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日露戦争での日本海軍
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戦艦三笠1
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戦艦三笠2
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戦艦三笠3
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戦艦三笠4
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日本海軍が世界史に登場したのは明治27年の日清戦争であった。
この戦争の帰趨を決めた黄海海戦で連合艦隊は勝利する。
成書等を見るとこの時の連合艦隊は大国清国の軍艦に比べ小粒であったが清国軍艦に比べ速度に勝り、
また搭載していた砲が命中率の高い小口径だが速射可能なものだったことが
勝利の一因といわれている。
清国の主力艦の定遠、鎮遠(各、7300トン)の合わせて八門の口径30CMの主砲に対抗し連合艦隊も松島、橋立、厳島(各、4200トン)と優雅な名のついた(三景艦と言われた)当時の主力艦に
口径32CMの砲を一門ずつ搭載したが操作性が悪く、海戦中に3隻合わせてたったの2発しか発砲できなかったと言う。
しかし定遠、鎮円の巨砲の威力は凄まじく、この海戦の日本側死傷者の半数の約95名が鎮遠の放った一発の砲弾で失われた。
この黄海海戦では日清両軍はともに12隻の軍艦で戦った。清国艦隊は主力の定遠、鎮円が戦闘不能となった他4隻の軍艦を失ったが、
連合艦隊は戦闘不能に陥った艦はなかった。
日清戦争からほぼ10年後日露戦争が勃発。
この時点での連合艦隊は戦艦三笠以下6隻の戦艦を主力とし全艦隊の排水量は二十六万トンであった。
一方ロシアは旅順艦隊を主とした極東艦隊が二十万トン、本国のバルチック艦隊が31万トンと言われている。
連合艦隊としてはバルチック艦隊が極東に派遣され両者が一体化する前に旅順艦隊を殲滅する必要があり、数次の海戦を行ったが、
決定打は無く、結局陸軍の旅順攻略後の陸砲でで敵艦隊を殲滅した。
旅順艦隊亡き後、連合艦隊はバルチック艦隊の来襲に備えた。そして運命の明治38年5月27日を迎える。多くの面でバルチック艦隊が不利であったことは認めるにしても
戦いは連合艦隊の圧勝であった。
連合艦隊の戦果
| 艦種 |
開戦前バルチック艦隊戦力 |
撃沈 |
捕獲 |
残存艦 |
| 戦艦 |
8 |
6 |
2 |
0 |
| 巡洋艦 |
10 |
5 |
0 |
5 |
| 海防艦 |
3 |
1 |
2 |
0 |
| 駆逐艦 |
9 |
4 |
1 |
4 |
| 特務艦 |
6 |
3 |
0 |
3 |
| 病院船 |
2 |
0 |
2 |
0 |
生き残った巡洋艦は4隻がマニラ等で武装解除され結局目的であったウラジオストックに辿り着いたものは
駆逐艦2隻と巡洋艦一隻のみであった。
連合艦隊の損失は水雷艇3隻であった。人類が演じた海戦で空前の大勝利であり、おそらく絶後であろうと言われている。