灯台の歴史
航路標識の始まり
人類が舟を用いて海へ出ることを考えだしたのは、何干年も昔のことです。
その頃は目的地へ行くためには、山の頂とか岬、あるいは特徴のある大きな木など自然にあるものを目標として利用したことは容易に想像できます。
しかし、船が大きくなり、夜間あるいは遠い海上までも出ていくようになると、暗い夜でも、また、はるか遠い所からもよく見えるような目標を自然の物体以外に造りだす必要が生じてきました。そのため岬や島上、あるいは建造物の屋上で火を焚いたり、煙をあげたりして航海の目標とする方法が講じられるようになりました。これが灯台のそもそもの始まりです。
記録の伝えるところによると、エジプトのアレキサンドリア港が最も栄えた時代の紀元前279年に、その湾口のファロス島の東端に大理石で広大な灯台が建てられたとのことです。この灯台は完成まで20年かかり、高さが135メートルもあったといいます。
こんな高い塔が本当にあったのか、ちょっと信じられませんが、1477年まで立っていたといいますから、1700年以上使われていたことになります。
このファロス灯台はエジプトのピラミッドと同じように「世界の七不思議」のひとつにかぞえられています。日本では、今から約1300年の昔、天皇の使いが唐(中国)に渡った帰りに行方不明になることがあったので、船の帰り道に当たる九州地方の岬や島で、昼は煙を上げ、夜は火を燃やして船の目印にしましたのがはじまりといわれています。
このほか、17世紀頃までに建てられ、記録に残る灯台がいくつかありますが、これらの多くは灯台であるとともに内部に礼拝堂や僧侶の居室を持った神殿でもありました。また、塔上では木、芝などを燃焼させただけで、特にレンズや反射器などによる投光装置は持っていませんでした。
1595年になってジブラルタル海峡東側に建てられたコルンナ灯台は、高さ9フイートの小塔でしたが、ガラス張りの灯籠(とうろう)を設け、その中で油を燃やしました。これが灯台独自の目的で建設された最初の灯台とされています。このように初期の灯台は、木材や石炭などを燃やす原始的なものでしたが、次第に油やローソクも用いられるようになり、次にレンズが発明されると直ちにこれを利用して光カを増大させ、また、電灯が実用化されると、これを灯台にも取り入れ、何百万カンデラ(1カンデラは約1燭光)という強カな光も容易に出せるようになったのです。
わが国の航路標識の歴史
大阪と灯台の関係・・・
わが国の灯台の起源については、古くは難波 (現在の大阪) に水尾津串 (みおつくし) と称する現在の立標にあたる航路標識があって水路を示し、航行の目標としたことが記録にあり、万葉集にも歌われています。
また、天智天星の3年(664年)壱岐、対馬、筑紫に防人(さきもり)をおいて、のろしをあげて海岸防備の固めとしましたが、たまたまその位置が遣唐使の目標に便利であったので、昼は煙をあげ、夜はかがり火を焚いて標識としたことが知られています。
徳川時代になると、わが国独自の灯台が建てられるようになりました。その頃は「かがり屋」とか「灯明台」と呼ぱれており、石積みの台の上に小屋を建て、その中で木を燃やす仕組みのものでした。
石積みの台の上の小屋で木を燃やしたり、油紙をはった障子の中で油を燃やした「灯明台」があらわれました。
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慶長13年(1608年)に能登国福浦港に住む日野吉三郎という者が福浦港に建てた灯明台は、石造の小屋に木造の灯籠をのせ、油紙障子でこれを囲い、この中で菜種油をともすものでした。この灯明台が日本で初めて油を使った灯台といわれています。これら灯明台は、幕末には100余基に達していました。また、海岸近くの神社や寺院の常夜灯で、灯台の役目を果たしていたものが数多くあり、今でもその言い伝えのある石灯籠がところどころに残っています。
日本が現在のような灯台を建てるようになったのは、慶応2年(1866年)5月、徳川幕府が米、英、仏、蘭の4か国と結んだ改税約書(江戸条約ともいう)の中で、第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、航路標識の設置が義務づけられたことが端緒となっています。
これにより灯台8基、灯船2基を設置することになりました。しかし、当時の日本には西洋式の灯台を建てる技術が無かったので、幕府は英、仏に灯台機械の購入と技術者の派遣を依頼しましたが、間もなく徳川幕府は崩壊し、これらの事業は明治新政府が継承することになりました。
明治政府がこれを引き継ぎ、明治元年11月1日に日本で初めての西洋式灯台を三浦半島の「観音崎」に建てることに着手しました。灯台の日はこの日を記念日としたものです。
このようにして、明治2年1月1日(1869年)、神奈川県三浦半島の観音埼に日本で最初の西洋式灯台「観音埼灯台」が誕生し文明の火がともりました。建設したのはフランソア・レオンス・ヴェルニーたち仏国人です。
観音埼灯台に続いて東京湾近傍の野島埼、品川、城ケ島の3灯台も仏国人の手によって建設されましたが、そのあとは幕府時代に招へいした英国入技師リチャード・ヘンリー・ブラントンを首長とする英国技術者たちが担当しました。
ブラントンは、横浜元弁天に事務所を構え、工場を建て灯台、灯船、浮標などの製作、修理にあたり、明治9年(1876年)に帰国するまでに灯台26基、灯船2基を完成させています。そして、これら灯台には英国人の熟練した灯台員を配置し、その下に日本人助手を置いて業務を習得させました。
このような揺藍期を経て、わが国の経済、海運の進展とともに航路標識の基数も次第に増え、また、種類も霧信号所、潮流信号所などのほか、昭和の初期には電波による航路標識である無線方位信号所も出現するようになりました。それでも太平洋戦争が始まる前のわが国の航路標識の基数は、400基ほどしかありませんでした。戦争末期には灯台も攻撃目標の一つとなり、多くの灯台が破壊されました。
終戦後、早速航路標識の復旧工事が始まり、昭和25年に完了しました。この間、昭和23年に海上保安庁が発足し、航路標識事業は、海上保安庁によって行われることになりました。わが国は昭和30年には早くも戦前の経済水準を大幅に上回り、その後も海運、漁業の進展はめざましく、航路標識の数も年々飛躍的に増加し、平成13年8月1日現在で総基数は5,581基に達しています。
現存する最古のものは明治初期に西洋の技術を導入して建てられた神子元島(みこもとじま)灯台です。
神子元島灯台は石造りで、1866年(慶応二年)イギリスのR.H.ブラントンによって設計され、静岡県下田市にある。灯塔の築造には下田の恵比須岬から切り出した伊豆石を使用し、上層部と下層部の継ぎ目には伊豆稲取の火山灰と梨本の石灰岩を焼成した速製のセメントが用いられています。
塗色は白地に黒横帯二本塗りで、海面から灯火までの高さは51m、光の強さは80万カンデラで、19.5海里先まで光が届く性能を持ちます。
安乗埼灯台
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大瀬埼灯台
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新規作成日:2002年5月14日/最終更新日:2002年5月14日