愛と喝采の日々 2
結局クラウスはサンドイッチを二切れとグラタンを半分くらい、それにメロンやブドウを摘んでいた。
『まあ、よく食べた方か』
疲れていて食欲がなくても少しずつなら食べられるだろうと「ちょっと食べてみるか」とグラタンを取り分けてやると「お
いしい」といって嬉しそうに食べていた。最初からそのつもりで取ったグラタンだったから、自分の空腹が満たされなくて
もクルガンとしては全く構わなかった。
『しかし小学生でも低学年だな、これじゃあ』
まさか自分がここまで面倒見のいい人間だとは思ってもいなかった。そう思っていると紅茶を飲みながらクラウスがち
らちらと時計を気にしている。
「時間、いいんですか。もう薬を飲んで寝ますから、みんなの所に行ってあげてください」
「別に遠慮をすることはない」
「でも、また迷惑かけちゃうし」
「誰が迷惑だなんて言ったんだ。何度も言ってるが誰もそんなことを思っていない」
するとクラウスは思いきったように口を開いた。
「本当にこのままデュナンにいてもいいんですか」
「馬鹿な心配をするんじゃない。お前は大事なメンバーなんだから堂々としていればいい」
「…クルガンが私をスカウトしてくれたから、だからそういう風に庇ってくれるんじゃ」
「俺はそれほど甘くはないつもりだ」
キッパリ言い切るとクラウスがハッとしたような顔をした。さっきから散々小学生並だなどと思っていたが、クラウスは
馬鹿じゃない。クルガンの言いたいことは分かるはずだ。
「でも、私のせいでツアーの日程も変更になったし」
「日程の調整ならとっくに終わってるだろう。現に今ツアーの真っ最中なんだし」
「あの、だから、会場のキャンセル料とか変更料とか、チケットの払い戻しとか」
クルガンは吹き出した。
「そんなことを気にしていたのか。確かにな。最初は社長も困ったと言っていたよ。だが幸いなことに会場は開いている
日に振り替えることができた。チケットの払い戻しもほとんどなかったし、事務所の損害なんて何もなかったんだ」
「本当に?」
「ああ。それにお前がいなければライブをやっても意味がない。いいか。デュナンは5人のグループなんだ。お前が欠け
たらデュナンじゃない。分かるな」
クラウスは自信なさそうに頷いたが、「余計な心配をするんじゃないぞ」と頭をポンと叩くとやっとニッコリと微笑んだ。
クラウスの部屋を出てから腕時計を見てクルガンはホテルのロビーを駆け抜けた。もう二時間近く経っている。これで
はシードが納得しないだろう。また我が儘を聞かされるんだろうなと思いながら大急ぎでタクシーに乗り込んだ。
クルガンはデュナンがライブハウスを中心に活動しているときから熱心にメジャーデビューを口説いていた。ルック
ス、テクニック、音楽性。どれをとってもプロのアーティストに引けを取る物がない。当然、ライブハウスはデュナンの名
前があるだけで超満員になっていて、いつも入りきれないファンが外で騒ぎを起こしているくらいだったから次第に同業
者の中でも注目を集めるようになっていた。
だから正式に契約を結べたときは本当に嬉しかった。既に頭の中には幾つもの企画があったからクルガンの行動は
早かった。もっとも、それで簡単にマスコミに名前が出るほど音楽業界も甘くはなかったが、デュナンはあくまでもライブ
に拘っていたから焦る必要もなかった。テレビに出ることが必ずしもステータスになる時代ではない。メンバーの希望通
りライブを通してファンを獲得していくことの方が長い目で見たらプラスになるとクルガンも考えていた。
その甲斐あってマスコミに対する知名度は低かったが、ライブの客はどんどん増えていった。だが、そうして活動を続
けて数年、クルガンはいい加減に起爆剤が欲しいと思っていた。いつまでも「知る人ぞ知る」などという存在に彼らを甘
んじさせるつもりはない。
だからずっと考えていたことを試したいと思うようになっていた。それはデュナンにキーボードを入れるという事だっ
た。
元々デュナンはあるキーボード奏者が作ったバンドだったのだ。素晴らしいテクニックを持っていたくせに音楽はあく
までも趣味で、本業を大事にしたいと言って彼はあっさりとやめてしまった。以来四人で活動していたのだ。だから昔の
曲にはメロディーラインの綺麗なキーボードのソロが多かったし、クルガンはそれが好きだった。
だからどこかに良いプレイヤーがいると聞けばライブに行って、密かにキーボード奏者を捜していたのだ。かといっ
て、大っぴらにオーディションをすることは全く考えていなかった。何よりメンバー自身がどう思っているのか確認したこ
とがなかったからだ。
だが何気なく入ったライブハウスで聞いたキーボードに衝撃を受けた。どこか素人臭く、かっちりとしすぎた演奏はロッ
クというには程遠いものだったのに、感性の豊かな瑞々しい音に思いっきり引き込まれた。そしてステージに目をやっ
てプレイヤーのルックスを見て、どうしても欲しいと思ったのだ。あの四人に匹敵する容姿の持ち主など、滅多にお目に
かかれるものではない。
だからステージが終わるのを待って強引に話しかけたのだ。バンドの他のメンバーが警戒を露わにする中でクラウス
本人は意外や素直に頷いた。だからオーディションの日時をセッティングしたのだ。まあ、クラウスの性格が分かってき
た今になって思えば、クルガンの突然の申し出に驚いて断り切れなかったのだと分かるが、当時その事に気付かなか
ったのは幸いだった思っている。
クラウスが加入して、色々なことがいっぺんに好転した。大ヒットを立て続けに出して、今では押しも押されもせぬ人気
バンドだ。さしずめクラウスはラッキーボーイといったところで、一般的にはオリジナルのメンバーだと認知されている。
だからクラウスが引け目を感じることはないのだ。
だが体のことはクルガンも計算外だった。
ある日突然、呼吸困難で倒れたのだ。慌てて病院に担ぎ込むと喘息の発作だと診断された。急激な環境の変化から
くる緊張によるものだろうと医者が言っていた。普段の生活にはまず影響ないということだったが、何となく小さな爆弾
を抱えているような感じがするのは否めない。結局、クラウスの体調が落ち着くまでツアーは一部延期された。
クラウスはそれを気にしていたのだ。それまでも大人しい性格に加えて最年少ということもあって自己主張をすること
はあまりなかったのだが、ますます周囲に遠慮をするようになっていた。
『まさかツアーの延期をあれほど気にしていたとはな。さっきの話で少しは積極的になってくれればいいんだが』
それに問題がもう一つある。
クルガンはどうしたってクラウスの事を気にかける。そうするとシードがぐずぐずと言い出すのだ。どんなに説明しても
拗ねたような目で見て無理なことを言ってくる。まあ、シードも分かってやってるわけだし、それは可愛いいからいいの
だが、それ以上に困るのはシュウが底冷えするような目で見てくることだった。
『いっそのことクラウスの教育係に任命してやろうか』
クラウスのことが気になって仕方ないくせに自分からは決して関わろうとしないのだから、案外良い考えかもしれな
い。もっともあの性格だから、あんまり露骨に仕組んだようなことをすると却ってひねくれた態度に出るかもしれないが。
『それにしても』
別れ際のクラウスの言葉にはヒヤッとさせられた。邪気のない顔で「シードによろしく」って、あれはどういう意味だった
のだろう。天然ボケとしか言いようがないくらい色事には疎いくせに、人間関係には妙に聡い。いや、基本的に頭がい
いのだろうが、普段ボヤッとしているだけに突然カンの鋭いところを見せられると驚くのだ。
『あの頭の中で私とシードの関係はどういうことになっているんだろう』
それだけじゃない。シュウの事だって怖がっているかと思うと甘えたような口調になることがある。愛情に包まれて育
った人間特有の本能で、頼っても大丈夫だと知っているのではないかと思ってしまう。
『ああもう全く厄介な連中だ』
そう思いながらもクルガンの口元は綻んでいた。
パタンとドアが閉まると急に寂しさを覚えた。どれだけクルガンが自分に気を遣ってくれているか、よく分かる。
「薬飲まなきゃ」
これ以上迷惑を掛けられない。ちゃんと自己管理をしなきゃとクラウスはガザゴソとバッグから漢方薬を取り出した。
喘息というよりも体のことを心配して父が持たせてくれた物だった。
『う〜〜、まずい〜』
何回飲んでも飲み慣れない。ゴクゴクと水を飲んで胃に収めてから、何となく周りを見渡した。
今頃みんなは楽しく飲んでいるのだろうか。
クルガンはあくまでもクラウスが未成年だから、というスタンスを崩していなかったしスタッフにもそう説明してたけれど
本当の理由は違う。喘息の発作などおきなければ一緒にライブハウスに連れて行ってもらえる約束になっていたのだ。
もちろん、お酒はダメだときつく言われていたけれど、お酒が目当てだったわけではない。クラウスはセッションに興味
があったのだ。
コンサート後の打ち上げと称して行われる飲み会で、興が乗るとセッションが始まることがあるとマイクロトフが話して
くれたことがある。それがすごく楽しいと、シードなどライブよりもそちらを楽しんでいる節があると言っていた。コンサー
トで一番楽しそうにしているのはシードだ。そのシードがライブ以上に楽しみにしているというのだから、クラウスが興味
を持つのも当然だった。「ここには特に良いライブハウスがあってね」とカミューも言っていた。
だから他のところでは我慢して大人しくしていたのだ。きちんと体調を整えて、今日は一緒にライブハウスに行っても
いいよと言ってもらえるようにしようと思っていた。それなのに、肝心の時に疲れが出てしまうなんて自分が情けなかっ
た。
ずっとツアーを楽しみにしてきた。いつもはあまり羽目を外せないけれど、ツアーでだったら出来る気がしていた。み
んなと大騒ぎできたらどんなに楽しいだろう。そう思っていたのに、こんなホテルの一室で一人でいなければいけないな
んて…。
元々クラウスは自分からバンドをしていたわけではない。大学の友達が急遽キーボードを弾ける人間を捜していて、
たまたまクラウスがピアノを弾けると知って頼まれたのだ。そしてその一回だけのライブを見ていたクルガンが声を掛け
てきた。
強引に約束させられて恐る恐る行ったオーディションでクラウスはずらりと揃った美形のメンバーにまず驚いてしまっ
た。しかも全員お兄さん、と言っていい年齢で大学のサークル程度の物を考えていたクラウスは戸惑ってしまった。もっ
ともそれはデュナンのメンバーにしても同じだったらしい。
いきなり譜面を渡されて弾いてみろと言われた曲はとても綺麗なメロディで、夢中で弾いていたらいつの間にかセッシ
ョンが始まっていた。緊張しながらも次第に楽しくなっていたから、全員一致で加入を認めてもらえたときは本当に嬉し
かった。みんなは知らないだろうけれど、クラウスがあんな風に歓声を上げたことなんて、数えるくらいしかなかったの
だ。
演奏に関してはかなりきついことを言い合うメンバーだったが、それ以外ではマスコットのように可愛がってくれて何も
問題はなかった。シュウが時々とても冷たくて、どうしたら良いのか分からないことがあるが、カミューやシードはあれは
愛情表現の裏返しだから気にするな、と言ってくれる。実際、からかわれて遊ばれてるような気もするから気にしないよ
うにはしていた。
ヒット曲も出てライブも楽しくて、全てが順調のように思えたのに、全国ツアーが始まる直前、喘息の発作が起きてしま
ったのだ。
本当に小さい頃、小児喘息だったということは父から聞いていた。なにしろ酔うと十回に一回の割合でその話が出る
のだ。だがクラウス自身はその頃の記憶は曖昧で苦しかったことはあまり覚えていない。
だから発作がおきた時は本当に恐かった。当たり前にしていたはずの呼吸が出来ない事に混乱して苦しくて、抱き起
こしてくれた誰かに爪を立ててしがみついてしまった。
医者は一時的なものだと言っていた。おそらく大学のレポートで徹夜が続いたこととツアーに向けての練習が熱の入
ったものになっていたせいで体に負担がかかったのだろうということだった。だがクラウス自身が不安を感じていること
は誰が見ても分かったのだろう。当然、ツアーは無理だと判断され、日程をずらさざるを得なくなった。
クルガンは大したことじゃないと言ってくれた。だが金銭面だけでなく、メンバーやスタッフに迷惑を掛けた事実は歴然
として残っている。
クラウスが倒れたことは予想以上の大きさでワイドショーに取り上げられた。心配してくれる声も多かったが、批判的
な声が全くないわけではなかった。自己管理が甘いと言い切った先輩タレントもいたし、事務所のやり方に批判的なレ
ポーターもいた。
クラウス自身が指摘をうけるのは、もちろんショックではあったけれど仕方がないと思っていた。けれど事務所やクル
ガンがタレントの管理やスケジュール面でやり玉に挙がっていると知って、ただひたすら申し訳なかった。
無事にツアーが出来たからといってそれで済むものではないのだ。周りの人間の気持ちに某かのしこりを残してしま
ったのではないか。特にシュウがどう思っているのか気になって仕方がなかった。
ツアーの変更に伴うゴタゴタにシュウはとても苛立っているようだった。クラウスが倒れてから微妙にシュウの態度が
変わった気がする。
「そんな体だと知っていたらメンバーに入れなかったのに」
そんな風に言っていたという噂話も聞こえていた。
シュウを苛立たせている、というのがとても辛かった。シュウが他のメンバーに比べて怖いというのもあるが、それ以
上にシュウが眉を顰めたり溜息をついたりするとクラウスは不安になる。シュウにそんな顔をしてほしくなくて一生懸命
やるのだが、何だか空回りしていることが多い気がする。機嫌を取ろうとしているわけではないが、滅多に見られないシ
ュウの笑顔がドキドキするくらい綺麗なだけに、イライラの原因が自分にあるとすれば悲しかった。どうしてこんなにシュ
ウの事ばかり気になるのか分からなかったが、とにかく辛かったのだ。
「寝よう」
くよくよしていてもしょうがない。
クルガンに見破られたとおり疲れているのは本当だった。ここでちゃんと体を休めておかないと、無理をしてまた発作
を起こしたりしたら、今度こそ本当に迷惑を掛けてしまう。
それに明日はオフだ。オフの過ごし方はもちろん自由なのだが、シードが「午後からみんなで食べ歩きに行こう」と誘
ってくれたのだ。「デュナンのメンバーは食い道楽が多いから美味しい物が食べられるよ」とスタッフも教えてくれた。ク
ラウスもそれには絶対に付いていきたかった。
ウォークマンをセットしてベッドに潜り込む。聞こえてくるのはデュナンのライブだ。別にナルシストとか勉強家とかいう
のではない。デュナンの昔のライブだった。
シュウはあからさまに、ヒット曲でメジャーになった今よりも以前の方がデュナンらしい良い曲が揃っているという。そ
れはとりもなおさずクラウスが参加する前のデュナンということだ。クラウスはクルガンに頼んで昔のライブのテープを
何本かダビングしてもらっていた。そのうちの1本にキーボードが入っていた。デュナンは四人だったから、どこかのグ
ループから借りてきたのだろう。そう思いながら聞いたキーボードソロは凄くて、あまりのかっこ良さに興奮した。魂が酔
うように何度も繰り返し聞いて、翌日作曲者であるシュウにその曲をやりたいと言ったら鼻で笑われた。クラウスでは無
理だという。
その時に感じた胸の痛みが何だったのか今でもよくわからない。
しかも昔を知っているスタッフがその曲を演奏していたキーボード奏者は元々デュナンのメンバーなのだと教えてくれ
た。シュウとそりが合わなくてグループを出ていったのだと言っていたが、それは違うだろうと直感的に分かった。奏者
を信頼していなければこんな曲は作れない。昔の曲にキーボードのソロが多いことを考えたら二人の間には相当な信
頼関係があったのだろう。一体二人はどういう関係だったのだろうと考えていたら、更に胸が痛んでそれ以上考えるの
はやめたのだ。今でもその事は考えないようにしている。
聞こえてくる曲に身を任せながら、いつかこの曲を演奏しても良いとシュウから許されることがあるのだろうか。そう思
いながら眠りについていた。


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