下田奉行所

下田奉行は江戸時代3回にわたり設置されたり廃止されたりしている。
第1期は元和2年(1616)に江戸往来の船を監視するため設置された。
須崎に遠見番所(現在バンドコロヤシキという地名が残っている)が置かれた。
その後元和9年(1623)遠見番所は下田の大浦に移され、寛永13年(1636)にはこれを改築して船改め番所とし江戸往来の船は全てここに立ち寄り検問を受けなければならなくなった。
箱根の「陸の関所」に対し下田は「海の関所」としての機能を発揮した。
奉行所の位置は第三代下田奉行石野八兵衛以降は現在の下田公園下にあった。
この第1次下田奉行は享保6年(1721)廃止された。


第2期は海防の危機が表面化してきた天保13年(1842)から弘化元年(1844)の2年間下田奉行が設置された。
州佐里崎、狼煙崎の二箇所にお台場を築造するのがその任務で、当初の本格的な計画から仮御備場に縮小され天保14年4月に完成した。
しかし仮のお台場として下田港の守りを担っていた両お台場は、翌天保15年(弘化元年)2月には廃止され、同年5月には下田奉行も廃止された。
この頃の奉行所は正式な事務所ではなく宝福寺が仮の奉行所として使われた。


第3期は日米和親条約により下田が開港され、ペリーが下田に最初に上陸した嘉永7年 (1854)3月24日に設置された。
仮奉行所が宝福寺、ついで稲田寺に置かれ、その後安政2年(1855)中村に奉行所が建設されたが、安政5年(1855)日米修好通商条約の締結により横浜が開港されると翌安政6年下田開港場は閉鎖され、万延元年(1860)下田奉行所は廃止された。
わずか6年の短い間でしたがその間、日米和親条約付録下田条約の締結、日露和親条約の締結、吉田松陰の海外密航失敗、米国総領事ハリスの着任など下田にとってはその歴史上もっとも脚光をあびる時期となりました。


下田港は、75里の遠州灘と45里の相模灘の間にあって、大阪江戸航路の風待ちや避難に最も重要であった。
将軍秀忠は元和元年(1615)、今村伝四郎に命じ、騎馬武士10人、歩卒50人を率いて下田港の守護に当らせた。
翌元和2年5月、改めて下田奉行を置き、伝四郎の父彦兵衛正勝を初代下田奉行に任じ、江戸往来の船を監視させた。
「下田年中行事」によると、須崎港に遠見番所が建てられ、同心50人が交代で家来達を従えて見張りに当った。
漁船より少し大きい追船2隻を造り、通行の船に乗りつけ、女・子供・手負い(怪我人)など、怪しいものは乗っていないかを改めた。これが船改番所(御番所)の始めであった。
現在、須崎に「バンドコロヤシキ」という所があり、これが遠見番所の跡で標石がある。

遠見番所は、その後大浦へ移された。
移転の年については諸説あるが、「下田年中行事」巻10や「浦賀奉行所関係資料」第1集、第2集等よれば、寛永13年(1636)が確かと思われる。
この年、箱根の関所の強化や難船取扱の制札(浦高札)が建てられた。
船改番所(御番所)となり、往来の船は必ず寄港して検問を受けることが定められた。
寛永12年、参勤交代が始まり、大名の妻子は江戸に置かれたので、関所では「出女入鉄砲」の検問が厳しくなった。
これに呼応して、下田御番所は海の関所となったのである。
第2代下田奉行今村伝四郎正長(寛永4年=1627=初代奉行彦兵衛死去)は、同心の隠居28人を御番所の検問係に採用し、廻船問屋と呼んだ。
問屋の報酬は問料(といりょう)と称し、水夫1人に付1航海銀1匁8分の割合で廻船から徴収された。
後に問屋は次第に増員されて63人となった。

現在、御番所の名残りを示すものが何も残っていないが、寛永5年(1793)老中松平定信が下田を検分した時、御番所の跡などを記入して差し出した大浦の古図面によると、御番所敷地は間口40間、奥行16間、中に牢屋もあり、切通しから海岸に到る両側には役人の屋敷が並び、八幡宮や西向院も見え、海岸には高札場や御船蔵もあった。


元和二年(1616) 伊豆下田の須崎浦の山先に仮番所(下田番所)を設ける。
今村彦兵エ重長 同心五十人を従えて奉行に。

享保5年(1720年)に浦賀に移転した。

この際、下田奉行所から持ってきた「伊豆石」が浦賀奉行所の玄関石とされたが、この石が現在も残されている。



嘉永7年3月、日米和親条約の締結により、下田が日本最初の開港場となり、幕府は3月24日、下田奉行(2人制)を設置し、伊沢美作守(浦賀奉行)、都築駿河守(佐渡奉行)を下田奉行に任じ、宝福寺に仮奉行所が置かれた。
同年11月、プチャーチンがディアナ号にて来航し、日露和親条約締結の交渉中、大津浪が襲来し、宝福寺は浸水が著しかったので、仮奉行所は稲田寺に移された。
当時の「御役所」(奉行所)は、独立したものではなく、役人の役宅(屋敷)と共に置くのが通例であり、「下田奉行御役宅」といわれ、又、俗に中村屋敷と呼ばれたのもこのためである。
津浪前は奉行以下諸役人とも、下田の寺院や民家に分宿していたので、岡方村か本郷村に役宅を建てる計画であったが、津浪後の復興計画により、安全な中村が選ばれたのであった。
下田奉行所の建設については、下田市蔵文書に、安政2年6月、辻内近江が1万6千両で建築請負を落札したと見え、又、翌3年夏頃からの記事の中に「中村御役所」が現われるので、その頃竣工したものと考えられる。
中村屋敷(奉行所と官舎)は、総構九千七百九拾弐坪、木柵と小溝をめぐらし、御役所、白洲、武術稽古場などが あり、官舎や長屋が並び、近くの山に牢もあった。
南側に惣門、山側に裏門、会所、札場、床場などの地名や家号が残っている。

下田奉行所は、異国人との応接及び異国船への欠乏品供給の監視が、その主要職責であったが、応接は別に設けられた下田同心町の「御用所」で行われ、欠乏品とその代金の受渡しは御用所附属の「欠乏所」で扱った。
下田奉行の預所(管轄地域)は、下田・岡方・柿崎・須崎・本郷・中村・立野・蓮台寺の8町村に亘り、密貿易取締や治安維持のために、海岸の要所要所に番所を置き、各村境には関門を設けて監視した。
下田奉行には、伊沢・郡築に続いて岡田備中守、井上信濃守、中村出羽守が就任した。
安政4年の「下田奉行中村屋敷役人名記」によると、下田奉行は支配組頭、調役等から通訳に及び、約140人の吏僚を擁したという。
安政3年11月日露和親条約の批准及び、安政4年5月日米協約の調印はここで行われた。


大浦番所跡
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幕末見張小屋
嘉永2年4月12日(1849年)英国の測量船マリナ号の入港を機に江戸幕府が、寝姿山の山頂に見張所を設け、下田奉行所より数人の役人を派遣し、日夜黒船の警戒に当らせた。

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欠乏所
欠乏品供給については、品物と代金の受け渡しは、必ず役人の手を通さなければならないことに定められていた。そこでアメリカ人が商店で物を買う時には、日本の役人が立会い、品物が選ばれ代金が決まると一度、御用所に持ち込み、役人から品物が渡された。代金は役人が受取った上で商人に支払われる仕組みであった。

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下田の警察署前には「下田奉行所跡」の碑がある。
下田警察署の東にある「下田奉行所」は安政2年(1855)建設されたもので、中村屋敷とも呼ばれていた。

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宝福寺
下田奉行所として使われていた寺。
ハリスの侍妾となった唐人お吉の菩提寺として知られ、境内の本堂脇にお吉の墓がある。

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稲田寺
下田奉行所として使われていた寺。

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元和 2 (1616) 年 下田奉行所が設置され、須崎に御番所が置かれる。
元和 9 (1623) 年 下田の大浦に御番所移転。
享保 6 (1721) 年 御番所が浦賀へ移転、下田奉行は廃止、浦方御用所が置かれる。
寛政 5 (1793) 年 老中松平定信が、海防見分のために伊豆を巡見。
天保 13 (1842) 年 下田奉行所設置。
弘化 1 (1844) 年 下田奉行所廃止。
嘉永 7 (1854) 年 3月 下田奉行設置。
安政 2 (1855) 年 3月 中村に奉行所屋敷が建てられる。
安政 6 (1859) 年 12月 下田開港場閉鎖。
万延 1 (1860) 年 下田奉行所廃止。



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新規作成日:2003年6月29日/最終更新日:2003年7月9日