愛と喝采の日々 3
シュウはクラウスの部屋の前に立っていた。軽くノックをするが返事はない。午前三時を過ぎているのだから、当然寝
ているのだろう。そう思って自分の部屋に戻りかけたが思い直してクルガンの部屋をノックした。メンバーは全員ツイン
の部屋を一人で使っている。スペアのカードキーはクルガンが保管していた。
「どうかしたのか」
「少し、クラウスの様子を見たいんだが」
「ああ」
クルガンはテーブルに置いてあったキーの中からクラウスの部屋の物を渡してくれた。
「何かあったら教えてくれ」
「わかった」
こういう時、余計なことを言わないクルガンがありがたい。もっともシュウだってバスルームから聞こえていたシャワー
の音について何も言わなかったから、お互い様ということかもしれない。
鍵を開けるとベッドサイドの僅かな照明に照らされてベッドの緩やかなふくらみと枕に黒髪が散っているのが見えた。
寝ているクラウスを起こさないように机のランプを一つだけつける。クルガンが付いていたのだから間違いないだろうと
は思っていたが、テーブルに食事をした跡が見えてホッとした。
「サンドイッチか」
ただでさえ食が細いのだからもう少し栄養のある物を摂って欲しいのだが、食べないよりは良いだろう。フルーツも半
分くらいは食べたようだ。
コンサート後の興奮が残っている体で一人っきりにするのは可哀想だった。だがライブハウスに連れていっても酒とタ
バコとひといきれで、クラウスの体にいいとはとても思えない。
枕元に近づいてクラウスの寝顔を見つめながら、額にかかる髪に指先で触れようとして耳障りな音に気が付いた。何
だろうと音源を探るとすぐに解った。クラウスの耳からイヤホーンが外れていてそこから音が漏れているのだ。ウォーク
マンはエンドレスで曲を流しているらしい。ちょっと聞いてみて昔のライブだと分かった。
そういえばクラウスが弾きたがっていた曲があった。クラウスに弾かせてみたいという気も少しする。あいつとは違っ
た曲の魅力を引き出してくれるかもしれない、とも思う。だが…。
「こんなお子様ではな」
全く女の子じゃあるまいし、熊のぬいぐるみなんか抱いて寝なくったっていいだろうに。
その時クラウスの呼吸が不自然に荒いのに気が付いた。ハッとして額に手をあてる。
「熱が出たのか」
やはり疲れていたのだろう。それほど高くはないが、このままほおってはおけない。クルガンに連絡しようと思って思
いとどまった。クラウスは自分の体のことで迷惑を掛けているのではないかと、こちらが苛つくくらい周りに気を遣ってい
る。ここで熱が出たなどとみんなに知らせたら、また必要以上に気を遣うだろう。
シュウは洗面台に冷蔵庫の氷をためて氷水を作るとタオルを浸した。結構冷たくなったタオルを額に乗せてやると、
心なしかクラウスの呼吸が楽になったようである。
シュウはホッとして溜息をついた。
どうしてこんなにクラウスのことが気になるのだろう。
最初は否定していた感情を今では認めざるを得なくなってきている。あの時、目の前でクラウスが突然倒れて抱きか
かえたとき、必死になってしがみついてきたクラウスの苦しそうな様子に、奈落の底に突き落とされたような気分を味わ
った。
何だかいつもモタモタしていて、それが危なっかしくて目が離せなかった。クラシックの基礎が叩き込まれているのは
いいがそれを崩すことがなかなか出来なくて、それなのに自由に素直に紡ぎ出される音に酔わされそうなくらい惹かれ
た。どうしようもなく子供っぽいと呆れていたはずなのに、考え事をしているらしいときにふと見せる理知的な表情がとて
も綺麗だった。まさかクラウスが自分にとってこんなにも大切な存在になっていたとは思っていなかったのだ。
結局シュウは明け方、クラウスの熱がほぼ下がったと解るまで、ずっとそばに付き添っていた。
「カミューさん、カミューさん」
「何です、シード」
「俺、見ちゃったんですけど」
シードがカミューにこそこそ話しかけているのをマイクロトフが気にしているのが分かったが、こういう話はカミューじゃ
ないと駄目だ。
「あのさ、明け方ちょっと部屋を出ようとしたらさ」
「何でそんな早起きしたんですか」
「それは、だから、その」
クルガンのところから朝帰り、と分かってるくせにとシードがカミューをちょっと睨んだ。
「とにかくその時に」
「はい」
にっこり笑ってカミューが答える。
「クラウスの部屋からシュウが出てきたんだけど」
さすがのカミューも目を見開いたので、シードは少し満足した。
「やっぱり食っちゃったんだと思います?」
「シード、そういう言い方は」
言いかけたカミューが慌てて口を閉じた。
「おはようございます」
クラウスに明るい声で挨拶をされてシードは飛び上がって振り向いた。
「おは、おはよう」
それからシードはおずおずと尋ねた。
「夕べはどうだった?」
「はい、お陰様で一晩ゆっくり寝たら、もう全然平気です」
確かに昨日より表情が明るい。
「あの、歩くのが辛いとか、しまった、こんな所に痣がついてとか、いい加減しつこいんだよとか、ない?」
「シードッ」
カミューが窘めるがクラウスは至って暢気に自分の腕をひっくり返して見ながら答えた。
「痣?どこか、ぶつけてますか?」
「ああ、気にしなくて良いからね、クラウス」
「何か寝過ぎたせいか少し頭がフラフラするんですけど、それ以外は別に」
「ずーっと寝てたのか」
「はい、そうですけど?」
「クラウス、食べ歩きまで時間があるからランチバイキング取ってきた方がいいですよ」
カミューに促されて首を傾げながらクラウスが席を立った。
「どういうことだよ」
「と言うより、何もなかったって事でしょう」
「じゃ、何であいつクラウスの部屋に……。一晩中、寝顔見てたって訳じゃないだろ」
「案外そうかもしれませんよ。本人に聞いてみたら如何です。ほら」
視線に促されてシードが振り返ると、明るい雰囲気のレストランには似合わない不機嫌そうな顔をしたシュウが入って
くるところだった。
「おはよー」
シードが手をヒラヒラさせてシュウを呼んだ。
「クラウスならあそこですよ」
ジュースサーバーのところにいるクラウスをカミューが指さした。
「だから何だ」
「いえ、気になさってるんじゃないかなーと思いまして」
苦笑いしているカミューに「寝不足っぽいだろ?」とシードがこそっと囁いた。そうこうしているうちにクラウスが戻ってき
たのだが、シュウはクラウスの持っている盆をチラリと見て少し眉を顰めた。
「もう少しまともな物を食べたらどうだ。朝食でももっとマシだろう」
クラウスが持ってきたのはサラダと目玉焼きとグレープフルーツジュースである。クラウスは何か言おうとしたようだ
が、結局黙って俯いた。
「シュウ、そんな言い方をしなくても良いじゃないか。どうせ午後から食べ歩きをするんだろう?」
マイクロトフの強い抗議にシードとカミューはテーブルの下で拍手をしている。
「食べ歩きなどしないで、部屋で大人しくしていた方がこいつのためだろう」
「そんな」
さすがにクラウスが声を上げた。
「シュウ、少し言いすぎです」
カミューが窘めたが、シュウは全然動じない。
「気にしなくて良いぞ、クラウス。こいつはお前をホテルに閉じこめて誰にも見せたくないだけなんだからな。ほら、独占
欲強いからさ」
ああいうのがいるから、と言わんばかりにシードは周りに視線を投げかけた。デュナンがいると気付いたファンの女の
子達が彼らを遠巻きにして見ているのだ。
「バカなことを言うな」
呆れたようにシュウが口を開いた。
「食欲がないからそんな水っぽい物ばかり持ってきたんだろう。食べ歩きなんかやめておけ」
一瞬言葉を飲み込んだクラウスだが今度ははっきりとシュウに告げた。
「私も行きます」
「よく言ったっ」
シードがクラウスをギュッと抱きしめて髪の毛をくしゃくしゃとかき回すと、ギャラリーから「キャーッ」という歓声が上が
った。シュウは声の彼方に一瞥をくれてから「好きにしろ」と言った。
海の方に美味しいパスタを出す店があるという。さすがにそこには歩いてはいけないので小型のバスで行くことになっ
た。
が、ファンにタクシーで付いてこられたりしたら厄介なので、とりあえず集合時間になったら速攻バスに乗り込んでダッ
シュでスタートする予定である。ところが案の定クラウスが捕まってしまった。
「きゃあ、クラウス可愛い。一緒に写真撮って」
「ねえ、カミュー様は?」
「マイクのサインが欲しいの」
「シードは?まだ部屋にいるの?」
敵も然る者、誰をターゲットにすれば近づきやすいか、よおく研究しているのである。
あっという間に取り囲まれておたおたしていたクラウスは突然後ろからぐいっと腕を引っ張られた。
「悪いが後にしてくれ」
ファンの女の子達に言ったのはシュウだった。
「キャーーー、シュウ様ーー」
ファンとは滅多に口を利かないことで知られているシュウがこんな所に入ってくるのは極めて珍しい。歓声に包まれる
中、クラウスはシュウに引き寄せられて歩くことになった。長身のシュウにそうされるとすっぽりと抱き寄せられるように
なってしまう。当然女の子達からは更なる黄色い悲鳴が上がっていた。
「ご苦労」
バスに乗り込むとクルガンが声を掛けた。継いでシードがからかうように口を出した。
「よっ、お姫様を守るナイトみたいで格好良かったぜ」
ジロリとシードを見て、だが無言で座席に着いたシュウにクラウスが礼を言った。
「あの、シュウ、ありがとう」
「ぐずぐずしているからだ」
「…はい、すみませんでし…アイタッ」
既に走り始めていたバスがバウンドした拍子に頭をどこかにぶつけたらしい。
「何をやってるんだ。危ないから早く座れ」
「は、はい」
と言いつつ、どこに座ろうかと視線をウロウロさせているうちに今度はカーブで体をよろけさせている。
「あっ」
「バカ、何やって」
よろけたクラウスを支えようとシュウが手を伸ばした。その手に捕まったクラウスは勢いよくシュウの胸に飛び込むこ
とになってしまった。思いがけず力強い腕に抱きとめられてクラウスは真っ赤になっている。
「あの、ごめんなさい」
そう言って立ち上がろうとするクラウスをシュウが押しとどめた。
「もういいから座っていろ」
自分の隣の席に座らせた。
「窓側に座っちゃっていいの?」
「俺は外の景色などどうでも良い」
「ホント、ありがとう♪」
シュウとクラウス以外、全員が笑いを堪えていた。


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