【5】故郷への帰還 第4話 船に乗り換えてから初めての夜を越し、船上での二日目の朝がやって来た。 船旅は天候の良さにも助けられ素晴らしく順調だった。 時折吹く力強い風に背を押されるような形で、キラ達が乗る船は当初の予定通りかそれよりも良いペースで王都へ向けての海路を辿っている、 出発地だったレイゼルは既に遥か後方。 そして今丁度横手に眺めるようにしているフランジェを過ぎれば、そこはもう船旅の終着地点の港があるリマイラへと入る。 最初こそ慣れない波の振動で船酔いを起こしたキラだったけれど、昨夜に大事を取って早めに寝たのが良かったのか、目を覚ますころにはもうすっかりと回復していた。 やはり慣れない感覚に戸惑うらしく時折フラフラとしているけれど、気持ち悪くなるといった症状には襲われる様子もない。 それまでの馬車での強行軍で削られた体力が、昨日たっぷり寝たことで大部分戻ったこともその要因のひとつかもしれなかった。 そういったこともあり、今日のキラはとにかく元気だった。 昨日夢も見ない程にぐっすりと寝たせいか、キラが起きたのはお昼のほんの少しだけ手前という時間帯だった。 盛大に寝坊をしてしまったとしきりに恐縮するキラに、同室のアスランは起こさなかったのは俺だからと微笑みひとつで応えた。 その朝の分を取りかえそうとでもしているのか、キラは起きて早々に船の中を見て回りたがった。 船長からの正式な許可をもらって船内を連れまわせるようになったトリィを伴い、そして隣にはアスランを従えて、昨日は見ることが出来なかった簡易ホールや後部デッキなどを訪れては物珍しそうに瞳を輝かせていた。 殊に、特別に入れさせてもらった操舵室の様子には只でさえ大きな瞳をさらに大きくして見入っていた。 「触らせてくれるって」 「……………」 「え、どうして?興味あるんじゃないのか、舵。こんなの触らせてもらえることなんて滅多にないよ?」 「…………っ」 それでもふるふると勢い良く首を横に降り続けるキラ。 口を真一文字に引き締めて、それでも駄目と口ではなく瞳で訴えかける。 どうやら自分が舵を触った途端に転覆するなりどこかにぶつけるなりするとでも危惧しているらしかった。 荒れているわけでもない海の真ん中で、しかも操舵手のサポートがある状態なだけにそんなことが起きようはずもないのだけれど………。 アスランと、そしてどうせ暇だからと途中からふたりにくっついてきたディアッカは、顔を見合わせて思わず笑ってしまった。 それは子供の無知さに肩をすくめ嘲ったのではない。 本当に純粋に、可愛いらしいと微笑ましく思ったのだ。 「………じゃあ、船が港に着いて止まったら、触らせてもらおうか?」 じとりとどこか恨めしげな視線を受けて、アスランはこほんと咳払いをするふりで笑いを噛み殺してからそう言った。 まだ隣でくつくつと笑い続けてる男の鳩尾に、キラに見えないようにして一発食らわせることも忘れない。 キラはう〜〜〜と暫くうなっていたけれど、舵とそれを取る操舵手とアスランの笑顔とを暫く見比べて悩んだ後…───こくりと小さく頷いた。 そして、何故か腹を押さえて床に蹲っているディアッカの姿に気付いて目を丸くした。 海の上の孤立した空間での生活はキラにとっては退屈だろうと当初は考えていたアスランだったけれど、彼女は殊の外楽しく過ごしていた。 今回彼等が乗り込んだのがかなり大型の部類に入る立派な旅客船だったことも良かったのだろう。 イザークの(騎士団の)命により予定外に急遽出されることになったこの船には、イザークと共に行動していたディアッカを始めとする他の騎士団員や船の船員、そしてアスランとキラ以外には殆ど乗っていない。 本来の目的である旅客として乗っているのは、緊急の用事があるからどうにか乗せてほしいと出航の当日に飛び込みで申し出てきた数名だけだった。 そしてそんな特別乗船を許された数少ない者達も、飲食等の最低限の行為以外ではあまり外には出てこない為に、キラも珍しく好奇心の赴くまま積極的になれたのかもしれない。 俺は昼寝をするからとディアッカは途中からいなくなったけれど、その後もキラはアスランと共に飽きることなく船内巡りを続けていた。 「今度はどこへ行こうか?」 「…………お医者さんのいるところ、行きたいな」 「船医室へ……?ああ、昨日ずっとお世話になってたみたいだからね。ちゃんとお礼を言いに行きたいのか」 「うん。それとね、今回はたぶんお仕事が少ないから、いつでも遊びにおいでって…言ってくれたんだよ」 「そうか。そうだな、俺も昨日はちゃんと挨拶できなかったからしたいし………船医室の場所は覚えてる?」 「うんっ、こっちだよ」 キラはアスランの大きな手をきゅっと掴んで進行方向を指差した。 いつもとは逆に自分がアスランの手を引いていけることが嬉しくて仕方ないらしい。 無意識にかぱたぱたと小走りになるその楽しそうな後ろ姿に、アスランも引っ張られながらふ…と口元を緩めた。 これまでの馬車旅はレイゼルのあまり整備されていないでこぼこした田舎道のおかげで、体への負担がかなり大きかった。 それと比べれば今回の船旅は、キラに軽い船酔いこそあったものの、そういった直接体にかかるような負担はかなり少ない。 何よりも少しでも体が辛い時すぐに横になって眠ることができるベッドがあることは大きいだろう。 加えて、それまでは顔こそ合わせても中々話らしい話をする機会がなかった他の騎士や乗組員達とアスラン達との間にも会話が交わされるようにもなった。 アスランの素性を正確に知っている者は最初は多少尻込みしたものの、イザークやディアッカの存在が丁度潤滑油のような働きをしてくれたおかげか、今ではかなり気安く会話ができるような空気になってきていた。 それを思えば、今は全てが順調で穏やかな旅路といえる。 ただ、ひとつだけ。 キラとイザークとのことさえ、除けばだけれど……─────。 そのことには、アスランも今までなるべく触れないようにしてきた。 どう切り出して良いかが分からなかったことも理由のひとつだが、ひと度それに触れたならばキラがひどく動揺して苦しむだろうと分かっていたから。 だから、王都への旅路の間に少しずつにでも慣れていけばいいと思っていた。 きっとそれが一番良い方法なのだと。 ─────けれど……。 それが過ちではないかと気付いたのは、アスラン自身。 件の彼の姿が近付いてくるのを視界に入れる度にキラは体を震わせ、怯えの色をその瞳に色濃く映して…………そしてその度に無意識の内にそんな態度を取ってしまう自分に対して激しい自己嫌悪を抱いているようだった。 キラの様子を察してすぐに踵を返してしまうその背に、いつも何か言いたげに口を開いては結局何も言えずに俯いてしまう。 本当は、自分からも声をかけたいのだろうに。 遠ざかっていく背に向けられるあ…という躊躇いのため息と、時折伸ばされている指先。 本当は、もっと普通に接したいだろうに。 それが出来ずに、その為のきっかけすらも掴めずに、再びぐるぐると自責の渦の中に捕われ抜け出せないでいる少女の姿に、アスランはこのままではいけないのだと悟った。 今の状態でいることの方が、後々きっとキラにとって良くないことになると。 だから、口にしたのだ。 船の隅から隅までを見て回って疲れた体を割り当てられた船室に戻って休めていた、その時に。 イザークのことが嫌いか、と。 「キラは、あいつが嫌いか?」 「……………」 「それじゃあ、怖い?」 「…………っ」 キラの肩がビクリと震えた。 嫌いかと聞かれた時の思い悩むような躊躇いがちなものとは違う、確かな反応。 頭で考えて出されたものじゃない、無意識のものなのだろう。 キラは自分の体を押しとどめるように抱え込みながら、微かに唇を震わせた。 キラは怯えていた。 自分が今体全体で示してしまおうとしている答えに。 そして、それを見つめているアスランがこれから返すだろう反応に。 知られたくない。 知られてしまえば、きっとアスランはすごく困る。 きっときっとすごく嫌な思いさせてしまうから。 目の前で今にも座り込んでしまいそうな程にぎゅうっと小さな体を更に小さくして震えるキラに、アスランはそっと手を伸ばした。 頬に触れた瞬間に大きな震えが伝わってきたけれど、それを特別気にすること無く。 大丈夫だからと。 怖がらないでと。 ゆっくりと噛み砕くように囁きながら、柔らかな頬を辿ってそこにかかる髪を梳きながら。 「思うままに答えて良いんだよ。良い答えも駄目な答えも無い。ただ…キラの心が知りたいだけなんだ」 「こ…ころ………」 「そう、キラだけの心。……あいつが、怖い?」 「………………………うん」 辛うじて聞き取れるといった消え入りそうな声。 俯いているキラの髪を優しく梳きながら、アスランはただそうかとだけ呟いた。 髪を撫でる手は変わらずに優しい。 少しの間が開いた後、キラの顔がゆるゆると上げられた。 瞳がどこか不安げに揺れている。 「怒らないの………?」 「……どうしてキラは俺が怒ると思うの?」 「だって…………」 お友達なのに、と。 そう呟いて再び俯いてしまったキラを、アスランはそっと自分の元へと引き寄せた。 このまま心だけで泣いてしまう気がしたから。 椅子に腰掛けているアスランの胸に抱え込まれるような格好で、キラはその小さな体を預ける。 アスランのお友達なのに……と。 キラは微かに震える声でもう一度呟いた。 アスランの昔からの親しい友人……そんな人のことを自分の弱さのせいで避けていつまでも怯えているという事実が心苦しかった。 こんなこと知られれば、きっとアスランは自分を怒る、嫌いになる。 だから言い出せるはずもなかった。 悪い人じゃない、そんなに怖い人じゃないということはもうちゃんと分かっているのに……今度こそちゃんと話がしてみたいと思っているのに、それができない自分。 こんな弱虫の自分なんていらない。 弱くて情けない自分だけ、このまま涙に溶けてしまえばいいのに………。 頬を滑り落ちるものを感じながら、キラは心からそう願った。 その後にあるのは、沈黙という名の静寂。 キラは、微動だにせずにただアスランの胸に縋っていた。 それでもアスランには分かる。 きっと、必死に声を殺して泣いている。 アスランは、ただ黙って自分に縋る少女の小さな背中をあやし続けていた。 今のキラの姿を見れば、このまま触れずにいた方が良かったのかもしれないと微かに思わないでもない。 けれど、それが決してキラの為にならないことをアスランはよく分かっていた。 傷と向き合うことを怖がって逃げていることが必ずしも悪いことだとは思わない。 逃げることが生きていく上で必要な時もきっとあるから。 でも、イザークのことに関しては他でもないキラが今のこの現状に心から苦しみ悲しんでいることが分かるから。 その心にかかる負の要素を少しでも取り除いてあげたかった。 誰にも言えずに苦しんでいる心が、それを自分に吐き出すことで少しでも軽くなることを望んだ。 王都への旅路に出て早四日になる。 その間、幾度も間近で顔を合わす機会があったにも関わらず、キラとイザークは会話らしい会話を一度も交わしていない。 理由は至極簡単………キラがイザークを避けているからだ。 無視をしているとか露骨に避けている、というのとは少し違うかもしれない。 いつもではないがちゃんと顔を見る時は見るし、朝の挨拶等には微かに頷いてみせたり一言を返したりと反応はしている。 ただ、問題はキラ自身の反応の仕方にある。 顔を見る時は、幾度か伺うように視線を彷徨わせてしまう。 挨拶を返すにしても、時には傍にいるアスランの影に隠れるようにして、また時にはぐっと俯いて消え入りそうなくらいに微かな震える声で。 もちろんそんなことが毎日続けば、周囲だってふたりの間に流れる空気に多かれ少なかれ気付く。 だから周囲の人間の大半は、どこか冷たくも見える秀麗な容姿と高圧的な印象のあるイザークを、まだほんの少女であるキラが怖がって苦手に思っているのだろうと考えていた。 けれどもそれは、半分当たりで、半分外れている。 確かにキラは高圧的な人物は苦手で恐れるけれど、イザークを避けるのはそれが一番の原因ではない。 細大の原因は、カーライル男爵の治めるベルトランで初めて彼と出会った時の出来事だった。 その時から、キラの中でイザークは恐怖の対象として刻み込まれてしまっている。 アスランは、その時の光景を見ていない。 彼が駆け付けた時には既にイザークの姿は無かったのだから。 ただ、ここ数日のキラのイザークに対する怖がり方に大体の想像はつく。 あの時キラを捕らえて大分乱暴な扱いをしてくれた騎士には、今回のメンバーには入れずに後から王都へと向かわせる組に回して欲しいと出立する前にディアッカとイザークに頼んでおり、二人ともそれを了承した。 アスランには、キラが件の騎士の姿を見る度に酷く恐怖するだろうことが分かりきっていた。 だからこそそうして先手を打っておきたかったのだ。 本来なら不適格者として騎士の身分を剥奪でもしてやりたい気分だけれど、今はそれを嘆願出来る立場にはない。 だがアスランにしても、事情を知らなかったのだから仕方がないなどという手前勝手すぎる理由で簡単に水に流せようものではなかった。 どちらにしても、あの時のようにキラを─────落ち度のない少女を力ずくでいたずらに脅かし追いつめるような行動は、騎士としては勿論だが人としてもとても相応とはいえないだろう。 アスランには、イザークが彼と同じような真似をしたとは到底思えない。 いくら直情型で女子供にもあまり気を使うということをしない性格のイザークとはいえ、彼は昔から自分より明らかに弱い存在への力にものを言わせた行為を心底嫌っているし、それは他の人間に対しても同じだった。 だから万が一にでも乱暴に近い何かをしたとはとても思わないが………キラにとってはそれに通じるような、彼女を怯えさせるような言動や行動があったのだろう。 責める気持ちが無いといえば嘘になる。 ただ、その時の行動に誰よりも憤りまた悔いているのはイザーク自身だということが昨日からの彼を見ていて痛い程に分かるから、アスランは喉元まで出かかっていた言葉をいくつも飲み込んだ。 昨日聞かせたキラの身の上や彼女の置かれていた状況は、イザークにとっては余程ショックだったらしい。 そして自分がキラに与えてしまった恐怖に、その意味に、改めて気付かされたのだろう。 今日の昼食後にアスランとキラが彼に会った時、キラと目が合ったイザークは初めて自分から視線を反らした。 いつもなら明らかな怯えを見せるキラを、微かに痛みをたたえたアイスブルーの瞳でそれでも先に反らされるまでは見つめていたのに。 いつの間にか眠ってしまったキラをベッドに移し、頬に残る痛々しい涙の痕を濡れたタオルで拭ってやりながら、アスランはその時の様子を思い出してつい小さく苦笑した。 本当に相も変わらず不器用な奴だと。 自分も昔からたいがい不器用だと周囲から言われてきたけれど、彼はきっとそれと張るかそれ以上だろう。 ずっとただ一言を言いたくて、毎回脅えられるにも関わらずキラの元に近付いてきたというのに……それは未だに叶っていない。 そう、ただ一言。 『すまない』……と。 「変にプライドが高いのも考えものだな……」 キラの少し赤くなってしまっている目元に指先を触れるか触れないかというくらい本当に微かに触れさせた。 泣かせてごめんねと、沈痛そうな面持ちで小さく囁く。 キラとイザークが本当は互いが互いに歩み寄りたいと考えているのは、今までの様子を見ていて間違いないように思える。 特にキラに関しては、アスランは間違いないと断言できる。 まだ多くの時間を共有してきたとはいえないけれど、それでもそれなりの時を今まで一番近くで過ごしてきた。 根が素直で純粋なこの少女の今の心の動きが、アスランには手に取るように分かる。 ちゃんと向き合いたいと、言葉を交わしたいとそう願っていることが。 そしてディアッカも、イザークも同じように思っているだろうと確信を込めて言っていた。 ならば、出来ることならなんとかしてやりたい、せめてそのきっかけだけでも作りたかった。 イザークのことも勿論だが、何よりもキラの為に。 この少女の苦しむ姿、悲しむ姿は、何よりも強くアスランの心を締め付ける だからこそ、いつだって強く思うのだ。 守りたいと。 先程は半ば意図的に近い形で泣かせてしまったけれど………本当はいつだって、笑っていてほしいから。 今日キラがずっと溜まっていた言葉を吐き出したことで、何か変わるだろうか? キラの寝顔を見つめながら、自分自身に問いかける。 ─────きっと、変わる。 どこか確信めいたもの思いを抱きながら、アスランは夢の中にいる少女を見つめた。 キラは、キラ自身が思っているよりもずっとずっと強い子だから。 きっと、竦む足を引きずってでも必死で前に進もうとするだろうことを、知っているから……。 アスランは眠るキラの上に身を乗り出すと、閉じられた瞼にそっと唇を落とした。 明日は、悲しい顔が減りますように。 今日よりも笑顔が沢山見れますように、と。 そう、小さな願いをかけて…………。 |