愛と青春の日々 4 
          
           
          
           
          
          
           結局クラウスにマルロのことを伝えることは出来なかった。 
          
           
           
          
           シュウがさりげなく「マルロにバッグを渡さなかったか」と聞いたのだが、その裏にあるニュアンスを敏感に感じ取った
           
          クラウスが顔色を変えて怒ったのだ。 
          
          「友達のことをそんな風に疑うなんて」 
          
           誰もクラウスが怒った所など見たことがなかったから、それ以上何も言えなかった。 
          
           クラウスはあくまでも自分が不注意で落としたのだと言って帰っていった。これでは注意を促すどころではない。 
          
           
           
          
          「大丈夫か」 
          
          「何が」 
          
           ぶっきらぼうにシュウは答えたが、クルガンが言いたいことはよく分かっていた。怒ったクラウスは帰るまで一度もシュ
           
          ウの方を見なかったのだ。全く忌々しいことに、シュウはかなり落ち込んでいることを自覚していた。 
          
          「しばらく様子を見るしかないな」 
          
           シュウが憂鬱そうに呟いた。 
          
           二人で対策を考えるのだが、どうにも良い考えが浮かばない。手がかりがなさ過ぎてマルロの目的が分からないから
           
          だ。もっとも目的が分かってからでは手遅れになるかもしれないからクラウスには内緒でボディガードをつけることも考
           
          えたのだが、プロのボディガードが大学に入ったら目立ってしょうがないだろう。 
          
          「とにかく大学生に見えそうなボディガードを探してみよう。それにリッチモンドがもう少し調査を続けると言っていたか
           
          ら、それを期待するしかないな」 
          
           そうクルガンが言ったときに内線電話が回ってきた。 
          
           外線を取り次いだ事務の女の子がニコニコしているところを見ると悪い電話ではないのだろう。そう思って見ている
           
          と、話をしながらクルガンが見る間にホッとした顔つきになっていた。 
          
           二言三言相槌を打って「良かったな」と相手に言うとシュウに受話器を差し出した。 
          
          「クラウスだ。テディベアが見つかったそうだ」 
          
           どっと肩の力が抜けた。マルロに対する疑いや自分たちの心配が思い過ごしならそれに越したことはない。 
          
          「もしもし」 
          
          「シュウ?さっきは大騒ぎしてごめんなさい」 
          
          「いや、俺も悪かった。お前の友達を疑ってすまなかった」 
          
          「ううん、シュウが悪いんじゃないから。私の不注意でなったことなのに当たっちゃって、本当にごめんなさい」 
          
           クラウスは恐縮しているようで何度も謝るのでシュウも困ってしまった。 
          
          「それよりテディベアはどこにあったんだ」 
          
          「それが、マンションを出てすぐに落としたみたいなんです。同じマンションの女の子が拾ってくれて」 
          
          「…」 
          
          「だからきっとバッグも最初っから壊れてたんです、私が気が付かなかっただけで」 
          
          「そうか…。何にせよ、みつかって良かったな」 
          
          「はい。でも結局その子にテディベア、あげちゃったんです。どうしても欲しいって言うから」 
          
           少し声に元気がないのはそのせいか、と思わず苦笑が漏れる。 
          
           電話を切ってからクルガンと二人で顔を見合わせて笑ってしまった。 
          
           全ての疑惑が晴れたわけではない。バッグの件も妙といえば妙だ。だが、取り合えずリッチモンドの報告を待つだけ
           
          の猶予期間が与えられたようで、ひとまず安心したのだ。 
          
           二人の珍しい笑い声に事務所のメンバーが何事かと振り向いていた。 
          
           
          
           
          
           
          
           電話を切ったクラウスはホッと一息ついていた。 
          
           最低な気分はまだ続いていたが、とにかくシュウに謝ることが出来て、それだけは良かったと思っていた。 
          
           シュウに怒ったのは、あれは八つ当たりだ。本当はクラウスもマルロのことを少し疑ったのだ。マルロからバッグを受
           
          け取ったときに『あれ?』と違和感を感じたことも思い出していた。 
          
           だけどマルロにはそんなことをする理由がない。どんな事情であれテディベアをなくしたのは最終的には全部自分の
           
          責任だ。なのに一瞬でも友達を疑ったのが嫌だったし、みんなの前で声を荒げてしまった事も凄く嫌だった。 
          
          『シュウはなんにも悪くないのに』 
          
           あげくにシュウに当たってしまったのだ。本当に最低だ。 
          
          『厄日っていうのかな』 
          
           シュウやクルガンが心配すると思ったから言えなかったのだが、発見されたテディベアは実は耳がざっくり切られてい
           
          たのだ。 
          
           誰かのいたずらだろうとは思うけど、本当に酷いことをする。 
          
           最初に見つけてくれたリリィは「可哀想だ」と言って泣きじゃくっていた。「リリィが直してあげるの」と言っていたからクラ
           
          ウスもあげる気になったのだ。そうでなければ自分で直してあげたかった。 
          
           何だかやりきれなくて、クッションを抱えてコロンとソファに横になった。こんな気持ちの時に一人で広い部屋にいるの
           
          はとても寂しい。 
          
           
           
          
           どうしてかシュウに会いたくてたまらなかった。 
          
           
          
           
          
           
          
          「…であるからして、この場合の…」 
          
           大教室で隣のシーナは熱心にノートを取っている。けれどクラウスはずっと上の空で教授の声も右から左へと抜けて
           
          いた。 
          
           昨日のテディベアのことが気になっていたのだ。 
          
           
           
          
           最初は子供のいたずらだと思った。酷いいたずらだけど、でも子供は残酷な一面を持っていたりもするから、そうなの
           
          だろうと考えた。 
          
           だが、そう思いこむにはどこか違和感があった。何よりも、あの辺の家に小さな子供はあまりいない。いたとしても道
           
          に落ちているぬいぐるみを拾って家に持ち帰り、ハサミで切ってそれをまた元の場所に戻すというのは、あまりにも不
           
          自然な行動に思えた。それにどこか作為的な感じがする。 
          
           誰かが故意に行ったのなら、それは必ず大人だろう。あのテディベアにはクラウスがデュナンのロゴ入りリボンを結ん
           
          であげていた。クラウスの物だと知ってわざとやったような気がして仕方がなかった。 
          
          『そんな人がいるとは思いたくないけど』 
          
           基本的に人を疑うのは好きではない。だが、悪意とも思える行為を目の当たりにして気持ちが暗く沈んでいくのはどう
           
          しようもなかった。 
          
           
           
          
           ふっと小さく溜息をついたとき、コツンと頭を小突かれた。 
          
          「終わったぞ、講義」 
          
           え、と周りを見るとほとんどの学生は外に出たのかまばらにしか残っていない。 
          
          「ほら」 
          
           シーナは自分のノートを差し出した。 
          
          「取り合えず書けるだけ書いといたからさ、そっちで分かりやすくまとめて後でノート見せてよ」 
          
           シーナは最初からそのつもりだったらしい。クラウスがボーッとしているので、適当に要約しながら教授の言葉を機械
           
          的に書き留め、後はクラウスに任せればいいや、と考えたのだろう。 
          
          「うん、分かった。あのね、シーナ」 
          
          「ん?」 
          
          「ちょっと相談したいことがあるんだけど」 
          
           シーナに話してどうなることでもないのだが、不安を聞いて欲しかった。 
          
           考えすぎだよ、と笑い飛ばしてもらえたらそれでいいし、やっぱり問題ありということなら相談に乗ってもらいたかった
           
          のだ。 
          
          「俺、これから約束あるんだけど…」 
          
           そう言えば講義が始まる前に女の子と携帯で話してたっけ、と思いだした。クラウスと女の子だったらシーナは迷わず
           
          女の子を取る。 
          
          「だったら明日でもいいんだ。そんな大した話じゃないし」 
          
           シーナは少し考えていたが「ちょっと待っててくれる?」と答えた。 
          
          「チャッチャと用件済ませてくるから」 
          
          「え、いいの?」 
          
          「うん、駐車場の俺の車ンとこで待ってて」 
          
           そう言ってシーナは大教室を飛び出していった。 
          
           シーナはシュウの話を思い出して何かあったんだろうと察してクラウスを優先したのだが、クラウスはそんなことは知
           
          らないからシーナの珍しい行動に呆気にとられていた。 
          
           それでも気が楽になったのは間違いない。『良かった』と思いながら通路に出ようとして誰かにぶつかってしまった。 
          
          「あ、ごめんなさい」 
          
          「ああ、大丈夫ですよ。こちらこそ避けられなくて悪かったね」 
          
           そう言った相手はちょっと不思議な感じがする30代くらいの男性だった。 
          
          「少し寝ぼけてしまってね。テスラ先生の講義って眠くなるでしょう。あんなに有名な先生なのにどうして自信なさそうに
           
          話すんだか」 
          
           クラウスは思わず笑ってしまった。そうなのだ、テスラ先生の講義は本当に眠くなる。 
          
           その相手に軽く促されて一緒に教室を出た。 
          
           車で来る学生は少なくない。クラウスとぶつかった相手も学生用の駐車場に車を置いているらしい。クラウスも駐車場
           
          でシーナを待たなければならないから、自然と二人で話をしながら歩くことになった。 
          
           どことなく貴族的な顔立ちをした男はネクロードと名乗った。一旦は会社勤めをしたものの、もう一度勉強をしたくて大
           
          学に入り直したのだという。 
          
           彼は話上手で出てくる言葉に淀みがない。話の腰を折るのも悪かったし、クラウスもシーナが来るまでは暇だったか
           
          ら彼の話に付き合ってもいいかと思い始めていた。 
          
           と、視線を感じた。視線の主はすぐに分かった。 
          
           目があってマルロはばつが悪そうな顔をしていたがクラウスは立ち止まった。昨日、車に乗せて貰ったお礼を言いた
           
          かったのだ。だが後ろからグイッと腕を引かれた。 
          
          「ダメですよ、ああいう人に近づいちゃ」 
          
           思いがけない言葉に驚いた。 
          
          「あの人でしょう。クラウスさんにずっと付きまとっていた人って」 
          
           確かにそういうこともあったけど、付きまとうという言い方は少し違うような気がした。それにどうして初対面の彼がそ
           
          んなことを知っているのだろう。 
          
           クラウスの疑問が顔に出たのか彼は少し笑って答えた。 
          
          「ストーカーって有名じゃないですか。知らなかったんですか。あの人があなたのことを見る目って、私から見ても少し気
           
          持ち悪いなって思うくらいでしたからね」 
          
           ストーカーという言葉はクラウスにとって少しショックだった。 
          
          『マルロはそんな人じゃないと思うんだけど』 
          
           それとも、そうと気付かない自分には隙があるということなのだろうか。 
          
           振り返ってマルロを見るとやや硬い表情でこちらを見ている。 
          
          「まずいな」 
          
          「え?」 
          
          「彼、シーナさんのことは認めているみたいですけどね。でも私のようなどこの馬の骨だか分からない人間があなたと一
           
          緒にいるのは気に入らないんでしょう。早くここを離れた方がいい」 
          
           思考の追いつかないクラウスは引きずられるように歩かされた。 
          
          「どうして。何で逃げなきゃいけないんですか」 
          
          「危ないからに決まってるでしょう。ああいう連中が暴走を始めたらどんなことになるか。ニュース見てないんですか」 
          
          「でもマルロがそんな事をするって決まった訳じゃ…」 
          
          「あなたのことを思って言ってるんですよ。ここは私に任せてください」 
          
           クラウスには分からなかった。 
          
           
           
          
           基本的にクラウスは目上の人の言葉に従順だ。父を筆頭にその側近の人々もデュナンを取りまく人々も常に信頼で
           
          きる頼もしい人たちだった。だからどうしても目上の人の言葉には素直に頷いてしまいがちになる。 
          
           それでもネクロードの申し出を有難いと思う一方で、そんなはずはないという気持ちも心の中に強く残っていた。 
          
           確かにマルロはクラウスの側をウロウロしていた。伝記を書きたいと言われたときは本当に驚いたし困ったなとも思っ
           
          たけれど、マルロはいつも礼儀正しくて「やめてほしい」と言えば同じような迷惑を掛けてくることはなかった。シーナ達
           
          だって「変わったヤツだな」とは言っていたけれど、ストーカーのような悪質な相手だとは考えてもいなかったに違いな
           
          い。 
          
           自分一人の考えでは心許ないが、シーナには人を見る目がある。マルロがストーカーだとしたらクラウスよりも先にシ
           
          ーナの方が気付いたはずだ。 
          
           
           
          
           肩を抱かれてグイグイと押し出されるように歩きながら、クラウスはもう一度振り返った。 
          
           マルロは怒っているとか気に入らない、というよりは不安そうな顔をしていた。あれは友達を気遣っている顔だとクラ
           
          ウスは思った。 
          
          『この人は私のことを心配してくれている。その善意を無にしてしまうみたいだけれど、申し訳ないとは思うけど、でもや
           
          っぱりマルロのことは信じたい』 
          
           クラウスはネクロードの腕をやんわりと振りほどいた。 
          
          「待ってください。マルロならちゃんと話せば分かってくれると思うんです。だから…」 
          
           パシーンと乾いた音が響いて思わず体をよろけさせていた。すぐ後ろに止めてあった車にドシンとぶつかったから道
           
          に倒れることはなかったけれど、一瞬遅れてやってきた頬の痛みに呆然としていた。 
          
          『ひっぱたかれた…』 
          
           どうして? 
          
           疑問が山のように溢れてきたのに、驚きのあまり何一つ言葉にすることが出来なかった。 
          
           だがネクロードにはクラウスの混乱など分からないらしい。 
          
          「私がこんなに心配しているというのに」 
          
           ネクロードの静かな口調が怖かった。 
          
          「いつだって私が守ってあげてるのに、それに気づきもしないで他の奴らとベタベタするなんて、本当に君は悪い子だ。
           
          いくら私でもそんな我が儘をいつまでも許しておけないからね」 
          
           この人、変だ。 
          
           理性よりも直接暴力を振るわれたことで本能的に危険を感じた。 
          
           逃げたいと思ったけれど後ろは車に塞がれている。それに妙な威圧感があってジッと見られると体が竦んでしまうの
           
          だ。ネクロードを突き飛ばして逃げることも考えたが思い通りに動ける自信はなかった。 
          
           どうしよう、と思いながら身体の位置を少しずつ横にずらしていると、マルロがこちらに走ってくるのが見えた。 
          
          『良かった』 
          
           いくら何でも人目のあるところで騒ぎを起こしたりはしないだろう。少し待てばシーナだって戻ってくるのだ。それまで何
           
          とか引き延ばしてこの場をやり過ごせば…。 
          
           だが次の瞬間、鳩尾に鈍い痛みを感じてクラウスは息を詰まらせた。 
          
           
          
           堪らずに身体を折り曲げるようにして蹲ったクラウスは声も出せずにいる。ネクロードはクラウスを抱き上げると易々
           
          と車の助手席に押し込んだ。 
          
           
          
           
           
          
           
          
           
           
          
           
          
                
          
           
          
            
          
          
           
           
          
           
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