伊藤式「鶴羽2号」
伊藤式「鶴羽2号」
大正初期の民間航空の主な仕事といえぱ、国産・輸入を問わず、飛行磯を持って各地を回り、飛行機とはこのようなものであるということを、入場科を取って見せる巡回飛行会の開催にあった。この巡回飛行会の原型は、明治44年(1911年)に来日したボ−ルドウイン飛行団が作ったものだが、大正4年(1915年)12月に来日したチャーレスーナイルス、大正5年3月に来日したアートースミス、12月に来日したカザソン−スチンソンはいずれも宙返り・横転等様々な曲技飛行を行い、評判を聞いて集まった何万という観衆の喝来をあぴた。
このような状況であったので、わが国の民間航空関係者にも、曲技飛行の実現を強く望む人々が多くいた。
伊藤飛行機研究所は、大正6年の高潮で稲毛が壊滅した後、津田沼町鷺沼(現習志野市)に適地をみっけて、大正7年から活動を開始していたが、その研究所に東京高等工業(東京工業大学の前身)出身の稲垣知足が入所してきた。その稲垣が最初から曲技用機として設計したのが「鶴羽2号」である。この当時陸・海軍にも曲技専用の飛行機は存在せず、稲垣は大変な苦労をしてこれを作りあげた。それに、この飛行機を操縦する新鋭飛行家の山県豊太郎も宙返りは未軽験なので、稲垣はイギリスて発刊された操縦の本をさがしてきて、曲技操縦法を山県に説明し、山県も自分の体を縛って、横ゃ逆さまの状態における感応・感覚に慣れるという用意をしてから「鶴羽2号」の試験飛行に望んだ。大正8年4月24日から試験を始め、10日後の5月4日、ついに連続2回の宙返りに成功した。
5月10日に東京市は、遷都50年の記念祝賀祭を行ったが、山県は「鶴羽2号」に乗って、帝国飛行協会の記念祝賀飛行に参加した。風速2Omの中で洲崎の飛行場を離陸し連続2回の宙返りを行い、山県はその日の多くの新聞の夕刊て絶賛され一躍、曲技飛行の第一人者となった。
参考
⇒ 奈良原式4号機「鳳号」
⇒ 奈良原三次
⇒ 白戸栄之助
⇒ 伊藤音次郎
⇒ 伊藤式「恵美1号」
⇒ 白戸式37型(改造)
新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日