幕府水軍

徳川幕府 水軍

当時、幕府の関連する役職は、以下の物があった。
[老中 支配]
勘定奉行−川船改役(川船奉行)
長崎奉行−長崎奉行支配組頭−長崎奉行支配調役−−与力−同心
    −−−−−−−−−−−−−オランダ通詞−唐通事
浦賀奉行−浦賀奉行支配組頭−−−−与力−同心
大坂船手−−−−−−−−−大坂船手与力−水主同心
箱館奉行(松前奉行)−箱館奉行支配組頭
          −支配調役−−−同心
淀川過書船支配
[若年寄 支配]
船手頭−−−−−−−−−−水主同心−御召御船上乗役


徳川御船手四人衆
向井将監、間宮酒造丞高則、小浜民部左衛門尉景隆/小浜弥三郎、千賀孫兵衛某

幕府水軍衆の根拠地
楓川を挟んで日本橋一〜三丁目に接する兜町の地は、天正十八年(1590)八月の徳川家康の江戸開府までは、海岸部で隅田川河口部の砂洲であった。楓川に沿って埋立てた土地部は、武家屋敷となり、江戸時代初期に海岸線の埋立てを完了した。
この地域は、当初から隅田川河口部と海(東京湾)から江戸を守る軍事上の拠点で、もともと東海地方の大名であった徳川家康に早くから仕えて水軍として活躍した向井将監や間宮造酒丞、小浜弥三郎等の屋敷があり、海岸と海の守りを固めていた。当時は水軍のことを海賊衆とも呼んだことから楓川には海賊橋という名の橋が架かって本材木町から日本橋地区へと連絡していた。ところが、元禄年間(1688〜1704)に、向井将監の屋敷地が町場となり、坂本町一・二丁目が成立。小浜弥三郎の東に接する小笠原備前守の屋敷地が、神田新銀町、塗師町、松下町(現、千代田区)の代地となって町場化し、のちに三代町(「東京通志」には「サンダイチョウ」とあるが、一般的には「ミシロチョウ」と呼んだ)と呼ばれることになる。

日本橋、江戸橋と目と花の先の兜町の、いまは高速道路となった紅葉川(楓川ともいう)に「海賊橋」(将監橋ともいう)が架けられ、その傍に「向井将監」、その隣りに「向井右衛門」の屋敷が並んでいた。
その隣りに間宮、九鬼、小浜、小笠原など、伊勢水軍、熊野水軍、武田水軍の流れをくむ水軍の猛者連中の屋敷がズラリ並んでいた。大手町の大名屋敷群の外側に、江戸湊に向けて徳川水軍が守りを固めている姿と見受けられる。

海運橋
旧本材木町と茅場町との間に架かっていた橋で、江戸中期には東詰に海賊奉行(御船手奉行)向井将監の邸があったので海賊橋とか将監橋などと呼ばれていた。明治元年縁起のよい「海運橋」に改称され、同8年石橋に改装されてから有名になった。現在は川が埋められ高速道路となったため橋は除かれ、石柱のみが立っている。

御船蔵
江戸幕府の帆船を入れていた船蔵が14棟あった。
幕府の御用船を格納する御船藏が設けられており、三代将軍家光の時代巨大な御座船「安宅丸」も係留されていた。
隅田区千歳一丁目から江東区新大橋一丁目の大川端で、長さ三丁(三百二十七b)に大小十四の格納庫が並び、天地丸など徳川水軍の軍船が収められていた。

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浜離宮
浜御殿の北東半分は、浜御殿奉行屋敷(浜御殿奉行役宅、浜御殿添奉行役宅)や配下の役人の長屋(船手組屋敷)、籾蔵、舟蔵(船蔵)、薬園、船見番所、火薬所などが置かれていた。
浜離宮(幕末)
Pict_1612.


御船手奉行
将軍御座船を指揮し、しばしば江東地区の鷹狩りのお供をし、大川御成り、亀有御成り、小松川御成りなど、の行事を取り仕切った。

[遠島送り] 町奉行から回されてくる遠島者を新島、三宅島に送り付ける仕事。八丈島送りは、両島の年寄りの仕事だった。命がけのうえ手当てが少なかったので、配下の者はみな御船手になるのを嫌がった。
[迴船調べ] 一年に一度、品川にはいった諸国の迴船の総数を調べて其筋へ出すのが役目。大仕事のようだが、迴船問屋さえ調べればすぐわかるので御船手奉行が調べるというのは、たてまえのようなものだった。
[水泳指揮] 八代将軍吉宗のころからはじまり、毎年六月から八月ごろまで、隅田川の水泳練習場で行われ、御船手が廃止されるまでつづいた。維新後、日本海軍や日本郵船で活躍した者に、このとき指導を受けた人たちが多かった。

文久二年(1862)、幕府は御船手を廃止、御軍艦操練所をつくり、向井将監正義は初代頭取となった。このとき勝海舟も頭取となっている。


深川船番所 常盤1-1付近
「深川御番所」「深川御関所」などといわれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の隅田川口に設けた川の関所。
寛文元年(1661)に小名木川の中川口に移転し「中川船番所」となった。
現在、史跡となっている「川船番所跡」と言う名称は、江東区の史跡として登録の際に付けたもので、行政的には正式名称となっている。
歴史的にも深川番所・川船番所・深川口人改の御番所、役人は深川船(舟)改之番・深川御関所番など史料により様々な名称で登場している。また船と舟についても史料には両方使用されている。


中川船番所 中川船番所跡:江東区大島9−1 番所橋付近
「中川御番所」「中川御関所」などといわれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の中川口に設けた川の関所。
寛文元年(1661)に、深川船番所より移転した。

中川船番所資料館 江東区大島9丁目1番15号
江東区では、中川船番所を中心に、河川水運に関わる資料を展示する資料館として、大島9丁目1番地に、「中川船番所資料館」を建設し、平成15年3月オープンしている。

猿江船改番所
元禄から享保期(1688〜1736)頃に設置された。中川船番所とは別に、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置された。
幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入する船には、 川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課されたが、猿江船改番所は船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。

小名木川
徳川家康が行徳の塩を江戸に運ぶために小名木四郎兵衛に命じて掘らせた川であったが、後には生活必需品をはじめ、様々な物資の輸送に利用され、船番所がおかれる重要な水路となった。
芭蕉は、しばしば小名木川に船を浮かべ、「秋に添て行かばや末は小名木川」などの句を残している。

仙台堀川
川沿いに仙台藩蔵屋敷があり、そこではじめられた花火が両国の花火のはじまりとなる。

御船手組屋敷 (現 江東区清澄)
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御船手組屋敷 (現 江東区佐賀・永代)
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御船手番所 (現 日本橋箱崎町)
Pict_0862.

船見番所 (現 中央区新川2)
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新規作成日:2002年12月9日/最終更新日:2009年11月15日