KanonをD.CU〜音姫編-幸せのために〜








 「それでさぁ、俺、家を出ようと思うんだ。」



 翌朝、朝食の場面で俺はこの家を出ると発表した。



 「何でだ、急に?」

 「何というか最近相沢の仕事が溜まっちゃってさ。こっちでも処理が追いつかないから何とかしないといつかここから連れ去られちゃうからさ。」



 もちろん、これは嘘だが義之は納得した。でもあまりに突然だったから戸惑ってるように見えた。でも俺はそんな義之より音姉の哀しそうな顔が堪らなく嫌だった。










 「それでそれは一時的なの?」



 同じ話しを杏と茜にもする。突然な話しだからか、杏は少し胡散臭いような目で見ていた。



 「一時的かは分からない。案外寂しくなって戻るかも知れないし、やっぱり相沢らしい生活が楽しくてもう戻らないかも知れない。兎に角しばらくは家に戻らないと行けないんだよ。」



 義之は少し納得してないようだったが、杏と茜は誰よりも相沢という一家を知っている。仕事がどれほど大切なものか知っているし、俺がどれだけ大切にしていたかも知っている。むしろ朝倉家に行ったこと自体、二人には納得出来ないような物なのだ。



 「それで、義之君のお祖父さんは納得したの?」

 「来年で本校に上がるから節目的には良いってさ。」

 「そうだよねぇ。義之君と由夢ちゃんがラブラブなところに祐くんを居候させるのも変な話しだからねぇ。」



 そう言う考え方もあったか。でも俺は案外気にしない方だ。どっちかと言えば義之にベッタリな音姉の方が気にしてた気がする。



 「それでさぁ、出来れば今後この話題に触れて欲しくないんだよ?」

 「なんでぇ?」

 「俺は相沢として戻る訳だけど、やっぱり未練みたいなのはあるんだと思う。いちいち話しに出されちゃ気になっちゃうだろ?」

 「確かに、祐くん、今の生活結構気に入ってたからね。」



 でもこれは必要なことなのだ。今はただ乗り切ることで精一杯だ。



 「じゃあ、今日は一緒に帰れるんだね。」

 「そう言うことだな。久しぶりだな。」

 「どっかの誰かさんが美人姉妹と住みたいと行って引っ越してから減っただけよ。」

 「そう言うなよ。もう終わるんだからさ。」



 恐らくもうあの家に戻ることはない。いや、戻ったとしても今まで通りの関係には成れない。俺のしようとしてることはとてつもなく難しく、大きいことだ。それを叶えるために俺は大きな代償を支払うことになる。代償を支払った俺は今と随分と変わるだろう。でも俺は構わない。きっと二人は受け入れてくれるから。むしろそう信じることでしか行動を起こせないのかも知れない。

 決意は人を強くする。しかし決意の裏には必ず迷いがある。








 学校が終わり、久しぶりの自宅に帰ると早速祖父の魔術書を漁った。俺は祖父の魔術全てを修得している訳ではない。それに祖父があの桜をただ見ていたとは思えない。何らかの対処方法ぐらい考えてると踏んだのだ。

 どれくらい魔術書を読んだだろう。いらぬ魔術ばかり頭に入り、そろそろ諦めようとしたときだった。禁呪と呼ばれたその魔術に出会ったのは。



 「情報を存在へと変換する魔術。」



 それは不思議な魔術だった。この魔術によると物質は多くのデータの塊であり、それらは他者に認識されることで存在する。つまり存在とは認識によって生まれるのであって、データの塊であることで存在するというのではないという。



 「故に私は高密度な情報を何らかの形とし、他者に認識させることで存在へと変換させることが出来ると考えた。」



 祖父が言うには高密度な情報、これは思い出など多くの感情が込められたものを、どうやらここが唯一の問題らしいのだが兎に角形とし、最後の魔術によって他者からの認識を付与することで、それは存在するらしい。つまり思い出を犠牲にすることで、何かを存在させることが出来るのだ。

 これこそ俺が望んでいた魔術だった。俺は早速その魔術を頭へと叩き込む。しかしながらこれは恐ろしく危険な魔術だ。まず一番の問題は桜自身にやって貰うとする俺が思い出を高密度の情報とし、桜がそれを現在の義之の魂と思われる物の形とし、後はそれを義之の魂と同一化させることで最後の魔術である他者の認識を発動させる。これが成功すれば義之は高密度な情報によって作られた存在感によって存在が固定され、以後他者と交流を深めることでその存在を強固とするだろう。

 さて一番の問題は人一人の存在を固定するだけの情報がどれだけ必要かである。祖父は壊れた懐中時計に高密度な情報を流すことで形とし、存在を与えたことにより時計が直ったと報告している。つまり存在とは壊れていた時計を直すほど大きい物であり、祖父はその代償として自分の叔母が思い出せなくなっていたと残している。この叔母との記憶とやらがいかに大事だったのか知らないが、ペン先からは動揺が見て取れる。
 つまり忘れるのではない。切り取るのだ。はさみで切るのと同じで、その部分だけを切り取る。つまり思い出そうにもないのだから思い出せない上、前後で覚えてたりするから失ったことが恐ろしくて仕方がない。

 祖父は大切な時計を直すために大切な思い出を失うことに意味があるのだろうかと最後問いかけている。つまりこの魔術を使うからには代償に見合うかどうか考えろと言うのだ。

 俺は本を閉じ、本棚へと仕舞う。助ける方法は見つけた。後は覚悟か。



 「杏、悪いけど今からマックに集まれないか?ちょっと頼みたいことがあるんだ。」



 同じようなことを茜にも言う。ちょっと微妙な時間帯だったが、俺が真面目であったため快く了承してもらえた。

 久しぶりに祖父の来ていたスーツを着る。もしかしたら俺は全てを忘れてしまうかも知れない。安っぽく思われるかも知れないが、祖父のスーツを着ていると祖父が守ってくれそうな気がした。

 義之の命は俺の大切な思い出に見合うものだろうか。俺はずっと考えていた。人の命は確かに何より価値のあるものだ。しかし俺の思い出は俺を俺としたもの。思い出がなければ俺は俺ではない。全てを忘れた俺は今の俺のようになるのだろうか。俺に一番影響を与えた祖父がいない以上、俺は思い出を失えば俺にならないか。ならば俺は今日死ぬ。そう考えると何故かスッキリした。

 思い出を失うから怖いと思うんだ。死ぬと思えばそれほどでもない。思い出は消えるが俺の能力は消えはしない。きっと全てを忘れて生まれた俺は苦労することなく新たな自分として生きていくだろう。戸惑うのはきっと周りの人間。でも生まれ変わった俺も俺であることは変わらない。思い出せはしないが、周りから色んな思い出を語られれば勝手に作り上げていく。きっと生まれ変わった俺は要領が良いだろう。



 「悪いな、急に呼んじまって。」



 二人は突然だったにも関わらず、随分と急いでやってきた。やっぱり最後はこの二人で良かったと心から思った。



 「突然、何?」

 「呼びだしって珍しいよねぇ。」



 二人は何も知らない。それがちょっとした救いだった。二人に泣きつかれたらきっと俺は決断出来ないから。



 「実はさ、俺、音姉に好かれているらしいんだ。」



 俺は話し出した。そしてすぐに叩かれた。



 「今更気付いたの、この鈍感。」

 「気付いただけマシだけどねぇ。」



 どうやら二人はお見通しだったようだ。半ば冗談だったのだが、周りの常識なのだろうか。ちょっと気になるが、話を進めよう。



 「でもさぁ、俺にとって音姉は大切な人の一人なんだよ。よく言うだろ?俺はその人が幸せになってくれればそれで良いって。俺だって音姉と一緒にいて、楽しいし幸せだけど、俺じゃ多分幸せに出来ないって感じがするんだ。」



 そう言うとまた叩かれる。今度は杏だけじゃなくて茜からもだった。



 「祐は調子乗りすぎ。誰でも幸せに出来るなんて傲慢も良いところ。みんながみんな幸せに出来るんなら離婚なんてしないわ。」

 「それに結局それは祐くんが思っていることでしょ?祐くんが勝手にそう思ってるだけであって、音姫さんはそう思わないかも知れないでしょ?駄目だよ、勝手に一人走りしちゃ。」



 二人は真剣な顔で、怒ってるようだった。誰でも幸せに出来るなんて傲慢。幸せに出来ないなんて思いこみ。確かに二人の言う通りだ。全て俺の基準で言ってるに過ぎない。幸せなんて人それぞれだ。俺が不幸に思うものが幸せだと思うものもいる。またその逆もしかりだ。



 「祐は鈍感でどうしようもない人間だから好きとか分からないんだと思う。でも一緒にいたいって気持ちは多分人よりずっと強いはず。もし音姫さんと一緒にいたいと思うのならばそのまま口にすればいいと思う。」

 「祐くんが側にいるだけで幸せって人もたくさんいるよ。だから祐くんは難しいことを考えないで自分の好きなことをすればいいよ。」



 やっぱりこの二人に会っておいて良かった。俺が俺でなくなってもこの二人がきっとどうにかしてくれる。



 「ありがとう。お前達に相談して良かったよ。」



 もう迷わない。俺は音姉達を幸せにするために俺の思い出を支払う。恐れることはない。俺には支えてくれる人がいるのだから。



 「でも急にどうしたの?まさか、音姫さんに告白でもされた?」



 茜が茶化すのを目的にして言ってきた。



 「音姉は少し臆病なところがあるからな。告白なんかしないさ。」

 「それじゃあ、祐が一人で気付いたの?あり得ない。」



 それほど鈍感じゃないと思ってたのに、そこまで鈍感なのかよ。もっと気を遣って生きないとな。次の俺は是非とも鈍感でない人間であって欲しい。



 「義之が言ったんだ。だから俺だって確証がある訳じゃないんだ。人伝って事。」



 確かに好かれているのかも知れないが、あくまで弟としてだと思う。俺と似たようなもので、音姉は好きとか嫌いとか、愛してるとか憎んでるとかがないのだ。良くも悪くも平等で、家族に対して誰よりも優しい。それが音姉なのだ。



 「何だ、驚いて損した。」

 「やっぱ、無理か。」



 二人は呆れたようなことを言ったが、その顔は嬉しそうだった。



 「なんか、嬉しそうだな。」

 「こっちは呆れてるのよ。」

 「その割には嬉しそうだよ。」



 いくら鈍感と言われようと人が喜んでるのぐらい分かる。でもなにによるものかは分からない。精進が足りないな。



 「でも祐が相談すること自体珍しいけど、この時間ってのは尚更珍しいわね。」



 察しが良すぎるのが幼なじみだ。せめて二人には何の責任感も罪悪感も背負わせたくなかった。



 「ちょっと親友との関係を確認したかったんだ。ほらよく恋人が恋人を試すって言うじゃないか。そんな感じだ。」



 例えが悪かったのか、二人に叩かれた。と言うか、お願いだから携帯で叩くのは止めてくれ。



 「嘗めないで貰いたいわね。」

 「そうだよ。祐くんが困ってるんなら飛んでくるよ。二度と試すとかは止めてよね。」



 知ってるさ。二人がどれだけ俺を大切にしているかぐらい。でも俺だってそんな二人が大切だ。



 「分かってる。俺さ、お前達のこと本当に大切に思ってる。試して悪かったな。」



 もうそろそろ行こう。一週間何もするなと言って何もしない人たちじゃない。今日がギリギリ一杯のデッドライン。これを超えさせてはならない。



 「ちょっと祐、変よ?どうしたの急に?」



 やはり気付かれる。もう一刻の猶予もない。



 「今日は夜遅くに悪かったな。」

 「ちょっと祐!」



 杏が止めようとするが、もう俺は止まらない。俺は音姉達を幸せにするために杏達を不幸にするのかも知れない。でも二人は誰よりも大切だからと甘えるしかない。



 「二人ともさようなら。」



 俺は別れを言って、そこから走り去った。後ろ髪引かれると言うのはこれで最初で最後だと思った。








 「やっぱり今日がデッドラインだったか。」



 桜の公園へやってくるとすでに純一さんとさくらさんがいた。二人がどんな答えと覚悟を持ってやってきたのか分からない。ただ俺は俺のしたいことをやるだけだ。



 「悪いけど邪魔はさせないよ。」



 俺の前に純一さんが立ちふさがる。



 「純一さん、どいてください。俺は義之を助ける。」

 「祐一のことだ。あれをどうにかする魔術の一つや二つぐらい残してただろう。だが祐一は俺達のためにしなかったんだ。これは俺達の問題なんだ。」

 「いいえ、俺と関わったことで俺の問題でもある。悪いですけど、俺の邪魔はさせない。」

 「祐一と同じだな。だけどだからこそ君を巻き込む訳にはいかない。」



 視界がぶれた。視線が揺れて、吐き気がする。これは幻術か。



 「目を覚ました頃には全ては終わってる。ゆっくり眠りなさい。」



 このまま眠らせるつもりか。だが嘗めるな。俺は相沢祐一の名を受け継いだ相沢を束ねる者。こんなもので俺はやられない。

 チャンネルをずらし、過去視を発動させる。リミッターを外し、段階をすっ飛ばす。過去視がただ視るものだと思ったら大間違い。この眼は魔術を圧倒する。



 「この眼を見ろ。」



 俺は純一さんと眼を合わせた。一瞬で幻術が解ける。術者が俺の過去視に囚われたからだ。



 「お兄ちゃん!」



 異常事態を察したのかさくらさんが駆け寄った。ここまで飛んできたって事はまだ全ては終わってない。まだ間に合う。



 「安心してください。純一さんは俺の過去視で過去に囚われただけです。」

 「過去視?」

 「最上級の魔眼の一つです。普通はただ過去を視るだけですが、俺は過去を人に視せることが出来る。ただ強引に視せられた者は視せられる過去に囚われる。時間が経てば元に戻ります。辛い過去を視せたわけではありませんから後遺症もないでしょう。」



 一言喋るたびに頭に激痛が走る。過去の人と出会う以上の荒技はもはや俺の能力の限界を超えている。この体の悲鳴は俺が人間であることを教えているのだ。



 「無理はしないで。それは人には過ぎた力だよ。」

 「ええ、現に俺の頭は焼き付くような痛みが走ってる。どいてください。この状態じゃあなたに視せる過去はあなたを壊すほどのものだ。」



 人が最も覚えているのは最も恐れている過去だ。過去視は元々その場の強い記憶に引きつけられ視るものだ。その特性が人に辛い過去を視せる事となる。さくらさんは今と昔も変わらぬ姿でいる。そのトラウマは耐えられるものじゃないはずだ。



 「何をするつもり?」

 「義之を助けて、音姉の笑顔を取り戻す。」

 「どうやって!」

 「祖父が何故俺を純一さんに預けたのか分かります。祖父は俺に見届けさせて、選ばせることにした。助けないと決めた自分と違う答えを選ぶかどうか試したんだ。そして俺は祖父とは違う道を選ぶ。全てを俺が終わらせる。この相沢祐一が人を幸せにしてみせる。」



 それが俺の決意。どんな魔術師も今の俺を止めさせはしない。



 「ボクは君を止める。」

 「そうですか。残念です。」



 スッと地面を蹴って、さくらさんの背後へと回った。さくらさんは俺を目で追うことは出来なかっただろう。



 「自分の大切な人を助けて、自分の大切な人が笑ってくれるなら最高だろ。」



 俺は暴走する過去視を見開き、手を桜へと置いた。過去視により一度したことあることは極限の速さで終わる。桜の願いを叶えるプロセスをジャックし、俺は魔術の詠唱を始める。

 色々なことが思い出される。祖父に多くを学んだこと。杏と出会い、茜と出会ったこと。義之と初めて出会ったこと。相沢らしくない朝倉の家で過ごしたこと。みんなで馬鹿やったこと。杏達と音姉が争うのが嫌だからって女装したこと。そして音姉が俺の前で泣いたこと。

 全てが全て良い思い出だった。だからこそこの思い出で義之を助けたい。大切な人たちの笑顔を取り戻したい。



 「魔術師、相沢祐一が命じる。桜よ、我が思い出を人の形と成せ。」



 俺の思い出が切り取られ、それが義之の形を成したことを確認する。それを義之へと届け、最後の詰めに入る。



 「我が情報を糧に彼の存在を認めよ。」



 魔術は完成した。これで桜が枯れても義之は存在する。もう終わりだ。俺は最後の記憶で桜を枯らせる。



 「俺の大切な人が幸せでありますように。」



 それが俺の最後の願いだった。