愛と青春の日々 6


 クラウスはフッと目を覚ました。
 ずっと怖い夢を見ていたような気がする。誰かに追いかけられているような訳の解らない不安がずっと付きまとってい
て、それがどんどん膨らんでパーンと弾けたのだ。唐突に『そうだ、早く目を覚まさなきゃ』と思って、それで目が覚め
た。
 と言っても、まだ頭は朦朧としている。いつの間に寝てしまったのか、それすら分からない。ただ、体の下の硬い感触
に少し顔をしかめた。
『こんな所でうたた寝したら風邪を引いちゃう。父上が心配するから早く起きよう』
 そうでなくても夢の中で感じていた不安は消えていない。早く早くと急き立てられるような気持ちがする。それなのに体
は重く、意識もすぐ暗闇に沈んでいこうとした。
 と、オルゴールのような音が鳴った。何かのメロディーを奏でて、それから音を6つ刻んだ。
 ぼんやりと『もう6時なんだ』と思って少し妙な感じがした。今は夕方の6時なんだろうか、それとも朝の6時だろうか。
「仕事」とか「大学」という単語が頭に浮かんだが、眠気には勝てなかった。
『もう少しだけ…』
 とにかく眠くてしかたがない。何気なく寝返りをうとうとしたら、カチャンという音がして右手が突っ張った。『あれ?』と
思い更に引っ張ったら、ピリッと痛みが走った。でもそのお陰で少し意識がはっきりしてきて、ようやく重い瞼を開けた。
『ここ、どこだろう』
 見たことのない部屋だった。窓から僅かに差し込む夕日で薄暗い室内の様子を見て取ることが出来た。右手に何か
食い込んでいるのは…右手とスチール製のベッドのアームが手錠で繋がれているのだ。
 クラウスはまだうまく働かない頭で考えていた。
『前にもこんな事があった…』
 いつだっけ、としばらく考えてから、それがついこの間読んだ本の話だということに思い当たった。そう、凄く怖い本だ
ったのだ。たくさんの女の子が誘拐される話で、女の子の目が覚めるとこんな風にベッドに繋がれているのだ。
『真似したのかな』
 そう思ってからゾッとした。
『そんな怖いことを考えちゃダメだ』
 だが余りにも怖すぎる思いつきのせいで急激に意識が覚醒してきた。
 そうだ、すっかり思い出した。駐車場で鳩尾にボディブローを受けて動けなくなったところを無理矢理車に乗せられた
のだ。ここへはあの男、ネクロードに連れてこられたのだろう。


 クラウスを乗せるとネクロードは車を急発進させた。呼吸もままならず、胃の内容物がせり上がってくるような痙攣に
耐えていたクラウスは、その衝撃に思わず呻き声を上げた。
「苦しそうだね。大丈夫かな?」
 誰のせいで、と言いたかったが口を開くのも辛かった。理性も本能も早く逃げろと言っていたが体を動かすことは全く
出来なかった。
「君が悪いんだからね。私の言うことを聞かないから」
 それから彼は舌打ちをした。
「なんてしつこいヤツなんだ。ほら、私の言ったとおりだろう。マルロのヤツ、血眼になって追いかけてくる」
 吐き気と痛みに耐えながら、それでもクラウスは力づけられていた。マルロが追いかけてくれているというのは、この
状況下でたった一つの希望だった。だが…。
「安心して良いからね。あんな軽自動車じゃ追いつけやしないよ」
 それと同時に車が加速したのが分かって絶望的な気分になった。
「ど…して…」
「どうしてって、決まってるじゃないか。君を守るためだよ」
 守る?こんな理不尽なやり方で?怒りが沸々と沸き起こってきた。
「そ、んなこと…頼んで…ません」
 まだ苦しかったがようやく体を起こして真っ直ぐ見返すと彼は面白そうに笑い声を上げた。
「本当に君は世間知らずだねぇ」
 クラウスは一瞬怯んだ。
 これはクラウスのウィークポイントだったりする。今まで人にも言われていたし、デュナンに入ってからは自分でもそう
思うことが多かったから「世間知らず」と言われてしまうと途端に自信がなくなってしまう。
「本当に危なっかしくて見ていられない。いいか、マルロは見かけ以上に危険なヤツなんだ。君には分からないかもしれ
ないがね」
 クラウスが黙っていることで気を良くしたのか、ネクロードは蕩々と話し始めた。
「私は君が知らないようなことも知っているんだよ。例えば、君のテディベアを盗んだのがマルロだっていう事とかね」
 クラウスが息を飲んだのを見て、彼は薄く笑った。
「君に相手にされない腹いせに大事にしているテディベアの耳を切るなんて、本当に酷いヤツだ。それがマルロの本性
なんだよ」
 マルロが盗んで耳を切ったって?
 もちろんそれは衝撃だった。けれど、それより不思議に思うことがある。
『どうしてこの人がそれを知っているのだろう』
 誰が盗んだかはこの際、置いておこう。だがテディベアの耳を切られていたことは別だ。だってクラウスはそれを誰に
も話していないのだ。シュウにもクルガンにも話していない。その事実を知っているのはクラウスと最初に見つけたリリィ
だけだ。
『この人がリリィか、リリィの知り合いの人から聞いたという可能性はあるだろうか』
 全くないとは言い切れないだろう。でも、それよりは別の考え方をした方が現実的に思える。
 それは彼自身がその犯人であること、である。
 どうやってテディベアを盗んだのかは分からない。けれど、マルロが犯人だと考えるよりそう考えた方がクラウスの中
でストンと気持ちが落ち着くのだ。そう、この人の方がずっとストーカーっぽい。
『逃げないと』
 自分でも驚くほど落ち着いていた。幸い彼はクラウスがマルロの正体を知って驚いているのだと勘違いしている。今な
ら隙をついて逃げることが出来るかもしれない。信号で止まったらすぐに車から出よう。人混みの中に出れば滅多なこ
とは出来ないだろうし、万が一されそうになったら騒げばいいのだ。
 幸か不幸か、自分の顔は世間の人に知られている。
「何をしている?」
 そっと動かしたつもりだったのに、左手がドアロックの位置を探しているのを気付かれたらしく、右手をしっかりと捕ま
えてられてしまった。クスクスと笑い出したネクロードに体が強ばる。
『ダメだ、怖いと思っちゃダメだ。落ち着いて、落ち着いて』
 じわじわと頭をもたげてくる恐怖心を必死に押さえつけようとしていた。
「私の言うことを聞けないなら、この指を折ってしまうからね。せっかく綺麗な指なのに、ピアノが弾けなくなったら嫌だろ
う?」


『怖かった…』
 あの時、クラウスは生まれて初めて心の底から怖いと思っていた。だから差し出されたコーヒーを拒むことが出来な
かった。飲みたくなんかはなかったが、指がみしみしいいそうなくらい反らされて、痛みよりも骨が折れることが怖くて飲
んでしまったのだ。
 身の危険に比べれば、指を折られるくらい何だと言われてしまいそうだが、キーボードが弾けなくなることの方がクラ
ウスはずっと怖かった。そして眠ってしまったのだ。
『計画的犯行、なのかな』
 多分そうだろう。でなければ睡眠薬入りのコーヒーをポットに入れて用意しているはずがない。
 情けなくて溜息が出た。これでは何のためにマイクロトフから護身術を習ったのか分からない。「まずいと思ったときで
は遅いんだ」と言っていたシュウの言葉も蘇ってきたが、まずいと思う暇もなかったなんて、あまりにも迂闊だったとしか
言いようがない。
『これって誘拐になるのかな』
 19にもなって誘拐だなんて思うと、ますます気持ちが塞がってくる。
 だが、のんびりしている場合ではない。今、この部屋にはクラウス一人しかいないようだが、いつネクロードが入ってこ
ないとも限らない。その時にこんな風に寝かされたままでいるのは嫌だったし、不安が募るばかりだ。
 クラウスはウンウン言いながら起き上がろうとした。
 右手が制限されているというだけで、こんなにも動きづらいのかと思いながらようやくベッドの上に座ると、改めて室内
を見渡した。
 何だか随分時代がかった部屋だ。全体にアールデコを意識して集めたと思われる家具がそこかしこに置いてある。
常に本物を見慣れているクラウスには少しチープに映ったが趣味は悪くないだろう。こんな風に狭い部屋にゴチャゴチ
ャ置いていなければ。それでも内装を統一させようという意識は感じられる。ベッドは例外だけれども。
『どうしてベッドだけこんなスチール製なんだろう』
 事務所の女の子達が楽しそうに見ている通販のカタログにこんなベッドがたくさん載っていたような気がする。脚を見
るとキャスターが付いているのでやっぱり通販で買ったのかもしれない。
『これのせいかな』
 しっかりと繋がれている手錠を見て溜息をついた。こうやって拘束するためにパイプ製のベッドが必要だったのかもし
れない。普通のベッドではこんな風に出来ないから。
 本物かどうか分からないけれど手錠は随分としっかりしているようだった。クラウスは男にしては華奢だと言われてき
たし、自分でもそれを恥ずかしく思っていたが、そのほっそりとした手も手錠からは抜けそうで抜けない。
 何とかならないかと必死で引っ張っていると、急に部屋が明るくなった。ハッとして見上げるとネクロードが立ってい
た。
「おやおや、もう目が覚めていたとは。君はなかなかクスリが効かない体質なのかな」
 そんなことはない。もう十分すぎるくらい寝かされてしまった。
「そんなに引っ張ってその綺麗な肌に傷でも作ったらどうするつもりなんだ」
「指を折ろうとしたくせにっ」
 自分でも気付いていなかったが、それをとても怒っていたらしい。反射的に答えていた。
「そういう反抗的な目もとても可愛い。君は本当に理想的な花嫁だよ」
「は?」
 今、なんて言った?花嫁?
 この人、とんでもない思い違いをしていないだろうか。
 不本意ながら可愛いと言われたことは何度もある。クラウスだって同じ言われるのならデュナンの他のメンバーのよう
に「ステキ」とか「格好いい」とかそんな風に言われたいのだが、大抵決まって「可愛い」と言われてしまう。けれど、女性
に間違われたことは今まで一度もない(…と思う)。それなのに、花嫁とは何事だ?花嫁?は・な・よ・め?
「あ、あの」
「ああ、ベッドのことなら心配するな。こんな無粋なものは二人の初夜には相応しくないと言いたいんだろう」
「いえ」
「隣の部屋が私たちの寝室だ。きっと君の気にいると思うよ。もちろん、ベッドもね」
「そうじゃなくて」
「すぐにも見たいという気持ちは分かる。だが今はダメだ。あと2時間もしたら、君はそこで私の愛に包まれているんだ。
少しくらい我慢しなさい」
 もうっ、この人、私の話を全然聞こうとしないっ。さすがのクラウスも少しムッとした。
「そんな風にむくれるんじゃない。私のクラウス」
 背筋を悪寒が走った。この感じはどこかで感じたことがあった。そう、つい最近…。
「今、お茶を淹れてあげよう」
 そう言ってニヤリと笑うとネクロードは部屋を出ていった。
 何だかよく分からないけれど、とにかくとんでもない事になりそうだという予感だけはヒシヒシと感じていた。
『それにしても、なんて下品な笑い方』
 あの笑い方も最近見た気がする。何だったっけ、ここまで出てきてるのに思い出せない。
 本当はそんなことをぼんやり考えていてはいけなかったのだろう。それより手錠を外す方法を考えるべきだったのだ。
そう気付いたのはネクロードが紅茶を持って現れてからだった。
『なんてバカなんだろう』
 そう思って泣きたかったが、ネクロードはクラウスが大人しく待っていたことで大分気をよくしたらしい。馴れ馴れしく隣
に座るとカップを唇に押し当てた。
「さあ、飲みなさい」
 絶対に飲みたくなかった。何か入っているに決まっているのだ。さっき「あと2時間もしたら」と言っていたから、多分そ
れまで寝かせているつもりなのだろう。
 それだけは絶対に避けなければならない。逃げるとしたら、その2時間が勝負になるのだ。
「いや」
 顔を背けて断るとネクロードがムッとするのが分かった。
「我が儘は許さない」
「熱いのはダメなんです。猫舌だから」
「…なるほど。高貴な出の姫君は熱い物や冷たい物は苦手ということか。それなら、もう少し冷ましてからにしよう。舌を
火傷されてもつまらないし」
 そう言ってククッと笑う。
 なんて嫌な笑い方だろうと思ってハッと気が付いた。
『あの人に似ているんだ。テレビ局で会ったあの俳優』
 確かラウドという名前だったと思う。ニヤニヤとクラウスのことを見ているから、とても居心地の悪い思いをした。変な
例えだけれど、裸を見られているような、そんな気がして本当に嫌だったのだ。
 この男とラウドは姿形は少しも似ていないけれど、クラウスのことを見る目がそっくりなのだ。
『ラウド2号だ』
 ネクロードなんて勿体ぶった名前だけど、こんな無礼な男、ラウド2号で十分だ。
「…やっ」
 突然、ネクロードに髪を触られて思わず声が出てしまった。
「驚かなくて良いんだよ。髪も本当に綺麗だ。これが全て私の物になるのかと思うと本当に嬉しいよ」
 何なんだ、何なんだ、この男はっ!
 涙が出そうになってグッと堪えた。
 テレビ局でシードは物凄く怒っていた。今ならどうしてシードがあんなに怒っていたのかクラウスにも分かる。
『この人の態度は凄く失礼だ』
 こういうのがセクハラなんだ。やっぱりラウド2号だ。しかも私は男だって分かってないじゃないか、この男。もう、絶対
バカだ。
 そのバカなラウド2号がカップに手を伸ばすのを見て慌てて質問をした。
「何で私が花嫁なんですか?」
 私は男なのに、という意味を込めて聞いたつもりだった。
「君ほど私に相応しい人はいないからだ」
 それでは答えになっていないと思ったが、ネクロードがカップを取るのを止めてこちらに向き直ったのを見て会話を続
けることに決めた。あの紅茶を飲まないためだったら話くらい、いくらでもしようと思った。シェヘラザードだって喋り続け
て命を永らえたのだ。ここで頑張らなきゃと思っていた。
「でも、綺麗な人は他にもたくさんいるでしょう?」
「フンッ、上辺だけ綺麗な女などっ」
 ネクロードは急に立ち上がった。何か気に入らないことを言ってしまったらしい。
「本当に綺麗な女なんていないのだよ。みんな外側だけ綺麗に着飾って本当の醜い自分を隠しているのさ。夜はあんな
に悦んでいるくせに朝になると口汚く私を罵って…」
 罵りたくなる気持ちはよく分かる。
「だから私はそういう女には期待しないことに決めたのだ。バカな女にこれ以上関わっても無駄だからね。そうしてそれ
は正解だった。こうやって君に巡り会えたんだから」
「でも本当の私の事なんて知らないでしょう?」
「ふふ、私に分からない事なんてないんだよ。大体、君は今だってこんなに大人しくしていて礼儀正しいじゃないか。今ま
での女ときたら、泣いたり喚いたり、そりゃあ酷いもんだった」
「それはきっと怖かったから」
「君は私が怖くないのだろう?やはり、私の目に狂いはない。君こそが私の花嫁なのだよ」
 そうだ。普通、こういう状況に陥ったらそんな風に取り乱すのが本当なんだ。そうしてみると自分は大分冷静に行動し
ていると言えるんじゃないだろうか。少しだけクラウスは自信をつけた。
「君はとても良い子だ。本当なら今夜の儀式の時に渡そうと思っていたプレゼントがあるのだが」
「プレゼント?」
「そう、君への愛の証、そして私たちの目眩く素敵な一夜を彩る最高の品だ。どんな女でもアレを贈られたら大喜びした
ものだ。朝になって私を罵りながら握りしめて離そうとしなかった女もいる。さて、何だと思う?」
 そんなの、分かるわけがない。でも、期待に満ちた目で覗き込んでくるネクロードを見ると何も答えないわけにはいか
なくて、ふと思いついた言葉を口にしていた。
「夜のおもちゃですか?」
 ネクロードは一瞬キョトンとしてから、みるみる真っ赤になると火山が噴火するように「ちっがーーう!」と叫んだ。
「ななななな何を、きききき君は…」
 口をパクパクさせているネクロードを見てクラウスは呆気にとられていた。どうしたんだろう。
「き、君が、そ、そんな事を言うとは…」
「あの、何か変なこと言いましたか?」
「あったりまえだろうがッ。愛の証と言ったら指輪に決まっているだろうっ。そ、それを夜の、夜の・・・・だなどとっ」
「すみません。以前、あなたにとてもよく似ている人にそう言われた物ですから」
「なんだとっ、私に似ている男が君にその、夜の…をあげると言ったのかっ?」
「いえ、私のことをそうだと…」
 次の瞬間、ネクロードの目がつり上がり、鬼のような形相に変わった。
「君は私を裏切ったのか?汚れなき私の魂をこの綺麗な顔で裏切っていたというのかっ」
「違います。そんな、裏切るなんて…」
 クラウスはネクロードの激変した様に驚いて目を見開いていた。クラウスはただずっと気になっていたラウドの言葉を
ほんの思いつきで口にしたにすぎない。だが、それが大失敗だったということは容易に分かった。ガクガクとクラウスを
揺さぶっていた手が一気に首に掛かったのだ。
「もうその男に汚されているんだな?」
 クラウスは必死で首を横に振っていた。
「いいえ。怪我なんて…」
 グッと首が圧迫された。
「嘘つきは嫌いなんだ」
「嘘じゃない…。ただ、知りたかっただけ…」
「何を知りたかったんだ。私の愛をか?」
「あなたが…その人みたいなことを言ったら…嫌だと思って…試すようなこと…言って…ごめんなさい」
「……その男とは何もなかったのか?」
「は…い」
 ネクロードの指から徐々に力が抜けていった。だが、まだ指が首に掛かったままなので安心することは出来なかっ
た。
『この人、ラウドよりずっと怖い人だ』
 今頃そんなことに気付くなんて自分で呆れてしまう。ラウド2号なんて思ってどこかで舐めていたのがいけなかったの
だ。クラウスは恐怖で混乱しそうな頭を必死に働かせていた。これから上手く話を持っていかないと大変なことになって
しまう。
「私をそんなゲスな男と一緒にするな」
「本当に、ごめんなさい」
 ネクロードはやっとクラウスの首から手を離すと気を落ち着けようとしたのか、すぐ横に置いてあったカップに目を留
めると思いっきりゴクゴクと紅茶を飲み干した。
「あ」
「なんだ?」
「いえ」
 クラウスはイライラと歩き回っているネクロードと空になったカップを交互に見つめていた。ネクロードは興奮のあまり
何を飲んだのか気付いていないようだ。
「君は私の愛が信じられなくて私を試したんだな」
 ネクロードがクルリと振り向いた。
「今、指輪を持ってくる」
 ネクロードは足音も荒く部屋を出ていった。クラウスはホッとするよりも体中の力が抜けたようにガクガクと震えてい
た。
『お願い、早く眠って』
 そうしたら手錠の鍵だって探せる。電話だって使えるだろう。逃げることも出来るのだ。
 だがクラウスの願いも虚しくネクロードはすぐに戻ってきた。もしかしたら、あれは本当にただの紅茶だったのだろう
か。
 ネクロードはクラウスの前に恭しく跪くと指輪のケースを開けて見せた。
「ピジョンブラッド?」
「ほう、さすがに目が肥えている。美しいだろう」
 確かに見事なルビーだった。石も大きいしカットも綺麗だ。石を取り囲むような台座が大きくて年代物だというのが一
目で分かる。自慢するだけのことはあるのだろう。でも今のクラウスには血のようなルビーの色が怖かった。この指輪
をはめた女の人たちはどうなったんだろう。
「さあ、指を出してご覧。君が寝ているときにサイズは確認してあるからね」
「でも本当は夜、貰う物なんでしょう」
 声が震えてしまった。
「いいんだ。君は特別だからね。他の男に狙われているのなら尚更だ。早く私の物にしてしまわないと」
 クラウスが震えているのに気が付いていないはずはない。だがネクロードは全く気にすることなくクラウスの左手をむ
んずと掴むと薬指に指輪を通した。
「ほら、ピッタリだろう」
「…ううん、緩い」
「そんなはずはない」
「でも、ほら。石が回っちゃう」
 右手が動かせないから不自然な姿勢のまま指輪をクルクルと動かして見せるとネクロードは押し黙った。
「夕方で指がむくんでいるのにこれだと、昼間だったら落としちゃうかもしれない。大切な指輪なのに…」
 それが悲しかったわけではない。睡眠薬入り紅茶じゃないとしたらこんな風にネクロードのご機嫌を伺っていても意味
がないと思って、それで沈んだ声が出てしまったのだ。だがサイズが合わなくて落ち込んでいると誤解したネクロードは
クラウスの手から指輪を抜くと優しい声で言った。
「サイズは直してあげよう。ただし、明日だ。今日はもうすぐ私たちの大切な時間になるから。わかったね」
 電話してくるよ、と上機嫌でドアを開けたネクロードは、開いたドアと一緒にすぅっと前のめりに倒れていった。『何が大
切な時間なのか分からないけど、とにかくもう全てがお終いだ』という絶望の思いで一杯になっていたクラウスには何が
起きたのかすぐには理解できなかった。が、息を潜めているクラウスの耳に規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
『もしや』
 伸び上がって倒れているネクロードを見たクラウスは思わず「やったぁ」と声を上げていた。
 ネクロードは俯せのまま熟睡していた。