KanonをD.CU〜音姫編-微笑みに届く道〜
魔術の世界は等価交換が基本だと母に教わった。魔術師を監視する使命を負った以上、魔術師を殺すことも魔術師に殺されることも仕方がないと思っていた。
でも誰かが幸せになることにまで代償が必要だというのだろうか。私が幸せになることで誰かが不幸になる。それも仕方がないと思うことだって出来る。しかしただ人の幸せを願える人が不幸になることだけは仕方がないとは思えなかった。
手術室の電灯が消えた。私達は一斉に立ち上がり、そのドアが開くのを待つ。それがどれほど長かっただろう。現れた医者に私達は駆け寄った。
「落ち着いてください。すぐに説明しますから。」
医者は困ったように私達を引きはがした。誰もが息を呑む。私はその言葉を聞きたいけど、何故か聞くことがとても怖かった。
「あれほどの大事故の割に比較的怪我はありません。両腕はかなり折れていますが、元に戻るでしょう。後はそれほどではありませんね。」
その医者の報告にみんながホッと胸を撫で下ろした。でも何故だろう。喜ぶべき事が喜べないのは。
それから私達は一度帰って、後日見舞いに来ることになった。誰もがやはり車に轢かれた程度じゃ死なないのだと笑った。でも逆に考えればそうやって笑うことしかホッとすることが出来なかったのだと思う。誰も最悪を考えることはしたくなかったのだ。
でもそれから弟君は目覚めることはなかった。枯れたはずの桜が咲き、もう枯れたというのに一向に目が覚めない。医者も原因が分からないと匙を投げた。科学ではどうしようもない。そう思い、私は弟君の家に行った。私の家にはほとんど魔術書は残ってない。弟君ならばあると思った。
「残念ですけど、こっちですよ。」
驚くことに弟君の部屋には花咲さんがいた。昨日からずっとここにいたのだろうか、土曜日なのに制服を着てる。
「やっぱり来たんですね。」
いたのは花咲さんだけでなく、雪村さんもだった。二人とも その手には魔術書を持ってる。まさか二人とも魔術師なのだろうか。
「え〜、言っておきますけど私達は魔術師じゃないですよ。私は結構知ってますけど、杏は全く分かりませんから。」
そう言ったのは花咲さんだった。魔術師じゃない。では何故その手に魔術書を持ってるのだろう。
「茜、一休みしましょう。」
「おっけ〜。」
そして私は雪村さんにリビングに案内される。弟君の家はやはり弟君の部屋と同じで実用的ありきの家だった。ただ本人も言ってただけあって、こだわりが強くて、一つ一つの物が高価であるのは一目で分かった。
「インスタントでごめんなさい。」
「ありがとう。」
花咲さんはコーヒーを並べて、雪村さんの隣に座った。
「何というか、私がバレちゃったんですよね。本当はこっそり一人で調べようと思ってたんですけど、杏にはバレちゃったみたいで。」
「えっと...花咲さんは魔術師なの?」
「魔術師と言うより魔術使いって奴ですか?まぁ、祐くんのお爺さんに教わったんだと思ってください。」
弟君が言うには弟君の祖父と母は元魔術師らしい。魔術師であることが嫌になって辞めた弟君の祖父が花咲さんに教えたとは思えないが、それには深い事情があるのだろう。それに今は関係ないように思えた。
「結論から言わせて貰うと祐くんの魔術は音姫さんでは全く使えません。」
「でも私だって魔術師だから。」
「魔術師ではなく見習い魔術師の間違いではないですか?論より証拠。この魔術書を読んでみてください。」
そして花咲さんに魔術書を手渡される。私だって母が亡くなっても勉強してきたんだ。独学とは言え、基本ぐらい出来る。
そう思って魔術書を開いて愕然とした。私の読んできた魔術書とは全く違う。いや、その前にこれが魔術書であるか疑わしい。描かれているのはルーン文字でもなければ象形文字でもない。漢字をより複雑にした図形のような文字だ。
「音姫さんも聞いたと思いますが、祐くんの魔術は魔術の解読と解析です。でもそれは魔術を一種のプログラムとして見ることから始まるんです。そしてそこに描かれているのはそのプログラムでその難解な一文字に高度な情報が含まれてるんです。」
これが弟君の魔術書。確かに弟君は自分を一人前だと言っていた。それでも何処か侮っていたのかも知れない。魔術師としては自分の方が勝ってると。でもあの桜の問題を解決したのは他ならぬ弟君だ。やはり私とは全く違う次元だったのだ。
「ちなみにそれは祐くんが義之くんを助けるために用いた『情報変換魔術』の禁術。思い出を代償に対象を存在させる魔術です。」
これがあの弟くんを助けた魔術。禁術と呼ばれるだけの物だったのは身を以て体験している。これがあったから弟君は失ったのか。
「じゃあ、この魔術を使えば弟君を助けられるんだね?」
その問いに花咲さんは首を振った。
「祐くんには悪いですけど私もそれをやってみようとしました。でもそれは私が考えてたよりずっと難解なんです。恐らくこれを読めるのはこの文字を文字と見ない人。お爺さんか祐くんぐらいだと思います。」
それじゃあ、この手段も無理なのか。最後の希望が無惨に崩れ去った。
「でも安心してください。もう方法は分かってるんです。」
何とかなる。そんな言葉の割に花咲さんの顔は晴れない。何か問題があるのだろう。
「どういう魔術なの?」
「祐くんの魔術で魔術師が最も聞き取りやすいに話すって魔術があるんです。それに情報の変換の初歩を応用することで眠っている祐くんに直接話しかけるんです。」
聞くだけ聞いた限り難しそうには思えない。花咲さんは弟君ぐらいの初歩魔術ぐらいは使えるのだろう。
「でも一つ問題があるんです。情報の変換って全て脳で行うんですけどこれって普通の脳じゃ耐えられないぐらいなんです。知ってます?祐くんって本気を出せばスパコン以上のことが出来るんですよ?」
つまりそれぐらい出来ないと耐えられないって事なのか。弟君が数学の時答えから導いてたのは先に答えが出てしまったからだったのだろう。
「じゃあ、出来ないの?」
「色々調べたら分散はさせられる見たいなんです。ほら一つのコンピューターでやるより複数のコンピューターを使った方が計算は速いって言うあれです。だから問題は分散されても耐えられるかって事なんです。」
「出来ないの?」
「う〜ん、これは論より証拠かな?音姫さん、簡単な情報変換の分散ですけど体験してみてくれます?」
花咲さんに言われるまま手を伸ばす。そんな簡単にできるのならすぐにすればいいのに。そう思ってると花咲さんの体が淡く光った。そして途端激痛が走った。
それはまるでエンジンが壊れるのを覚悟で動かしてるかのようなイメージ。私の知らない公式やら術式が浮かんでは消える。
バッと突然痛みが消えた。雪村さんが花咲さんに飛びついてソファーから倒れてる。そっか、止まったのか。
花咲さんも私と同じなのか頭を押さえてる。
「今のが今回やろうとしてたことの二分の一の計算量です。杏が止めてくれなかったら危なかったかも知れませんよ。」
確かにあのまま続けばどうにかなると持った。これが私達と弟君にある溝。埋まるとか埋まらないとか言うレベルじゃない。
「弟君はこんなのを日常的に使ってるの?」
「お爺さんは祐くんほどこの魔術を扱うに優れた存在はいないと言ってました。難しい問題も理解すれば圧縮出来る。同じ事を祐くんがするとしたら私達が数字を数えるくらいの労力のはずです。」
他人の魔術は相容れないものと聞くが、ここまで相容れない物があるとは知らなかった。私はせめて気分でも変えようとコーヒーを飲む。でも全く味は分からなかった。
「私達は一週間後にやるつもりです。参加されるのなら覚悟は決めておいてください。」
花咲さんは最後、そう言って締めくくった。例え三人でやったとしても味わった1.5倍の痛みを味わう。参加すると言うことは廃人を覚悟してください。花咲さんが言わなくともそう聞き取れた。
果たしてそこまですることなのかと思われるだろう。人一人助けるのに三人も廃人になっては効率が悪い。まして話しによればあれには次の段階がある。最悪助けずに廃人となる可能性だってある。
そもそもこんなことをせずとも弟君が起きあがってこないという訳ではない。医者は確かに治ってると言った。脳にも損傷がなく、理論上今すぐに起きてきても不思議じゃないと。それを待つことも悪い事じゃない。10年、20年経とうと私の弟君に対しての気持ちは変わらない。これも一つの決断だと思う。
「音姉、祐一はどうだった?」
家に帰ると弟くんが来ていた。あれから弟くんと由夢ちゃんの仲も微妙にぎくしゃくしてる。気持ちは分かる。私もそうだったから。自分の幸福が弟君の不幸で成り立ってると思いたくないのだ。
「特に変わった様子はなかったかな?ああ、髪が伸びてて女の子っぽくてちょっと驚いた。」
「アイツは女顔だもんな。今度写真でも撮っておこう。」
弟くんは笑うが、いつもの元気さはない。私はそれが見てるのが辛くて、自分の部屋へと戻った。弟君がいなくて全てがおかしくなってる。この世界が夢に思えてくる。
本当にいつからだろう。私の中で弟君の存在が大きくなったのは。出会いは弟くんが倒れてたのを運んできたとき。初めて見たとき女の子と思うぐらい線が細くて、顔が綺麗で、それでいて存在感が儚かった。不思議とお祖父ちゃんが新しい家族だと言っても違和感などなかった。本人は驚いてたようだったけど、私は『弟君』と呼ぶことに対して全くの抵抗はなかった。
でも適わないなって思ったのはそれからすぐだった。自分の方がずっと先輩なのに、難しいことばかり知っていて、誰も出来ないことを平然とやった。『何でも出来ると思ってるところが鼻につく』って陰口を叩く人もいるけれど、事実弟君が出来ないことを探す方が難しい。しかし弟君はいつも謙虚で、人を褒めてばかりだった。こっちが謙遜すると怒ってくるぐらい他人を認めることが出来る人。どういう訳か私は随分と褒められてた気がする。だから私は良い姉であるように頑張ってきた。
好き、と意識するようになったのはクリパの後だった。確かにその前まで弟として意識出来なくはなっていた気がするが、その日が決定的だった。人を幸せに出来そうにないと言った弟君が見せた弱さが堪らなく愛おしかった。正直、私にとって弟君はスーパーマンだった。何でも出来るのに謙虚で、大切な人のために何か出来る素敵な人。でも本当は違った。弟君にだって弱いところがある。人を幸せに出来ないって弱さを一緒にいることで解決出来ると思った。弟君は私を突き放そうと思って言ったつもりだったのだろうけど、逆に私を惹きつけた。
由夢ちゃんが弟くんの恋人になったことで、私は自然と弟君と接する機会が増えた。弟君は少し引きずってるみたいだったけど、いつも通り声を掛ければいつも通り優しく返してくれた。確かに私は問題を抱えていた。それはとても辛い問題だったけど、弟君と一緒にいることで楽になれた。この人だったら悩みながらも答えを探すはずと自分を勇気づけた。そして魔術師だと知られて、魔術師だと知ったとき私は心から喜んだのだ。私にとって魔術師であることは今まで弟くんしか知らない重要な秘密だから。それを知られたって事はそれだけ知ってもらえたって事になるから。でも私はすぐに後悔する。その安心こそが後に記憶を失わせたのだと。
記憶を失った弟君と接するのは本当に辛かった。今まで姉と慕ってくれてたのがいつの間にか親友の姉に変わっていた。雪村さんが怒鳴ったのも無理がなかった。あんなに変わり果てた大切な人なんて誰だって見たくない。謝ったところで何の意味もなさない。背負った罪をどうして償えばいいか分からなかった。
記憶を失った状態でも音姉と呼んでくれることになった。嬉しかったが同時にあの日のことを何度もフラッシュバックさせた。私を姉と慕うことで再び不幸にするのじゃないかってずっと思っていた。それでもやはり私にとって大切な人だった。もうどうしようもないぐらい大切な人だった。
「そうだ。私にとって大切な人なんだ。」
何故私は自分の大切な人のために何もしないのだろう。あの人は自分の大切な記憶を失ってまで誰かを幸せにしようとしたのに、私は何にもしない。
「音姉、どっか行くの?」
「何かあっても心配しないでね。」
私は家を飛び出し、自転車に飛び乗った。私より大切に思ってる人が一週間も何もしないとは思えない。覚悟を決めてくださいって聞いたって事はもう自分たちの覚悟は決まってると言うこと他ならない。あの人は記憶を全て失うとしても平気でやった。あの二人とて全てを失うと思ってもすぐやるに違いない。
「花咲さん、雪村さん!」
私が病室に飛び込むと今まさにやろうとしてた瞬間だった。私はすぐに二人の手を弟君から剥がす。そして私は漸く一息ついた。
「茜の演技力不足ね。」
「え〜、助演女優賞ものだったでしょ〜。」
やはり二人は私の思った通り今日中にやるつもりだった。間に合って良かったとホッと胸を撫で下ろす。
「正直、ちょっと意外でした。祐をあんなことにした音姫さんが微妙な茜の演技だったとは言え、私達の行動を見抜くなんて。」
私は花咲さんの演技なんて見抜けなかった。ただ私は弟君ならばこうするはずと思って気付いただけ。
「弟君なら方法が分かったらすぐやるでしょ?弟君の一番大切な人たちも同じだと思っただけだよ。」
私の言葉に雪村さんはどこか諦めたような顔をし、花咲さんは苦笑いした。
「祐くんが記憶を失ってまで幸せにしたかった人だから出来れば参加させたくなかったんです。」
「全員が共倒れした状態で祐が目を覚ましたら自殺するのは目に見えているからね。」
弟君ならば犠牲の下に成り立つことを決して許さないだろう。だからああやって突き放すようなことを言ったのか。良くも悪くもこの二人は弟君と一緒なんだ。
「大丈夫だよ。みんなでやれば何とかなる。為せば成るって思わないと。」
「為せば成るか。何でも出来る祐が考えてることと一緒ね。」
「でもそう思ってやることは間違ってないよね?」
私の一言に二人は眼を合わせて笑い出した。何かおかしいことを言っただろうか?
「やっぱり血が繋がってなくとも姉なのね。」
「頭良いのに根拠は適当なんだよね。」
確かに弟君って頭良い割に何か始めるのって適当かも。失敗しても何とかなるってばかり言ってた。
「じゃあ、簡単な役割なんですけど。」
始める前に当たって花咲さんの説明が入る。どうやらただ分散するって訳じゃないらしい。
「杏はこの中で一番計算力が高いから主力ね。ちょっと厳しいけど、早く終われって思ってればドンドンと計算出来ると思う。それで私は魔術の行使。まぁ、私しかこれは出来ないね。」
「私は?」
「音姫さんはその次の行程をお願いします。」
「次の行程というと?」
「祐くんの意識のサルベージです。」
サルベージ。重要なところを私が引き受けるのか。
「分かった。私が弟君を絶対見つけてくる。」
「祐のことだから調子に乗って何かやってると思います。しっかり叱って連れて帰ってきてください。」
「あまり怒るとへこむからほどほどにお願いしますねぇ。」
そして私達は手を合わせた。力を合わせれば絶対助けられる。その意志は互いの手から感じ取られた。
「私が上手い具合分散させるけど並大抵の痛みじゃないわ。でも頑張って。」
花咲さんの言葉に私達は頷く。そして私は一息ついて、目をつむった。そしてあのときと同じように鋭い痛みが走った。頭が割れる。でも私より雪村さんの方が辛いはず。こんなの弟君の痛みに比べれば大したことない。私は弟君を絶対助けるんだ。
すると頭の痛みが消えたと同時に景色が変わった。まさかここが天国だというのだろうか。私は弟君を助ける前に死んだというのだろうか。
「祖父さん、教えてくれ。俺は魔術師にならないといけないのか?」
その声は突然、後ろから聞こえた。振り返ってみると急に景色が広がる。ここは弟君がよく行く高台の公園だ。そこに少年と老人がいる。いや、どちらも見たことあるような気がする。二人とも弟君に似てるんだ。
「お前は魔術師になりたいのか?」
「母さんはなるもんじゃないって言ってた。」
「それはお前の母の意見だろ?お前はどうなんだ?」
「俺はよく分からない。過去視は色んな物を見せてきた。人がいかに愚かで、人を殺すことがいかに仕方がないことか俺は知っている。魔術師は悪とは言い切れない。その力で人を幸せにだって出来るはずだ。」
やっぱりこの少年は弟君だ。するとその前で笑ってる老人が度々話しに出てくる弟君のお祖父さんなのだろう。しかし何故こんな光景を私が見てるのだろう。ここは弟君の記憶の世界なのだろうか。
「お前の過去視は父や母の持つ魔眼よりずっと上位に存在する強力な魔眼だ。魔眼殺しで封じなかったのはお前自身に強力な魔力があったからだ。お前には魔術師としての天賦の才がある。その可能性を無駄にするのは出来なかった。」
お祖父さんは遠い目で弟君を見ていた。弟君が魔眼持ち。それは私も知らなかった。魔眼とは異能中の異能。高レベルの魔術をシングルアクションで可能と出来る。そしてその魔眼の中で時を超える物は最上級と言われる。そんな強力な物を持ちながらまともでいられることは信じられないことだ。
「俺が魔術師を辞めたのは根源を求める魔術師の存在意義に疑問を覚えたからだ。そもそも俺は学者になりたかった訳じゃない。俺が欲しかったのは人を守るための力だ。」
「人を幸せにするために力は必要か?」
「力は必要だよ。お前も人を守りたいならとにかく強くなれ。お前の父のように人をためらいなく壊せる技術を身につけ、その過去視を使いこなせ。良心も良識も自分の信念のために捨て去れ。」
言ってることがやはり弟君に似てる。何故あんなに色んな人がお祖父さんのことを言葉に出すか分かる。この人は弟君よりずっと前に弟君と同じようなことをしてたんだ。
「過去視も魔術も全てお前の信念を達成させるための力でしかない。強くなれ。どんな人間、どんな存在よりずっと強くなれ。」
「答えになってないぞ?」
「迷え、迷え。お前と俺が同じなのは名前だけだ。俺と同じ道は歩むなよ。」
その一言で景色は変わった。次現れたのは弟君と血だらけの人間だった。
「流石、相沢祐一だな。人を殺すにもためらいもない。」
よく見てみると弟君の服は真っ赤に染まっていた。まさか、そんなの嘘だ。でも目を瞑っても見える。私には見ることしか許されない。
「許してくれとは言わない。お前は死んでないと行けないんだ。分かるだろ?」
「ああ、分かってるさ。俺は愚かにもお前の祖父に挑み、殺された。お前が生まれる前に死んでいた。」
弟君に掛かっていた血が消えていく。まるで掛かっていたことが嘘かのように消えていった。
「だが悔しいな。一時とは言え、生を受けたというのに今度は同じ名前の男に殺されるとは。私の知っている相沢祐一は確かに強かったが、甘い男だった。だがお前にはそんな甘さなど全くない。よくもそこまで冷酷に人を殺せるものだ。」
男は笑うが、弟君はずっと冷たい目で見下ろしていた。これが私の知らぬ弟君の魔術師としての姿。弟君はもう人を殺すことも出来るんだ。
「人殺しが悪だというのなら俺は悪で構わない。お前を生かしておけば俺の家族に害をなした。俺の大切な物を傷つけるというのなら俺はこの力を使うことを躊躇わない。」
「そうか。私の死はお前の大切なものと出会ったときに決まってしまったのか。」
男は疲れたように息をついた。すると体がドンドンと透けていく。
「消えろ、過去の亡霊。彼岸の先にて我が強さを誇れ。」
「あはは、我を生んでは殺し、最強を詠わせるか。ならば詠ってやろう。次、お前の過去視により甦った者がお前の大切な者を傷つけるように声高く詠ってやろう。忘れるな。お前の魔眼は死人すら甦らせる。過去に縛られろ、相沢祐一。」
そして男は霧のように消えた。弟君がコートを翻す。
「まだ力が足りないか。だが使いこなして見せる。大切な人を傷つけてなるものか。」
弟君はそう言って倒れた。私は弟君という人間を何も理解してないのかも知れない。大切な人のために弟君は人殺しだって躊躇わない。例え私が見たのが過去視によるものだとしてもたまたま生きてない人間を殺しただけで、もし実際に生きてた人間でも結果は変わらないだろう。
弟君にとって大切な人を守ると言うことは何よりも優先すべき目的なのだ。私達と覚悟が違う。
「またアンタか。」
弟君は崩れても気を失ってなかった。現れた老人、よく見てみるとお祖父さんに対して笑った。
「勘違いするな。俺はアンタを恨んでない。確かにコイツは厄介だ。最近は死んだ人間すら甦らせてくる。でもな、こんな力も使いこなせば人を幸せに出来る。」
お祖父さんは哀しい眼をし、弟君は舌打ちを打って、立ち上がった。
「こんな力を持つ俺は人を幸せに出来ないかも知れない。でもこの力で不幸を減らすことは出来るかも知れない。」
やっぱり弟君の言ってることは変わらない。本当にそれだけなのだ。
光景が変わる。今度は何を見せられるのだろう。私は弟君の何を知らないとならないのだろう。
「おや、お客さんとは珍しい。」
真っ白な所に一つのテーブルと二つの椅子があった。そこにいた青年が私に気付いてよってきた。
「弟君?」
「残念ながら僕は相沢祐一ではないんだね。この姿は仮物さ。」
そう言って少年は私を席へと案内した。少年は私が座ると手からティーポットを取り出し、いつの間にか置いてあったカップに注いだ。
「あの、私は弟君を助けに来たんですけど。」
「知ってるよ。君達は情報の変換の初歩を応用して精神に話しかけようとした。でも残念だね。この子にはあらかじめ強力なプロテクトが掛けられてるんだ。その方法じゃ逆に始末されるんだよ。」
「えっ!」
私が立ち上がるとテーブルが揺れ、カップの入っていた紅茶が溢れた。少年が指を揺らす。するといつの間にか私は座ったままで紅茶も溢れてなかった。
「大丈夫。万が一のために僕が君達を通してあげたから。そうそう君の友達と君自身だけど、今はぐっすり眠ってるよ。もう少しすれば起きるかもね。」
少年はにっこり微笑み、紅茶を飲んだ。この少年は何者なんだろう。弟君の姿をしてるけど全く違う。何というか弟君と違って人懐っこい。弟君がこんな性格だったら学校でモテてモテて仕方がなかっただろう。
「自己紹介がまだだったね。僕の名は過去視。魔眼の中でも上位に属する人が持つには大きすぎる力。それが僕。」
「過去視!」
「擬人化ってあるだろ?僕は祐一によって生み出された人格のようなもの。まぁ、彼のイメージは強いからね。過去視という能力は僕という形で生きてるようなもん何だよ。」
そして微笑む。何だか理解出来ないところにある。魔眼の能力ってここまで常識外なのだろうか。
「それで私は弟君を助けに来たんですけど、どうすれば良いか知りませんか?」
ここまで人格化されているのなら知っていてもおかしくない。でも私はこの人を信用して良いのだろうか。過去視は弟君をずっと苦しめてきた。もしかしたらこの人が望んでやっていたかも知れないのに。
「それは少し難しいねぇ。彼は今処理におわれてるからね。」
「処理?」
「あ、そうか。君達は知らないんだね。彼は一度死んだんだよ。いくら彼でも何の強化もなしの状態でトラックに轢かれれば死ぬさ。」
「えっ、でも骨折ぐらいしか怪我はなかったって。」
「そこが彼の本当の恐ろしいところさ。人間って死んだら終わりって訳じゃないんだ。ほんの刹那だけ死んでても何か出来る瞬間がある。彼はその瞬間で僕を使った。彼は自身の過去を体現したんだ。」
話がよく分からない。死んでも過去視でどうにかしたって事なんだろうか。
「まぁ、分かり易く言うと凄い力を使って生き残ったものの、その処理に終われて起きることが出来ないのさ。」
「そう言うことなんですか。じゃあ、どうすれば良いんですか?」
「君はせっかちだねぇ。いつかは起きるさ。それで納得しなよ。」
弟君は生きてる。ただ今はその処理をしてて、終われば起きる。そんな説明で納得出来るのならここまではしない。
「嫌。私はみんなに弟君を連れて帰ってくるって約束したんです。」
その私の言葉に少年は笑い出した。
「やっぱり君は恐ろしいほど自己中心的だね。」
「私が?」
「だって君がもっと迷わなければ彼は記憶を失わずに済んだ。君が笑顔を取り戻していれば彼は花火を打ち上げるために貴重な睡眠時間を削らず、あの事故だって何とかなった。君はねぇ、知らず知らずの内に彼を追い込んでたんだ。」
ドクンっと心臓が高鳴った。思わなかった訳じゃない。ただそう思ったところでどうしようもないと目を背けていた。
「本来の彼の力を持ってすれば義之を助けることも大事な記憶を失ってまでのこともなかった。何たって彼は時折暴走させるとは言え、僕を使いこなせている。桜の本来の状態の過去を体現させ、それが世界に修正されないように魔術を施していく。それで義之は生き残れた。僕が思うにこれが理想だ。」
「じゃあ、何でその手段を執らなかったんですか?」
「僕だってすぐに考えられたことだから彼も三日もあれば考えることが出来た。でもそこで君がやってくれた。君の目的は義之を助けることより、桜を枯らせることだった。だから彼は桜を枯らせて、義之を助けることを優先させた。笑えるよ。君が桜を枯らせたいと言う気持ちを優先しただけに、あんな事態となった。」
そして少年が私を指させた。
「君はね、彼のことを知らなすぎる。だから君に見せてやったんだよ。彼の背負った宿命を。君は僕の力を肩代わり出来ると思ってるのかい?」
そして再び私の頭の中に弟君の記憶が流れ出した。あれは一端だった。弟君はあれより数倍凄惨なこともしていた。
「彼の愛は無償の愛に近い。それを支えるのは本当の無償の愛でなければならない。君は耐えられるか?」
耐えられるか?いや、私はきっとこんなのに耐えられない。
「確かに私は自己中心的だった。私がもう少し気をつけていればあんなことにならなかったかも知れない。」
私は知らなかった。弟君がどれだけ私のことを大切に思っていてくれたか。私は恐らく弟君ほど大切には思ってなかったかも知れない。
「でもだからこそ私は弟君を助けたい!私だって弟君を幸せにしてみせる!何年も待つのは嫌!色んな事をして、嫌われることも、喧嘩することもあるかも知れない。でもそうやって幸せは生まれるの!」
意志を固め、迷いを振り切る。私は弟君を助けて、幸せにしてみせる。
「無理だよ。彼はただの天才じゃない。化け物すら圧倒する力を持った人の形をした化け物だよ。」
「そんなの関係ない!弟君は私の大切な人だもん!」
魔術師とか、化け物とかそんなの弟君の一面でしかない。関係ない。だって全部で弟君なのだから。
「君のエゴが彼を傷つけた。僕は君が信じられない。」
「でも信じて!」
「そう言うのが信じられないって言うんだよ!」
初めて少年は顔に怒りを露わにして拳を振り上げた。殴られても良い。彼は本当に弟君を心配してるだけだから。
「そこまでだ。」
その声は聞き覚えのある声だった。
「祐一!」
目を開けるとそこには弟君が立っている。私と目が合うとにっこり微笑んだ。
「無茶無理は俺の専売特許だったと思ってたんだけどなぁ。」
やっぱり弟君だ。私は懐かしくて抱きしめた。
「ずっと心配してたんだよ?」
「そうだな。悪い、悪い。」
そして弟君が私をギュッと抱きしめた。あの日と同じだ。弟君はいつだって私を優しく抱きしめてくれる。
「祐一、無茶無理ならば良い。でも今回ばかりは止めてくれ。ゆっくり時間を掛けて、死を乗り越えるんだ。でなければ僕は死をも理解することになる。君だって分かってるはずだ。死を理解すれば甦る人間は今までと比べものにならない存在感を持ったものとなる。」
「安心しろ。俺はもう二度とお前を暴走などさせない。」
「それは無理だ!」
「今回ばかりは根拠があるんだ。」
弟君は笑い、指を鳴らした。すると一斉に桜が咲いた。
「これは枯れない桜!」
「気付いたら取り込んでいたようだ。そしてこの桜がお前を決して暴走させないという俺の願いを叶える。」
「こんな方法で僕が何とかなると思ってるのかい?」
「何とかなるというか、何とかしてみせるんだろ?安心しろ。いずれ桜に頼らずともお前を使いこなしてみせる。約束だ。お前は絶対に不幸な力にさせない。」
弟君は強い意志で少年に微笑んだ。そっか、何故少年があんなに弟君を心配してたか分かる。弟君にとって過去視は忌むべき力ではなく、自分を形作る大切な力なんだ。少年はそんな弟君に応えようとしていただけなんだ。
「分かったよ。今は桜の願いに身を委ねよう。」
「ありがとうな。しばらく迷惑を掛けるが、気にするな。」
「知ってる。君は世界で一番意地悪な人だ。」
「言い過ぎだ。」
「言い足りないぐらいだよ。」
少年が微笑むと姿が少しずつ消えていった。
「たまにはこうやって会えると嬉しいな。」
「頼み事が多い奴だ。たまには会いに来てやるさ。」
「ありがとう。それじゃあ、またよろしくね。」
「ああ、これからも頼むぞ。」
すると少年が消えた。
「さてと戻りますか?」
まるで旅行から帰るかのように、弟君は気楽に言う。ちょっと待って。確か弟君って膨大な計算をしてる最中って言ってたよね?本当に連れて行って良いの?
「弟君、大丈夫なの?」
「何が?」
「だってもの凄い計算中だったんでしょ?」
いざとなると臆病になってしまうのは私の意志が弱いからかも知れない。でもそんな私の頭を弟君は撫でた。
「音姉は心配しすぎるのが悪いところだ。こう見えて結構色々大丈夫なんだぞ?」
「そんなの信じられない。ずっと無理ばかりしてきたのは弟君だよ。」
「ま、そうか。ゴメンな。こんな危ないことまでさせちゃって。」
危ないことをしたのは弟君が先だ。でもあまり言うとしつこいかも知れない。
「まぁ、難しいこと考えないでとにかく外に行こうか。」
「本当に、本当に大丈夫なの?私は何年だって何十年だって待ってるよ?」
「何だ、俺が起きるのが嫌なのか?確かに不真面目で、女たらしの不肖な弟だとは思うが。」
「そう言う事じゃなくて、弟君はすぐに無理ばかりするから心配なの!」
「だから大丈夫だって。アイツは何を言ったか知らないけど、どーんと構えててくれよ。俺はさぁ、音姉がのびのびしてるのが好きだ。音姉は好きなことをしてて欲しい。音姉はここに何をしに来たの?」
私は弟君を連れ出しに来た。
「私は弟君を連れ出しに来た。」
「そうだろ?迷いそうになったら初心に帰るんだ。さぁてと帰りましょうか?」
「うん!」
二人で一緒に一歩を踏み出す。するといつの間にか私はベッドに伏せていた。顔を上げてみると弟君の病室だ。私の隣には花咲さん、向かいには雪村さんが寝ている。
「なかなか壮観だな。」
振り向くとそんな私達を弟君が見つめていた。
「おはよう、音姉。」
先ほどと違うけど、間違いなく弟君だ。私が手を伸ばすとそっと手に取ってくれる。相変わらずその手は冷たい。心が冷たいからって言ってたのを思い出す。
「おはよう、弟君。」
私はきっと泣いているだろう。弟君は笑ってて言うと思うのに、どうしても笑えない。
「おいで、音姉。いっぱい泣いて良いよ。」
弟君が両手を広げる。甘えちゃ駄目だ。でも私の体は自然と弟君の体を抱きしめていた。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ。」
弟君は優しく抱きしめてくれる。私はめいいっぱい泣いた。色んな事を思い出して泣いた。そして最後はやはり弟君が目の前にいることが嬉しくて泣いた。
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