絵のない絵本式乗馬教室 ( 第30鞍 )

「ディズニーランドへ行って来ました。」

「舞浜って、マイアミビーチからとったらしいです。マイ→舞、ビーチ→浜っていうことです。」

「何でも舞浜3丁目の自治会館はマイアミ会館というらしいです。また、舞浜三丁目マイアミクラブという老人会もあるようです。」

「ディズニーランドができる前には、舞浜は何といっていたんですか?」

「正式な地名ではないようですが、浦安の人達は沖の百万坪と言っていました。なお、私が初めて浦安へ行ったのは1969年4月のはじめ頃です。3月29日に東西線の東陽町と西船橋間が開通して、それまで陸の孤島だったのですが、交通の便が良くなったし、もともと山本周五郎の『青べか物語』で興味を持っていたので、行ってみたのです。」

「当時の浦安はどんな様子でした?」

「駅のホームから東の方を見ると、民家の向こうに芦の原が広がり、つまり、これが沖の百万坪、その向こうに海が見えました。」

「境川という運河があって、沢山のべか舟がもやっていました。境川と言えば、1970年、男はつらいよの第5作”望郷篇”では、寅さんが江戸川で小舟に乗って昼寝している間に、船をもやっている綱がほどけて、浦安まで流されて、豆腐屋で住み込みではたらいて、汗と油まみれになって油揚げをあげているシーンが印象的でした。」

もやうって何のことですか?」

「舟を係留することです。」

べか舟って何ですか?」

「長さ3.6メートル、幅84センチくらいの小さな1人乗りの和船です。貝とりや、海苔の養殖に使われていました。海苔ひびの間に入り込めるように、幅が狭くなっていました。」

海苔ひびって何ですか?」

「海苔の胞子を付着させる網とそれを固定する竹竿のことを、海苔ひびといいます。」

「そういえば、浦安という地名の由来は何ですか?」

「浦安はけっこう古い町で、800年前には人が住んでいました。1889年の町村制施行で、堀江村、猫実(ねこざね)村、当代島村の3村が合併して、”安らかな魚浦”になるようにと願って、浦安村になったそうです。この3つの村のあった地域を、通称ですが、元町といいます。」

猫実って珍しい地名ですね。

「そうですね。『浦安町誌』には、津波から村を守るための堤防に植えてあった松の木の根っこを津波が越えないようにと願ったことから、つまり、『根越さね』がなまって猫実になったとありました。」

「浦安の人ってなまっているのですか?」

「現在はどうか知りませんが、1970年代には独特ななまりがありました。1970年の浦安の人口は1万人を少し越えるぐらいだったのですが、現在は東京のベッドタウンになったため、2003年7月1日現在で145,632人に増加しました。新住民達は、当然、浦安なまりはないはずですが、現在でも元町には、浦安弁を話す人が住んでいます。」

「どんななまりなのですか?」

「東京の下町言葉と同じように、日比谷も渋谷も”しびや”と発音しますが、下町言葉とはかなり違います。かなり乱暴な言葉で、まるでケンカしているように聞こえますが、決してそんなことはなく、さっぱりとしたいい性格の人が多かったです。」

「浦安のもともとの住民は、和歌山や静岡などから、黒潮に乗ってやってきた漁師でした。それから、少数の農民もいました。家康とともに移ってきた人達もいます。そのため、江戸下町や周辺の人達とはかなり違うなまりがあるのです。なお、江戸時代は浦安や葛西は天領でした。」

「俺達のことを、おんだらといいます。それから、お前のことを、いしゃといいます。」

「雷のことをかんだちといいます。」

「食べろと言うときにはけぇーと言います。」

「快晴のことをすってんぱれと言います。」

「ぶんなぐると言うときにはかっくらすと言いますが、これは茨城弁にもあります。」

「突風のことをなれえかぜと言います。」

「地元の人のことをじっこと言います。」

「ああ、浦安弁ではないけれど、まっかちって何だか知ってますか?」

「いいえ。」

「大きいざりがにのことです。」

「浦安弁を話す人達は今でも漁に出ているのですか?」

「昭和30年代に入ると東京湾の汚染がだんだんひどくなってきました。昭和33年か、34年にお台場へ行ったことがありましたが、海水はコールタールのように真っ黒でした。なお、お台場へは船で行きました。もちろん、浦安でも汚染は進行していました。」

「江戸川をはさんで浦安の対岸の江戸川区篠崎に、本州製紙の工場がありました。この工場では、パルプから紙を作る過程で、それまでのアルカリ処理ではなく、酸処理をしていました。この工場が稼働し始めると、黒い排水がモクモクと江戸川へ排出されました。この排水溝より下流で、貝や魚が大量に死にました。」

「魚介類が死滅した原因はこの排水にあることは明白でした。」

「事件は1958年4月7日におきました。漁師が集まって、本州製紙の工場へ抗議に行きました。会社は警察へ機動隊の出動を頼みました。漁師と機動隊はにらみ合いになり、双方とも、更に応援を頼んだので、人数は双方とも約1000人に膨れ上がりました。」

「そして、乱闘が起き、漁師の側は、重軽傷者105人、逮捕者8人を出しました。」

「これを契機に、”公共水域の水質の安全に関する法律”が作られました。それまではどんなに汚い水を排出しても、それを取り締まる法律がありませんでした。」

「しかし、漁獲高の減少は続き、1962年漁業権の一部を放棄しました。沖の百万坪の埋め立ては、1967年頃から、徐々にはじまりました。その後も、漁獲高の減少はとまらず、とうとう1971年には、漁業権を全面的に放棄することになりました。」

「その後、沖の百万坪の埋め立ては更に進み、町の面積は4倍になりました。そこにできたのが、ディズニーランドです。」

「漁師が漁をできなくなったので、漁師は税金を納められません。町はひどい税収不足に陥りました。時には、町役場の職員の給料が遅配になったこともあったようです。」

「それから、漁業に関連して、例えば、沖の百万坪では貝が沢山とれていたので、女性には貝をむく仕事がありました。そこで、漁業がなくなってからも、よそから貝を持ってきて、貝をむいて出荷していました。」

「むいた後の貝殻は、焼いて粉にして、セメントを作っていました。」

「現在では、新住民は比較的お金持ちが多く、ディズニーからの税収もあり、豊かな自治体となりました。」

「やっぱり浦安弁、聞いてみたくなりました。」

「浦安には、浦安郷土博物館がありますが、ここでボランティアで館内案内や、残された漁師の技などを実演してくれるのが、もやいの会です。現在、会員は約300名います。」

「ここへ行ってみるといいです。ここは入場料無料です。受付で、PHS方式の展示解説機を借りて下さい。英語・日本語・浦安弁の解説を選べます。」

「それから、昭和30年代の浦安の雰囲気を知りたければ、千葉県立中央博物館電子展覧会を勧めます。」

「あ、ずいぶん話が長くなってしまいましたね。では、練習を始めましょう。」

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