愛と青春の日々 自立編(前編) 
          
           
          
           
          
          
           クラウスは一大決心をしていた。 
          
          「ちゃんと大人にならなくちゃ」 
          
           もうすぐ自分は成人である。にもかかわらず、どうも周りの反応を見るに「クラウスは子供っぽくて危なっかしい」という
           
          評価が下されているようなのである。 
          
           どうしてなのだろう、とかなり真剣に考えた。 
          
           確かに自分が周りの動きとずれているかもしれないということは多少自覚していた。だからそれが危なっかしく見える
           
          のだろうというのは何となく分かった。だけど、どうしてそれが子供っぽいということに繋がるのかが分からない。 
          
           あと、クラウスについてよく言われるのが「世間知らず」とか「箱入り」とかいう言葉だった。これは要するに社会人とし
           
          ての常識がないということだろう。社会人として未熟だから、だから子供っぽいと思われているのだろうか。 
          
           ちょっと違うような気がしたが、取り合えずクラウスなりに対策を立ててみた。 
          
           自分が子供っぽくて頼りないのなら、頼りになるきちんとした大人を手本にすればいいのだ。 
          
           クラウスが白羽の矢を立てたのはカミューだった。優しくて話しやすいというのもある。だが、一番大きかったのは大
           
          人揃いのデュナンの中でもカミューは飛び抜けてしっかりしているように見えたからだ。 
          
           物腰は柔らかいのに考え方や発言に一本芯が通ってる。頭の回転が速いから何か事が起きたときにもスマートに対
           
          処できる。マスコミの対応もほとんど全て受け持っているからとても忙しいと思うのに嫌な顔をしているところを見たこと
           
          がない。周りに対する配慮も行き届いていて、困ったことがあるとすぐに助言をくれるところも見習いたい。何よりもデュ
           
          ナンのリーダーなんだから間違いないと思ったのだ。 
          
           もっともリーダーというのに関しては「単に年齢で決まったんだけどね」とカミューは言っていたが、個性派揃いのデュ
           
          ナンを上手くまとめられるのはカミューだけじゃないかとクラウスは思っている。 
          
           だからカミューについて歩いて見習っているつもりなのに成果は一向に上がらない。クラウスは相変わらず「世間知ら
           
          ずのお坊ちゃま」のままである。 
          
           そうこうしているうちに先日の誘拐事件である。ネクロードのことだってラウドとのゴタゴタだって、結局クラウスがもう
           
          ちょっとしっかりしていれば、未然に防げたことだったかもしれないのだ。 
          
           この二つの事件のせいでクラウスは「しっかりした大人になる」ことを明確に意識し始めていた。 
          
           しかし「しっかりとした大人になる」といっても一体何をどうすればいいのだろう。これまでの努力では全然足らなかっ
           
          たのだ。それに何を足せばいいのだろう。 
          
           実はクラウスはヒントを掴んだと思っていた。 
          
           それは「夜のおもちゃ」である。 
          
           どうもこれは重要なポイントであるような気がするのだが、みんな肝心なところに来ると口を濁してきちんと教えてもら
           
          えない。 
          
           きっと自分で考えろということなのだろう。そう思うのだが、なかなか難しいのは人によって反応が極端に違うことだ。
           
          ラウドはニヤニヤしていたのにデュナンのメンバーは怒り心頭だった。ネクロードにいたっては首を絞めようとまでした
           
          のだ。 
          
          『あの刑事さんも凄い反応してたっけ』 
          
           誘拐事件のあった日の深夜、ビクトール刑事とフリック刑事がホテルに尋ねてきたのだ。 
          
           クラウスはあの夜のことを少し複雑な気分で思い出していた。 
          
           
          
           
          
           
          
           ネクロードの大捕物があった後、クラウス達はホテルのスウィートルームに入ったのだが、なかなか落ち着くことがで
           
          きなかった。 
          
           誘拐の件は徹底して伏せられていたが、逮捕時に関わっていたことで所轄署の刑事が話を聞きに来たし、ネクロード
           
          の余罪がとんでもなさそうだというのがわかって今度は警視庁の刑事が改めて証言を取りに来たりして結構慌ただしか
           
          ったのだ。 
          
           マスコミにもアッという間にマイクロトフの武勇伝が伝わって(ホテルの客が携帯でテレビ局に知らせたらしい)その対
           
          応のために人が頻繁に出入りしていた。 
          
           もっともクラウスはベッドルームの方に隔離されていて、手錠を外して貰い元看護婦のヨシノから傷の手当を受けたり
           
          していたから直接その場にいたわけではない。それでもドア越しにその慌ただしさは感じられた。 
          
           それがようやく落ち着いたのは深夜を過ぎた頃だった。 
          
           クラウスは相変わらずベッドルームに一人でポツンとしていた。別に仲間はずれにされているわけではなくて、あんな
           
          大変なことがあったんだから早く休ませてやろうという周囲の配慮である。 
          
           シャワーを使ってパジャマにも着替えてすっかり寝る用意は出来ているのだが、なんだか落ち着かなくて寝る気にな
           
          れなかった。それはドーンと大きなダブルベッドのせいかもしれないし、やっぱり昼間のことで少し神経が高ぶっている
           
          のかもしれなかった。 
          
           それでドアを細めに開けて居間の様子を窺うと、会議といってもネクロードが捕まった安心感からか、お酒を飲みなが
           
          らリラックスした雰囲気でやっているらしい。しかもシーナまでちゃっかり混ざっている。それならクラウスが顔を出しても
           
          問題はないだろう。 
          
           部屋を出るタイミングを見計らっていると、ちょうどいい具合にビクトールとフリックの両刑事が尋ねてきたのだ。 
          
          「今日は色々ありがとうございました」 
          
           出ていって挨拶するとビクトールは気まずそうな顔をし、フリックは申し訳なさそうな顔をした。 
          
          「事情聴取にいらしたんですよね」 
          
          「いや、それは明日でいいんだ。あんたがもっと落ち着いてからで。今日は経過報告をしておこうと思って来ただけだか
           
          らな」 
          
          「今日はゆっくり休んだ方がいい」 
          
          「でも、もう落ち着いてますし、お話なら出来ますけど」 
          
           フリックとビクトールは顔を見合わせている。どうしたのかな、と思っているとマスコミ発表の連絡のために席を外して
           
          いたクルガンが戻ってきた。 
          
           ビクトールとフリックがいるのを見るとクルガンの表情が一変した。 
          
          「貴様ら、クラウスを囮にしたな」 
          
           よほど腹に据えかねていたのか、物凄い迫力だった。 
          
          「どうしてこのホテルを指定するのか不思議だったが、ここはお前らの管轄なんだろう。最初からネクロードを誘き出す
           
          つもりで」 
          
          「囮?」 
          
          「!クラウス…」 
          
           ここで初めてクラウスがいる事に気がついたクルガンはギョッとしたように口を噤んだ。だがクラウスが問いかけるよ
           
          うに見上げると、やや表情を和らげて話を続けた。 
          
          「おそらくネクロードが簡単に諦めるようなヤツじゃないと知ってたんだろう。だから絶対お前を追ってくると予想してこの
           
          ホテルを指定したんだ。違うか?」 
          
           するとビクトールはガバッと土下座した。 
          
          「すまないっ。どうしてもヤツをここで押さえたかったんだ。本当に申し訳ないっ」 
          
           フリックも一緒になって頭を下げた。 
          
          「その代わり警備は万全に…」 
          
          「でも」 
          
           カミューが追及した。 
          
          「実際に取り押さえたのはマイクロトフですよね。マイクがいなかったらシュウもクラウスも刺されていたかもしれない」 
          
          「それは本当に申し訳なかった。ヤツがロビーに入るところを押さえようと外の警備に神経を注いでいたんだ。まさか最
           
          初から中で待っているとは思わなかった。でも、これは言い訳だな。完全に俺達の手落ちだった。あんた達には詫びと
           
          礼の両方をいわなきゃならん」 
          
          「最初から中で待ってたって?」 
          
           クルガンが訝しそうに呟くとフリックが頷いた。 
          
          「ネクロードのヤツ、あなた方の事務所の電話を盗聴していたらしい」 
          
           呻き声とも付かない声が上がった。 
          
          「誘拐のことは公に出来ないから、鑑識を寄越すわけにもいかなくて。だからそれを伝えに来たんだ。どこかに盗聴器
           
          があるはずだから探した方がいい。盗聴器によっては他のヤツにも盗聴されかねないからな」 
          
          「だけどどうやって事務所に入り込んだんですか」 
          
           フリードの顔が強ばってる。総務部長としては由々しき問題だろう。 
          
          「警備員の制服を着てたのかもしれない」 
          
           クラウスがポツンと言うと「なるほど」とシュウが頷いた。 
          
          「警備員なんて似たような制服だから、誰も疑わずに通していたのかもしれないな」 
          
          「要するに、敵さんは相当用意周到だったって事か。言っちゃ何だが、囮でも何でも早く捕まえて貰って良かったんじゃ
           
          ないか」 
          
          「おい、シードッ」 
          
           クルガンが厳しい声を出したがクラウスはシードに賛成だった。 
          
          「私も早く捕まえて貰って良かったです」 
          
          「クラウス…」 
          
          「いつネクロードが来るか分からなくて毎日ビクビクしているよりは良かったです。それに元々私がぼんやりしているか
           
          らいけなかったんだし」 
          
           それは違うぞ、と誰かが声を上げたがクラウスは首を振った。 
          
          「私のせいで迷惑掛けたから、だからそれはいいんです。でもシュウやマイクが危ない目にあったんだから二人には謝
           
          ってください」 
          
           そう言うとビクトールが真剣な眼差しでクラウスを見ていた。 
          
          「いや、やっぱりあんたに一番謝らないといけないな。本当にすまなかった」 
          
           ビクトールに深々と頭を下げられてクラウスは困ってしまった。 
          
          「まあ、刑事の護衛を断った俺にも責任はあるし」 
          
           クルガンが言うとようやくビクトールが頭を上げてくれたのでクラウスはようやくホッとした。そして大きな図体で申し訳
           
          なさそうにちょこんと座っている二人が気の毒になってしまった。 
          
          「あの、お二人もお疲れですよね。よろしかったらお酒をどうぞ」 
          
           どの酒をつげばいいのか分からなくてウロウロと手を動かして迷っているクラウスにフリックが慌てて断った。 
          
          「いや、まだ勤務中だから酒はまずいんだ。気持ちだけありがたく受け取っておくよ」 
          
          「そうなんですか。気がつかなくてすみません…」 
          
           段々元気のなくなる声に、今度はビクトールが慌てた。 
          
          「あっ、み、水っ、水をくれるかな。喉が渇いてるんで…」 
          
          「はいっ」 
          
           ニコニコとペリエの瓶を取り上げてグラスに注ぐクラウスを見ながら、クルガンが「それで」と話を続けた。 
          
          「クラウスの事情聴取はどうなるんだ?やはり公にしないとまずいだろうか」 
          
          「いや、多分大丈夫だと思う。あの物置から相当出てきたからな」 
          
           グラスを二人に差し出すクラウスの頭をシードが撫でながら「お前も首絞められたんだもんな」と言うとビクトールもフリ
           
          ックもギョッとした顔をした。 
          
          「本当なのか?」 
          
           クラウスがコクッと頷いた。 
          
          「でも大したことないんです。何か、愛の証とかいう話になったら態度が豹変して」 
          
          「愛の証って、あいつご自慢の指輪のことか?」 
          
          「そうなんです。急に怒り出したんですよね…」 
          
          「お前、変なこと言ったんじゃないのか」 
          
           シードに言われてクラウスはちょっとムッとした。 
          
          「変な事なんて言ってないです。愛の証をくれるって言うから夜のおもちゃですかって…」 
          
           言い終わらないうちにビクトールが飲んでいた水を盛大に吹き出した。それはもう見事な霧状になっていてクラウスは
           
          向こうに虹が見えるんじゃないかと思ったほどだった。 
          
           
          
           
          
           
          
           やっぱり「夜のおもちゃ」には何か特別な物があるのだろう。そうでなければ凶悪犯と百戦錬磨の戦いをしている刑事
           
          さんがあんな過剰反応を見せるはずがない。ビクトール刑事だけでなくフリック刑事も赤くなって何か言いたそうだった
           
          し、メンバーは決まり悪そうに無闇に咳払いをしていた。そして、シーナは爆笑していたのである。 
          
          「凄い挑発してるじゃん、クラウスもやるね」 
          
           …悔しかった。シーナは「夜のおもちゃ」の意味が分かるのだ。 
          
           反応のバリエーションが広がって余計に分からなくなっていたから、いつものクラウスならすぐシーナに聞いているとこ
           
          ろなのだが、それだけはしたくなかった。 
          
           チラリと隣を見ると、そのシーナは一生懸命ノートを取っていた。 
          
           言い忘れたが今は退屈なテスラ先生の講義の真っ最中だ。クラウスは考え事に夢中で何も聞いていなかったが、どう
           
          せシーナが「これ、まとめといて」と言ってノートを渡してくれるはずだから全然構わないのだった。 
          
           クラウスは憂鬱だった。そう、少なくともシーナはダメなのだ。男の意地とプライドにかけて、というか、本当はちょっと
           
          した理由があった。 
          
           スウィートルームでの話は、更に続きがあるのである。 
          
           
          
           
          
           
          
           ビクトールとフリックが引き上げてからもクラウスはベッドルームに戻る気がしなくてぐずぐずと残っていた。 
          
           余りにもみんなに「疲れてないか?」とか「寝た方がいい」と言われるので口実が欲しくて「何か飲みたいんだけど」と
           
          テーブルの上の飲み物に手を伸ばすとヨシノにやんわりと窘められてしまった。 
          
          「お酒はダメよ。ホットミルクをあげましょうね」 
          
           相変わらず子供扱いされて、かなり不満なクラウスである。もっともこうやってぐずぐずしていること自体が子供っぽい
           
          行為なのだから文句も言えないのだが。 
          
           しかも少しすると疲れが出てきたのか気が付くとシードに凭れてウトウトしている。何度目かの時にフッと体が宙に浮く
           
          ような気がして目を開けるとシュウの顔が間近にあった。しばらくシュウの顔を見つめて、それから自分が抱きかかえら
           
          れていることに気付いたのだ。 
          
          「うわ」 
          
           慌てて足をばたつかせると床に下ろしてもらえた。 
          
          「無理をしないで寝た方がいい」 
          
          「う、うん。でも」 
          
           一人になるのが寂しいだなんて口が裂けても言えない。 
          
          「ベッドが大きすぎて」 
          
           理由にならないことをモゾモゾと言うとシーナが「ダブルなの?」と聞いてきた。頷くと「じゃー、俺も寝よっかなあ」と言
           
          いだした。 
          
          「これから家に帰るのもかったるいし、一緒に寝ようか」 
          
          「…うん」 
          
          「よーし、抱き枕の代わりになってやるからな」 
          
           シーナの言葉に笑っていると、ヨシノがフリードに「一人で怖かったんじゃないかしら。あんな目にあったばかりだし」と
           
          言っているのが聞こえてきた。そういう訳じゃなかったのだが、言い訳する前にシーナにベッドルームへ引っ張られてし
           
          まった。 
          
          「へー、結構いい部屋だな」 
          
          「本当に良いの、帰らなくて」 
          
          「俺が一緒に寝るんじゃイヤ?他の人の方が良かったとか?」 
          
          「ううん、そんなことない。大体、子供の添い寝じゃないんだから一緒に寝てくれる人なんていないよ」 
          
           笑って答えると、シーナが「可哀想に…」とポツリと呟いた。 
          
          「何が?」 
          
          「シュウさんに運んで貰えば良かったじゃない。寝てたんだから」 
          
          「だって目が覚めちゃったし…悪いもの」 
          
          「お姫様だっこで、せっかく良い雰囲気だったのに」 
          
           顔がパッと赤くなった。またお姫様だ。 
          
          「そんな、女の子じゃないのに、そんなの…」 
          
          「大体目の毒だって。シルクのパジャマだけなんて無防備すぎ」 
          
          「無防備って、何で?」 
          
          「あ、俺、シャワー使うね」 
          
           フンフンと鼻歌を歌いながらシーナはバスルームに消えていった。 
          
          「そっか、こんな格好じゃまずかったんだ」 
          
           確かにパジャマ姿で目上の人の前に出るなんてとても失礼だった。みんなが早く寝ろと言ったのは、それもあったの
           
          かもしれない。『着替えていけば良かった』と反省しながら、結構気持ちが落ち込んでいるのは、やっぱり疲れているか
           
          らかもしれない。 
          
           ぼんやり考えていると髪を拭きながら戻ってきたシーナが驚いた顔をした。 
          
          「待ってなくて良かったのに。いろんな事があったから神経が高ぶってるのかもしれないけど、自分で思ってる以上に疲
           
          れてる筈なんだから」 
          
           ほら、早く寝て、とベッドに押し込まれた。続いて反対側からシーナがベッドに入って「おおー」っと声を上げた。 
          
          「修学旅行みたいだよね」 
          
           クラウスが言うとシーナも「そうだな」と言った。 
          
          「もっともダブルベッドっていうのはなかったけどな」 
          
           それから何がおかしいのかクスクスと笑い出した。 
          
          「どうしたの?」 
          
          「だって、さっきのシュウさんの顔見た?」 
          
          「…」 
          
          「俺がクラウスと一緒に寝るって言ったら」 
          
           そう言って笑い続ける。 
          
           それはクラウスも気付いていた。シーナの言葉に頷いたらシュウがとても驚いていたようなのだ。 
          
          『きっと呆れてたんだろうな』 
          
           クラウスはこっそり溜息をもらしたが、シーナは「まー、その調子で良いんじゃない」と言った。 
          
          「は?」 
          
          「どっちかって言うと振り回した方が勝ちだから頑張って。じゃ、おやすみ」 
          
          「………おやすみ」 
          
           言うだけ言うとシーナはすぐに寝てしまった。こんなに寝付きが良いとは知らなかったが、クラウスはシーナの言葉の
           
          意味が分からなくて、すっかり混乱してしまっていた。 
          
           クラウスを振り回しているのはシーナの方だ。 
          
           何だか分からないがシーナがデュナンにすっかり馴染んでいるということだけはよく分かった。今日、クラウスのため
           
          に協力してくれたからだろうが、シュウとも随分気安く話をしていた。「一緒に寝ようか」と言ったときもシュウの方を見な
           
          がらわざと言ってたみたいだ。どうしてそんなことをシュウに言えるのだろう。クラウスだってシュウと話ができるようにな
           
          ったのはごく最近のことなのに。 
          
           シーナにも迷惑を掛けたんだからそんなことを考えたらいけないと思う。でも、でも…。 
          
           すぐに睡魔が訪れてあまり考えていられなかったけれど、その夜重苦しいような夢を見たのはネクロードのせいだっ
           
          たのか何だったのか、クラウスにはよく分からなかった。 
          
           
          
           
          
           
          
           いつの間にかシーナに対して妙なライバル意識が芽生えていた。だから、シーナに頼ることは出来ないのだ。「夜の
           
          おもちゃ」については自分で調べればいい。それに、そうでないと「ちゃんとした大人」にはなれないような気になってい
           
          た。 
          
          「なに?」 
          
           どうやら随分長い時間シーナをまじまじと見ていたらしい。何でもない、と言うクラウスの顔を心配そうに覗き込んだ。 
          
          「気分悪いのか?大丈夫か」 
          
          「大丈夫。ちょっとボーッとしただけだから」 
          
           おもむろにシーナは顔を近づけると、コツンと額を合わせた。途端に周りがザワッとどよめいて誰かが「きゃぁ」と叫ん
           
          だ声がする。 
          
          「えー、何か質問ですか」 
          
           テスラ教授が気がついて大教室を見回したが誰も手を挙げないので、また古びたノートを読み始めた。 
          
           シーナはクスクス笑いならがクラウスに囁いた。 
          
          「みんなちゃんと講義を聞いてなきゃダメじゃん。なあ」 
          
          「?」 
          
          「だーかーら、みんなテスラ先生の話よりも誰かさんの様子の方が気になってるらしいぜ」 
          
          「それって…私?でも別に何もしてないのに何でみんな騒いだんだろう」 
          
           腑に落ちない顔をしているクラウスに「ま、そういうところが良いとこなんだけどさ」とシーナは呟いた。 
          
          「それより熱はないみたいだけど、あんまり無理するなよ」 
          
          「…ごめんね」 
          
           今度はシーナが不思議そうな顔をしたが、テスラ教授が板書を始めたので慌ててノートに写しだした。 
          
           ネクロードの犯行が明らかになるにつれ、その凄まじさに誘拐事件のことを知っている人は皆、クラウスが事件の後
           
          遺症に悩まされるのではないかと気遣ってくれている。シーナは一緒にいる時間が多いからよけいに心配してくれるの
           
          だ。それなのに勝手にライバル意識を燃やしている自分が恥ずかしかった。だから思わず謝ってしまったのだ。なんだ
           
          かドンドン自分が小さい人間になっていくような気がしてしょうがない。 
          
           どうしてこんな風になってしまったんだろう。 
          
           講義が終わった後、シーナは約束があると言って走っていったが、それでもクラウスに「気を付けて帰れよ」と声を掛
           
          けていくのを忘れなかった。 
          
           ちゃんとした大人の前にシーナを見習わないといけないのかもしれない。 
          
          「大丈夫ですか?」 
          
          「具合悪いんですか?」 
          
           声を掛けられて顔を上げると女の子が二人立っていた。仲が良くていつも一緒にいる上、揃ってピンクの服を着てい
           
          る、ちょっとした名物の女の子達だ。 
          
          「御厨さんに三国さん」 
          
           通称ミクミクのコンビが心配そうな顔をしている。 
          
          「さっきシーナが熱を測ってたでしょ」 
          
          「ああ、あれ。全然大丈夫。心配かけてごめんね」 
          
           ニコッと笑うとミクミクコンビは「きゃっ」と頬を染めた。 
          
           こういう反応をされるとクラウスは困ってしまう。悪い子達じゃないのだが、気がつくと後を付けられていると思うことが
           
          あるし、どうしようと思って見渡して、マルロが大教室を出ようとしているのが目に入った。 
          
          「ごめんね、マルロと約束してるんだ。じゃあね」 
          
           そう言って逃げるように駆けだした。 
          
           
          
          「ほら、マルロと仲良しでしょう」 
          
          「ホントだわ。じゃあ、私たちもマルロみたいに後付いて歩いてたら」 
          
          「きっと仲良しになれるわ」 
          
          「頑張りましょうね」 
          
           ミクミクがそんな会話をしているとは知るよしもないクラウスであった。 
          
           
          
           
          
           
          
          「何かあったんですか」 
          
           走ってきたクラウスを見たマルロの第一声がそれだった。やっぱりマルロも心配してくれているのだ。 
          
          「ううん、そうじゃなくて…。なんか、みんなが気遣ってくれて申し訳ないみたい」 
          
          「あんな酷い目にあったんだから当然ですよ」 
          
          「そうなんだけど…ねえ、やっぱりマルロの目から見て私って頼りない?」 
          
          「どうしたんですか、急に…。みんなが心配しているのは、ネクロードの事件がすごく異常だったからで、クラウスさんが
           
          頼りないとか、そういうのじゃないですよ」 
          
           そう言われるとは思っていたけれど…。 
          
          「何かシーナが羨ましい」 
          
          「ハァ?何でですか」 
          
           マルロは信じられないと言う声を出した。 
          
          「だってシーナって凄くしっかりしてるでしょう。頼りになるし大人っぽいし知らない人ともすぐ仲良くなれるし」 
          
          「確かにそうですけど、でもクラウスが羨ましがることないですよ。むしろクラウスの方がずっと人に羨ましがられる存在
           
          なのに」 
          
          「それはデュナンのクラウスでしょう。クラウス・ウィンダミアはそんな大した人間じゃないもの」 
          
          「そんなことないです」 
          
           マルロはキッパリと言い放った。 
          
          「僕、昔から英雄に憧れていたんです。今は動乱の時代じゃないし英雄なんて言ったって、そうそういるもんじゃないと
           
          いうのは分かってたけど、でも好きなのは止められなくて。大学に入ってクラウスを最初に見たとき、オーラって言うの
           
          かな。そういうのが他の人とは全然違って見えたんです。そしたらデュナンとしてデビューしてアッという間に大スターで
           
          しょ。ああ、現代の英雄はこういう形で出るんだなって分かったんです。僕、ずっと見てたから分かります。クラウスはデ
           
          ュナンじゃなくても凄くステキでしたよ」 
          
           マルロに熱弁を奮われてクラウスは圧倒されていた。 
          
          「何でそんなこと言いだしたんですか」 
          
          「ちょっと自信なくなっちゃって。ほら、私って子供っぽいでしょう?」 
          
          「え、う、まあ…そうですね」 
          
           クラウスは笑ってしまった。マルロは褒めるばかりじゃないから信じられる。 
          
          「だから大人っぽくなりたいなあって思って」 
          
          「それでシーナが羨ましいですか?それはどうかと思うな」 
          
          「そう?」 
          
          「ええ。僕が言うのも変だけどクラウスは子供っぽいっていうより素直なんですよ。クラウスの真っ直ぐなところって誰に
           
          も真似できない得難い資質だと思います。シーナも大らかだけど、ちょっとひねてるところがあるでしょう。だからシーナ
           
          だってクラウスのそういうところ、凄く気に入ってるんじゃないですか」 
          
          「そ、そうかな」 
          
           マルロは大きく頷いた。 
          
          「でも、世間知らずって言われるし」 
          
          「それは性格とは違いますよ。社会人になったら嫌でも身に付くんだし、別に今無理することないと思いますけど」 
          
           確かにそうかもしれない。 
          
           でも、クラウスの場合、まだ就職は考えていないが出来ればデュナンでやっていきたいと思っている。それだと普通の
           
          社会的な常識って身に付く物なのだろうか。 
          
           考え込んでいるうちに駐車場に着いてしまった。 
          
          「ようっ」 
          
          「コウユウ君」 
          
          「どうしたんだ、こんなところで」 
          
           コウユウは座っていたボンネットからヒョイッと滑り降りた。 
          
          「今日、図書館によるって言ってただろ。それだと困るんだよ。バイトが休んじゃってさ。そうだ、よかったらクラウスもウ
           
          チの店で働かないか?」 
          
          「コウユウ、何バカなこと言って…え?バイトが休み?」 
          
          「そう、3人まとめて風邪だって。だから迎えに来たんだ。今日はマルロにも手伝って貰わないと店が回らないってロウ
           
          エンの姉貴が言ってたよ」 
          
          「お店って?」 
          
          「うち、居酒屋をやってるんです」 
          
          「クラウスが手伝ってくれたら何とかなるよな」 
          
           だがクラウスは一瞬躊躇った。 
          
          「なんだよ。居酒屋って嫌いか?」 
          
          「コウユウ、クラウスは芸能人なんだから」 
          
          「そうじゃないんだ。そうじゃなくて、事務所でお酒の出るところには行くなって」 
          
          「ふうん、何か不自由なんだな。クラウスって」 
          
          「すごく行ってみたいんだけど」 
          
          「でもそういう理由じゃ仕方ないですよ」 
          
           考え込んでいたクラウスがパッと顔を上げた。 
          
          「コウユウ君はいいの?だってまだ16歳だよね」 
          
          「おいらは家の手伝いだもん。ホントはいけないのかもしれないけど酒飲む訳じゃないし」 
          
          「じゃあ私だって友達の家の手伝いだもの。連れてってください。それともお店の迷惑になっちゃう?」 
          
          「ううん、うちとしては手伝ってくれると嬉しいけど。でも本当に良いの?」 
          
          「大丈夫。わあ、凄く楽しみだな。居酒屋って行ったことがないから」 
          
          「へえ、そうなんだ。じゃあ最初の店がうちだっていうのは凄いラッキーだぜ」 
          
           コウユウは自慢そうに胸を張った。 
          
          「何たって居酒屋灯竜山って言ったら今注目の店なんだから」 
          
           クラウスは驚いて立ち止まった。 
          
          「知ってるっ!シードが凄くいいお店だって言ってた。地酒が揃っていて料理も美味しくて穴場なんだって」 
          
          「よっしゃあ、話は決まったぜ」 
          
           コウユウの声に笑顔で応えた。こんな経験は初めてだ。 
          
          『ちゃんとした大人になるための社会勉強になるかも』 
          
           こんなところでステップアップを図ろうとしているクラウスであった。 
          
           
          
           
           
          
           
          
           
          
           
           
          
           
          
           
          
                
          
           
          
            
          
          
           
           
          
           
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