど、それ以上にこうやって今まで見たこともないような面をいくつも見せるのだ。 これが離れていた間の────決して少なくはない時が流れた証なのだろうか。 納得しかけて…………だけどすぐにいいやと思い直す。 そんな単純なものではないのかもしれない。 恐らく、彼をここまで鮮やかに変えてみせたのは─────。 ───と、その時。 コンコン。 扉が数回叩かれる音が響いた。 アスランとディアッカの視線が、自然と音の発生源へと吸い寄せられる。 誰だというアスランの誰何の声に応えたのは、落ち着いた女性の声だった。 ふたりは一瞬だけ目を見合わせた。 人払いをしていたはずだがと思いもしたが、何か差し迫った用事の場合は来てもいいと言い置いてある。 それとも、先程外に出たイザークが人払いを解いたのかもしれない。 アスランが視線だけで尋ねれば、ディアッカが小さく頷いてみせて鷹揚に入室の許可を出した。 少しの沈黙の後、ガチャリと開いた扉の影からおずおずと顔を見せたのは─────。 「キラ……?」 アスランが驚きの声を上げる。 扉の前に所在なげに立ち尽くしているのは、確かに船医室で寝ているはずのキラだった。 向けられたアスランの顔にキラは少しホッとした表情を見せた後、扉の外に向けて一言二言声をかけている。 アスランが何事かと立ち上がり傍に行くと、そこには三十代前後の女性が立っていて、キラに「どういたしまして」と言っているところだった。 アスランに気付いたその女性は小さく微笑むと、それではと会釈をして遠ざかっていった。 アスランは突然のことに会釈も返せず少し呆気に取られた後、ずっと開いたままだった扉に気付いてそれを閉める。 「あの人は?」 「お医者さん。ここまで連れてきてくれたの」 その答えにアスランはああそうかと合点が入った。 あの人が船酔いのキラの介抱をしてくれた船医だったのかと。 キラを船医室に連れていったディアッカならば面識があるからすぐに分かっただろうけれど、アスランは顔を知らなかった。 後で改めてお礼を言いに行った方が良いなと内心で呟く。 「アスランの所に行きたいから…って言ったら、付いてきてくれた。ひとりじゃ危ないよって。でもアスラン、お部屋にも、前にいたところにいなかったから……そうしたら、一緒に探してくれたの」 「……そうか。良かったね」 「うん」 嬉しそうに微笑むキラの頭を撫でると、アスランはキラと同じ視線になるように膝を折った。 「もう大丈夫なのか?」 アスランが心配そうにキラの頬に手を伸ばした。 指先に柔らかな感触が伝わる。 顔色がいつもより少しだけ青ざめているようにも見える。 船医である人が送り届けたくらいだから、きっと症状は良くなったのだろうとは思うが……。 「ほんの少しだけくらくらするけど、もうへいき」 頬に添えられた大きな手に自分の小さな手を重ねると、キラはふわりと微笑んだ。 その表情のどこにも無理をしているような色はなくて。 それを確認したところで、アスランはようやくホッと胸を撫で下ろした。 「キラは船に乗るの二回目だから、まだ体が慣れていないんだな。……最も、もしかしたら酔いやすい体質なのかもしれないけれど」 「でも、前の時は、こんなに気持ち悪くならなかったのに……」 どうしてだろうと不思議そうに首を傾げるキラ。 その間にアスランはゆっくりと立ち上がって、いつもの視点からキラを優しく見下ろしている。 「あの時船で渡ったのは湖だったからね。海は湖よりもずっと波が激しいから」 「あ……そっか」 先程は頬の上で重なっていた手を、今度は繋いで。 そうして飽くまで優しく誘導するようにしてアスランはゆるりと手を引いた。 その慣れた動作にキラもごく自然に応える。 「アスラン、お仕事は…?」 「もう終わったよ、元々俺がすることも出来ることも少ないからね。後はイザーク任せだ」 第一俺は連れて行かれる側の人間だし、とアスランは肩を竦める。 本来ならそんな立場の人間が一行の今後の予定を決めるあれこれに関わることなどあり得ないはずだが、それも今回は関係ないらしい。 ディアッカはともかく真っ先に反対しそうな堅物のイザークですらも、アスランの手を拒否するどころか、逆に色々と文句を言いながらも受け入れている。 それもこれも、彼等の昔からの繋がりと築いていた揺るぎない関係故と言えるのかもしれない。 椅子まで導かれて促されるまま素直に腰を下ろしたキラを見届けて、アスランもその隣へと腰掛ける。 その向かいでは、ディアッカがどこか呆れたような面白がるような顔をしてふたりを見つめていた。 「よう、おふたりさん。こっちの存在は完全無視してラブラブモード全開でまぁ……」 「……?らぶらぶ?」 「キラ、耳を貸さなくて良いよ。ディアッカ、妙な言葉教えるな」 「へいへい、悪うございました」 半分くらいあきれ顔でじろりと睨んでくるアスランに対して首を竦めてみせると、ディアッカはわけがわからないと小首を傾げているキラににやりとあまり品のよろしくない笑みを浮かべた。 「そうだな、キラがもう少し大きくなったら教えてやるよ」 「ほんとに?」 「ディアッカ!」 今度は本気の叱責が飛んできて、はいはい冗談ですよとディアッカは笑った。 これはどう見ても恋人というよりは兄妹、もしくは親子だろう。 腐れ縁に近い昔からの友人の、ひとり娘を溺愛している父親(といったら少々大げさかもしれないけど)のようなある意味意外すぎるというかあり得なさすぎる姿に、何故だかこの数日ですっかり慣れてしまっている自分がいる。 俺って意外と順応性高かったんだなぁと、ディアッカは問題のふたりの姿を視界に入れながらそんな少し外れたことを考えていた。 ただ、そんな風に容易に受け入れてしまえるのは、あまりにもその姿が自然であるように映るせいなのかもしれない。 最初に見た時には、意外すぎて開いた口が塞がらないような心境だったにもかかわらず、だ。 理由はよく分からないが、時々目の前で繰り広げられる光景がごく当たり前のことのように思えることがある。 昔からずっとそうしてきたかのように、極めて自然に─────。 |