KanonをD.CU〜音姫編-支払われた代価〜







 その日の夢は不思議な夢だった。普段から皮肉やすれたことばっか言う弟君がずっと笑っていた。でも何故か私はそんな弟君を視ているのが辛かった。本当に不思議な夢だった。



 「おはようございます。」



 朝起きると珍しくお祖父ちゃんとさくらさんがリビングにいた。二人はちょっと疲れたようにテレビを見ている。なんか騒がしいな。そう思ってテレビを見てみるとそこには見慣れた景色が映し出されていた。いや、見慣れているが少し違う。何処を見ても映るはずの桜が一本も咲いていないのである。

 テレビによると今日の夜頃一斉に枯れ出したらしい。その原因を高名な学者達が調べにやってきてるようだが、普通の学者じゃ原因なんて分かるはずがない。あの桜は魔術によって咲いていた。そして魔術によって散らされた。十中八九、弟君によるものだろう。明日辺り私がやろうとしてたことを先回りされた。やはり弟君からすれば私の行動など単純だったのだろう。



 「そっか。もう全て終わったんだ。」



 私がやらないとならないことを弟君がやった。弟君は本当に優しいから私を苦しめたくないと思って私の代わりにやった。私は何で話してしまったのだろう。こうなることは分かり切っていたはずだ。早く弟君に会いに行こう。そして謝ろう。



 「音姉、おはよう。」



 その声に私は慌てて振り向いた。弟君は昨日からこの家を離れた。もう音姉なんて呼んでくれる人はこの家にはいないはずだ。でもその驚きも現実によって大きな驚きと変わった。弟くんが私を見つめている。その後ろから由夢ちゃんがやってきた。二人ともいつもと変わらない感じで私を見つめていた。



 「ほら見ろ。お前が早起きなんかしたから音姉凄く驚いてるじゃないか。」

 「兄さんが久しぶりにこの家に来たからですよ。私だってたまには早起きぐらいするんですから。」



 二人は私が何故驚いてるか知らない。弟くんは桜が枯れたことで消えるはずだ。まさか、これは夢なのだろうか。私は罪を背負うのが怖くて弟くんがいる夢を見ているのだろうか。



 「音姉、どうした?泣いてるみたいだけど。」



 私の顔を弟くんが撫でる。この暖かさは夢じゃない。夢じゃないんだ。



 「ごめんなさい。もう少しこのままでいさせて。」



 私は弟くんの手をギュッと握りしめた。神様が私の夢を叶えてくれた。こんな嬉しいことは初めてだった。



 「弟くん、体の調子は大丈夫?」



 久方ぶりの三人での登校で私はやっぱり弟くんの体調が気になった。



 「だから大丈夫だって。音姉こそ随分と疲れてるようだけど大丈夫?」

 「私は大丈夫だよ。」



 昨日はずっと調べ物をしてたが、弟くんが何にも変わってなくてホッとしたぐらいだ。そろそろかな。弟君と合流する場所に近くなるとソワソワしてきた。

 なんて声をかけよう。ありがとうって言葉だけで全てが伝わるだろうか。私は何が出来るのだろう。考えれば考えるほど分からないことばかりだ。



 「よっ、祐一。」



 そしていつも通り雪村さんと花咲さんの間に弟君はいた。いつも見慣れているはずなのに、なんだか会うのが気恥ずかしい。私にとって弟のはずなのに、弟君を見てるといつもドキドキしてる。弟君は私になんて言ってくるだろう。ほら、俺の言った通りでしょって自信たっぷりに言ったりするだろうか。



 「おはよう、義之。両手に花で羨ましいぞ。」

 「お前こそ両手に花だろ。」

 「実はトゲトゲしいバラなんだ。今日も朝から...ゴフッ。」



 弟君が二人のことを悪く言おうとしたら雪村さんに肘打ちされた。二人はずっと幼なじみで、誰よりも弟君のことが好きみたいだ。きっとこんな二人と弟君のやりとりを夫婦漫才というのだと思う。

 そしてついに私と弟君の目が合った。心臓が高鳴る。とにかくお礼を言わないと。でも私を見つめる弟君は何だかいつもと違った。



 「音姫さん、おはようございます。」



 それはまるで他人のような挨拶だった。初めての頃と違って親しみが込められてるが、あくまで他人として向けられているもの。雪村さんや花咲さんに向けられているものとは全く違う眼だった。



 「おはよう、弟君。」



 私は動揺が隠せているだろうか。弟君はそんな私に気付いたのか微笑んだ。そっか、冗談か。弟君は人を困らせることが好きだから。



 「義之の前で弟って呼ぶのはどうかと思いますよ。義之と音姫さんの深い関係と比べるのは失礼なことですよ。」



 その言葉に私の色々なものが崩れた気がした。弟君は私のことをずっと音姫さんと呼び、私との距離をいつも一定に保っていた。それほどまでのことを私はしたのだろうか。それともこれが私が背負うべき罪なのだろうか。


 どうやら弟君が私の所から自分の家へと戻ったことで関係を元に戻したというのが周りの考えらしい。元々私が弟扱いしていたことがおかしかったのだと誰もが言っていた。そうだ。元々弟君は弟じゃない。一緒にいたのも2年ちょっとぐらい。付き合いだけ見れば雪村さんや花咲さんの方がずっと長い。

 でもそれでも私にとって弟だったのだ。誰よりも好奇心が旺盛で、一度集中すると周りが全く見えない。でも人一倍周りを見る人で、誰もが幸せであるようにずっと願ってた。私はそんな弟君が好きだから迷惑と思われても世話を焼いた。そしていつの間にか弟くんより接していた。

 みんながみんな私が弟君と付き合ってるものだと思っていた。私が困ったときに弟君は必ずやってきて、私に力を貸してくれた。きっと私の所為で色んな事が駄目になっただろうに一言も文句を言わなかった。いつからだろう。段々と弟としてみられなくなったのは。どの男の子より輝いて見えるようになったのは。



 「音姫、弟君が姉離れしたのが寂しいんだろうけどちゃんと仕事しな。」



 いつのまにか放課後になっていた。どうかしてる。弟くんがいなくなることぐらい覚悟してたのだ。弟君が姉離れしたと思えば大したことないじゃないか。



 「ゴメン、まゆき。他に仕事ある?」

 「とりあえず今日はここまで。いきなり弟君が姉離れしたのは驚いたけど、でもなんだかんだ言って良かったじゃん。これでさぁ、大手を振って告白出来るじゃん。」



 まゆきは気付いてない。ちょっと前までだったら弟君は困った顔をしても受け止めてくれたかも知れない。でも今の弟君にとって私は親友の姉でしかない。告白なんてすればきっと私は他の女の子達と同じように冷たい瞳で拒否されるのだ。



 「まゆき、後は私がしておくから帰って良いよ。」

 「えっ、でも結構あるよ?」

 「大丈夫だから、帰ってくれる?」

 「....分かった。みんな、撤収!」



 まゆきは私が少しおかしいことに気付いただろう。でも今は時間が必要だと言うことに気付いて、みんなを引き連れて帰って行ってくれた。

 どうしてこんなことになったのだろう。私は今の弟君に会うのが怖くて何も聞けなかった。神様、教えてください。

 ドアがノックされた。誰か忘れ物でもしたのだろうか。ちょっとの時間だったら問題ないか。



 「どうぞ。」

 「失礼します。」



 入ってきた人に私の心臓は止まるかと思った。白磁の肌が夕日によって赤く染まり、そしてその眼は憎しみに満ち、私を見つめていた。



 「ごめんなさい。こんなものしか出せなくって。」



 私はみんながただで仕事をしてくれる弟君のためにと用意してくれたお茶を雪村さんへと出す。お茶を入れてる間、雪村さんはずっと無言で、私を見つめていた。



 「ありがとうございます。これが祐のために用意されたって言うお茶ですか?」

 「うん、弟君も気に入ってたから美味しいはずだよ。」

 「祐は味には五月蠅いから。」



 私が知ってることなんて雪村さんにしてみれば常識みたいなものだ。弟君も言ってた。雪村さんと花咲さんは世界で一番自分を認めてくれてる大切な人だって。私の所に来ても弟君は度々雪村さんの家に行っていた。いつも私に世話を焼かれてる癖に、雪村さんの世話をずっと焼いてるのだ。私はこの三人の関係が羨ましかった。いや誰もが羨んでいるだろう。この三人の関係ほど強固なものはないのだから。



 「っで何の話しかな?」

 「祐の話しです。」



 その一言に私はやはり動揺した。分かっていたはずなのに、弟君の名前が出ただけで動揺してしまう。私はきっと隠せていないだろう。だから雪村さんは一層私を睨んだ。



 「昨日の夜、突然電話がありました。何かあったのかと思って慌てて待ち合わせ場所で話を聞いてみるとなんて事ない相談でした。」



 やはり昨日の夜に弟君が桜を枯らせたんだ。でも何故二人に会ったのだろう。いくら二人でも弟君が魔術師なんて知らないはずだ。



 「結構深刻だった?」

 「それほどでもないです。音姫さんに好かれてるんじゃないかとか鈍感発言して、でも幸せには出来そうにないとか言ういつも通りのへたればっかでした。」



 そっか、弟君は私の気持ちのことに気付いてたんだ。私はそんな弟君の優しさにつけ込んだ。なんて浅ましい女なのだろう。



 「祐はやっぱり私達の知ってる祐でした。祐は昔から自分の大切な人が幸せなら言うまでもないって言ってて、私達のことをずっと気に掛けてました。私達はそんな祐が大好きだからずっとそんな祐を見守ってようと思ってました。」



 だから二人は大好きな気持ちを押し込めて接してたんだ。私なんかと全然違う。二人にとって弟君が好きに生きてることが何より幸せだったんだ。



 「だけど昨日は少しいつもと違いました。初めは音姫さんに告白しに行くのかと思いましたがそれも違った。まるで何か決心したような顔で、しかも最後に『さようなら』って言ったんです。いつもだったら『またな』って言って別れるのに、昨日に限って再会の約束じゃなかった。きっと何か私に隠し事してると思った。でも祐が全力を出したら私達じゃ全然追いつけなかった。結局、何故お別れを言ったのか今日分かりました。」



 それは恐らく私のことを他人のように見ていたことだろう。弟くん達は気付いてなかったけど、雪村さん達は気付いていたようだった。



 「あの日、何があったかは聞きません。昨日の話しからして祐があなたのために勝手にやったことですから。だから私は言います。祐はあなたのためにあんな状態になったんです。だからもうあなたは私達の間に入ってこないでください。これ以上.... 。」



 祐を傷つけないでください。そう言い残して雪村さんは去っていった。私は途方に暮れた。やっぱり弟君にだけは話すべきじゃなかったんだ。例え魔術師じゃなくとも弟君は必ず何かしようとした。大切な人を幸せであるのならそれで良い。それは裏を返せば大切な人が幸せであるのなら自分はどうだって良いと言うことだった。私が弟君をあんな状態にしたんだ。私が弟君の側にいて良いはずがない。ずっと弟君のことを見てきて、誰よりも大切に思ってる人こそ側にいるのが相応しいんだ。















 「祐くん、どうしたの?」



 ちょうどそのころ茜は祐一を街へと連れ出していた。杏が何も言わずいなくなったと言うことは話を着けに言ったと言うことだ。茜は杏と違って音姫に恨み言とか言うつもりはない。どんなことがあって、結果こんな状態になったのだとしても祐一にとって音姫が大切な人であった事実に変わりはない。

 茜はむしろ音姫に感謝したい。どんな結果であれ、祐一がこんな状態になってまで何かをするなんて考えられることではなかった。杏はそれが分かるからこそ悔しいのだが、茜は悔しいとは思わない。祐一が望んでいるのなら仕方がない。ただそれを見届けるのが自分の役目だと思っている。だからこうして茜は祐一を連れ出した。せめて祐一が自分で気付くまで不用意に傷つけたくなかったから。



 「いや、ちょっとなんか気になってな。」



 茜は改めて時計を見てみる。予想が間違ってなければ杏が音姫に何か言っている時間帯だ。祐一は鋭すぎるからこんな状態でも大切な人の悲しみに気付いたのかも知れない。それが少し寂しくて、茜は祐一の腕を取った。



 「どうした、急に?」

 「だって、せっかくデートしてるのに他の人のことを考えてるんだよ?普通だったら頬をひっぱたかれてるわよぉ。」



 これはデートだったのか、そんな顔をするのが祐一らしいなと茜は笑ってしまった。



 「おいおい、勝手に連れ出してデートとか言うなよ。俺の意志はないのか?」

 「じゃあ聞くけど私相手じゃ嫌なの?」



 茜の質問に祐一は苦笑いする。祐一は一度たりとも嫌だとは言った事がない。それは強引なことをしてくるはずがないと思っているから。良くも悪くも自分たちはお互いのことを考えすぎている。茜はここ最近ずっと思っていた。

 昨日茜は幸せに出来ないかも知れないと言われたことに対して、それは考えすぎだと言った。でもそんなこと言った茜と杏こそ自分たちの基準で祐一の幸せを考えていた。心の底から愛しているのにそれを表に出すと、祐一がずっと悩むだろうからずっと押しとどめてきた。本当なら毎日街に繰り出して、一緒にショッピングしたり、一緒にお茶をしたりしたい。

 どうしてこんな関係になってしまったのだろう。そう杏がぼやいたこともある。でももう二人には変えられない。変えられるのは祐一だけなのだ。



 「むしろ俺が釣り合わなくて怖いくらいだ。まぁ、可愛い幼なじみと一緒に街で遊ぶのも悪くない。」



 祐一の返答はいつも変わらない。自分の方がみんなに好かれていてモテていることも知らないで、周りの人のことに関しては人一倍知っている。

 私の方が釣り合いが取れてなくて怖いよ。杏と違って茜は祐一の膨大な知識に全くついて行けない。何をやっても茜は祐一に全くついて行けない。でもそのことに対して祐一はいつも笑っていた。茜の人の見る目は誰も持ってない凄い才能だよと褒めた。でもそれがどれほどのものか全く分からない。二人きりになれば一層自分が小さい存在に感じた。

 そんなときドンッと頭が叩かれた。いや、叩かれたのではなく、祐一が額を合わせたのだ。



 「また何か変なことを考えてるんだろ?茜は昔っから変なこと考え過ぎなんだよ。デートなんだろ?なら楽しまないと駄目だぞ。」



 そう言って祐一は微笑んで、顔を離した。茜は顔が熱くなっていくのを感じる。好きな人がいきなり顔を近づけて、それでいて自分が悩んでいたのを一発で見抜いた。

 これだから私は好きなんだ。茜は祐一の誰よりも身を案じてくれるところが好きだった。大きくなってみんながみんな自分の体に目が行くのに、祐一がいつも見るのは本当の自分だけ。こうやって歩いていても祐一がいつも見ているのは自分だけだった。



 「ねぇ、祐くんは楽しい?」

 「楽しいって言えばお前は楽しいって答えてくれるのか?」



 祐一は楽しんでいる。それは茜も知っている。相変わらずちょっと意地悪だな。でもそんな祐一が好きだった。



 「楽しいよ。」

 「じゃあ、楽しもうぜ。」



 そして祐一は茜の手を持って走り出した。音姫には悪いことをした。あのままであれば恐らく祐一は音姫を選んでいただろう。でも今はこうして目の前にいる。この幸せを手放したくなかった。