白戸式37型(改造)
白戸式37型(改造)
明治45年(1912年)4月、川崎競馬場の公開飛行以来、民間航空パイロット第1号として、その名を知られていた白戸栄之助は、大正5年(1916年)12月にそれまて本拠としていた稲毛海岸を離れ、千葉町(現、千葉市)寒川新宿の海岸(現在コミニュテイセンターのそぱの国道16号線の山側)に移動し、ここに白戸飛行機練習所を開設した。
大正8年頃になると、帝国飛行協会は、ようやく盛んになりつつある民間航空に対し、各種の飛行大会を催して、その参加者に高額の賞金を与えるということで、その振興を図っていた。
そして、大正1O年8月、東京−盛岡間の往復郵便飛行大会を予告した。
白戸飛行機練習所では、この大会に新鋭機を作って参加することにし、その新鋭機の設計を東京帝国大学(現、東京大学)工学部出身の原愛次郎に依頼した。当時、原は東京に住んでいたが、時期が迫って来ると千葉の旅館に缶詰になって設計を進めたそうだ。
新しい飛行機は、白戸飛行機練習所の格納庫で6月から作られ始めたが、約2か月で完成し、8月21日には白戸37型として出発地点の代々木(東京)の練兵場に姿を現した。そして5機が参加したこの大会のトップを切って、東京―盛岡間530kmを、3時間35分で飛行した。しかし、この大会は参加の飛行機が次々に脱落し、白戸式37型も盛岡の練兵場から東京に向かう際、翼を記念碑にぶつけて飛行を断念したため、大会そのものが不成立になってしまった。
帝国飛行協会では、引き続いてその年の11月に金沢―広島間の片道郵便飛行大会を催すことを発表した。白戸飛行機練習所では37型の主翼を新しく作り直して参加することにしたが、高橋信夫パイロットの意見で、主翼面積を増して着陸速度を少し落とすことにし、その改造設計は倉橋周蔵技師の手て行われた。
この白戸式37型(改造)は6機が参加した11月の大会て、金尺から敦賀・大阪を経て広島までの58Okmを4時間6分て飛んでで見事に優勝。賞金5OOO円を獲得し、白戸と共に千葉の名を全国に高めた。
参考
⇒ 奈良原式4号機「鳳号」
⇒ 奈良原三次
⇒ 白戸栄之助
⇒ 伊藤音次郎
⇒ 伊藤式「恵美1号」
⇒ 伊藤式「鶴羽2号」
新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日