朝鮮通信使

朝鮮通信使

本州の最西端港町下関は、朝鮮半島との交易・交流の歴史は古く西暦561年の 「日本書紀」には、新羅の国使が当時の迎賓館である「穴門館」に立ち寄ったという記事をはじめとして、山口県内では、中世・大内氏と李氏朝鮮国との通好が行われ、その際下関に使船は必ず寄港していたと聞いています。通信使という呼称は、中世から使われていたようですが、「通信」とは、現代用語の連絡・伝達の意味ではなく、「信(よしみ)を通わす」つまり信義を通わせる。友好の使節を表すことであります。
しかし、豊臣秀吉の朝鮮侵攻のため、両国の国交は不幸にも中断され、徳川の時代になり、対馬藩宗氏の懸命なる国交修復の交渉により、「朝鮮通信使」の外交が始まりました。対馬藩は、優れた外交官だった儒学者雨森芳州の「誠信之交」の精神で善隣外交に努めた。つまり、「欺かず、争わず、真実をもって交わる」という、実に誠真にして基本的な外交の精神<画像>であります。この使節団は、対馬・壱岐を経て筑前の藍島(相島)に至り、日本本土の最初の上陸地、赤間関(現下関)に着いた。 ここから船団は、瀬戸内海に入って、要所要所の港で潮待ち・風待ちをしながら大阪につきここで幕府が用意した御座船に乗り換えて淀川をさかのぼり淀に上陸、京都を経て東海道を通り、江戸城で将軍と対面、国書を提出したとあります。この使節団は、往復半年にも及ぶ長旅であったと記されています。
当時の徳川幕府は、鎖国令をしき外国文化に接する機会が乏しい状況であり、わが国の人々は、「朝鮮通信使」の往来を通じて、海外の文化に接することができました。朝鮮通信使の来訪は、まさに「文明の使者」と呼ぶにふさわしいもの<画像>でありました。当時の資料によりますと、赤間関に着いた一行は、赤間神宮の前面の海岸から上陸し、 阿弥陀寺と引接寺の両使館に別れ滞在、使節団は、往復とも赤間関に立ち寄り、使館に入館し、長州藩の藩士・藩民から歓待を受けたとあります。通信使の中には、優れた学者や詩人・画家などの文化人が数多くいたため防長の諸文士が押し寄せ、回を重ねるごとに誠真の交わりが深まったと記されています。

慶長12年(1607)から文化8年(1811)の間に12回(下蒲刈通過11回)におよぶ朝鮮通信使の来日があった。
これは、日本の将軍の代がわり等があると朝鮮から慶賀の使節が来るもので、鎖国時代の日本では異例の行事であった。
朝鮮からの船6隻に対馬藩の船が40隻随行し、それを7〜800隻の船が世話をするという大船団が瀬戸内海を往復し、必ず三之瀬に船を寄せ一泊していた。一行の来島にあたり「御馳走所絵図」によって、上のお茶屋等の宿舎の改築、模様がえをして迎えていた。
接待は浅野藩の担当で、建物・食物・酒等はどれをとってみても他に類をみないということで、 『安芸蒲刈御馳走一番』 といわれるくらいの大歓待をした。宿館跡も「お茶屋」という地名と、上のお茶屋へ通じる路地と石段を残すのみとなっている。

始まりは室町時代の1404年。 倭寇で困っていた朝鮮国が倭寇を退治して安定を求めるのではなく、 国交を結び交流し、貿易を正式に認めることで対応しようとしたのが始まり。 この朝鮮国と日本が対等の外交関係を開き、 以後、朝鮮からは「通信使」 日本からは「国王使」が派遣されることになります。
しかし、豊臣秀吉の朝鮮への派兵(文禄慶長の役)があり国交は断絶。 これは困るということで徳川家康が回復を図ります。 そして、実現したのが家康の書に対する回答と 派兵の際に拉致された朝鮮人の返還を兼ねて来た回答兼刷還使です。 回答兼刷還使は4回目以降は通信使と名称が改められ、 江戸時代だけで12回来日しました。 この江戸時代に12回来た使節団を一般的に朝鮮通信使と呼んでいます。
朝鮮通信使は1607年〜1811年の間に12回来たわけですが、 1回につき約300〜500人が来日する大きなものでした。 行程は往復6ヶ月。 ソウルからプサンまで陸路。 プサンからは対馬の船団と一緒に 対馬→北九州沿岸諸島→瀬戸内海→大坂 まで船で進みます。 朝鮮国からの船は6隻であり、1隻は約40mもある大きな船でした。 船団は朝鮮国の船のほかに対馬藩の船と地域の藩の船合わせて約1000隻。 きっと海を船で覆うぐらいの大船団だったのでしょう。 その船団は瀬戸内の岡山藩を通過の折には牛窓へ寄港したわけです。 で、大坂からは川船で淀川を上り淀へ・・・ 京都からは陸路で江戸まで進みます。 行列は総数が約3000人とも言われるものです。

大内氏没後、戦国時代を経て日本は長い鎖国の時代を迎えますが、江戸時代の鎖国下の日本にあって、李氏朝鮮(りしちょうせん)は正式に国交のあった唯一の国でした。
 将軍の代が替わった時や世嗣(よつぎ)が生まれた時などに、朝鮮国王の親書(しんしょ)をもって来日した友好使節団を朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)といい、1607年から1811年の200年余りの間に12回来日しています。朝鮮通信使の船が下関と上関に寄港したさいに、長州藩では彼らを厚くもてなし、儒学(じゅがく)の先進国であった朝鮮の文人たちから水準の高い文化の吸収に努めました。


対馬藩 宗氏

藩の盛衰が朝鮮貿易にかかっている対馬にとって、豊臣秀吉による文禄・慶長の役( 朝鮮の役)後の国交断絶が長びくことはたいへん困った問題で、戦争以前の正常な外交にもどすことは 目下の急務であった。
島主宗義智は、朝鮮との国交回復を徳川家康に嘆願し、みずからも朝鮮の捕虜をかえしたり、 朝鮮に使者を送るなど意のあるところを示した。
その努力がようやくみのり慶長12年(1607)第一回の朝鮮通信使の来朝にこぎつけた。
この第一回の朝鮮通信使は、二代将軍秀忠の襲職を賀するのが目的であったが、 徳川新政権に対するはじめての修好使として、2年後の己酉約条に結実するなどその意義は大きかった。
これにより数年後、家康は大阪の陣によって豊臣氏を滅ぼし、国内の対抗勢力を一掃した。
こうして、まさにその武威を天下に示そうとするとき、外国から使節をむかえることはこれに 威厳を加えることであった。
一方、朝鮮にとっては、新たにおこった清国を中心に東アジアの勢力均衡に変化があらわれようと しているとき、自国を防衛するうえからも、日本との早期国交回復がのぞまれたのであった。
こうして二回目の信使が元和3年(1617)徳川将軍の天下統一を慶賀するため、第三回が寛永元年 (1624)三代将軍家光の襲職を慶賀するため、それぞれ送られてきた。
朝鮮通信使は、釜山の永嘉台を発船し、対馬の佐須奈浦(上県町)に入港する。 ついで府中(厳原町)に上り、ここで島主宗氏と一定の儀礼をすませるのにおよそ10日を要したのち、 対馬を発ち、大阪・京都を経由して江戸に到着する。
幕府上使による信使の客館訪問があり、そして将軍に拝謁したのち慶賀の儀に入る。 すべての儀式が終了しふたたび対馬に渡り、朝鮮への帰路に着く。
この間およそ5か月、宗氏は終始その先導をつとめる。
すなわち対馬は外交の表舞台に立つわけで、両国のあいだにあって気のつかいようは一通りの ものではなかった。
しかし、対馬としては、両国に体面を失わせないよう、かつ平和的に朝鮮貿易を持続させるためには、 どのような苦労もいとわなかった。
そうであればこそ、のちに露見する国書偽造事件等もおこったのであった。
一行400名から500名に上るこの朝鮮通信使は、その後文化8年(1811)まで計12回来朝している。
この通信使は、たんに江戸幕府の関心事であったにとどまらず、沿道の大名はもちろん武士・ 農民・商人にいたるまでこの行列に注目した。そのため絵入りの「朝鮮人来朝図」をはじめ、 通信使節に関する図、屏風、絵入本などが数多く描かれ、出版された。
現在、厳原町にも数巻の使節絵巻がのこっている。


朝鮮通信使船団

通信使船曳船団図

信使来伝自兵庫至大坂引船団
○尼崎船
●兵庫船
◎西宮船

注進使者船 六挺立三艘 ●●●
供船 六挺立 ●
先乗 関船弐拾六挺立
番船 四挺立2艘 ●●
末漕 六挺立2艘、八挺立2艘 ◎◎◎◎
枝漕 六挺小早 八挺立
枝漕 関船 四拾弐挺立
元漕 関船 四拾弐挺立


参考
李氏朝鮮
李舜臣 亀甲船
朝鮮通信使


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新規作成日:2002年2月6日/最終更新日:2002年2月6日