日露戦争のロシア海軍指揮官

スタルク中将

オスカル・ヴィークトロヴィチ・スタルク (Оскар Викторович Старк)。 日露戦争開戦当時の太平洋艦隊(旅順艦隊)司令長官。 1904年2月7日 エヴゲーニイ・アレクセーエフの命令により、太平洋艦隊(旅順艦隊)司令長官に任命されるも、旅順に奇襲攻撃を受けた責任を追及されて解任され、1904年2月24日 太平洋艦隊司令長官職をステファン・マカロフと交代。 1908年10月 海軍大将の階級で退役。

マカロフ中将

ステファン・オシポウィッチ・マカロフ (Степан Осипович Макаров)。ロシア・トルコ戦争では水雷艇隊を率いて活躍。 バルチック艦隊司令長官、クロンシュタット軍港司令官をへて日露開戦後に太平洋艦隊(旅順艦隊)司令長官として着任。艦隊の志気向上と戦力整備に努めた。 マカロフはロシア海軍随一の名将であったが、激興しやすい性格を突かれ旅順港外に誘い出され、旗艦「ペトロパフロフスク」が触雷轟沈し戦死した。 ロシア最初の砕氷艦「エルマーク」の設計や、海軍戦術書などの海軍関係著作も多い。

ウィトゲフト少将

極東府総督参謀長であったが、太平洋艦隊(旅順艦隊)司令長官のマカロフ中将が戦死したため臨時司令官となった。 艦隊司令官としての適正は乏しかったらしく、乃木第3軍の猛攻に耐えかねたステッセルら陸軍に押し出されて出撃。黄海海戦では消極的指揮に終始し、旗艦「ツェザレウィッチ」に直撃弾を受け戦死した。

ロジェストウェンスキー中将

ロジェストヴェンスキー,ジノヴィ・ペトロヴィッチ(Rozhdestvenskii,Zinovii Petrovich)。 1848年生。ロシア出身。ニコライ2世の侍従武官。 海軍参謀長、軍令部部長をへて太平洋第2艦隊(バルチック艦隊)司令長官となった。 少将時代、射撃練習艦隊の司令官となりロシア・ドイツ皇帝の親閲訓練を行いこの時にニコライ皇帝の信任を得たと言われる。 日露開戦において極東戦力の大幅増強のため、バルチック艦隊を改編し東洋へ派遣する案を出した一人であったが、自分がその任にあたるとは思っていなかったようである。 「ドッカーバンク事件」など航海中数多くの事件とトラブルに見舞われ、ロシア友好国であるはずのフランス・ドイツの植民地からも冷たい対応をされた孤児艦隊を率いてきたが、日本海海戦で全滅。本人も重傷を負い捕虜となった。 批判は多いが、ともかく38隻もの大艦隊を、一カ所もまともな寄港地が無い状態で引っ張ってきたことはもう少し評価されても良いのでは無いだろうか。1909(明治42)年没。

エッセン少将

ウラジオストック艦隊を率いて日本の通商路破壊作戦に従事、多大な戦果をあげた。 蔚山沖海戦では装甲巡洋艦「ロシア」に座乗、「グロムボイ」「リューリック」とともに勇戦。舵機を故障した「リューリック」が上村艦隊に補足されると、再三引き返し日本艦隊の火砲を「ロシア」に引きつけ「リューリック」の逃走の時間を稼ぐなどした。 残弾が不足した上村艦隊の際激を振り切り2艦はウラジオストックに逃げ込んだが、両艦とも大破し戦死135名、負傷307名の被害を出してウラジオ艦隊は壊滅した。

ニコライ・ネボガトフ少将

旅順艦隊が壊滅したため急遽太平洋第3艦隊司令長官として編成された旧式戦艦達を率いてバルチック艦隊を追った。 「浮かぶタライ艦隊」と酷評された彼の艦隊は、旧式のためロジェストウェンスキーすらも連れていくことを拒否した艦ばかりで、小型で装甲も薄い海防艦が主体であった。 しかし、ネボガトフ少将は夜間航行の折りには無灯火航行の訓練をするなど実戦的な訓練を行い、仏領バン・フォン湾で会同した。 日本海海戦では「ニコライ1世」「アプラクシン」「セニャーウィン」「ウシャーコフ」の第3戦艦部隊を指揮した。5月27日の海戦は切り抜けたが、翌28日連合艦隊に捕捉され降伏した。


日露戦争
戦艦 三笠
日露戦争の日本海軍指揮官
東郷 平八郎
広瀬 中佐
日露戦争の日本陸軍指揮官
日露戦争のロシア海軍指揮官
日露戦争のロシア陸軍指揮官
日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか


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新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2009年1月22日