愛と青春の日々 7 
          
           
          
           
          
          
           ガタッ、ゴトッ。 
          
          「…ッ…ン……重い〜」 
          
           ハアハアと肩で息をしながらクラウスは必死でチェストに手を伸ばしていた。 
          
           ネクロードが寝てくれた。それは飛び上がるくらい嬉しかったが、だからといって簡単に逃げることは出来ないのだと
           
          すぐに思い知らされた。 
          
           逃げるにはまず、手錠を外さなければならない。手錠の鍵は当然ネクロードが持っているはずだ。 
          
           ところでネクロードは部屋から出たところで眠り込んでしまったのだが、クラウスのベッドは部屋の入り口に足を向け
           
          ている。つまり右手が手錠で繋がれているのは入口とは反対のベランダ側だったから、ネクロードの服のポケットを探
           
          ろうとしたらベッドを反転させなければならなかったのだ。 
          
           一応ベッドにはキャスターが付いていたから簡単に出来るはずだ。もう少し部屋が広いか、家具がこんなに多くなけ
           
          れば…。 
          
           このスペースでベッドを反転させるのは難しそうだった。だから手の届く範囲、目に見える範囲で鍵を探してみたのだ
           
          が、やはり見つけることは出来ない。せめて電話がないかと思ったのだが、さすがに監禁されている部屋にそんな物が
           
          置いてあるはずもなく、いよいよ覚悟を決めて回りの家具を動かすことに決めたのだ。 
          
           クラウスだって部屋の模様替えくらいやったことがある。いくらクラウスの細腕といったってチェストやドレッサーなら動
           
          かせるはずである。ところが左手しか使えなくて力を入れることが出来ないから、クラウスの奮闘も虚しくチェストはほん
           
          の少し手前に動いただけだった。 
          
          「ふぅ」 
          
           汗を拭って、さあもう一頑張りしようと思って勢いよく左手を伸ばしたら右手にピリリと染みるような痛みが走った。見
           
          ると手錠の輪が擦れて手首に血が滲んでいる。痛みは大したことなかったが血を見て気力が大分萎えた。 
          
           時計が7時を告げた頃からチェストを動かそうとしているのに、30分経ってもその位置はほとんど変わっていない。1
           
          時間もしないうちにネクロードは目を覚ますだろう。その時までにこの辺の家具を全部動かす事なんて出来るのだろう
           
          か。 
          
           絶対に無理だ、と不安が膨れあがってくる。それならいっそベランダに出て助けを呼んだ方がいいんじゃないだろう
           
          か。道を歩いている人とか、隣の人が気付いてくれたら警察を呼んで貰えるだろう。 
          
           助け出されて、その後またレポーターという人たちに囲まれて、根ほり葉ほり話を聞かれたりクラウスの常識のなさを
           
          非難がましい目で見られたり、その上また事務所やクルガンに迷惑をかける事を考えるとあまりやりたくなかったが、
           
          少なくともこのままどうにかなってしまうより余程良いはずだ。 
          
           そう思ってベランダに目をやったとき、ガタガタとガラス戸が揺れた。そういえばさっきからガタガタいってた気がする。
           
          クラウスはとにかくチェストを動かすことで必死だったし、立て付けが悪いか風が強いのだと思って気にしていなかった
           
          のだが、誰かがドンドンとガラスを叩いているような音がしていた。 
          
          『まさか、誰かベランダにいるの?』 
          
           クラウスは立ち上がってじっと外を見つめた。レースのカーテンが掛かっているから外の様子は暗くてほとんど分から
           
          ない。だが、今度は音が少し変わった。コンコンとノックをするような音に変わったのだ。 
          
          『やっぱり誰かいるんだ』 
          
           こちらからは分からないが、外からだと中が明るいからカーテン越しでも部屋の様子が分かるのだろう。クラウスが気
           
          付いたと分かって叩き方を代えたのだ。 
          
           クラウスはヘッドレストを掴むと思いっきり引きずってベッドを動かした。キャスターにはストッパーが掛かっているのか
           
          引っ掻くような嫌な音が響いた。 
          
          『床に傷が付きそうだけど、構うもんか』 
          
           もう誰でもいい。早く普通の状態に戻りたい。こんな事、「バカだな、お前」とみんなの笑い話にしてしまいたい。 
          
           ベランダ側の障害物は少ない。ロッキングチェアが予想以上の重さで手間取ったが、それを何とかベッドの上に乗せ
           
          てスペースを作った。ベッドの端がガンと当たった拍子にサイドボードのガラスが割れたみたいだったが気になんかして
           
          いられない。 
          
           やっとの思いでベランダのガラス戸に辿り着き鍵を開けると、待ちかねたように戸が開いた。 
          
          「遅いよ、何やって…」 
          
           威勢良く入ってきたのは15〜6の少年だった。却ってクラウスはホッとした。どんな大人が出てくるより子供の方が信
           
          用できる気がしたのだ。そして少年はクラウスと部屋の様子を驚いたように口を開けて見ている。 
          
           そうだろうなと自分でも少し可笑しくなった。犬の散歩でもするようにベッドを従えて、そのせいで部屋は結構グチャグ
           
          チャになっている。 
          
          「びっくりさせてごめんね。申し訳ないんだけど警察に…」 
          
           そう言いかけて思い直した。いざ助かるとなると警察沙汰にはしたくないという気持ちが強くなっていた。 
          
          「あの、えっと事務所に電話してほしいんだけど」 
          
           とにかくクルガンに連絡が取れれば何とかしてもらえるんじゃないか。そう思ったのだ。 
          
          「事務所って?おいら、難しいことは分かんないからマルロに言ってくれよ」 
          
          「マルロ?」 
          
          「あ、いけね。下で痺れ切らしてる待ってるから呼んでくるっ」 
          
           少年はダダッと駆けだして「うわっ」とネクロードに躓いたが、すぐに体勢を立て直すと玄関を飛び出していった。3段
           
          飛ばしくらいで階段を下りる音が段々遠ざかる。 
          
          『マルロがいる?ちゃんと付いてきてくれてたんだ』 
          
           そう思ったら安心して体中の力が抜けたようにへなへなと座り込んでいた。 
          
           
          
           
          
           
          
          「クラウスさんっ、大丈夫で、うわっ」 
          
           階段を駆け上がってきたマルロはやっぱりネクロードに躓いて、そのまま思いっきり覆い被さるように倒れ込んでい
           
          た。 
          
          「あ〜ぁ、だから気を付けろって言ったのに」 
          
          「イタタ」 
          
          「マルロ、大丈夫?」 
          
          「あ、はい、大丈夫です…じゃなくてっ、クラウスさんこそ大丈夫ですかっ」 
          
           マルロは慌てて起き上がると出入り口を塞ぐようにして寝ているネクロードを踏んづけてクラウスの側に駆け寄った。 
          
          「すぐに助けに来られなくてすみません。あいつがクラウスさんを抱きかかえてこのマンションに入っていくのは見えたん
           
          だけど部屋がどこか分からなくて探すのに手間取っちゃって、本当にすみませんでした」 
          
           頭を下げて謝るマルロにクラウスの方が慌ててしまった。 
          
          「そんな謝るなんて。お礼を言うのは私の方なのに。来てくれて本当にありがとう。ネクロードがマルロの車は撒いたっ
           
          て言ってたから、もうダメかと思ってた」 
          
          「マルロ、すげえ必死だったもん。悪者に攫われたお姫様を追う勇者みたいだったもんな」 
          
           またお姫様と言われてしまったと思ったが、真っ赤になって照れているマルロに文句など言えるはずがない。 
          
          「あの、君もありがとう。えっと?」 
          
          「おいらはコウユウってんだ。よろしくな」 
          
          「コウユウがベランダをよじ登って探してここだって分かったんです。だけど鍵かかってるしガラスは針金が入ってて割
           
          れないし」 
          
           そんなに一生懸命探してくれたのかとクラウスは胸がいっぱいになっていた。 
          
          「そんなことよりさぁ、早くしなくて良いのか、マルロ。あいつが起きたらやばいんだろ」 
          
           コウユウにそう言われて、何となくほのぼのとしていたクラウスとマルロは慌てて「そうだった」と現状を思い出してい
           
          た。 
          
          「これが取れないんだ」 
          
           手錠を見てマルロもコウユウも顔をしかめた。 
          
          「血だらけじゃないですか」 
          
          「それはいいんだけど。ネクロードが鍵を持っていると思うんだ」 
          
           だがネクロードのポケットに鍵は入っていなかった。マルロとコウユウの二人で他の部屋の引き出しなども探したが、
           
          どこにも鍵は見当たらない。 
          
          「こんな状態なんだし警察呼べば?」 
          
           コウユウの言葉にクラウスも頷いた。警察を呼びたくないというのはクラウスの我が儘でしかない。鍵が見つからない
           
          以上、そんな事は言ってられないだろう。だが、マルロが首を横に振った。 
          
          「クラウスさんは人気商売なんだし、こんな事、表沙汰にならない方がいいに決まってます。もう少し探してみて、どうし
           
          てもダメだったら警察に電話しましょう」 
          
          「マルロがそう言うんじゃしょうがねぇ。じゃ、もう少し辛抱しろよ、クラウス」 
          
          「うん」 
          
           二人が物凄く頼もしく見えてクラウスは素直に頷いたがマルロは激しく狼狽えた。 
          
          「コウユウッ、クラウスさんにそんな失礼な口の利き方したらダメだろうっ」 
          
          「そんなことない。マルロも普通にクラウスって呼んでくれた方が嬉しいんだけど」 
          
           マルロはモジモジしていたが小さい声で「はい」と答えた。そんな様子をコウユウは嬉しそうに見ていたが、ふと気付い
           
          たように「あ、そうだ」と声を上げた。 
          
          「ベランダの物置に大工道具があるんだ。さっきは暗くてよく分からなかったけど手錠をはずせそうな物があるかも」 
          
          「大工道具じゃ無理だろう」 
          
          「とにかく見てみる」 
          
           ベランダに出てガタガタやっていたコウユウが不思議そうな声を出した。 
          
          「何か、すげぇいろんな物があるけど…」 
          
           そう言ってヒョイッとベランダから顔を出した。 
          
          「これってさあ、チェンソーだよな」 
          
           クラウスもマルロも驚いて顔を見合わせてしまった。 
          
          「こんな物、何に使うんだろう」 
          
           コウユウもブツブツ言っている。 
          
          「これで手錠を切断できないかな」 
          
          「でも、刃こぼれしたら危ないから止めた方がいいと思うけど」 
          
           確か銃弾並の威力を持つと何かに書いてなかったっけ、とクラウスが思い出しながら言うとコウユウが残念そうな顔
           
          をした。一度使ってみたかったのだろう。 
          
          「このでかいスコップで叩いて…もダメだろうな。テレビドラマじゃないんだし。どうせならチェーンを切れる大きなハサミ
           
          があれば良かったのに。ほら、やくざ映画とかに出てくるヤツ」 
          
          「そんな物が普通の家にあるわけないだろう」 
          
           そう言ってマルロは苦笑した。 
          
          「でも普通の家にはこんなにたくさん鋸ないよ。鉈もあるし。あー、でも錆びて…」 
          
           ふっとコウユウが沈黙した。 
          
          「どうかした?」 
          
          「…とにかく、早くここ出ようぜ」 
          
           コウユウが奇妙に強ばった顔で言うのが気になったが、話をしている場合じゃないのは間違いない。この手錠さえな
           
          ければ、と視線を落として気が付いた。 
          
          「ねえ、コウユウ君。ドライバーない?」 
          
          「あるけど?」 
          
          「このベッドのアームってねじで留まってるみたいなんだけど」 
          
           マルロが慌てて覗き込んで「本当だ」と明るい声を出した。 
          
          「手錠を壊すんじゃなくてこのアームを外せば良いんですね」 
          
           きつく締められていたので時間は掛かったが1個ねじを外して強引にアームを動かすと隙間から手錠を抜くことが出
           
          来た。 
          
          「やった」 
          
           初めて三人の顔に笑顔が浮かんだ。 
          
           
          
           
          
           
          
          「こんな所に長居は無用だぜ」 
          
           そう言うとコウユウは躊躇なくネクロードを踏んづけて部屋を出た。クラウスもこわごわとネクロードの背中を二歩歩い
           
          た。(何しろ出入り口を塞ぐようにして倒れているから踏まないわけにはいかないのだ)そして最後にマルロが足を乗せ
           
          たときネクロードが「ううっ」と呻いた。 
          
           ギョッとして硬直しているマルロの腕をコウユウが引っ張ると重石の無くなったネクロードがよろよろと起き上がった。 
          
          「クラウス?何をしているんだ。そいつらは…」 
          
           一緒にいるのが誰か分かったのだろう。 
          
          「クラウスッ」 
          
           ネクロードの形相が変わり、その凄まじい視線に縫い止められたようにクラウスとマルロは身動きも出来ない。一人コ
           
          ウユウだけが果敢にネクロードにタックルして、まだふらついていたネクロードを室内に突き飛ばすとドアを閉めて押さ
           
          えつけた。 
          
          「早く逃げてっ」 
          
           ネクロードの怒号がドアが向こう側から聞こえ、ドアを開けようと凄い勢いで引っ張るのを呆然と見守っている二人に
           
          コウユウが焦れたように叫んだ。 
          
          「何やってんだっ。マルロッ、走れっ」 
          
           その声に突き動かされるようにクラウスとマルロはワッと走りだした。階段を駆け下りながらコウユウがどうしたのか
           
          気になったが、今度は怖くて立ち止まることが出来ない。だから後ろからコウユウのものらしい軽い足音がトントンと階
           
          段を飛び降りる音が聞こえて心の底からホッとした。が、その後すぐにドアが荒々しく開く音がしてクラウスは再び恐怖
           
          に襲われていた。 
          
          「クラウス、こっち」 
          
           マルロが手招きする方向にマルロの車が見えた。と、後ろからコウユウが追い越していって、マルロが持っていたキ
           
          ーをサッと取って先に車まで走るとエンジンを掛けた。そして自分はシートを倒して後ろの座席に滑り込む。余りにも鮮
           
          やかで無駄のない動きに驚きながら、少し遅れたクラウスが助手席に座るとマルロが一気に車を発進させた。 
          
          「早く早く」 
          
           そう言いながらコウユウはネクロードが車で追いかけてこないか、後ろをジッと見ている。 
          
          「付いてきそう?」 
          
           心配になって聞くクラウスに後ろを見据えたまま「分からない」と短く答えた。 
          
          「後を追って来たって、すぐ車を出せるとは思えないし大丈夫だよ、きっと」 
          
           マルロが努めて明るい声で言うと「まだ安心しちゃダメだってば」と後ろを見たままコウユウが硬い声を出した。 
          
          「コウユウ君?何か、あったの?」 
          
          「あいつ、何するか分からない。人殺しかもしれない」 
          
           車内の空気が凍り付いた。 
          
          「おかしいと思ったんだ。あんなに色んな種類の刃物、普通の家じゃ使わないよ。錆びてるのもあって最初はただの錆
           
          だと思ったんだけど柄が変な色になってて、それに」 
          
           クラウスはコウユウは少し震えているのに気が付いた。 
          
          「刃に髪の毛が絡みついていた。あいつ、絶対やばいことしてるんだ。あのスコップだって…だからもっと遠くへ行かな
           
          きゃ。クラウスもヤツの車がその辺から出てこないか、ちゃんと見張って」 
          
           クラウスも震えながら頷いていた。 
          
           
          
           
          
           
          
           とにかく少しでもネクロードの家から離れるように凄い勢いで車を走らせて、やっともう大丈夫と思えるようになってか
           
          ら、これからどうするか相談しあった。 
          
           本当はクラウスはすぐにも家に戻りたかったのだが、それだけはダメだとマルロに強硬に反対されたのだ。 
          
          「あいつ、クラウスさんの家を知ってるんです。だから今戻ったらみすみすネクロードのヤツに見つかりに行くようなもの
           
          です」 
          
          「じゃあ、事務所に」 
          
          「事務所も知られてるんだろ?」 
          
           コウユウにまで言われてしまった。どうも上手く頭が働いてないらしい。それでも少し妙なことに気が付いた。 
          
          「どうしてネクロードが私の家を知ってるって分かるの?事務所なら調べようがあると思うけど家の住所は事務所の人
           
          だって一握りの人しか知らないのに」 
          
          「あいつ、学生課に自由に出入りしてたから」 
          
          「学生課って、大学の?」 
          
           マルロが頷いた。 
          
          「だから、そこで住所を調べたんだと思うんです。その話をすると少し長くなるんで、取り合えずどこかに落ち着きましょ
           
          う。狭いですけど、うちに来ませんか?」 
          
          「ダメだよ」 
          
           コウユウが待ったをかけた。 
          
          「クラウスの家を調べたんならマルロの住所だって知ってるかもしれないだろ」 
          
          「まさか」 
          
          「念には念を入れた方がいいって。だから、おいらの隠れ家においでよ」 
          
           ニコッと笑ってコウユウが言った。 
          
           
          
           コウユウの隠れ家は小さいアパートの一室だった。 
          
          「じゃあ、コウユウ君はマルロの義理の弟になるんだ」 
          
          「そう、おいらの兄貴とマルロの姉貴が結婚したから。今は新しい家に4人で住んでるけど、こんなぼろアパートだろ。新
           
          しい借り手が付かなくて大家のおばちゃんがおいらが使ってもいいって言ってくれたんだ」 
          
           話をしているうちにマルロが紅茶を淹れて持ってきてくれた。 
          
          「はい、これを飲んだら少しは落ち着きますよ」 
          
          「ありがとう」 
          
           ここに着いてすぐにクルガンに電話を入れようとした。ところが情けないことにクラウスは事務所の電話番号を思い出
           
          すことが出来なかったのだ。携帯のメモリーに頼りすぎていたのがいけなかったのかもしれないが、あんなに簡単で覚
           
          えやすいと思っていた番号なのにどんなに考えても分からない。さすがに家の番号は覚えていたが、父のキバは三日
           
          前からヨーロッパに出張に出ているし、それに合わせてメイドも休暇を取っていたから意味がない。 
          
           マルロは「こんな異常事態で混乱してるんだから仕方ないですよ」と慰めてくれたが、これからのことも含めて一刻も
           
          早くクルガンに相談したかったから自分の不甲斐なさが苛立たしかった。 
          
          「迷惑掛けてごめんね」 
          
          「謝ることないって。布団もあるから泊まれるし」 
          
           コウユウの暖かい言葉も嬉しかった。 
          
          「そういえばさ」 
          
           ズズッと紅茶をすすってコウユウがマルロに尋ねた。 
          
          「さっきの学生課の話って何?」 
          
          「それなんですけど」 
          
           マルロは驚くべき話を始めた。 
          
           
          
           
          
           マルロはネクロードの存在に大分前から気が付いていた。 
          
          「僕、クラウスに付きまとって迷惑かけちゃったし(クラウスは「ううん」と首を振った)シーナにも怒られたんだけど、でも
           
          本当に伝記を書きたかったから簡単には諦められなかったんです。だから、もうやめるって言ってからも実はクラウス
           
          の後を追ったりしてたんです」 
          
           そう言ってマルロはクラウスに「ごめんね」と謝った。 
          
          「それで、見つからないように隠れられるポイントを探すでしょう。そうするとあいつも必ずいるんです。多分、僕よりしつ
           
          こかったと思う。だけどどう見たって大学生って年齢じゃないし怪しいなと思って凄く気になってたんです」 
          
           僕も人のことは言えないけど、と言ってマルロは苦笑した。 
          
           それがある日偶然、大教室でネクロードが落とした財布拾った。もちろん、すぐに学生課に届けたのだが、事務の女
           
          性が少し頬を染めて「私が届けておくわ」と言ったのだ。知り合いなのかと聞いてみると、今付き合っている人なのだと
           
          いう。家の事情で大学に行けなかったので有名な先生の講義を聴いてみたいと彼が言うから時間割を教えてあげたと
           
          嬉しそうに彼女は話した。それだけなら別に構わないだろう。だが、どうやら彼女はネクロードに請われるまま、学籍簿
           
          などを見せているらしいのだ。 
          
           マルロの頭に「ストーカー」という言葉がチラチラと掠め始めたのはそれからだった。 
          
           だからある日、ネクロードを見かけたときに思い切って後を付けてみたのだ。 
          
          「その時、ネクロード、どこに行ったと思います?」 
          
           もちろんそんなこと、分かるはずがない。クラウスが首を横に振るとマルロは意外なことを言った。 
          
          「クラウスのマンションに入っていったんです」 
          
           もちろん、マルロも最初からクラウスのマンションと知っていたわけではない。凄いマンションだと思って見上げていた
           
          ら、中から出てきた女の子が「あなたもクラウスのファンなの?」と言ったので分かったのだ。だから余計に驚いた。 
          
           学生課に届ける前にみた免許証の住所は別の所だった。名刺に書いてあった会社の住所ももちろん違う。それなの
           
          に何故このマンションに入っていったのだろう。しかも入っていったきり、全然出てこないのだ。 
          
          「あのマンションってセキュリティ厳しいでしょう?」 
          
           クラウスは頷いた。 
          
          「なのに関係ない人が平気で出入りするのって凄く変ですよね。だから気になって、マンションの入り口をビデオで撮っ
           
          たんです」 
          
           何日も撮影しているうちに、ネクロードが夕方入って朝出てくることが多いことが分かった。住んでいるわけでもないの
           
          に何故一晩中マンションにいるのか、ますます不思議だった。 
          
           そこへ、やっとチャンスが訪れた。 
          
          「クラウス、昨日僕の車にぬいぐるみを落としていったでしょ」 
          
          「え?あれ、マルロの車に落としたの?でもマンションの前に落ちてるのが見つかって」 
          
          「僕が持っていったんです。気がついて事務所に届けようとしたら、ワープのファンが押し掛けたって思われたみたいで
           
          ビルに入れてもらえなくて」 
          
           それでマンションに持っていくことを思いついたのだ。警備の厳しそうなマンションだったから、今までは不審者と間違
           
          えられるのが嫌でエントランスには近づいたことがなかったのだが、落とし物という理由があれば大丈夫かもしれない。
           
          それに上手くすればネクロードがマンションの中で何をしているのか分かるだろう。 
          
           そう思ってマンションに入っていってマルロは腰を抜かすほど驚いた。 
          
          「あいつ、マンションの警備員だったんです」 
          
          「うそ…」 
          
           呆然と呟いたクラウスに「本当なんです」とマルロが告げた。 
          
           警備員の制服を着て帽子を被られてしまうと、意外に誰でも同じように見えてしまう。だからマルロも最初は気が付か
           
          なかった。警備員がハッとした様子を見せたので改めて顔を見てネクロードだと分かったのだ。そして、驚いたあまりテ
           
          ディベアを落として慌てて逃げてしまったのだ。 
          
          「信じてもらえますか」 
          
           信じられない話だったが、納得している自分もいた。 
          
          「見せたことがある」 
          
          「え?」 
          
          「ファンの女の子からテディベアを貰ったときにマンションの警備員に話しかけられて、それで見せてあげて…。あれが
           
          ネクロードだったんだ」 
          
           そのテディベアをマルロが持っていたのを見てネクロードはどう思ったのだろう。何故耳を切ったのだろう。「いつも君
           
          を守ってきたのに」と言っていたのは、まるっきり嘘でもなかったのだ。 
          
           自分の知らないところでいろんな思いが渦巻いている事を思い知らされて、クラウスは悄然としていた。 
          
          「大丈夫?」 
          
          「うん、大丈夫」 
          
           クラウスは意識して笑顔を作るとマルロに礼を言った。 
          
          「本当にありがとう。私一人だったら何が起こっていたかすら分からなかったと思う」 
          
          「そんな」 
          
           マルロは嬉しそうに顔を赤らめたが、思い出して「電話、どうしますか」と聞いてきた。 
          
          「何か思い出せました?それとも疲れてるなら明日にします?どっちにしろお父さんがいないんだったらここに泊まれる
           
          ように布団を敷きますけど」 
          
          「…一つだけ思い出したんだけど」 
          
           唯一思い出したのは父がいつも「090…」と言いながらかけていたシュウの携帯の番号だった。 
          
           それじゃあ、と言って渡された電話を前にクラウスは躊躇っていた。 
          
           父はしょっちゅうシュウの携帯にかけていたがクラウスがかけたことは一度もない。それだけでも心臓がドキドキして
           
          いるのに、クルガンへのメッセンジャーとしてシュウを煩わすのは気が進まなかった。 
          
           どうしたの?と訝しげな二人の視線に促されて受話器を取り上げた。ボタンを押す指が震えている。こんな時だという
           
          のに心臓も跳ね上がるように鳴っていた。 
          
           シュウは何て言うだろう。不機嫌そうな声で「何の用だ?」と言うだろうか。それともあの響くテノールで「珍しいな」と言
           
          って笑ってくれるだろうか。 
          
           右手にぶら下がったままの手錠が見えた。どうしてもはずせなくて、取り合えずマルロが消毒して包帯を巻いてくれ
           
          た。このことを知ったら少しは心配してくれるだろうか。 
          
          『それより何で私はこんな事ばかり考えているんだろう』 
          
           期待と不安と何だか分からない気持ちが交錯して、だから電話がかかったとき咄嗟に口を利くことが出来なかった。 
          
           シュウはぐずぐずしてるのが嫌いだ。だからちゃんと話さないとと思うのだが、喉がひり付いたように声が出なかった。 
          
          「もしもし?」 
          
           だが、受話器から聞こえたのはシュウの声ではなかった。間違えたのかと思ったが聞き覚えのある声だ。 
          
          「もしもーし。誰?」 
          
           シーナだ。どうしてシーナがシュウの携帯に出たのだろう。シュウと一緒にいるのだろうか。いつ、二人はそんなに親し
           
          くなったんだろう。 
          
          「ねえ、ちょっと誰なんだよ。悪戯なら切るぞ」 
          
          「あ」 
          
          「…クラウス?もしかしてクラウスか」 
          
          「シーナ?」 
          
          「お前、どこにいるんだよっ。無事なのかっ。大丈夫か?」 
          
           矢継ぎ早に質問を浴びせられた。 
          
          「大丈夫」 
          
          「一人か?それともお前のこと攫ったヤツいるのか?」 
          
          「どうしてそんなこと知ってるの?」 
          
          「あー、もうっ。何でこんな時に暢気なこと言ってんだよ。ってことは本当に大丈夫なんだな」 
          
          「うん」 
          
          「ちょっと待ってろ」 
          
           その後、シュウさーんと呼ぶ声が小さく聞こえた。 
          
           どうしてかは分からないがシーナはクラウスが連れ去られたことを知っているらしい。きっとシーナも心配して探してく
           
          れていたのだ。それなのにさっきシーナに一瞬感じたあの気持ちは何だったのか考えると、とても申し訳なかった。 
          
          「クラウスか?」 
          
          「シュウ」 
          
           受話器の向こうからホッと安堵の溜息が漏れたのが伝わってきた。途端にクラウスの中でもいろんな感情が膨れあ
           
          がってきた。 
          
           気が付くとクラウスはシュウの名前を呼びながら涙をポロポロこぼしていた。 
          
           
          
           
           
          
           
          
           
           
          
           
          
                
          
           
          
            
          
          
           
           
          
           
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