奈良原式4号機「鳳号」
民間飛行機研究家であった奈良原三次は、徳川・日野両大尉が、代々木練兵場(東京)でわが国初の飛行を行うより2か月も前に自費で奈良原式1号を作成した。
この1号機は構造材が全部丸竹という特徴あるものであったが、フランスから輸入したエンジンの馬力がたらず、ついに飛行することはなかった。
翌年の明治44年(1911年)4月には奈良原式2号が完成し、5月5日所沢(埼玉県)の飛行場で奈良原自らの操縦により、4mの高度て6Omを飛行、これが記念ずべき国産機最初の飛行となった。
その後奈良原は自ら操縦をすることなく、弟子の白戸栄之助がこの2号機によって飛行訓練を重ねていった。
3号機はその年の9月には出来たのだが、金銭上のトラブルから余り飛ぶことなく姿を消してしまった。
そして、4号機として製作されたのが「鳳号」であった。奈良原は、この「鳳号」を作るに当たり、兜町の株屋である高井治兵衛と今川橋の薬問屋の当間という人から出資をしてもらい、東洋飛行機商会を設立し、深川(東京)で空き工場を借りて機体の製造を始めた。そして、技師長として田中館愛橘博士の弟子である志賀潔理学士が監督をした。
「鳳号」は明治45年3月末には完成し、所沢で試験飛行したところ、よい結果であった。
早速、川崎競馬場に運ぱれ、4月3日から有料公開飛行会を行い成功したが、最終日に門柱に翼を引っ掛けて落ち、壊れてしまった。その後、この機体を修理し5月11、12日の2日間、青山練兵場(東京)で無料公開飛行を行い、当時まだ皇太子であられた大正天皇、皇孫であられた昭和天皇の台臨をあおぎ、完全な飛行を行って大成功をおさめた。
それから後、所沢の陸軍飛行場では軍の本格的な訓練が飴まり、民間機が使用するにはいろいろと制約が多くなった。そこで、奈良原の発案で稲毛の干潟を利用することになり、「鳳号」は海気館(旅館)が建てくれた丸太組の格納庫に移転して活躍を始めた。それまでは、民間の飛行機といえども、練兵場等の軍の施設を利用していたのだが、この干潟を利用することにより、民間として独立したことになり、稲毛が民間航空発祥の地となった。
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参考
⇒ 奈良原式4号機「鳳号」
⇒ 奈良原三次
⇒ 白戸栄之助
⇒ 伊藤音次郎
⇒ 伊藤式「恵美1号」
⇒ 伊藤式「鶴羽2号」
⇒ 白戸式37型(改造)
新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日