奈良原三次

奈良原三次 (1877-1944)
奈良原三次は、明治1O年(1877年)2月11日、今の鹿児島市高麗町に奈良原繁の二男として生まれた。父の繁は、島津藩士で幕末の志士として活躍し、明治になってからは、静岡県令、宮中顧問官、沖縄県知事を歴任し、明治29年には男爵を授けられている。三次は明治37年の夏、第六高等学校在学中、父の任地、沖縄へ船で行く時、ものずごい濃霧に襲われ、これの透視には気球を研究しなけれぱならないヒ思ったのが、航空に志す第一歩であったそうだ。明治41年には東京帝国大学(現、東京大学)工学部造兵科を卒業して、海軍を志願し、海軍少技士に任官して横須賀海軍工廠造兵部に勤務するかたわら、木村駿吉理学博士の指導で飛行機の研究を始めた。たまたま新編成の臨時軍用気球研究会に任命されてからは、一層その研究に拍車がかかったそうだ。
明治43年1O月には、自ら設計した奈良原式1号機を自費で完成したが、エンジンの馬力が足らず、戸山ヶ原(東京)での試験飛行は、地上滑走で終わってしまった。
第2号機は、明治44年5月5日に開設したばかりの陸軍の所沢飛行場(埼玉県)で、自らの操縦により高度4m距離60mの飛行に成功した。この時、奈艮原三次は軍籍を離脱しており、その製作費も奈良原の自費であったので、この飛行が国産民間機の初飛行となった。
その後、白戸栄之介、伊藤音次郎らを養成し、明治45年4月、奈良原式4号機「鳳号」による有科公開飛行等に成功した奈良原は、5月に千葉の稲毛海岸の干潟を飛行場とし、ここを本拠として全国で巡回飛行会を催した。千葉市の稲毛が民間航空発祥の地といわれるのは、この事実によるものである。
大正2年(1913年)末には、奈艮原は他の事業を起こすべく航空界から姿を消していたが、昭和5年に津田沼(現習志野市)の日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、銀紙飛行機献納運動、グライダーの普及発達に尽力し、よく後進の指導・育成に努力するなど、全生涯を航空の発展に捧げた。


奈良原式2号複葉機
Dcim0308/DSC_3674.

参考
奈良原式4号機「鳳号」
白戸栄之助
伊藤音次郎
伊藤式「恵美1号」
伊藤式「鶴羽2号」
白戸式37型(改造)


戻る TOPに戻る

新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日