ドレイク船長

ドレーク船長 Captain Drake
サー・フランシス・ドレーク Sir Francis Drake(1543?〜1596)
イギリスの航海者(海賊)、のちに提督。

南イングランド生まれで、初めは親戚のジョン・ホーキンスのもとで奴隷貿易に従事していた。
1568年ホーキンスと共にスペイン艦隊に襲われた事件を契機に、船を調達して船長となった。
1570年以降、西インド諸島でスペインの船や町を襲う海賊活動を始めた。
1577年から1580年にかけては、大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋にも進出し、この方面のスペインの植民地や船を襲って、多大の財宝を奪った。
その戦利品(海賊行為で奪った財宝)をイギリスに持ち帰ってエリザベス一世女王からサーの称号を与えられた。
この後、太平洋を横断し香料諸島にたどり着いて香料を積み込み、インド洋から喜望峰を回ってイギリスへ帰国し、マゼランに次ぐ第二の世界周航を達成した。
この、西インド諸島から南米を回ってイギリスに帰る途中、太平洋で暴風雨にあって、南米最南端付近に漂着してから大西洋に出て、1578年ホーン岬とドレーク海峡を発見した。
1580年9月に、出発時には5隻いた船隊はゴールデン・ハインド号(約100t)だけがプリマス港に帰港した。
この功績により、時のイギリス国王・エリザベス一世女王より、ナイトに叙された。
一時期、プリマス市長や国会議員に選ばれたが、再び海に戻り、1585〜86年・西インド諸島に遠征した。
タバコは1985年にドレークが始めて西インド諸島から持ち帰ったと言われている。

1585年、ドレイクは西インド諸島に行く道すがらビゴを掠奪、サント・ドミンゴとカルタヘナを襲撃し、85年夏には自分の船隊として25隻を集めてサント・ドミンゴ沖に集結した。
その編制は女王の船エリザベス・ボナベンチュア号(600t)とエイド号(250t)、それ以外は私有船で、ガレオンのレスター号(400t)、ロンドンの分遣隊のプリムローズ号を含み、そうした船以外は英国西部諸州の船でした。
ドレイクの旗は、そのころの最も大胆かつ練達の士官であったトーマス・フェンナー(?-1590?)船長指揮のエリザベス・ボナベンチュア号に掲げられた。
副船団長はマーティン・フロビシャーでプリムローズ号、女王のいとこで女王の寵臣のレスターの義弟フランシス・コーリーはレスター号の副船長、ウィリアム卿の息子のエドワード・ウィンター船長はエイド号、クリストファー・カーライルは陸戦隊を率いる大隊長、ドレークの最も若い弟トーマス・ドレイクはフランシス卿のトーマス・ドレイク号を指揮、トム・ムーンは老人の一人で海賊時代のドレイクの忠実な仲間であったが、ドレイクの別の持ち船フランシス号、世界一周航海のとき彼が仕込んだ一味であるジョージ・フォルテスクはバークのボナー号、ジョン・マーティンはベンジャミン号、優秀な数学者かつ技術者のエドワード・ケアレスはホープ号、そしてリチャード・ハクルートがガリオト(小型ガレー)のデューク号の船長として初指揮を取っていた。
総兵力は、兵士、水夫、フランス人、ポルトガル人、そして1人のカステリア人を含む2300人で、その何人かは強制徴発された船員でした。帰国後、1587年スペインのカデイス港を襲撃し37隻の船を破壊、集結していたアルマダ艦隊に大被害を与えた。
1587年4月2日には23隻を指揮して出帆、その中に女王所有の4隻のガレオンと2隻のピンネスがあり、その冒険資金は共同出資の方式で調達された。
アゾレス諸島沖で、インド洋から帰港中の大型カラックのサン・フェリペ号を拿捕、その船は豪華な財宝(11.4万ポンド)を積んでいた。それはドレイクが遠征に掛けた費用の2倍以上の額で、その捕獲金は女王に(4万ポンド)、ロンドンの商人達に(4万ポンド)、ドレイクに(1.7万ポンド)配分され、その残りがその他の冒険投資家に分けられた。それはそれぞれの出資額から費用を差し引いたとしても、十分な利益が有ったと記録されている。
翌年の1588年のスペイン無敵艦隊・アルマダの来襲時には、司令官の一人として迎撃に出撃・活躍した。火船戦術で敵を混乱に陥れたと記録されている。海戦中の1588年8月8日、フランス・カレー近くの海上で「提督」に昇進した。
ドレーク最後の航海は1595年8月28日、女王の持ち舟6隻(ディファイアンス号・ガーランド号・ホープ号・ボナベンチャー号・アドベンチャー号・フォーサイト号)にてジョン・ホーキンスなど2500人の乗組員と共にプリマス港を西インド諸島遠征に出帆した。
ホーキンスはプエルト・リコ東方のヴァージン諸島で発病し、プエルト・リコのサン・ファンで亡くなった。
ドレークは1596年1月28日早朝、キュサソー島のノンブレ・デ・デイオス川の港(年末に、ここを焼き討ちしていた)のガーランド号上で赤痢により亡くなり、水葬に付された。
53才頃の事である。その後、艦隊はプエルト・ベロを攻撃し2月6日には2000人の生存が確認され、5月にプリマスに帰港したが、ほとんどが病人であったと記録されている。彼らの航海者魂(海賊魂?)は、その後の多くのイギリス航海者によってジョンブル魂として引き継がれている。


ホーン岬 Cape Horn
南アメリカ最南端の岬で、南緯55度99分・西経67度16分に位置し、ケープ・ホーンは、スペイン語ではオルノスと呼ばれている。
フェゴ島南部、チリ側のウォラストン諸島中最も南の小島(オルノス)に有る。
1578年ドレーク船長によって、始めて発見(目撃)され、1616年、ここを回航したオランダ人スハウテンが自分の故郷の町にちなみ「ホーン岬」と命名した。

ドレーク海峡 Drake Passage
南アメリカ最南端のホーン岬と南極半島のサウス・シェトランド諸島を隔てる幅約800kmの海峡。
1578年にドレーク船長が南太平洋で暴風雨に遭って、ホーン岬付近に漂着した後、大西洋へ出たことから、この海峡の存在が、初めて知られた。
南太平洋側から南大西洋へと流れ込む、東向きの南極環流が流れている。
冬期は海氷が海峡中央部の南緯60度付近にまで張り出してくる。


参考
海賊
ドレイク船長




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新規作成日:2003年7月27日/最終更新日:2003年7月27日