【5】故郷への帰還 第5話 ───『怖いの?』 怖い……? うん、そう…………怖い。 ───『何がそんなに怖いの?』 何、が……? ……あのひと……? あの人…が………。 うん………怖い……怖い気がする。 ───『どうして?』 どうして……かな。 あの時、睨まれたから、なのかな……。 とっても怖い目だった………。 とってもとっても冷たくて……怖かった。 あの時のことは、あんまりよく…覚えてないけど………。 でも……すごくすごく怖かったっていうことは、覚えてる。 体が、覚えてる。 ───『痛かったから?』 痛かったのかな………うん、そうかもしれない。 ちがう男の人に、腕、ぎゅうって掴まれて……痛かった。 でもね、それより………頭とか、胸…とか。 そっちが痛かったよ。 どうしてなのか、よくわからないけど。 でも……胸が、すごくすごく痛くて……壊れちゃうのかなって。 そう、思ったんだ。 ───『じゃあ、そんなことをした彼は嫌い?』 きら…い………? ………どうなんだろう。 わからない……。 でも、でもね………ちょっと、違う気がする。 嫌いとは、違う気がする。 まだ怖いのは……本当だけど、嫌いって思ったことは……ないと、思う。 だって、もう睨んだりとか、しない。 おはようとか、おやすみとか……怖くない目で言ってくれる。 それに……この前転びそうになった時、助けてくれた。 気をつけろよって。 でも…………。 ───『怖いから、避けてしまう?』 …………うん。 本当はね、そんなことしたくない。 ちゃんと、お話だってしたい。 ディアッカが言ってた。 色々知ってる人だから、知りたいことがあったら教えてもらえって。 でもね………まだちょっと…怖い。 怖くない人だって、ひどいことはもうしないって、今ではちゃんと分かってるはずなのに。 見た目、ちょっとだけ怖いけど……でもきっと、優しい人だって。 それなのに……先に体が勝手に怖がるの。 近付いたら駄目だって、そう言ってるみたいに………。 ───『本当は、避けたくないんだね』 うん……避けるなんて…したくないよ……。 だって、アスランのお友達だもの。 それにね、おしゃべりもしたいな……。 偉い騎士さまだから、きっと王様のことも知ってるよね? あと………できれば、アスランの昔のこととか……聞きたいな。 アスランも、前は騎士さまだったってディアッカが言ってた。 でも、本人に聞けって言って、あんまり教えてくれなかったし………。 ───『……彼のことが好きなんだね』 うん、好き。 大好き。 僕なんかに、いつも優しくて………。 最初からずっと、たくさん迷惑かけて………でも、いつもね……良いんだよって笑ってくれる。 ずっと一緒だよって、一緒にいこうねって、言ってくれる……。 ………ずっと一緒にいたいな。 いられると、いいな……。 だから……もっと迷惑かけないでいられるように…なりたい。 ずっと一緒にいたいから………。 こんな風にすぐ怖がったり、泣いたり………そんなんじゃ、駄目。 もっともっと、強く……なりたい。 ───『なら………がんばれるね?』 ……………………うん。 ───『大丈夫。 と がついてるから………ね?』 ………うん! ありがとう………僕、頑張るから………。 今よりもっと、もっと………強くなるから………っ。 だから……─────。 見守っててね、おとうさん、おかあさん。 「ん………」 ぼやけた視界に、薄暗い天井が移り込んだ。 灯りは消されているらしい。 キラは少しだけぼうっと天井を見つめた後、ゆっくりと寝台から身を起こした。 「あれ……なんだろ…」 頭が微かに痛む気がする。 顳かみあたりを手で押さえて、キラはどうしたんだろうと首を傾げた。 ぶつけたりでもしたのかな、と。 ただ少しだけズキズキとするだけだったので、それほど気にせずにキラはそれ以上考えるのをよした。 夢を見ていた気がする。 よく覚えていないけれど、何か大切な…─────。 まだ少し霞がかっている頭をふるふると振って覚醒を促す。 キラはなんとかその夢の内容を思い出そうとした。 そうすると、微かに頭にイメージが過る。 確か………自分は、夢の中で誰かといた。 その人と────その人たちと、ずっと何かを喋っていた気がする。 顔も声もちゃんと覚えていないけれど、何故だかとても優しかったような気がした。 温かくて、優しくて………包み込まれてるみたいな………。 でも、それ以上はどうしても思い出せなくて。 キラはちょっとだけガッカリとした。 思い出したかったな……と。 よく覚えていないけれど、何故だか忘れたくない夢だった気がするから。 「………アスラン?」 何気なく視線を移した先───隣のベッドは、空だった。 不思議に思ってほの暗い辺りを見回しても、その姿はどこにもない。 どうしたんだろう……? キラは顔を巡らせて今が何時なのか探ろうとしたけれど、この部屋の中には時間を告げるものなど置いてはなかった。 船室には小窓もなく、その上さっき目覚めたばかりのキラには時間感覚もないので、今がいったい何時ごろなのかさっぱりわからなかった。 こんな風にキラが目を覚ました時にその場にアスランがいないのは結構珍しい。 起きた時にひとりきりだと不安になりがちなキラを知っているから、出来る限りは傍にいるようにしていたから。 キラは寝台から降りると、部屋の中央にあるテーブルに近寄り、その上に置いてあるランプに灯りをともした。 つけ方は昨日アスランに教えてもらっていたので、おっかなびっくりではあるけれどなんとか上手くいった。 これだけだとまだ暗い気がしたけれど、天井近くにあるものにはキラではとても手が届きそうにないので諦める。 テーブルランプのすぐ横手にある、船員が特別に用意しておいてくれた木製の鳥籠で羽を休めていたトリィが、主の起床に喜んで先程から忙しなく動き回り囀っていた。 キラはひょいとトリィを覗き込みながら、籠の隙間から人さし指を差し入れる。 すんなりと入った細い指先を、トリィが愛情を示すように何度か軽くつついた。 キラはくすぐったさにくすくすと笑いを零すと、籠についている小さな扉を開けてトリィを外へと導く。 自由を得たトリィは二度天井近くを旋回すると、ふわりと降りてきて定位置であるキラの右肩に落ち着いた。 「アスラン、どこいったのかな……。トリィわかる?」 勿論トリィから答えが返るわけもなかったけれど、キラは自分に向けてピィピィと囀る小鳥を見つめると、そっか…とため息をついた。 こうしてトリィがいる。 ひとりぼっちじゃない。 それでもやっぱり……なんとなく寂しい気がしてしまう。 待っていればきっとそのうち戻ってくると分かっているけれど、でも……。 「………一緒に、アスラン探しにいってくれる?」 キラが肩に止まっていたトリィを手のひらに移してその円らな瞳を覗き込む。 するとトリィは何を思ったのか一声鳴いてからばさりと宙へと舞った。 そしてすぅーっと外へ通じる扉の方まで飛んでいくと、そのまま姿を消してしまった。 「トリィ……?!」 突然のことに吃驚してキラが小走りでその後を追う。 すると、扉が少し開いていてその隙間からトリィが出ていってしまったのだということを知った。 扉を開けて薄暗い廊下を見回せば、小鳥の小さなシルエットが遠のいて角を曲がって行くのを見つけて。 キラは慌てて、自分が裸足のままだということも忘れて廊下へと飛び出していった。 その頃、アスランはイザークとディアッカと共にホール脇にある酒場にいた。 周囲には彼等の他にも当番を終えて仕事終わりの酒を酌み交わす船員達の姿などがちらほらと見えた。 カウンターや酒樽を積み上げたディスプレイ、そして出来る限り落とした照明のほの暗い明かりがぼんやりと辺りを照らして、"それらしい"雰囲気を醸し出している。 船内とは思えない程によく出来ているとディアッカなどはやけに嬉しそうに感嘆していた。 「で、結局どうなのよ?」 「………どうとは?」 「とぼけんなって、キラのことだよ。少しは進展したかぁ?」 「………………」 「……そうか。まぁ、すぐに上手くいくとは思っちゃいなかったが……その様子だと全然か」 はぁ〜っと態とらしくも仰々しく溜息をつかれ、イザークの眉がぴくりと神経質そうに寄る。 だが、結局それに対して言い返す言葉も思い付かない。 ディアッカの言う通り、上手くいくいかない以前の問題なのだから。 「そりゃお前が面と向かって言い難いのは分かるけどよ。いつまで経ってもこのままじゃどうしようもないだろうが」 「………………」 「王都に着く前までには謝っておきたいんだろ?日にちはそんなにないぜ?」 「………うるさい」 ふんっとばかりに顔をそらすイザークに、ディアッカは酒を片手に苦笑した。 本当に不器用というかなんというか。 俺だったらさっさと謝っちまうけどなぁーと、木で作られたジョッキを片手に酒をちびちびやりながらそんな風に思う。 だが、それが出来ないのが彼の彼たる所以とでもいうか………。 「そう肩肘張る必要はないさ」 それまで黙ってふたりのやり取りを見守っていたアスランが静かに口を開いた。 「…………?何がだ?」 「どう謝ればいいかとかどうやったら許してもらえるかとか、下手に色々考え過ぎるなということだ」 ディアッカの問いに、アスランは一度グラスに口を付けた後にそう答える。 ちなみに、彼のグラスの中身はただの水。 酒は此処に入ったばかりの時に一杯飲んだだけで、あとは水以外口にしていない。 アスランの視線の先は質問をしたディアッカだったが、それは明らかにイザークに向けての言葉だった。 助言か、もしくは忠告か。 「……それは俺に、誠意のない言葉を言えとでも言っているのか?」 イザークがアスランを鋭く見据える。 罵倒の言葉が続かないのが不思議なくらいにきつい視線だった。 だが、アスランはそれに動じることもなくさらりと受け流している。 「そうじゃない。ただ、変に言葉を飾る必要はないと言っているだけだ。……それに、心にもない謝罪ならキラはきっと見抜くぞ。聡い子だから」 「誰が心にもないことなど………っ!!俺だって……!……すまないことをしたとは、思ってる」 「……逆に言えば、たった一言だったとしても心がある言葉ならばキラはそれを汲み取るだろう。キラは奇麗に並べ立てられた言葉にしか価値を見いださない連中とは違う。問題なのは上辺じゃない、分かるだろう?」 「…………………」 イザークは視線を落として握られた自らの右手を見下ろした。 脳裏に、全身で怯えをあらわにする少女の姿が過る。 自分が目にするのは、いつもそういった姿だけ。 遠目から見たような笑顔は、一度だって向けられたことはない。 アスランの言っていることは分かる。 正論でもあると思うし、疑うべくもない言葉だと理解できる、 だが……─────。 「………少し風にあたってくる」 二人と視線を合わせないままに呟くと、イザークは横手の椅子に置いたマントを片手に店の出口へと消えていった。 残されたアスランとディアッカは、無言でその背中を見送る。 「頭の整理に行ったんだろう。なぁに、少し経てば戻るさ」 空になったキョッキに酒を注ぎながら、ディアッカは軽い調子で言った。 お前もいる?と聞かれて、アスランは首を横に振る。 相変わらずの調子を崩さない目の前の男に、アスランは目を眇めた。 口元に淡い笑みを浮かべながら。 言葉や表情は軽いが、その中には確かな信頼が感じ取れる。 喧嘩すれすれの気安いやり取りも、こういったふてぶてしいまでの平然とした様子も、全ては彼等が昔から築いてきた信頼関係故なのだ。 アスランは、昔からそれを知っている。 氷が溶けてぬるくなってきた水で喉を潤しながら、アスランはふと部屋に置いてきてしまったキラのことを思った。 今は静かな優しい眠りの中にいるだろうか? 少し前に、泣きながら眠りに落ちてしまったキラ。 涙の痕の残る目元が痛々しかったけれど、それでも彼女の寝顔はどこか安らかに見えた。 ずっと言えなかった胸の内をようやく吐き出せたという理由がそうさせていたのかもしれない。 思えば、自分は随分とキラの泣き顔を見てきたように感じる。 キラは本当によく泣くから。 辛い時、苦しい時、嬉しい時、悲しい時。 感情が高ぶりすぎると、大きな瞳いっぱいにたたえた涙をほろほろと零す。 ただ、泣かないようにと必死に涙を耐えている時のキラを、いつも見兼ねてそのまま泣かせてやるのは自分の役目なのだけど。 (泣き虫なキラも嫌いじゃない……) ぽつりと浮かんだ言葉。 それもまた、アスランの本心の中のひとつ。 けれども……やはりそれ以上に笑っていてほしいのだ。 だからこそ、今のイザークとのことにも早く解決の道が見つかれば良いと思う。 あの小さな心にかかる重荷を、少しずつでも減らせればと願う故に。 「あ…………」 キラは呆然とその場に立ちすくんだ。 部屋を出て行ってしまったトリィを追って飛び出したキラは、冷たい風が絶え間なく吹きすさぶ甲板へと続く廊下までやってきた。 ようやく翼を休めて止まってくれた小鳥の姿を見つけてホッと溜息をついて───── しかしそこで、ギクリと体を強張らせる。 灯りがぼんやりと照らし出す甲板への出入り口に、彼が立っていた。 目の前の手すりに止まったトリィを不思議そうな……そして優しい目で見つめながら。 キラが思わず零した小さな声に、その視線がふ…っと移動してキラを見つめた。 バイオレットの瞳とアイスブルーの瞳が、確かに交錯した。 「……………っ」 キラの視線が、先に反らされる。 思わずそのまま後ずさりそうになって─────けれど、はっとして動きを止めた。 不意に脳裏を過った、ひとつの言葉。 『キラは、あいつが嫌いか?』 (………アスラン…) 思い出した。 眠ってしまう前の出来事、アスランとのやり取り。 自分は、あのひとにしがみついて泣きながら眠ってしまったのだ。 起きた時に頭が痛かったのは、きっとそのせい。 あの時アスランが、閉じ込めたまま重くなる一方だった胸の内を解き放ってくれた。 泣けなかった自分を……その胸で泣かせてくれた。 キラは無意識のうちに右手で左手の手首をぎゅっと握る。 正確には、手首に巻かれている淡い緑色をしたリボンを。 それはキラの大切な宝物で、お守りでもあった。 縋るようにして触れた滑らかなリボンの感触が、キラの心に小さな勇気を灯す。 (嫌い……?ううん、違う。嫌いじゃ…ない) 『なら………がんばれるね?』 今度は、違う声。 アスランのものとは違う、でも同じくらい優しくて温かい─────。 (うん……だいじょうぶ。がんばれる) 瞳を閉じて、大きく息を吸い込んで。 そして、ゆっくりと瞳を開いた。 視線の先には、トリィと、そして白銀の髪を風に靡かせながら立つイザーク。 その顔を視界いっぱいに入れられるように、キラは彼を見上げた。 微かに驚愕の色を見せている双眸を、真正面から見据えて………。 自分を見上げてくるキラの姿に、イザークは思わず目を見張った。 最初に目が合った瞬間、少女は確かに怯えていた。 微かに震えながら視線を反らしたことがそれをあらわしている。 きっとそのまま身を翻すか、それとも立ちすくんだままでいるかと思っていたのだが………そしてだからこそ、すぐに彼女の前から姿を消そうと思っていた。 しかしこの少女は、驚いたことにこの場に踏み止まってしかも自分を正面から見据えている。 何故─────? 「…あ…あの…………っ」 微かに上ずった声が零れ落ちる。 両手を体の前でぎゅっと握りしめながら、キラは懸命に声を出した。 自分をなんとか奮い立たせながら……。 「あの…………」 けれども続く言葉がどうしても出ずに、キラはきゅっと唇を噛み締めた。 時間がどんどん経っていくごとにいたたまれない思いがつのってゆく。 思わず涙が滲んでしまいそうになった、その時。 「………この鳥、お前のだろう?」 それまで沈黙を守っていたイザークが口を開いた。 いつの間にかちょこんと彼の腕に止まっていたトリィを見つめながら。 「早く部屋に連れて戻ってやれ。ここから外に出てしまったら事だ……」 「あ………」 背中を預けていた壁から体を離し、イザークは慎重にキラの元へと足を進めた。 イザークの歩幅でいって、あと二歩程度の距離。 その近いようで遠い距離。 少し間を空けてイザークは止まると、静かに右腕を差し出した。 腕から手首、そして手の甲にまで移動してきたトリィが、キラに向かってピィと囀る。 どうしたの?とでも言っているかのように首をかしげながら。 キラはなんとなく理解した。 きっとこの距離は、自分が埋めなければならない距離なのだと。 怖くても、踏み出さなくてはいけないのだと。 先程、彼は辿々しくはあるけれど手を差し伸べてくれた。 言葉に詰まるキラを思いやって、沈黙を破ってくれた。 なら………きっと次は自分の番。 これ以上彼が近くに来れないなら、自分から行かなくちゃ………。 心にある大好きなひとの声を思い出しながら、キラは少しずつ恐怖に打ち勝てるようにと自分を奮い立たせていった。 一歩ずつ確かめるようにゆっくりと歩いて。 そうしてキラの歩幅で、丁度四歩。 「………トリィ」 小さな両手を差し伸べて……イザークの手に触れるか触れないかの距離まで勇気を出して懸命に伸ばして………。 するとトリィは、目の前にある自分の主の手のひらにちょこんと移った。 そのまま腕を伝って肩に陣取ったトリィは、甘えるようにキラの頬に頭を擦り付けた。 がんばったね。 まるでそう言っているかのように。 トリィの羽を優しく撫でてから、キラはイザークを見上げた。 今までにないくらいに近い距離で。 ここまで近いのは、きっと初めて会った時以来だった。 本当はまだ、ちょっとだけ怖いけれど………それでも。 「あの…………ありがとう」 いつしか自然とキラの唇から言葉が零れ落ちていた。 そのことにはキラ自身も驚いたけれど、それ以上に驚いていたのはイザークだった。 「いや…………」 答えながらも、信じられない思いでキラを見下ろす。 しっかりと返される視線が信じられなかった。 少し前まで………いや、今日の昼過ぎまではいつも通りだったはずだ。 いつものように、自分と目が合うだけでひどく怯えて─────。 それが今はどうだろうか。 大きな瞳は微かに揺れているけれど、それでもそれが反らされることもなく………。 いったい自分はどう返せば良い? どう返すのが一番良いのだろうか………? そこまで考えて、イザークはふと肩の力を抜いた。 つい先程ディアッカやアスランと交わした言葉が脳裏に浮かんでいた。 『そう肩肘張る必要はないさ』 そう言ったのはアスランだったか。 ………確かにそうなのかもしれない。 自分があれこれと考え過ぎて、キラと相対する時に余計な力が入りすぎていたのかもしれない。 最初に……もっと早いうちに自分が一番伝えたかった一言を言っていたなら、ここまで拗れることもなかったのだろうか。 こんな風に、自分よりも随分年下の少女が懸命に勇気を振り絞って歩み寄ろうとしてくれているのを見て、イザークは自嘲した。 何をやっているんだ俺は、と。 ただ、随分と楽になった気がした。 「………すまなかった」 「え…………」 「ベルトランの街でのこと………あれは完全に俺の落ち度だ。あんな尋問まがいなことをするべきではなかった。………本当にすまない」 頭を下げるイザークを、キラは呆然と見上げていた。 謝られるだなんて、思ってもいなかったから………。 そしてそこでようやく気付く。 この人は、ずっとそんな気持ちを抱えていたのだろうか………と。 そう思うと、心にこびりついた恐れという淀みがまた少し薄れていくように感じた。 「…………ううん」 キラは小さく首を振った。 正直、キラはまだ少し彼が怖い。 一度心に根付いたものは、そう簡単に消え去りはしないのだから。 けれども、せめてそれが薄らいでいる今は……─────。 それに……許すとか許さないとか、そういうのはよくわからなかった。 許すことも、許されることも、キラにはひどく遠いものだったから。 だからどうやって返せば良いのかよくわからないけれど、こんな風にしか返せないけれど、どうか伝わればいいなと思った。 もういいよ……と。 顔を上げたイザークは、目の前のキラを暫し見つめた後…………ふっと表情を緩めた。 もしかしたら、微笑んでいたのかもしれない。 「お、戻ってきたみたいだな」 何気なく入り口に目をやっていたディアッカが、イザークの姿を認めて口の端を上げた。 また随分遅かったなぁと自分ひとりで空にした酒のビンの数々を眺めながらぼやいて。 しかしすぐにイザークに続く人影に気付いてぎょっと目を見張った。 「…………どういうこった?」 「どうしたディアッカ?」 「いや………酔っぱらって幻でも見てんのか俺」 「は?」 ディアッカに散々絡まれて無理矢理手に持たされたジョッキを溜息ながらに眺めていたアスランが、ディアッカの妙な様子に気付いて顔を上げた。 ディアッカの視線を追ってみれば、丁度こちらに向かってくるイザークの姿が確認できる。 ゆっくりとふたりが座るテーブルに近付いてきて、先程自分が座っていた椅子を引いた。 「ああ、イザークか。遅かったな」 「……色々あってな。それよりアスラン、お前もう戻れ」 「え?」 「お前に迎えだ」 「………………?」 ひょいと顎で示された先にいたのは、トリィを両手で包み込んできょろきょろと辺りを見回しているキラだった。 どこか居心地が悪そうにそわそわとしている。 「キラ………?!」 アスランから驚愕の声が上がる。 テーブルに乱暴に置かれたジョッキがゴトンと盛大に鳴った。 名前を呼ばれたキラはそれまでの不安げな顔を一転、ぱぁっと瞳を輝かせてアスランの元へと小走りで駆け寄った。 興味深げに自分を見てくる周囲の視線に怯えてか、アスランの服の裾をぎゅっと握って彼の影へと寄り添う。 「キラ、なんでこんな所に………しかもこんな時間に」 キラとイザークが一緒にいたことも驚きだが、何よりキラが起きていて酒場に入ってきたことに驚いた。 「……さっき廊下で会った。夜も遅いから部屋に戻れと言ったが、お前を探していると言っていたから俺が連れてきた」 キラが口を開く前にイザークが答える。 面倒なので細かい部分は切ったが、概ね合っているだろうと思いつつ。 イザークの言葉を受けてこくりと頷くキラを見て、アスランはそうか……と呟いた。 目が覚めたら居るはずの自分が居なかったから少し不安になったんだろうとすぐに思い当たる。 けれど、こんな深夜にひとりで部屋の外に出るなんて…………。 今は騎士団の管轄下にあり警備の目も厳しいこの船で何が起こるとも思えないが、それでもキラなだけにあまり安心はできない。 心に抱える傷が多いことも理由のひとつだが、それに加えて少し世間知らずな上に無防備なのだ。 キラは、自分で自分の身を守る術すらも知らない。 けれどそういった憂慮をそっと自分の中に押し隠して、アスランはしがみついてくる体を引き寄せた。 「ごめん、探させてしまったね」 「ううん」 「こんな時間に起きてることなんて殆どないから眠いだろう?俺も一緒に戻るから部屋に戻ろう」 「………うん」 素直にこくりと頷くキラの頭を撫でてからアスランは席を立った。 「じゃあ俺は行くが……程々にしておけよ?特にディアッカ、それ以上飲むといくらお前でも知らないぞ」 「へーへー、了解してますよ」 明らかに酔っ払いの口調で返すディアッカに、アスランはまったく…と苦笑した。 どうせ言ったって聞かないだろう。 そしてへらへらと笑いながら今度はイザークに猛烈に絡みはじめたの見ては、もう閉口するしかない。 「ちょっ……離れろディアッカ!アスラン、お前何故こんなに飲ませた?!」 「別に俺が飲ませたわけじゃないし、俺だって止めたぞ。しかも5回も。それだけ言っても聞かない奴に何を言っても無駄だ」 お手上げとばかりに肩を竦めるアスランを見てイザークがくうぅと唸る。 ディアッカの酒好きぶりと酒癖の悪さは熟知しているし、今までだって何度となく被害を被ってきたのだ。 だからこそ一緒に飲む時には飲み過ぎないように目を光らせているのだが………。 「お前ら堅いこと言うなって!これから祝い酒だろ祝い酒、付き合ってやるからよ〜!」 「祝い酒………?しかも何故俺がお前に付き合ってもらわねばならんのだ」 「だってよ、上手くいったんだろ?一緒に来たってことはさ〜」 楽しげに言われた台詞にイザークがびくりと反応する。 何を言われてるのかは瞭然だ。 「なぁキラ?そうなんだろ?」 いきなり矛先を向けられてきょとんとしたのはキラだ。 いつも以上に陽気すぎるディアッカに戸惑いつつ、でもなんとなく頷かないといけないような気がしたのでこくりと首を縦に振ってみた。 「そーかそーかやっぱりなぁ。良かったなぁイザーク!」 ぐりぐりと髪をかき回されてイザークがもがいている。 ぎろりと睨んでいる視線が恐ろしく鋭いが上機嫌のディアッカにはそんなもの関係ないらしい。 それどころか更に楽しそうに声を上げて笑っていた。 「やー、これでも心配してたんだぜ?高飛車でプライド高いくせに変にシャイだからな〜我等がイザーク隊長は」 「うっ、うるさいぞ少し黙れ……っ!!!」 「……………っ!!」 堪忍袋の緒が切れたイザークの大音量の一喝に、ふたりのやり取りを目を白黒させて眺めていたキラが驚いてビクッと体を大きく震わせた。 反射的にアスランにしがみついたキラを見て、今度はイザークが大慌て。 「あ、ち、違うっ!お前に言ったんじゃないぞ?!今のはディアッカの馬鹿に言ったことで……っ!!」 「あっはっは!!なっさけねぇなぁ隊長ぉ〜」 「わ〜ら〜う〜なぁぁこの酔っ払いがぁっ!!いい加減にしないと殺すぞキサマッ!!」 ……いったい何歳なんだお前らは。 目の前で繰り広げられる漫才に近い騒ぎにアスランはやれやれと呆れて肩を竦めた。 周囲で飲んでいた男達の目もすっかり彼等に釘付け状態。 まぁあれだけ盛大に騒いでたらそれも当然だろうが。 幸いなことにこの場にいるのは気の良い顔見知りの船員達ばかりなので皆笑いながら見ていてくれているが、これだけ騒げば普通の店ならとっくにつまみ出されている。 どう収集をつけるべきか悩みつつ、でもいつまでもキラをこんな所にいさせるのもどうかとも思う。 第一キラにとってはもうとっくに眠っている時間なのだ。 あいつらは適当に放っておいてキラを連れてさっさと戻るか………。 そんなことを考えながらアスランは傍らにいるキラの顔をちらりと伺って─────そしておやと眉を上げた。 目の前で繰り広げられる光景にきょとんとしていた瞳が少しずつ柔らかく細められて………。 笑い声になりきらなかった小さな小さなため息のような音が、微かに弧を描いた口元からこぼれ落ちた。 それは段々と大きくなっていって、そして─────。 傍にいたアスランと、そしてイザークとディアッカもそれに気付いてつい手を止めてしまう。 ぼんやりと薄暗い酒の匂いの充満する酒場に、小さな…けれど明るい楽しげな笑い声が響いていた。 |