バレンタイン狂詩曲 2
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キーボードの上を指が滑るように動いて何度も聴いて覚えてしまったメロディを巧みなタッチで紡ぎ出す。
けれど、どうしても気に入らない。
「だめだ、また真似してる……」
頭の中にあるイメージを忠実に再現するという作業を、もう何時間やっているだろう。技術的には完璧に
弾きこなせていると思う。けれど、完璧な演奏などメンバーの誰も求めていない。クラウスだってそれを目
指しているわけではない。必要なのはもっと体の内側から沸き起こるようなエネルギー、バッション、そうい
う物のはずだ。それなのに気が付くとホウアンの演奏をなぞっているのだ。
初めて聞いたときの印象が鮮烈すぎた。自分では極力意識しないようにしているのに気が付くとホウアン
の弾き方を真似している。忠実に再現する、ということがそもそも間違いなのかもしれない。けれど、クラウ
スは自分の中の何を昇華させれば自分の求める音になるのか、それが分からないのだ。分からないまま
弾いているから頭の中にある音を追って、結果ホウアンを真似た演奏しかできないという悪循環を繰り返し
ている。
「お前には無理だ」
以前、デュナンの昔の曲をやりたいと言ったときにシュウが言い放ったのはそれが分かっていたからなの
だろう。だからシュウはクラウスに昔の曲をやらせてくれないのだ。
クラウスはクラシックで育ってきたから初めて聴いたデュナンの曲はとても新鮮で刺激的で、けれどそれ
を演奏するとなるとどう表現すればいいのか分からなかった。だからデュナンに入ったばかりの頃は「行儀
が良すぎる」と散々言われて(演奏に関してはどのメンバーも容赦がなかったから)歯を食いしばって練習
したのだ。今まであまり手を出したことのないロックのCDも手当たり次第に浴びるように聴いて、何とか自
分の表現したい音楽が分かってきた頃ようやくライブに参加することを許された。だから今のデュナンの曲
はクラウスのイメージ通りにプレイできるが、昔の曲には常にホウアンの影が付きまとっていて(クラウスが
勝手に付きまとわせているのだが)納得のいく音が出せないのだ。
「ちょっと休憩しよう」
時計を見ると4時を過ぎていた。デパートから戻ってきて3時間近くキーボードを弾き続けていたことにな
る。
幾分日が陰ってきたリビングはシンと静まりかえっていた。タキさんは買い物に行ったのだろう。キバは接
待ゴルフに出かけているから戻ってくるのはもう少し遅くなるはずだ。
キッチンで紅茶の缶を取り上げてから、思い直してエスプレッソマシンをセットした。いろんな事を考えす
ぎてグラグラと煮詰まっている頭をスッキリさせたかったのだ。
「今のままじゃこの世界で残っていけない……か」
昨日まではバレンタインのことで舞い上がっていたけれど、チョコレートを手に入れた今は、頭の片隅に
追いやってなるべく考えないようにしていたシードの言葉に向き合わざるを得なくなっていた。いや、もしか
したら本当はそれを考えたくなくてチョコレートで誤魔化していたのかもしれない。
それくらいシードの言葉はクラウスの一番痛いところを突いていたのだ。
クラウスだって今の「デュナンのマスコット」状態に満足しているわけではない。というか、まあマスコットに
なったつもりもないのだけれど、何だか周りにはそう評価されているようなのだが、とにかくそれでいいとは
思っていない。
デュナンに入った頃は他のメンバーのレベルに付いていくのに精一杯で余計なことを考えている余裕は
なかった。とにかく置いて行かれないようにするので必死だったのだ。それでも最近は自分のポジションも
段々見えてきて、だからこそシードに言われるまでもなく「このままではいけない」という自覚はあった。少し
ずつでも良いから進歩してみんなと肩を並べられるようになろうと頑張っているつもりなのだが、いくら本人
がそのつもりでも他の人に分かる結果が出なければ意味がない。
現にシードは今の状態に甘んじてみえるクラウスが歯痒くて仕方ないのだろう。だから「もっと自分の個性
をバンと前に出すとかしないとこの世界じゃ残っていけないぞ」と言ったのだ。一瞬緊張したあの時の雰囲
気でカミューとマイクロトフも同じように思っているのだとクラウスにも解った。だからシードは雰囲気を和ら
げようと敢えてチョコレートに話を戻して茶化したのだ。
デュナンは今でこそ人気ミュージシャンの地位を得ているけれど、下積みの時代が長かった。ライブを中
心に活動していたがテレビ出演を拒否していたわけではない。単に出演依頼が来なかっただけの話だ。自
分たちのやっていることに自信があるのと、それが世間に受け入れられるというのは別の話だ。だからメン
バーは誰もが自分たちの活動の場を広げることには貪欲だった。そんな彼らから見ると常に一歩引いてし
まうようなクラウスに、もっと積極的になって欲しいと思う気持ちは大なり小なりあるのだろう。
確かにクラウスにはシード達のように明確な目標や夢を持ってロックを始めたわけではない。「この人達
と一緒に音楽がやりたい」と思った夢はメンバーに迎えられるという形であっさり叶ってしまった。だから唯
一目標と言える物は「デュナンのメンバーとして恥ずかしくないキーボーディストになる」というものだから、
それが問題と言えば問題で(シードが聞いたら「夢が小さいっ」と怒鳴りそうだ)消極的に見える所以かもし
れない。
シードはクラウスに欲がないから消極的なのだと思っているようだが、そんなことはない。自己主張をする
のが苦手だから目立たないだけだ。いつだって良いプレイをしたいし、みんなを感動させたいと思ってい
る。綺麗事を言っているようだが、その裏にあるのはやはり「認めてほしい」とか「褒められたい」という気持
ちなのだ。無心に音楽に向き合えればそれが一番いいのだろうけど、自分が音楽的にも技術的にも劣って
いるという自覚があるから「凄いよ。クラウス」と言って貰いたい気持ちは人一倍強いかもしれない。
そう、決して欲がないわけではない。賞賛の上にシュウの好意まで手に入れたいと願っているのだから。
『自分を表現する方法も分からないのに、なんて欲深いんだろう』
シードは自分の個性を出せと言っていたけれど、それがそもそも分からない。子供の頃から「大人しくて
良い子」という評価以外、特に目立った個性も特長もなかったのだ。
『音楽でも満足に表現できなくて、容姿でも見劣りして……。本当に嫌になっちゃう』
せめてもう少し容姿に優れていたら少しは自信も持てたのに。
カミューの非の打ち所のない華やかな容貌やマイクロトフの凛々しい顔立ち、シードの精悍な顔つき。
『それにシュウは知的でハンサムでクールで、だけど笑顔がステキで、えっと……』
何故か一人で赤くなるクラウスである。
とにかくマネージャーのクルガンまで苦み走ったいい男で、その中で自分はあまりにも普通すぎる。本当
にスターの中に一般人が間違えて混ざってしまったような物だ。
そう、子供の頃だって……。
「嫌なこと思い出しちゃった」
エスプレッソの苦みが苦い思い出まで蘇らせる。
小学校に入ったばかりの頃、不躾に言われたのだ。「地味な顔」だと。
そう言ったのは、とても威圧感のあるお兄さんだった。クラウスよりずっと年上に見えたからそう感じたの
かもしれないが、周囲の大人達も「ルカ様」と呼んでとても気を遣っていた。キバの大恩人の偉い人(確か
アガレスという名前だったはずだ)の子供だったから父と一緒に挨拶をしたのに、クラウスのことは全く気に
留めていなかったらしい。
その後、ルカの妹(この子はとても可愛くて優しい子だった)と一緒に遊んでいたら、つかつかとやってき
ていきなり「お前は誰だ?」と言ったのだ。「父と一緒にご挨拶したクラウスです」と答えるとバカにしたように
「印象の薄い地味な顔だから覚えていなかった」と言って笑っていた。しかも妹と遊んでいたのが気に入ら
なかったのか「男のくせにままごとか」とかなんとか理不尽なことをたくさん言われて、挙げ句の果てに「ブタ
の真似をしたら許してやる」と、理由も分からないのにブタの真似をさせられそうになったのだ。
大人しいクラウスもさすがに断固として拒否していたら、ますますルカは不機嫌になっていった。あの時、
妹が止めなかったら殴られていたかもしれない。
物凄く怖かったけれど泣かずにルカを睨み返していた自分をクラウスは今でも褒めたいと思っている。
だが、この思い出はそんな誇らしい気持ちよりも惨めな気分にさせる要素の方が大きかった。
あの後一人になってから『ルカ様は私が地味な顔だから苛めたのかしら』と随分と悩んだ物だ。
地味というのが決して褒めた言葉ではないというのは子供心にも分かったし、何よりも「ふはははははは
ははは」と高らかに哄笑されて、自分の顔が可愛い女の子の前で笑われるような顔なのだというのがとて
もショックだった。
しかも惨めさに打ちひしがれながら、どこかで納得もしていたのだ。
クラウスは母方の祖父母から可愛がられた記憶があまりなかった。母は子供のクラウスから見ても綺麗
な人で決して地味な存在ではなかったから「きっと母上にあまり似ていない地味な顔だからお祖父様は私
が嫌いなんだ」とすんなり受け入れてしまったのだ。
ルカには何気ない一言だったのかもしれないが、クラウスの意識には恐ろしいまでの速さで「地味な顔」と
刷り込まれてしまっていた。
もちろん、心のバランスを取るためにかなり前向きに「きっと私は父上に似てるんだ」と思いこんだ部分も
ある。父の顔が地味かと問われると答えに困るが、男らしい容貌であることに間違いはないから自分もそう
なれるのなら、それは嬉しいことだと思ったのだ。
が、意に反して今の自分の顔立ちは決して男らしいとは言えない。キバは「イライザそっくりになって」とよ
く言うが、あれは親バカ故の言葉だから全く当てにならない。そもそも親なら子供は可愛く見えて当然だろ
う。
だから地味な上に男らしくもない中途半端な顔は、実はクラウスにとってコンプレックスだったのだ。
そのクラウスが美形揃いのデュナンの中にいるのである。積極的に前に出ろと言われても出られるわけ
がない。キーボーディストとしても今一歩で、個性もなく容姿に優れているわけでもない自分がここまでやっ
てこられたことにクラウスが一番驚いている。
自分で感じている危機感が周囲に全く伝わっていないのは良いことなのか悪いことなのか。それが「箱入
りのお坊ちゃま」と形容される所以なのかとも思うが、とにかくデュナンのメンバーとしてやっていきたい以
上、挫けてはいられないのである。
容姿はもうどうしようもないし、それ以上にクラウスはミュージシャンとして音楽で勝負をしたいと思ってい
る。だからこそ感性を磨いてキーボーディストとして頑張っていこうとしているのに、デュナンの原点と言える
昔の曲も弾きこなせないというのが悲しい。
「思い通りに弾けたらハードルを一つ越えられる気がするんだけど」
その為にはやはり個性を光らせないとダメなのだろう。ホウアンのソロが素晴らしいのはテクニックの問
題ではなくて、ホウアンの感性や人間性が素晴らしいからに違いないのだ。
個性、感性、人間性……。
「私ってどういう人間なんだろう」
マルロはなんて言ってたっけ? 確かデュナンに入る前からオーラがあったと言ってなかっただろうか。私
のどの辺にオーラがあるんだろう。もっと具体的に言ってくれたら嬉しいのに……。
クラウスは大きく溜息をつくとソファに深々と体を沈めた。
『ああもう、全部投げ出しちゃおうかなぁ』
朝目覚めたら何もかもうまくいくようになっていたらどんなに良いだろう。
そんな都合のいいことなどあるはずがないと分かっていながら考えてしまう自分にもう一度大袈裟に溜息
をついた。
その時ある事を思いついて口元を綻ばせた。
「ちょっと行儀が悪いけど」
今なら誰もいないから見られる心配もない。
思いっきりふんぞり返って足を伸ばし、前にあるローテーブルの上にちょこんと乗せてみた。
シードの真似をしたのだ。シードがテーブルの上に無造作に足を投げ出して座るのをいつも格好いいなと
思って見ていて一度やってみたかったのだ。今の投げやりな気分の時にはピッタリのポーズ……のはずな
のだが……。
「こんな、感じ……?」
何度か座り直して位置を変えたり姿勢を変えたりしたが、どうにも落ち着かない。
「なんでだろう。シードはもっと格好良く決まってるのに」
クルガンに注意されても全然平気で堂々として、こんな風にもぞもぞしたりはしないのだ。
「やっぱり真似はダメってことなのかな」
普通に座り直して呟いた。自分でもあのポーズは自分らしくないと思ってしまう。
「私らしい、か」
自分らしいってどういうことなんだろう。
ボーッと考えていて、ふと思いついた。
「ピアノ、弾いてみようかな」
デュナンに入る前のクラウスに何かあるとしたら、自分の基本はクラシックだ。デュナンでロックに目覚め
て、今はジャンルに拘らず何を聴いてもエキサイティングで面白くて、だけどクラシックで育ったことは否定
しようもない。
それなら一度基本に立ち返るのも良いだろう。少なくともシンセサイザーの音でホウアンの影に引きずら
れることはなくなるかもしれない。
すっかり冷たくなったエスプレッソを飲み干すとクラウスは勢いよく立ち上がった。
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