NO WAR!  1,000字超文 
2016〜14年
2017年

[# 13] 憲法施行70年に思う
歴史に向き合う美術界の運動を広く、深く/2917.1.6 藤井建男

戦争する国づくりの実感
昨年2月、96歳で亡くなった母の遺品中からA4書類箱一つ分に匹敵する戦時中の手紙の束が 出てきた。主に親戚、家族とのやり取りに加え出征した父と交わした手紙だったが、その中に、 招集を受けた父が母に宛てた遺言(昭和19年6月30日の日付)が遺髪、遺爪と一緒に封に入って いた。
遺言は「此度名誉ノ御召ニ預リ日本男兒トシテコノ上モ無イ喜ビデス、文字通リ一死以テ君国ニ 盡ス覚悟デアリマス…」ではじまり、“したがって生きて帰ることを期しません故自分の亡き後の 心すべきことを左に記します”。と続く(原文はカタカナ)。母に自分の親戚との付き合い方、友人 たちとの付き合いについて、さらに間もなく一歳になる私の育て方に関しては言葉を選び遠まわし に“軍人にするな”、と述べている。1916年生まれの父は大学時代左翼思想で検束・留置され ており、遺言は他人に見られても良い文にするため言葉に気を使った跡が見られる。幸い父は 生きて終戦を迎えて長寿を全うしたが、何度か運に恵まれて生き延びたと述べていたことを思い 出す。
この遺言が母の遺品の中から出てきた時期は、「安保法案」(戦争法)のもと、戦闘参加を付与さ れた自衛隊の南スーダン派兵が様々報道されていた時と重なる。自衛隊員はもとより家族にも 厳しく口止めがされていたため、隊員、家族の言葉はメディアから伝わってこなかったが、おそら く父が遺言に残したようなことが話し交され、涙があったことは十分想像できる。安倍政権の憲法 破壊の暴走がこれほどひどくなければ、父の「遺言」は我が家族の歴史にとどまっていたかもし れない。しかし、今の事態は70年前の戦争の姿と直結する形で進行している。安倍政権の中枢 から「天皇を元首にし、自衛隊を国防軍へ」の声が聞かれ靖国神社への閣僚の参拝が相次ぐ事 態が父の遺言と自衛隊の南スーダン派兵を重ね合わせてしまうのである。

美術と反戦・平和にある距離
70年前、日本国民が手にした日本国憲法。そこにうたわれている主権在民、・基本的人権の尊 重・国際平和主義を指して、「日本の憲法は世界の宝」の声は広がっている。今年はさらに広が ることが予想されているし、またそうしなくてはならない。
だが、美術界を見たとき他の文化分野と比較してこの憲法を守る運動が弱く美術と反戦・平和の 運動にある種の距離があると感じるのは私だけではないようだ。
安倍政権は憲法違反の「特定秘密保護法」、自衛隊が海外で戦争に参加できる「安全保障法」を 本会議の強行採決によって成立させた。いずれも小選挙区制と言うペテン的選挙制度で得た多 数議席に物を言わせたものである。
この相次ぐ安倍政権の暴走に全国で怒りの声がわき起こり、暴走阻止の野党共闘が実現したの は当然であった。学者・研究者、文学、映画、演劇などの各ジャンルは分野の共通コンセプトをつ くり、声明を発表し、舞台をつくり、また講演などを行いそれは様々な形で広がり運動を励まして きた。
その点で言えば美術界の動きは残念ながら私が励まされるものではなかった。動きは鈍かっ た。美術界に関わる公共展示場での不当な展示制限や撤去など表現の危機についても、当然 発言、抗議されるべきところがなされていない場合が幾度かあった。
映画や文学、演劇の分野は70年前の戦争の新たな掘り下げ、戦争と平和について考える手が かりを与えてくれた。美術について言えばほかの分野と同等あるいは同等以上、先の戦争に組 み込まれ、その傷跡は深い。その点を考えれば、現在の日本を再び戦争をする国にしようとする 安倍政権のファッショ的な動きに美術界はもっと敏感で、もっと発言があってよいのではないだろ うか。(安保法制反対の学生のデモ 写真・藤田観龍)

  一つの例をあげる。昨年近代美術館で開かれた「藤田嗣治、全所蔵作品展示」(9月19〜12月 13日)に対する、日本の美術界の対応である。この「展示」につては美術評論家の北野輝氏が 「問題の『戦争画』14点のボリュームに対し、簡略な解説や多少の資料の展示という対応も軽す ぎよう。このような藤田『戦争画』の全面公開は、『戦争画』を描いた藤田らが未決のまますり抜 けた『戦争責任』問題を今日までそのまま放置してきた、日本の美術界の『戦争責任』回避の姿 を象徴していまいか。そのことを懸念する。」(しんぶん赤旗11月13日「文化の話題」)と述べてい るが同感である。私もこの展覧会足を運んでいるが、説明の少なさに驚いた。そして戸惑ったの が一群の女子高校生が巨大な戦争画が描かれた画布の前で感じたことをひそひそ話ながらメモ していた姿だった。この展覧会では何が描かれているか、描かれた時期など作品の説明が全くと 言うほど無く、会場で手にすることができる紙一枚の作品目録は作品名のほかに藤田嗣治の戦 争画制作に込めた思いや自慢話だけであった。
軍の命令、新聞社の強力な後押し、貧窮な制作条件などの中で戦争画を描いた画家、描かされ た画家についてはここでは触れないが、戦争末期に描かれた「戦争画」の評価の中には戦争の 実相と切り離してある種「殉教画」「宗教画」のように別格扱いする傾向がある。その典型が藤田 嗣治の作品であり、その代表が「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節全うす」と言ってよい。画家 が戦争「記録画」をどう描くかは画家の自由だが、歴史の実相は、絵と共に存在しなくてはなら ない、と言うのが私の考えだ。この展覧会にはそれが全くなかったのである。

戦争の実相の重視を
アッツ島における玉砕の実際は、今日では資料もかなりあり明らかになっている。それによれば アッツ島の日本軍(山崎安代守備隊長以下2667人)は1943年2月時点で船舶補給が断たれた。5 月13日米軍が空と海からの猛爆撃支援を受けて上陸、大本営の作戦がグアム島など南東海方 面の重視に移り。5月20日「アッツ島放棄」を決定。23日援軍を待つ守備隊に大本営から「玉砕命 令」が下る。戦闘に参加できず意識あるものは手りゅう弾で自爆、意識ないものは軍医が注射か 拳銃で始末。兵士は戦闘と疲労で幽鬼さながらの姿で米軍の降伏勧告を無視して突撃、米軍の 一斉射撃で全員死亡した。戦死者2638人、捕虜29人。「玉砕」の建前から“捕虜は無し”となり生 存者は非国民と扱われ、存在を無視された――である。
このアッツ島の酸鼻極まる日本軍の全滅を大本営は「玉砕」と言う言葉で美化してたたえ、以後 国民に殉じることを求めたのである。この玉砕から3か月後、藤田嗣治は“日本兵が一人も死ん でいない”「アッツ島玉砕」を描き上げ、「国民総力決戦美術展」に出品した。新聞、ラジオは一斉 に絵の出来を褒めたたえ、「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」まで作られる。以後「玉砕」は南方地 域で最後の「バンザイ突撃」として定着、サイパン島、ペリリュ―島、硫黄島、沖縄と続き、さらに 全国民に押し付けられ敗戦の前夜まで“一億玉砕”が叫ばれたのである。
戦争の歴史画なら当然、この戦争の実相が説明されるべきと思うのだが、いまだに出版されて いる画集においても、戦争の姿が解説されているものはごく少なく、多くが絵の解説にとどまって いる。私は戦争画を描いた画家の戦争責任を問うべきだと言っているのではない。しかし、「戦争 の中の美術」「美術の中の戦争」というコインの両面ははっきりさせなくてはならないと思う。戦争 の実相を明らかにすることは、美術界の重鎮の優れた技量で描かれた戦争画であっても、その 絵の存在のあり方を検証することになるからだ。

戦争の検証と反省の欠如
では、なぜ美術がこの時期、戦争と平和と言う本質的問題に強く打って出られないのか。なぜ、 このようなことが今もって続いているのだろうか。この時期だから問題を解き明かすことが重要に 思えるのである。
私は戦争の壊滅的な敗北によって美術界全体が戦争の検証も反省にも踏み込めなかった敗戦 直後の状況、加えて戦争画を描かされた画家、筆を振るった画家の多くが戦後すぐに美術画壇 の“祖”のような存在になって甦ったことと無縁ではないと思っている。「今さら70年前を俎上に載 せてどうなる」と言う声もあるだろう。「もはや画壇が美術をけん引する時代ではない」と言う声も ある。そうなのだが、日本の美術界の多くが反戦・平和に距離を置くのは戦争直後からあの戦争 の実相、戦争そのものに対する検証と反省(自己点検)を不十分にし続けてきたことと無関係で はないと思えてならないのだ。敗戦直後、確かに極東裁判において日本の戦争指導者は不十分 ながら断罪されているが、国民に対する軍国主義が犯した罪はいまだに裁かれていない(戦争 に反対した人間を弾圧した治安維持法が良い例)。言い換えれば戦争の検証と反省がなされて いないままであることが大きな“澱”となって沈殿しているのではないかと思うのである。この事は 日本全体にも言えることだが、文化の各ジャンルで見ると美術にその感を強くするのである。典 型が先に述べた「戦争画」の扱いだ。この“澱”を取り去らなければ「戦争画」は意味不明なまま 評価され続け、事あるごとに利用されることになるだろう。反面この“澱”を取り去る絶好の機会 が眼前にあることも指摘したい。いま全国で広がる「憲法守れ」の運動である。今日、美術は自ら が通過した犠牲と苦渋に満ちた戦争を検証、反省し、その視点で今の時代に積極的に発言する ことが求められている。そのチャンスを逃がしてはならないと思うのである。
歴史に向き合う美術界の運動を広く、深く。

2016〜14年

■ノー・ウォー美術家の集い横浜